(500)日のサマー (スタイルへのこだわり、いまの時代の人間関係への鋭い意識、脇役たちのしっかりした演技。軽いようで奥がある)。
鏡の中のマヤ・デレン (実験映画というとマヤ・デレンという時代があった。多くの影響をあたえた作品のクリップと友人たちの回想。若死にした彼女自身の声も聞ける。顔は「神秘的」だったが、しゃべり方は意外と実質的――無声で見ていたから声は知らなかった。彼女は、「実験映画」作家というより、映像パフォーマーだったことがわかる)。
かいじゅうたちのいるところ (原作に引っ張られたのか、スパイク・ジョーンズの本領が発揮されていない)。
サロゲート (90年代に生まれたVRや、その後のARなどをちゃんと押さえているので、そうした技術の延長線上で考えられた過剰な「代理主義」と「実生活」との乖離の話として面白いし、しかめつらをしないで「人間とは何か?」を考えさせたりもする)。
Dr. パルナサスの鏡 (映像と役者に金をかけ、いまの時代を大上段から批判しているつもりの「社会派」テリー・ギリアムだが、基本的にズレている)。
手のひらの幸せ (感じのいい笑顔のうしろにはつらい過去や言い出せない事情があるものだが、それを「告白」して泣かせるというのは、どうなんでしょうね?)。
サヨナライツカ (『私の頭の中の消しゴム』以来のイ・ジェハンにとっても、12年ぶりの中山美穂にとっても、記念碑的な作品にはなっていない)。
パーフェクト・ゲッタウェイ (ひねりがあるので、「新境地」で勝負かと思ったが、またしても「体力に自信がある」ミラ・ジョヴォヴィッチだった。もったいない)。
ラブリーボーン (意外と賛否の分かれる作品だが、変態男に殺された14歳の少女も、こういう風にとらえると、辛い話ではなくなるかもというピーター・ジャクソンの提案かもしれない)。
ゴールデンスランバー (手を抜かない納富貴久男率いるBig Shotのガンエフェクト・シーンが新鮮だが、あとはゆるい)。
作りは、一見、『A.I.』や『マトリックス』のまがいもののように見えるが、意外とディテールの電子機器に手抜きがなく、面白く見た。90年代の前半に「最新」のテクノロジーとして具体化された「ヴァーチャル・リアリティ」(VR)が、近年、「拡張現実」(AR=Augumented Reality)としてとらえなおされ、さまざまなインターフェースやロボティクスに応用されているが、この映画は、そうした技術をちょっとばかりエスカレートさせたときに生じる世界を描く。実際には、絶対に起こりえないことではあるが、それがもし起こったときに全般化する意識はすでにわれわれの周囲に、ミクロな形で現れており、それをマクロ化してみたところが面白いのである。
「サロゲイト」(surrogate)とは、「代理人」、「代理物」の意味で、「サロガシー」(surrogacy)といえば、「代理母制」のことを言ったが、いま、人間の「代理」をロボットにやらせる方向が具体化し、加速化するなか(たとえば、「お掃除ロボット」は、すでに実用的な製品になって普及している)で、すべてを機械にやらせてしまう「サロガシー」(代理制)がわれわれの意識のなかにじわじわと広がっている。「サービス社会化」が進むなかで、人間のあいだでの「アウトソーシング」はあたりまえになったが、それは、実は、もっと上位のテクノロジカルな「サロガシー」の一部分だったのだ。
この映画の世界では、人間は、自分を好きなタイプ、風貌の「AR」的なロボット――これがこの映画で言う「サロゲイト」――として活動できる。ただし、あなたの「サロゲイト」は、あなたの「拡張現実」(AR)であるから、それが活動しているあいだは、あなたは、まさに『マトリックス』の寝台のようなもののうえに寝て、目に脳と「サロゲイト」とのあいだを結ぶゴーグルのようなインターフェースを装着していなければならない。あなたが、そのインターフェースをはずすとき、あなたの「サロゲイト」は、死んだように氷ついてしまう。このへんのドラマ的設定は面白く、映像として見栄えがする。
「サロゲイト」はロボットだから、破壊されても再生がきく。ところが、「サロゲイト」を破壊することでその「本体」である人間をも殺傷する兵器が開発される。これは、それまで「サロゲイト」の存在をささえてきた「サロガシー」そのものをゆさぶるものであり、身体的なハンディキャップをなくし、能力差、人種の壁を撤廃し、「近代」社会につきまとうあらゆる矛盾を解消するという「サロガシー」の理念をうちくだくものだった。
人的配備としては、「サロゲイト」システムの創立者のライオネル・キャンター博士(ジェイムズ・クロムウェル)、「サロゲイト」社会のFBI捜査官トム(ブルース・ウィリス)、その妻マギー(ロザムンド・バイク)、反サロゲイト主義者の指導者「預言者」(ヴィング・レイムズ)などが登場する。
理念としては、「サロゲイト」が格差をなくすということがあるわけだが、事実上は、それが「サロゲイト」を売る商売理念になっており、創立者のライオネル・キャンターは、若いキャラの「サロゲイト」としてVSIという会社のトップをつとめてもいる。格差を撤廃するというタテマエにもかかわらず、軍は存在し、そのための兵器が作られている。サロゲイトの破壊→本体の殺害を可能にする光線銃は、その過程で生まれた。
すでに初老年代のトムと妻マギーとの仲はうまくいってはおらず、二人は同じ家に住んではいても、そこでは、多くの場合、インターフェースを装着して、操作寝台に横たわっている。二人は「家庭内別居」の状態にある。トムもマギーも、それぞれに「若々しい」「拡張現実的」身体(オーギュメンテッド・ボディ)として活動し、トムは、「体」を張って捜査に挺身し、マギーは、「若い男」たちと自由奔放な交際を続けている。しかし、トムは、ときおり、「本体」のマギーへの思いから、インターフェースをはずして「本体」にもどることが多い。このへん、たがいに「サロゲイト」として顔をあわせたり、事件に遭遇したりしながら、そのフィードバックとして、悩んだり、相手への思いをつのらせたりするところの屈折が面白い。
イントロで、「サロゲイト」社会の誕生がてきぱきと紹介される。アイデアの具体化は「14年まえ」とされる場面で、「St. Bonaventure University」(SBU)の学者として「Dr. Anne Foerst」という名札の見える女性がインタヴューに答えているが、この人は、実際にSBUでコンピューター・サイエンスを教えている。また、「11年まえ」を紹介するシーンで、「脳神経学者」で「Blue Marble Game」社の所属という肩書きの「Sheryl Flynn P. T.」という人がコメントをくわえているが、この人も、ジョージア州立大学の准教授で、コンピュータゲームをリハリビに利用するということをテーマにした研究をしており、「肩書」にある「Blue Marble Game」という会社は、そのために作られたばかりのベンチャービジネス起業らしい。
イントロに出てくる「14年まえ」や「11年まえ」は、意味深のメッセージを含んでいる。というのは、「サロゲイト」のアイデアは、実際には、1980年代の後半に出ていたからだ。1990年代の前半にサンノゼで開かれたVRの会議の席上で、わたしは、「将来」の「VR兵士」による「VR戦争」のシュミレーション映像を何度も見た。この時点ではすでにそういうアイデアは具体化していたのだ。「11年まえ」のシーンには、砂漠で戦争が起こっているのが見えるが、これは、意外に、1991年の湾岸戦争から2003年のイラク戦争の時代を示唆していはしないか?実際に、湾岸戦争は、VRの研究者や開発会社にとっては、絶好の「実験場」を提供し、イラク戦争では「VR」や「AR」の技術はすでに実戦に配備されていた。だから、「7年後」がこの映画の「現在」だとすると、大体、いまの時代がこの映画の「現在」ということになり、この映画は、実は、いまわれわれが生きている現在を描いているのだということがわかる。
この映画は、技術を登場させる映画がよくやるように、いい加減な想像で技術を使っているように見えながら、意外とそうではないというひねりがある。だから、「近未来」なら、絶対に使っていないはずのUSBスティックを使っていたりもする。「サロゲイト」を作る技術があれば、既存のあらゆる技術が刷新され、街の相貌自体もいまとは大きく変わるはずだが、この映画では、「サロゲイト」が「人間」ではないと思わなければ、世界はすべていまと「同じ」なのである。
イントロでは、「7年まえ」にVSIが「サロゲイト」を大量生産しはじめ、「人間がクリエイター」になったという。これは、「クリエイティヴ」であることを貴重なことだとするいまの時代の風潮とダブらせてみると、笑える。「クリエイティブ」であるということには、「クリエイター」(創造者)つまりは「神」になりたいという願望が隠されており、それは、自分の人格を「サロゲイト」化したいという願望でもある。実際に、いますでに、そういう願望の具体化がはじまっているのである。
面白いシーンがたくさんある。「本体」のトムが、負傷して路上を歩いていると、何体もの「サロゲイト」とすれちがうのだが、そのたびにトムの体に当たりながら通り過ぎる。人間は、路上で他人とすれちがうとき、無意識に微妙な位置修正をしているが、「サロゲイト」には、それができない――いや、できるがしない、多少の接触は意に介しない――のである。逆に、こういうテクノロジーの加速とともに、自分が決めた通りにしか動かず、他人にぶつかっても意に介さないという身体カルチャーが浮上してくるかもしらない。そんなことを考えさせるところが面白い。
この映画のサブエピソードとして、「反サロゲイト」運動の実態があばかれるというくだりがある。黒人の「預言者」が率いる人間たちは、いくつもの「リザベイション」(20世紀には、アメリカの先住民たちの「リザベイション」が作られた)をつくり、「Humans Only」「No machines allowed」という掲示をかかげている。「サロゲイト」は人間を「抑圧」し、人間なき社会を作ろうとしている、というわけだ。しかし、最近翻訳の出たフランコ・ベラルディの『プレカリアートの詩』(櫻田和也訳、河出書房新社)でもくりかえし指摘されているように、心理療法においても革命運動においても「抑圧」からの解放ということが主題になってきたのだが、それはもはや不毛なのだ。「われわれの時代に支配的な病理は、リビドーの抑圧によって生み出される神経症ではなく、分裂病の方なのである」。それは、「抑圧ではなく、表出への全面的強制の産物」なのであり、まさに、「ビデオ電子的第1世代の示していることが、今日の過剰表出の有する病理的効果の兆候なのだ」。
面白いことに、この映画の「支配者」は、最終的に、人間と「サロゲイト」との「玉砕」を計画する。これは、かつての冷戦時代に、アメリカ合衆国にもソ連にもあった、どうせ敗北するのなら、地球自体を破壊してしまえという終末論的な発想の変形であるが、この選択のほかには、人間だけが生き残る、「サロゲイト」だけが生き残る、人間と「サロゲイト」とが(共生的に)生き延びるという3つの選択肢がある。映画は、最後の方で、こられの選択をトムに選ばせる。
この映画は、決してもったいをつけることなく、「人間とは何か」という問いをつきつける。ここで思い出すのは、同名の本(壽福眞美訳、法政大学出版局)所収の「人間の後に何が来るのか」という文章で編者の一人でもあるノルベルト・ボルツが書いているくだりである。人間が「機械」であると同時に「機械」では<ない>のは、ボルツによれば、人間は「自らのアルゴリズムを知らない機械」であり、「人間とは、文化によって自分自身を機械として認識しないようにプログラム化された機械である」からだという。そのため、「人間は自分のつくったものだけしか理解しない」から、理解するためには、ものを機械のなかで再現しなければならない。その再現=創造(捏造)は、そのときどきのテクノロジーによって規定される。「自我」とか「意識」とか「精神」とかいうものは、鏡やレンズのテクノロジーとともに仕上げられたが、コンピュータ・テクノロジーとともに、こうした分泌領域は、工学系の人たちが言う「インターフェース」や「ロボット」に移行して行く。この映画は、まさにそうした移行のひとつの行き着いた姿を描いているわけだ。
トムが、同僚のアンディ(ボリス・コドジョー)のスキンヘッズの後頭部から小さな基盤を抜くシーンは、『アンドロイド』(Android/1982/AaronLipstadt)で、クラウス・キンスキーがアンドロイドの後頭部から同じように基盤を抜くシーンを髣髴とさせる。ちなにみ、この作品は、今日的な意味で人間とアンドロイドとの屈折した関係を描いた初期の作品の一つで、いま見ても面白い。
(ウォルトディズニースタジオモーションピクチャージャパン配給)
この作品の批評は、あまりかんばしくない。ベストセラーになったアリス・シーボルトの2002年の原作と全然違うというのが悪評の理由の一つだが、わたしは、ピーター・ジャクソンがこういう描き方をしたのがわからなくもない。ただし、『ロード・オブ・ザ・リング』で彼の故郷ニュージーランドに「ピーター・ジャクソン現象」(その成功をきっかけにポストプロダクションの会社が多数生まれた)を巻き起こした彼は、関連会社を食わせなければならないこともあって、映画を作るとなるとCG依存が強くなるという型が出来てしまった。この映画でも、不必要なまでにCGが使われており、そのおけげで、この映画のエンドロールは、その関係者・関連会社を表示するために、えらく長いものになっている。だが、そういう下世話の事情を考慮しても、この映画には、ニューヨーク生まれの都会っ子とは違うニュージーランドの田舎生まれのピーター・ジャクソンの空間意識が強く反映されている。
映画の舞台は、時間と場所とが限定されている。それは、1973年のペンシルヴァニア州のノリスタウンという郊外である。物語は、(原作が描くところによると)レイプされて殺され、バラバラにされた14歳の少女スージー・サーモンが「天国」から自分の家族を見守り、物語るという形式になっている。映画は、これを継承するが、レイプされたり、バラバラにされたりするシーンは出さない。むしろ、愛らしいシアーシャ・ローナンが、まるでそんな残酷な経験などしなかったかのように「楽しげに」物語るので、彼女が語ることは、少女の空想ではないかと思わせるようなとことがあり、全体としてメールヒェン的である。
おそらく、ピーター・ジャクソンは、この原作の二重性を意識したのだろう。一つは、郊外という空間で起こりえる出来事の描写として、もう一つは、夢見がちな14歳の少女の意識の特徴を映像化することである。郊外という空間は、エドガール・モランが『オルレアンのうわさ―女性誘拐のうわさとその神話作用』(みすず書房)という本のなかで書いていたが、都心にくらべて、噂がとびかい、とんでもない話が肥大化することもある。また、そういう空間ではなおさら、少女の空想は飛躍する。小説は、こういう二重性を表現するには適したメディアであるが、映画は、必ずしもそうではない。映画自体がそういう「郊外」空間的な要素があるから、二重性よりも一元化の方が、商業的な成功度は高くなる。ジャクソンは、すでに商業映画的な成功を経験しつくしたので、今回は、若干冒険を試みたのかもしれない。
問題は、キャスティングにもある。もし、この映画がそうした二重性を意図したのなら、キャスティングのも二重性を取り入れなければならない。スージーを、およそレイプされて殺された感じのしないローナに演じさせるのなら、殺人犯ミスター・ハーヴィは、スタンリー・トゥッチのような、どこか喜劇性をはらんだ役者でなく、怖さや悪辣さを感じさせる役者を選ぶ必要があった。いかにも殺しそうな雰囲気で、実はそうではなかった、あるいは、その逆・・・という設定である。
スージーの母アビゲイルは、ベッドでアルベール・カミューの短編集『追放と王国』 (L'exil et le royaume, 1957) の英訳 "Exile and the Kingdom" を読んでいる。アメリカでこの時代にカミューがふたたび流行った気配はなかったから、それは、アビゲイルの趣味か? 原作に出てくるのかどうかは知らない。あるいは、ピーター・ジャクソンの選択か? カミューの作品とこの原作、映画とはかなり違う世界だから、そのタイトルのデザイン効果だけをねらったのか? 知っている人、教えて。
スーザン・サランドンが演じる祖母リンは、1970年代に60代とすると、その青春時代は1930年代で、「あの時代の粋な若者は全員左翼(気取り?)だったとわたしの友人が言っていた。その意味では、サランドンは適役である。ただし、サランドンは、1946年生まれで、その青春時代は、1960年代のヴェトナム反戦運動たけなわの時代だった。
(ウォルトディズニースタジオモーションピクチャージャパン配給)
アメリカも、いろいろな面で転換期に入って来た。その際、その節目節目にメリル・ストリープという俳優が顔を出すのは面白い。まあ、大物俳優というのは、いつの場合も、時代とともに歩むものだから、それはあたりまえのことなのだが。わたしがこの目で経験したアメリカの大きな転換は、70年代のベトナム戦争の終わりと家族形態の変化からだが、メリル・ストリープは、『ディア・ハンター』(The Deer Hunter/1978/Michael Cimino) で、もはや50年代流の楽天的な田舎生活ができなくなる女の意識を体現していた。また、『クレイマー、クレイマー』(Kramer vs. Kramer/1979/Robert Benton)では、ストリープは、いままさに浮上しつつあった「ワンペアレント・ファミリー」のはしりともいうべき母親(重心はダスティン・ホフマンが演じる父親の方だったが)を演じ、新しいタイプの離婚とそれにともなう家族関係の変化を体現した。その彼女が今回演じているのは、まさに再び大きな変化を見せ始めているアメリカの家族と離婚観の変化を体現する女なのである。
この30年ほどのアメリカ社会を傍観してきて、いまでは言えることは、70年代に浮上した「離婚」ブームの一端には、景気の高揚という側面があったことだ。離婚するには金がいる。70年代後半に離婚がブームになったとき、そうはいっても、離婚できるのはある程度の収入がある階級であって、ワンペアレント・ファミリーといっても、低所得者層では、あいかわらず、慰謝料も払えずに夫(子供との関係がどうしても母親より薄い)が蒸発してしまう家庭の数も加算されていた。しかし、折から浮上したサービス社会化によって、あらゆる部分でのアウトソーシングと「代理化」が進み、離婚が増えれば、それだけ住宅や家具の単位が増えるというわけで、消費産業は、陰に陽に離婚とシングルライフをあおった。ポール・マザースキーの『結婚しない女』(An Unmarried Woman/1978/Paul Mazursky)は、映画としても傾向を体現する意味でも象徴的な作品だった。ハリウッド映画も、離婚は「カッコいい」ものという「新しい」文化と価値観を社会に注入し続けた。その影響をまともに受けて、結婚してもあっさり離婚する度合いが高まったし、離婚関連企業がうるおった。しかし、景気後退が深刻になってくると、たとえ資産のある階層の人間でも、そう簡単には離婚ができなくなってきた。この映画をそんなコンテキストで見ると面白い。参考:「クレイマー、クレイマーの男とノーマ・レイの男」、「自立する女たち」(いずれも『シネマ・ポリティカ』所収)。
離婚を躊躇する要因の一つとして、子供の問題があることはいうまでもない。子供がいなければ、離婚は容易であり、実際に、夫婦の両方が働いていて自立できる収入がある夫婦の場合は、離婚率はぐんと高くなる。しかし、社会はモラルや心情では動かない。経済的要因の方がより決定的である。わたしは「唯物論者」ではないが、少し歳を食って、そう思うようになった。が、実際問題として、親が離婚した経験のある者は、成人したとき、結婚に対して懐疑心や不安をいだくことも否めない。アメリカのいまの大人で、親が離婚していないというのは、非常に少ないかもしれないが、70年代の「クレーマー」世代の子供は、いま社会の中堅層になっており、映画製作においても、重鎮の位置を占める。だから、彼や彼女の結婚・離婚観が映画の内容や傾向にも反映せざるをえないわけだ。そうしてみると、この10年、つまり彼や彼女らが社会の中堅になり始めて以来のハリウッド映画で、離婚はあきらかに「否定的」に描かれるようになっている。この映画は、そういう流れの一つのサミングアップ(中間決算)である。
メリル・ストリープ演じるジェーンは、10年まえに離婚し、ベーカリーを経営しながら3人の子供を育てた。生活に不自由はない。彼女の夫だったジェイク(アレック・ボールドウィン)は、弁護士として成功しており、経済的には問題ない。が、連れ子のいる若い女性アグネス(レイク・ベル)と暮らしている彼は、疲れを感じている。ペドロというポルトガル人っぽいガキも可愛くない。で、たまたまある日ジェーンに再会し、一旦別れた妻なのに、ふたたび恋をしてしまう。ジェーンの方も、一度はしりぞけたものの、ひるまないジェイクのアタックに負けてしまう。これって、「不倫」になるの、と彼女は自問する。たまたまそのころ、彼女は家の改築を計画していて、友人の建築家から設計担当のアダム(スティーヴ・マーティン)を紹介され、設計の相談をしているうちに、ほのかな愛が芽生え始めていた。アダムも離婚経験があるシングルで、だいぶたつのにまだその傷が癒えていない。ジェーンの状況は、いささか「こみいっている」(これが原題)。彼女はどうなるか?
メリル・ストリープは、『ジュリー&ジュリア』に引き続いて料理をする女を演じる。ジェイクもアダムも、彼女が作る料理とクロアッサンにうっとりするのだが、男が料理のうまい女に弱いというのは、ある程度は事実である。まして、この映画のように、豪華な厨房を持つ女が、その場で手際よくあなただけのために料理を作ってくれたら、魅惑されないことが不可能だ。男は、セックスのうまい女にも弱いだろうが、セックスよりも料理の方がその効果は長い。料理ができれば、セックスアッピールが弱くなっても、相手を魅了し続けることができる。それに、料理というのはある種のセックスであり、より円熟したセックスである。セックスの最中に発せられることがある「食べちゃいたいわ」というせりふは、まさにその関係を暗示しているが、どうも、こういうせりふを吐く女は、料理が下手であることが多いようだ。
離婚した母親が、また元夫つまりは自分たちの父親にもどりそうになるのを見て一番複雑な気持ちになったのは、3人の子供たちだろう。ケイトリン・フィッツジェラルド、ソーイ・カザン、ハンター・パリッシュは、なかなかいい演技をし、ドラマに説得力を増している。長女ローレン(ケイトリン・フィッツジェラルド)の婚約者ハーレイを演じるジョン・クラシンスキーもいい。キャスティングは、全体として絶妙で、ストリープもマーティン(ハッパを吸って踊るとき、彼しかこの役はないと思わせる)もボールドウィン(あの出っ張った腹は本物?アグリーな感じがいまの彼には適役――インタヴューでは、裸体シーンは代役がやっているとのこと――嘘だったりして)も決まっている。
この映画を見て、時代の変化を感じるのは、登場する子供たちが、もはや父親を家庭にとって不可欠のものとは考えてはいないことである。ジェイクが母親のもとに帰ってくるのを歓迎する態度のなかには、父親に対する「憐憫の情」が感じられる。そうだ、そうなってしまったのだ。かつて、離婚やシングルマザーがカッコいいと推奨された時代には、まだ、無理やり家父長としての父親を拒否するつっぱった姿勢があった。それは、フェミニズム運動によって元気づけられていたところがないでもなかったが、いまや、完全にシステム自体が父離れしつつある。だから、この映画や最近のアメリカ映画が離婚に対してとる態度は、決して保守主義への回帰などではない。離婚はしなくても、家庭の意味と機能が決定的に変わってきたのである。
日本ではあいかわらず厳戒態勢がしかれているが、アメリカでは、薬物に対して、また規制がゆるんできたらしい。映画のなかで、よりをもどそうとするボールドウィンがハッパをどこかから仕入れてきて、ストリープが「27年ぶり」に吸い、ハイになるシーンがある。ただし、面白いのは、彼女の子供世代のハーレイは、あまりマリワナに関心を示さず、すすめられ、なんなら吸ってみようかという程度であることだ。あきらかに、60~70年代に強力だったドラッグカルチャーは後退しているのである。それが、今後復活するかどうかはわからない。いずれにしても、この映画は、日常的な描写のなかでけっこうドギツイことをさりげなくやり、70年代的な空気を感じる。ジェーンが同性の友達(アレクサンドラ・ウェントワースほか)たちとぶちまけ話をするシーンにもけっこうドギツイ言葉が出てくるが、それだけ生き生きとした雰囲気を出している。ちなみに、この映画は「R」指定になっている。
ジェーンと子供たちとジェイクがそろってDVDを見るシーンがある。ちらりと出る映像から判断して、それは、ダスティ・ホフマン主演の『卒業』(The Graduate/1967/Mike Nichols)である。最近この映画が引用されることが多い。
(東宝東和配給)
アルモドバルの、ジェンダー、セックス、家庭、父子関係、シネマトグラフィーなどなどへのこだわりがもり沢山なうえに、後半は推理ドラマ風の謎解きまであって、サービス満点。盛り込み過ぎという感じもしないでもないが、監督はくり返し見ることをすすめる。なるほど、ディテールが凝っており、入れ込んで見るとキリがない。
初老の「ハリー・ケイン」ことマテオ(ルイス・オマール)は盲目であるが、なぜそうなったかが後半で明かされる。最初の方で、彼は、肉感的な女性(歩道を横断するのを助けてくれ、そのまま彼の家に来たらしい)と話をしていて、すぐにソファでセックスをしてしまうので、「普通」の男かと思ったら、(アルモドバルの映画でそういうことはありえないが)彼は「本来は」ゲイで、事実上はバイセクシャルなのだった。ひょっとすると、彼にとって、相手が肉体的に「女」であるか「男」であるかどうかはどうでもいいのかもしれない。しかし、この映画の多くの部分をしめる彼の過去は、レナという女性(ペネロ・クルス)との熱烈な性愛の話で、マテオと他の男との愛のシーンはない。
盲目の人間にとって、性感覚が異なることは、想像がつく。聾唖者については、ジョージ・スタイナーが、『私の書かなかった本』(みすず書房)所収の「エロスの舌語」という文章のなかで書いていた。これは、スタイナーの「ヴィタ・セクスアリス」で、あの碩学(せきがく)のスタイナー先生が、かくも経験豊かで、しかもその経験をここまで露出するとは思わなかった。そもそも、興味の向け方が尋常ではない。「聾唖者の性生活はどんなものであろうか。どのような刺激を受け、どのようなリズムに合わせて彼や彼女はマスターベーションをするのか」と書き出すのだからね。スタイナーが半端な「学者」ではないことは、「多言語話者のセックスと性欲はひとつの言語に忠実な単言語話者のものとは異なる」といった言い方でもよくわかる。ちなみにスタイナーは、3ケ国語のなかで育ち、彼自身が「多言語話者」(マルチリンギュアル)であり、「私の特権は、四つの言語を用いて、愛を語り、愛を行うことであった」と言う。
アルモドバルは、映画の人だから、音としての言語よりも映像に執着する。だから最初の方で見せるセックスは、ソファーの陰に隠れて体の一部しか見えないとはいえ視覚的であり、その音の方は、ただのあえぎ声だけで、スタイナーが彼の『言語と沈黙』への射程をも含蓄させながら書くレベルには程遠い。
しかし、視覚的には、たとえばレナのパトロン的な存在の老実業家エルネスト(ホセ・ルイス・ゴメス)とレナとの関係は、なかなか屈折した描き方がされる。この人物も、(傍注的に示唆されるだけだが)本来はゲイであるが、2度結婚して息子(ルーベン・オカンディアノ)がいる。彼は、レナが(盲目になるまえの1994年、映画監督だった)マテオの映画に出演することになり、急速に関係が深まると、息子に命令して、撮影現場の様子をビデオに撮らせ、それをあとで詳細に分析する。レナはマテオと「不倫」しているのではないか。その執念は尋常ではなく、ビデオ映像には入っていない二人の会話を読み解くために、リップリーダー(ローラ・ドゥエニャ)を雇う。日本では、テレビ局が有名人やヴィップの唇の動きをリップリーディングのプロに読み取らせて、画面に流すというようなことをあまりやらないが、欧米ではこれは、パパラッチとならぶ「専門職」である。
「不倫」をあばいたエルネストがレナを階段から突き落とすシーンの屈折も、かなり強度がある。落としておいて、傷ついたペネロペを抱き、「いたわり」、自分で車を運転して病院に運ぶのだが、少なくともエルネストはしあわせそうだ。昔の中国で「愛らしい女」を育てるために女児のうちから足をしばり「纏足」(てんそく)にするというサディズムほどではないにしても。が、あいにく、レナにはマゾ意識が弱かった。彼女は、それを暴力としか受け取らない。別のシーンで、老エルネストに従って、保養地のホテルで激しいセックスをする二人だが(ただし、映像は、二人のうえにすっぽりかけられた白いシーツの動きを映す)、終わってベッドを離れたレナはトイレに走り、吐く。ヴァイアグラじじいとつきあうのはごめんだとばかり。ただ、このへん、もう少し屈折を出してもよかったのでは、と思うが、そういうのは、ゲイのアルモドバルの範疇には入らないのかもしれない。その点、ルイス・ブニュエルは、もっとしたたかだった。
わたしのような非ゲイ的ジェンダーの者からすると、ゲイは、既存のジェンダーよりも崇高であってほしいと思う。それは、「男」対「女」というジェンダーを越えるジェンダーであって、「男」や「女」のもだもだを越えていてほしい。また、家庭や家族に関しても、「オイディプス」的パパママ関係で考え、子供の狂気や屈折を「両親コンプレックス」に還元する――のではなく、「アンチ・オイディプス」的に、つまり、欲望の解放の場としてとらえてほしいのだ。しかし、実際にゲイをやっているアルモドバルからすれば、そういう「理想的」状態などありはしないということになるのかもしれない。この映画には、ゲイの親が、ジョン・シュレシンジャーの『2番目に幸せなこと』(The Next Best Thing/2000)的なアキシデントで作ってしまった子供が登場するが、その一人は、深く、オイディプスコンプレックスに悩んでおり、父親が死んだあとでも彼への復讐に執着している。その意味では、父親が誰であるか(むろん、彼がゲイであるかどうかも)知らずに育った息子の方が、オイディプス的家庭から自由であり、パパママ家族主義のなかに閉鎖されていないとも言える。
しかし、こうも考えられる。この映画は、オイディプス神話をゲイ的にひねっている、と。オイデプス神話は、自分が知らずに父を殺し、母と交わって子をも作ったことを自責し、おのれの両目をつぶす。父殺しと近親相姦をせざるをえない運命とその罰の物語だが、マテオが盲目になったのは、彼がゲイであるにもかかわらずレナという「女」と交わるという禁を犯したからである。
マテオとかつて関係がありながら、ゲイなので愛情関係は切れた(しかし、彼の仕事のマネージメントはしている)というジュディットを演じるブランカ・ポルティージョの存在感。レナがあらわれ、マテオが急速に惹かれて行く姿をはたから見ながら見せる嫉妬ぶかげな目の演技もすばらしい。
この映画では、女を愛するとしても、その男はただの「男」ではない。親子関係や家庭も屈折している。だから、終わりの方で、ランザローテのゴルフォ海岸でジュディットとマテオとディエゴとの3人のあいだにただよう「ファミリー」的な雰囲気は、実に逆説的なのだ。ここに、アルモドバルの皮肉を見るか、願望を見るかは、あるいは彼の提言を読むかは、意見の別れるところ。
この映画は、映画についての映画でもある。最初、かつてレナと初めて出会うことになるオーディションでのスクリーン・テストの映像が見え、それから眼球のアップシーンになる。その水晶体に顔が映るが、やがて、それが14年後のマテオであることがわかる。が、この眼球に映るマテオの姿を見ることができるのは彼にとっての他者のみであり、観客もその他者の(有力な)一人である。ところで、自分自身を見ることができないということ(リフレクションの不可能性)こそが、視覚の基礎にある。つまり、視覚とは、もともと「錯覚」かもしれないのだ。
マテオはかつて《見えた》が、いまは失明して《見えない》。《見えない》彼は、自分を「ハリー・ケーン」と名乗る。すぐに思い出されるのは、オーソン・ウェルズの映画『市民ケーン』の「ケーン」であり、『第三の男』のハリー・ライムの「ハリー」である。つまり、マテオは、失明することによって、「純粋」に映画だけの人になったのだ。というよりも、視覚、《見ること》は、映画だけの世界になった。映画とは記憶された視覚であり、妄想された視覚である。
映画製作を依頼してマテオをライ・Xと名乗る男(ルーベン・オカンディアノ)が訪ねて来るが、「ライ・X」(Ray X)とは、つまりは「X-ray」エックス線、レントゲン線である。彼は、マテオの過去を「照射」し、彼をさらけ出す。彼は、エルネストの息子であり、父親に頼まれて、マテオとレナの姿をビデオで撮り続けた。そして、その映像が、マテオの現在を変える。
盲目になったマテオが、ライ・Xが密かに撮っていたビデオをディエゴといっしょに自宅で見て、そこに映るレナとの最期のキッスのショット(ディエゴがポーズをかけ、止める)をスクリーン上でまさぐる。これは、クロネンバーグの『ビデオドローム』で先取りされてはいるが、アルモドバルがこの映画で描く、電子時代のエロティシズム表現である。
《見ること》のさまざまな形とともに、《読むこと》のさまざまな形も描かれる。新聞を読む女――これは普通。新聞を読み上げソフトで読むマテオ――これは、今的。映像に映る唇の動きを読むリップリーダー――これも「普通」ではない。
ディエゴがクラブでDJをするときに使う12" LPレコードのラベルには、「Blackwatch Feat: Mykel/I'M HERE」(→Blackwatch Featuring Mykel - I'm Here)の文字が見える。流れるのは、このレコードに入っている、CAN (Communism, Anarchism & Nihilism)による「Vitamin C」だと思う。このとき、彼の知り合いが近づいてきて「Crysatalちょっとやるか?」と言うが、これは、メタンフェタミンつまり日本で言う「覚せい剤」のうちでも「フェニルアミノプロパン(アンフェタミン)」よりも強い「フェニルメチルアミノプロパン」の一種。
この坊主頭の男は、とんでもない薬物野郎で、そのおかげでディエゴは、病院に救急車で運ばれることになる(しかも、倒れている彼を抱きかかえながらも、別の仲間に「MDMAをちょっとやるか?」などと言う)が、この男が着ているTシャツが気を引く。なぜなら、そこには、「Wie man dem toten Hasen die Bilder erklaert」と書かれているからだ。これは、ヨーゼフ・ボイスが1965年に初演して有名になったパフォーマンス「死んだうさぎに絵をどう説明するか」(「死んだうさぎに絵を説明する方法」)であり、野うさぎの死骸を使ったやつだ。映画では、この坊主がわざわざ上っ張りを脱ぎ、カメラにその文字が正面から映るようにするから、アルモドバルとしては、こだわりがあるのだろう。
海辺のバンガローで見る映画→ロベルト・ロッセリーニの『イタリア旅行』(1953)でイングリッド・バーグマンとジョージ・サンダースが、ポンペイの遺跡の発掘現場で寄り添ったまま噴火をあべ凝固した姿をみてバーグマンが泣くシーン。レナもつられて泣く。死骸のカップルの愛にあやかるように、マテオは、Canon製の高級デジカメで、セルフタイマーを使って、レナと「抱擁」しながら写真を撮る。すでにここには、二人のその後の運命が予知されている。
(松竹配給)
1961年のロンドン郊外の町トゥイッケナムという設定だから、60年代といっても、まだ「戦後」のイギリスの雰囲気と社会的動向が続いていたと考える必要がある。いま、イギリスは、どこへ行っても、当時とはまったくちがった姿を見せている。この映画のなかで、16歳のジェニー(キャリー・マリガン)がぞっこんフランスにあこがれているのが、印象深い。日本でも、アメリカとともに戦後(1945年以後の時代)が始まったとはいえ、「文化」というと、60年代を通してフランスの圧倒的な影響下にあった。映画にしても、ゴダールが革命を起こす以前から、映画といえばフランス映画だったし、丸善あたりで買ったフランス綴じの、白地に赤字でタイトルがプリントされたガリマール社の「nrf」叢書などを手に持ち、タバコを吸いながらページをぺらぺらめくるといったしぐさがイキとされた。思想的には、まだ「実存主義」がはぶりをきかせていて、カミューやサルトルが読まれていた。ジェニーが好きで、レコードを聴く「パリの空の下」の歌手ジュリエット・グレコは、「実存主義」のメッカ、「サン・ジェルマン=デ=プレの女王」と呼ばれていた。まあ、ヨーロッパでも、ちょっと生意気な若者は、フランスかぶれだったのだ。
また、ナチが崩壊し、ユダヤ人に対して特別の憐れみと支持が強くあらわれた時代であり、そのあたりをジェニーが愛するようになるデイヴィッド(ピーター・サースガード)というみずから「ユダヤ人」だと名乗る人物にその時代性があらわされてもいる。ユダヤ人差別はタブーになったが、どこかに差別意識が残っている。デイヴィッドは、不動産業のようなこともやっていて、この時代のロンドンでは決して差別の眼差しなしには生活できなかった黒人一家にアパートを斡旋(あっせん)したりもする。ジェニーは、それを見て、グッと来たりもし、彼に惹かれる度合いが強くなる。黒人一家が街頭でデイヴィッドを待っているシーンに、なつかしいアラジン社の「ブルーフレイム」の石油ストーブが見える。
雨がそぼ降るなか、ジェニーがチェロを持って歩いていると、車に乗ったデイヴィッドが彼女に声をかける。映画的になかなかいいシーンである。この男は、あきらかに年上であり、ジェニーはまだ少女の面影が強いから、見ている方としては、「やばいな」という気になる。と同時に、「このヒトけっこう感じいいな」という気持ちにもなる。誘惑者としては、実にいい線をいっているわけだ。それほどイケメンでもなく(とわたしは思うが)メイクしたピーター・サースガードを起用していることでも、このシーンが、ガールハントであるとも、そうでないとも取れる微妙さを表現していて、うまい。しかし、ジェニーも、それを知ってか知らぬか(10代の意識の面白さ)最初は遠慮しているが、彼にどんどん惹かれて行く。ただし、ここがこの映画のいいところだが、デイヴィッドの方も、最初の動機はガールハントだったとしても、次第に彼女を愛するようになっていくプロセスが微妙かつ繊細に描かれていることだ。
原題は、「ある教育」となっているように、全体は、勉強が出来て、ちょっと生意気でかわいいジェニーが、35歳の男と知り合い、「大人」の世界を知り、ぞくぞくするような喜びとショッキングな失望とを味わいながら、ちょっぴり大人になる「ビルドゥングスロマン」である。監督は、『幸せになるためのイタリア語講座』のロネ・シェルフィグで、もともとデンマークの人だ。これも、ある種「学び」の話だったが、この作品の国際的な評価で、2002年には、グラスゴウを舞台にした英語の作品『ウィルバーの事情』(Wilbur Wants To Kill Himself)を作っている。
原題の「一つの教育(An Education)」は、この映画の奥行きと含蓄の深さからすると、あまりにそっけない。ごくありていには、16歳のジェニーが、中年男のデイヴィッドとつきあい、傷ついて「大人」になるのが「教育」(教訓)だったという意味が浮かぶが、それだけではなく、この映画にはいたるところに「教育」が顔を出す。最初から学校が物語の主要な舞台になるし、「教育」熱心な両親(アルフレッド・モリーナとカーラ・セイモア)、ジェニーと、担任の先生(オリヴィア・ウィリアムズ)や校長(エマ・トンプソン)との関係、彼女が学校か結婚かという選択に直面することなどなどである。まあ、映画自体が多様性に満ちているので、こういうタイトルでよかったのかもしれない。その意味では、「17歳の肖像」という邦題は、あまりにスタティックすぎる。
かつてアントニオ・グラムシは、教える者と教えられる者とのあいだには、支配と被支配の関係はないと言った。教える者は教えられ、教えられる者は教える者に教える。その意味では、コミュニケーションと人生は、すべて「教育」であるとも言える。
しかし、他方で、わたしは、はたして人間は、経験のなかで「教育」されるのだろうかとも思う。教育は、すでに身体と脳とで「知って」いることしか教えることができないし、教育とは、潜在するものを顕在化すること(開き出すこと)でしかないのではないかということだ。ジェニーは、学校で聡明な少女で、経験に乏しかったが、デイヴィッドに騙されることは予知していた。というよりも、若いということは、騙されることも含み、自分のなかに潜在するものを開き出す年齢であるというにすぎない。生意気な少年少女は言う、「そんなことはわかっているよ」。それは、文字通りに受け取るべきなのだ。「教育」は過程としてはあるが、インプット/アウトプット関係としてはない。
デイヴィッドは、ジェニーを騙したかもしれないが、彼女にとっては、すばらしい「イニシエイター」だった。誰にでも、一人ですべてを兼任しなくても、人生の「イニシエイター」はいる。彼や彼女は、あなたに何かを与え、インプットしてくれるのではなく、あなたのなかにもともとあったものを開き出してくれるのだ。そう考えると、この映画には、さまざまな多数の「イニシエイター」がおり、それが、ジェニーという少女の場で「グランドホテル」的なアンサンブルプレイを演じる。そのひとコマひとコマが生き生きとしていて、最後まで新鮮だ。
(ソニー・ピクチャーズ配給)
映画のスタイル自体が「なんちゃって」的。スティーヴン・ラッセルという人物をジム・キャリーが演じていることにも因る。スティーヴンは、最初は、妻と子供のいる平凡な警察官。しかし、実は、<実はわたしはゲイで、ゲイであることは金がかかるので、詐欺師をやってます>と、ナレーションでばらす。ナレーションと内容とが微妙に揺れるスタイルなので、「本当」に警官をやっていたのかどうかもあやしくなるが、一応、詐欺師になるまえに警察官をやっていたと受け取っておけばいい。ナレーターを信用できないというスタイルは、小説では、カフカがすでにその方法を極めている。スティーヴンが警察官になったのも、自分が養子で、母親のことを知らず、それを調べるためだった(という)。だから、母親の所在がわかると、警察官をやめた(ということになっている)。
いうなれば、スティーブンという人物は、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』のフランク・アバグネイルと『インフォーマント!』のマーク・ウィテカーを合わせたようなキャラクターである。わたしには、この3人は、いずれも「双曲性障害」の傾向があるのではないかと思った。
ゲイの映画だが、最初ガス・ヴァン・サントに監督を依頼して断られたということがこの映画の特質を物語る。スティーヴンが捕まって刑務所に入れられたときに出会ったフィリップ・モリス(ユアン・マクレガー)に一目惚れするという一応同性愛的愛が描かれるのだが、その描き方が、ゲイのステレオタイプの総目録みたいなのだ。一見、ゲイを馬鹿にしているとも言えるし、ゲイにも異性愛者にも通じる愛を、ひねった「ロマッティクコメディ」として描いたとも言える。その両極性が面白い。
スティーヴンは、妻子を放置して家を出、刑務所に入る。「普通」の妻子から見れば、「勝手な野郎」である。しかし、その無責任さは、彼が「ゲイ」に設定されていることによって緩和される。むろん、その「ゲイ」は、ステレオタイプ的なゲイである。つまり、血のつながりがないのだから、養育責任は軽いという暗黙知である。では、なぜ彼は妻子を放置したのか? もともと「いい加減な奴」だとしても、なぜそうなったのか? スティーヴンのナレーション――だから、当てにはならない?――は、彼が幼いとき養子に出されたことに因るという示唆を与える。3人兄弟で自分だけが見知らぬ家に養子に出された。しかし、成人期の犯罪や精神疾患を幼児期のトラウマといったものに還元するのは単純すぎる。
人は、すべて、特異性(シンギュラリティ)を持って生まれ、それを維持しながらも、社会的慣習や法律の枠におし込めながら生きざるをえない。欲望は抑圧される。その抑圧が強まるにつれて、また、その抑圧が偏っていればいるほど、その人は、「ゆがんだ」性格の持」を持ちうる。が、それは、最初からバッテリーの電気のように肉体や脳のなかに蓄積されているわけではない。そうではなくて、与えられたそのつどの場によってあたかも突然の出来事のように発生するのである。欲望は蓄積されていて抑圧されたり、解放されたりするのではない。欲望は、生起するのであり、出来事として生まれるのだ。だから、欲望は場と条件次第である。逆に言えば、どんなに「不自由」に見える環境のなかにも創造的で「特異性」を保った欲望が生まれうる。
社会の定める枠や場は、「世間」や「一般」といった均一な傾向を持つ。そこでは、創造的で「特異」な欲望を生起させることがむずかしい。それを思い切り生起させようとすれば、拘束されたり、逮捕されたり、死刑になったりもする。犯罪とは、生起しそこなった欲望の形態である。あるいは、生起しようとして抑え込まれてしまった欲望の生起しそこなったプロセスである。
スティーヴンが、妻子を放置しても、詐欺行為をくりかえしても、そして最後に観客までも騙しても、彼を憎めないのは、彼のそうした行為が、単に「蓄積された欲望」の放縦な発散などではなく、人の特異性の生成をはばむ社会のさまざまな条件や場を笑殺し、パロディー化するような行為になっているからだ。
スティーヴンは、同名の実在の人物のリアルストーリに基づいているというが、それも当てにはならない。
「フィリップ・モリス」というのは、タバコの名前である。だから、原題の「フィリップ・モリス、君を愛している」は、「俺はタバコが好きだ」という意味にもなる。現代のアメリカでは、皮肉な表現であることはまちがいない。だからこの作品は、アメリカでは、その出来栄えのわりに、評価がかたよっているし、レヴューも少なく、上映館の数も少ない。
この映画には、リュック・ベッソンのEuropaCorpが金を出しているのだが、金にならないことには金を出さないのがベッソン流ではなかったか?
スティーヴンは、フィリップの誕生日(13日の金曜日)に限定して、5年間のあいだに4度脱獄をはかったという。これは、全米の刑務所史上例がないらしい。
(アスミック・エース配給)
非常にメリハリがよく、ドラマのなかでもマザコンのグイド(ダニエル・デイ=ルイス)の補佐役のジュディ・デンチがばっちりにらみをきかせ、クルト・ワイル風の歌まで歌ってびくともしないので、最後まで楽しんだ。照明がとりわけすばらしく、そのスペクタクル性はミュージカルより上という印象を受けた。わたしは、ブロードウェイのヒット・ミュージカル『Nine』の原作戯曲を書いたマリオ・フラッティ(Mario Fratti)と親交があり、ミュージカル版が生まれた経緯をよく知っているので、映画を観ながら、マリオの原作が流れ流れてこの映画ヴァージョンにまでたどりついた長い年月を思い、感慨深かった。
マリオ・フラッティは、新しく作品を書くと、彼の新しい劇評のコピーといっしょに分厚いコピーをそのつど送ってくるのを常とした。わたしも、彼についてあちこちに書いたことがある(→インタヴュー/1975年、1977年)。イタリア語なまりの英語を話したが、英語の戯曲を多数書き、ニューヨークのオフオフで上演され、わたしもかなりの数の彼の舞台を見せてもらった。日本でも、いくつかの作品(たとえば岩田治彦訳『橋』、未来社)が翻訳されているが、基本的に、チリの軍事クーデターやニカラグアの革命、フェミニズムからエイズやベルリンの壁の崩壊までの社会政治的な出来事をすばやく戯曲化し、上演するという「政治演劇」の作家だった。「だった」と過去形で書くのは、わたしが長らく彼と会っていないからで、彼自身はいまも80歳を越しながら、元気でニューヨークに住んでいるはずである。ウェブサイトをさがしたら、ちゃんと公式サイトがあった。
マリオ・フラッティと『Nine』との関係は、一般的には、「イタリア語の原作」を彼が書き、それをアーサー・コピットが脚色し、モーリー・イェストン(1945~)が作詞・作曲をしたと言われている。しかし、これは、不正確というよりも、ほとんど誤りに近い。これは、英語の世界でもそう理解されているので、わたしがここで指摘するのは、信じがたいかもしれないが、事実を正確に書くと――まず、「イタリア語の原作」は存在しないということである。事実は、まず1977年に出版されたマリオ・フラッティの戯曲『Six Passionate Women』があり、これは、1978年にニューヨークのActor's Studio Thieatreで上演(Carl Weber演出)されている。主人公の名はNinoであるが、明らかにフェリーニとわかる「イタリア人の映画監督」と6人の女たちとのナスシスティックなパロディで、ミュージカルの『Nine』と骨格がほとんど同じである。しかし、ここから最初のミュージカル・ヴァージョン『Nine』へいたる過程が複雑である。
1979年にコネチカットのユージン・オニール・センターで初演された『Nine』は、若い作曲家のモーリー・イェストンがマリオと協力しながらその原作『Six Passionate Women』の「18のシーンを18のソングに置き換える」ことによって出来上がった(Carol Sims, Clarion, September 1982)。やがてこのヴァージョンにアーサー・コピットが「アメリカ的言い回しを加えて」書き上げ、トミー・チューンが演出したヴァージョンが、1982年にブロードウェイの46th Street Theatreで初演され、大ヒットするのである。だから、単純に「Original play by Mario Fratti」と書けばよいのだが、それが、ブロードウェイの初演のプレイビルでも「Adaptation from the Italian Mario Fratti」と記されているのには、演劇業界の「政治的」事情というものがある。まず、モーリー・イェストンがなかなかのやり手であったこと、次には、マリオが、商業演劇の「誘惑」に抗せず、権利を売り渡してしまったことがある。マリオは、すでにハンター・カレッジの教授もしており、経済的には何とかやっていけていたが、ラディカルな政治的テーマをあつかう作品を書き続けていた彼は、劇作家としては「不遇」だった。むろん、それは承知のうえのことであり、彼は「政治活動」として演劇を書いていた――それにしては、彼が書きあげるとすぐ、ラ・ママをはじめとする良質の小劇場で公演されるのが常だった。が、そうだとしても、あるいはそれだからこそ、「マイナー」な彼の仕事がブロードウェイで上演されるというのは、魅力である。そういう屈折した事情のなかで取られた妥協的な処置が、「Adaptation from the Italian Mario Fratti」だったのだと思う。しかし、そのために、モーリー・イェストンは、その後、『Nine』がもっぱら自分の作品であるかのような発言をすることが出来るようになり、それが、いまでは定着した――いわく、「十代のときにフェリーニの『8½』を見て、ミュージカルのテーマを思いつきました」云々。
この間の屈折については、わたし自身、マリオから聞いており、先述のキャロル・シムズが『Clarion』(September 1982)で書いている記事のコピーをもらっているが、『Nine』が2003年にリバイバルし、再ヒットしたとき、Roberta E. Zlokowerによるマリオ・インタヴュー(2003年5月5日)が、彼女のサイト「Roberta on the Arts」に掲載されているので、その一部を原文のまま引用しておく。
REZ - What is the relationship of Nine to 8½?
MF - I met Fellini, and I wrote a play about the life of Fellini. Ed Kleban, the lyricist of Chorus Line, said, "Mario, this play is a musical". I worked on it for 7 years with Maury Yeston, a composer and teacher at Yale. Then, we won the Eugene O'Neill and Richard Rodgers Awards, and it became Nine. In 1981, at the O'Neill Foundation, in Connecticut, Katherine Hepburn came to see the play and loved it. She said, "Mario and Maury wrote a masterpiece". So, Katherine wrote to Fellini and asked him to let us do the play on Broadway.
Yeston asked four Directors in town, and they all said, "Too risky". This play was the life of Mastroianni, the life of Fellini, and the story of Casanova. I read the bio of Tommy Tune, whom I then met at Sardi's, I gave him the script, and in 24 hours he called me and said, "I'll do it". Seven years of suffering, and in 24 hours he said, "Yes". We opened on Broadway in 1982 and played for two years.
REZ - Why is this play suddenly revived now [2003]?
MF - Maury Yeston and I saw the production of Nine directed by David Leveaux in London. It was great. Leveaux found Banderas. The collaboration with Arthur Kopit came at the end, when he added new elements and a new scene. Now, it's a musical by Yeston, Fratti, and Kopit. Music and Lyrics by Yeston, and Adaptation by Mario Fratti. No Italian was involved.
フラッティの原作からブロードウェイ・ミュージカルに移項したときに決定的に変わったのは、原作にあった『8½』のパロディ的要素とフェミニズム運動支持という傾向である。むろんフェリーに自身、『8½』は自分のある側面へのパロディであって、ときどき誤解されるような「自分像」の肯定ではない。あそこにはさまざまなアイロニーや自虐がある。しかし、そういうナルシシズムを逆手に取って商業的にも成功してしまうしたたかさをも含め、母親への依存、女性を「女」としてしか見ない(70年代のフェミニズム的観点からすると「許せない」)男性至上主義的(メールショウビニズム的)傾向を、マリオ・フラッティは、『8½』をダシにして嘲笑した。だが、これが、ミュージカル版ではかなり薄れ、今回の映画ではほとんどわからないくらい薄れ、ステレオタイプ的な「アーティスト」タイプの男(どこに「映画監督」らしさがあるのか?)の「中年の危機」(mid-life crisis)話になってしまった。これは、時代の変化でもある。フェリーニとフェミニズム、フェミニズム自身の変質に関しては、『女の都』について書いたわたしの文章を参照してほしい。1982年に書いたものだが、そうした変化の発端を知るには、役立つと思う。
いまの時代、嘲笑や皮肉というスタイルは流行らない。また、「怠惰」であることの能動性などという発想はとんでもないと思われる。このため、フェリーニの『8½』ですら、そのスペクタクルな面のみが評価されたりもするのだが、彼の発想としては、ドタキャンをしたり、なにごとにもレイジーであり、「一生懸命」には働かないという要素の能動的な肯定(怠惰のラディカル化)があった。しかし、マリオ・フラッティが、それを『Six Passionate Women』で嘲笑したのは、にもかかわらず、その「怠惰」が女や母親に自分の仕事を押し付けて、自分はのうのうとしており、それは、70年代になって「労働の拒否」とか、「家事労働に賃金を」といったスローガンで出てくる本格的な能動的な「怠惰」(そのアメリカヴァージョンが「スラッカー」主義である)からは程遠く、こと女性に対しては旧態然とした「イタリア男」のままではないかという批判があったからだった。ちなみに、「ナイン/9」というタイトルは、直接的にはモーリー・イエストンのソングに由来するが、マリオは、『Six Passionate Women』のなかで、女を誘惑の相手としか考えない男は、マザコンで、精神年齢が9歳を越えないといったことを登場人物に言わせている。
今回、出演者は、みな錚々(そうそう)たるスターたちばかりだが、ペネロペ・クルスやニコール・キッドマンが余裕で演技していたのに対し、マリオン・コティヤールの歌いぶりがなぜか力弱かった。グイドの母親役に引っ張り出されたソリア・ローレンは、なんか「亡霊」のような感じだった。原作にはむろんのこと、ブロードウェイ・ミュージカルにも、もっと男と女のギラギラした欲望や嫉妬がみなぎっており、あざとい駆け引きがスリルを生んでいたが、この映画は、すべてが「美しい」夢物語のようにも感じられた。
(アスミック・エース配給)
ガイ・リッチーは、ミュージック・ビデオやCMを含む短編で注目された人だから、イントロ部分がうまい。先の『ロックンローラ』でも、その腕が如実に発揮されていた。ただし、その反面、「本編」でその密度ががくんと落ちるという傾向がなきにしもあらずだった。だから、今回、2台の馬車が石畳を疾走するのをまず固定位置から映し、すぐにカメラがその馬車を追う移動撮影に移り、シャーロック・ホームズ(ロバート・ダウニー・JR)が登場して、メリハリのきいたナレーションとハイスピード撮影(ガイの定番ではあるが)のシーンが飛び込んできたとき、いいなぁ、実にいいテンポだと思いながらも、はたしてその密度がそのあとまで持続するのかを疑った。が、それはわたしの危惧(きぐ)だった。いいじゃないの!すばらしい!これなら、妻マドンナになめられることはない。『ワンダーラスト』でマドンナは、あたしだってガイぐらいのことはできるわといった素振りを示していなくもなかった。が、今度の作品は、いくら彼女ががんばっても、とても越えることができない域に達している。一つの型を形成することに成功したので、続編(すでに進行中)を何本でも作れそう。
エンターテインメントの要素をしっかりとおさえながら、この映画は、時代批判的な要素をさりげなくくわえてもいる。設定された時代は1891年(次の項参照)で、英国が産業革命で蓄積した技術を動員して植民地支配へ向かう時代である。面白いのは、ここで、ホームズとワトソン(ジュード・ロウ)が黒魔術をあやつると信じられているブラックウッド(マーク・ストロング)と対決する点だ。彼は、前近代的な魔術を動因して因習的な血縁関係にもとづく権力関係を維持しようとする。それに対してホームズは、近代科学の技術と合理性でブラックウッドの「犯罪」を推理し、彼を追い詰める。しかも、ここでは、単に「前近代」と「近代」とが対置されるのではなく、ブラックウッドが持っているとされた超能力も、実は、近代科学を駆使したものであって、魔術は韜晦にすぎないことをあばく。これは、ある意味で、強行な権威主義的支配の基本パターンである。先の米国ブッシュ政権でも、テンプル騎士団的な「連帯」やキリスト教原理主義のロジックが歴史の闇のなかから呼び出され、アメリカ国民とその同盟国はまんまとイラク戦争に引きずりこまれることになった。ブラックウッドが大衆と世間を欺くやりかたは、まさにこのロジックなのである。
ブラックウッドの手下の大男(ロバート・マイエ)と対決し、造船所をめちゃめちゃにしてしまったホームズとワトソンは逮捕され、警察に留置される。ホームズを請出しに来たレストレード警部(エディー・マーサン)がこれを見ろとタブロイド版の新聞(The NATIONAL POLICE GAZETTE)を見せる。一面に大見出しで「LONDON IN TERROR」とあり、絞首刑で死んだはずのブラックウッドがまだ生きていることを報じている。その見出しの上に、「LONDON, FRIDAY, NOVEMBER 19, 1891」という文字が見える。つまり、時代設定は1891年だというわけである。
ローバート・マイエ演じる怪物的な大男が、終始フランス語を話すのも、示唆的であるし、アメリカ大使が陰謀にくわわっているのも示唆的である。19世紀末における英国は、アメリカとフランスを巻き込んで覇権主義を行使していた。ちなみに、ニューヨークにある自由の女神像はアメリカ合衆国の独立100周年を記念してフランスからの献金で建立された(1886年)が、この「独立」の象徴は、同時に米国がフランスのリモコンを受ける象徴にもなった。
探偵小説という新しいジャンルの登場は、警察や国家組織ではなく民間人のホームズが特権階級の犯罪をあばくという点で、「大衆民主主義」の展開を象徴する。が、ホームズ的な合理的思考と捜査技術は、やがて警察や軍の捜査/植民地支配の技術になって行くという点では、新しい支配と管理の開始を予告するものだった。
本作は、ガイ・リッチーの作品としてはR指定にならなかった例外的な作品である。そのせいか、ガイ・リッチーなら強調したかもしれないホームズの薬物依存やワトソンとの同性愛的な側面に関しては、ほとんど言及されない(DVDでも出たら、いずれもう少し細かく精査してみよう)。あやしい役回りのアイリーン・アドラー(レイチェル・マクアダムス)との関係もサラっとしている。その分、登場人物の関係が、映像の動きの動的な関係として提出され、その結果として、見る者に情感をもたらすという仕組みになっている。ここでは、俳優が情感を表象し、それに観客を巻き込む(ブレヒト的に言うならば、「アリストテレス演劇的な〈感情移入〉の方法」)のではなく、まさに身ぶりと動きの「引用」という「叙事詩的」な方法で撮られている。だから、この映画の個々の「意味」は、俳優たちが「代理表象」(represent)し、それに観客が同化するのではなく、映像で示される身ぶりや動きにこちらが勝手に「介入」して「意味」を付与する(創造する)しかない。
そういう「創造」の素材をあたえる刺激的なシーンが無数にあるし、エピソード的に挿入されるシーンやショットがさまざまな思いを誘発する。たとえば、ホームズの仕事場。道具や書物がちらばっているうさんくさい部屋。ここに映っている個物を一つ一つ点検してみたい誘惑にかられる。ブラックウッドの実験室のシーンも同様だ。精肉機械に縛り付けられたアイリーン・アドラーに向かって精肉マシーンの刃が迫ってくるシーン。造船所の船や歯車は、産業革命を支えた近代テクノロジーの暴力とオートマティズムをザッハリッヒ(sachlich)に描く。
ガイ・リッチーは、シャーロック・ホームズの性格を決して「描写」しない。彼は、ホームズに何かをさせることによってそれをずばり描く。たとえば、ワトソンがホームズの部屋をたずねると、彼はガラス瓶に追い込んだハエの群れにバイオリンの音を聞かせる実験をしている。ホームズによれば、ハエに半音階の音を聞かせても何の反応もないが、無調の音を聞かせるとハエはその音にシンクロして時計と逆の回転をはじめるというのだ。ワトソンはその実験をその目で見るが、ホームズの「画期的発見」を問題にせず、無神経なまでの態度で瓶の蓋を開いて、ハエを逃がしてしまう。ワトソンは、医者であるが、「観念」や「理論化」には関心がないのである。
(ワーナー・ブラザース映画配給)
50歳の恋愛白書 (監督がアーサー・ミラーの娘だからといって、ウナノ・ライダー、ジュリアン・ムーア、キアヌ・リーブスのような大物を「友情出演」させなくてもよかった。ロビン・ライト・ペンとアラン・アーキンだけでも、年齢差のある夫のわがままに尽くしてきてハタと危機に陥った50女の迷いと選択をもっと斬新に描くことはできただろう。余分だが、日本ではお産のときハイヒールは履かない)。
インビクタス 負けざる者たち 【前出】(「偉い人」の話といううのは、拝聴するしか手がない)。
新しい人生のはじめかた 【前出】(街を歩きながら愛が深まっていくというのはパターンだが、街にはそういう願望を呼び起こす要素がある)。
食堂かたつむり (柴崎コウに歌どころか声も出させなかったおかげで、彼女の本当の魅力が浮き出た。料理シーンは期待ほどではなかった)。
サベイランス (父親デイヴィッド・リンチと比較されるので損をしているが、なかなかどうして。自分の幼児期と重ねあわせて両親に「復讐」している気配もある)。
抱擁のかけら 【後出】(同性愛者が異性を愛し罰を受けるというひねったオイデプス物語)。
バレンタインデー 【後出】(リチャード・カーティスを模倣しながら、アルトマンから何も学ばなかった凡作ながら、ジュリア・ロバーツの出るあたりは悪くない)。
恋するベーカリー 【後出】(アメリカでは、70年代に勝手に離婚した夫婦がもとに戻りたがっているかのよう)。
コララインとボタンの魔女 (引越したばかりの古い家で、少しスネた少女が見る「夢」なのだが、その映像の美しさと斬新なアイデアに魅惑される)。
人間失格 【後出】(濡れ場を描かず、しかも暗示などというケチな技法に頼らないユニークな時間処理が面白いが、もう「人間」が消滅してしまった今日では、問題は「失格」云々ではない)。
渇き (「ホラー」的ラブストーリーと言ってもいいが、身体性への「変態的」執着とエロティシズムはなかなかのもの)。
ニューヨーク、アイラブユー 【前出】(オムニバスだから、楽しみはつまみ食いで楽しめばいい。岩井のパートは悪くない)。
すべて彼女のために (一介の教師が、冤罪の妻を奪い返し、幼い息子といっしょに国外脱出する――否定性が消滅した時代(ボードリヤール)には、こういうこともありえる。周到に構築された演出と、目が語るすぐれた演技。ただのサスペンス映画にとどまらない)。
バッド・ルーテナント (旧作を意識して見なければ、細部と音楽が面白く、ケイジの「ずっこけ男」もありかと思ってしまう。なお、旧作で重要だったドラッグは、ここではただの演出素材にすぎない)。
しあわせの隠れ場所 【後出】(「感動」実話とのことだが、リッチな「白人」が弱い者、しかも「黒人」を助けるというテーマは、先が見えるし、全体として「キリスト教右派」的で不快)。
試写の最終日に飛び込んだ。早くから試写状をもらいながら、敬遠していたのは、そもそも「人間失格」という太宰のテーマが、意味をなす時代ではなくたったということを考えていたからだ。もう一つは、これまでに見た太宰の原作にもとづく『ヴィヨンの妻』や『パンドラの匣』等が、太宰の原作と乖離しており、太宰の原作名を挙げる必要がないように見え、これもそのたぐいかと思ったからである。しかし、見て損はしなかった。太宰の原作から出発し、それとは別の(にもかかわらず太宰を離れているわけでもない)世界を構築しているからである。
大庭葉蔵(生田斗真)は、最後にモルヒネ中毒にもなるが、基本はアルコール依存である。アル中と薬物中毒とのちがいは、前者には「家」(ホーム)があり、後者にはそれがない。だから、アル中は「女」のもとへ帰る。その女は「母」的存在である。アル中には帰る場所があるが、薬中にはそういう場所がない(ホームレス)。いま、男女に限らず、薬中が増え、女のアル中が増えている。男にとって「母親」は帰る場所だが、女にとってはそうではない。だから、女のアル中は、男のアル中とは異なる。彼女には帰るべきところがない。こうした孤立化とホームレス化が亢進する現代は、太宰の時代とは決定的に違う。その意味で、葉蔵のような男は、いまの時代の「尖端」にはいない。もはや古い「人間」なのだ。
この映画のなかで、一番「アル中」として設定されているのは、中原中也であるが、それを演じる森田剛とて、「酒乱」の演技はうまくない。葉蔵は、寿薬局を経営する女(室井滋)からモルヒネをもらったのがきっかけで、モルヒネ中毒つまりは薬物中毒に陥るが、生田斗真の演技がアルコール依存の演技よりも「うまい」のは、彼が、現代の俳優だからである。
アル中は、「人間」を維持しているから、「失格」できるが、薬中は、もはや「人間」をやめているから(あるいは、アンドロイド的「人格」に変容しているから)、「失格」しようにも「失格」できない。「生まれて来てすいません」もなにも、いまの人間は、「生まれている」のかそうでないのかがあやしいのである。これが、現代の悩みである。
否定性そのものが、もはや消滅してしまったというジャン・ボードリヤールの主張(『なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか』、塚原史訳、筑摩書房)は、認めざるをえない。かつて、ポール・ピッコーネは、アドルノの「否定性」を敷衍して「人工的否定性」という概念を作った(『資本のパラドックス』、粉川哲夫編訳、せりか書房)。それは、支配システム自身が、延命のために自ら分泌する否定性であり、「左翼」や「反権力」の活動家が「体制」に対する反対、体制を打破する反対運動としてやっていることも、先進資本主義のシステムのなかでは、あらかじめその内部に準備されているという洞察だった。しかし、それから30年たったいま、まだ「人工的」なレベルにかろうじてとどまり効力を発揮していた否定性が、すべて消滅するという事態が到来した。だから、否定/反対からはじめても、何も変わらないし、そもそも「変革」ということ事態があやしくなってきた。
この映画は、大楠道代がいかにもの雰囲気で演じるバーでかかっているSPレコードの盤面の映像からはじまり、それが終わり近くにくりかえされる。バーのカウンターには、葉蔵が顔を伏せて寝ている。だから、その後に展開するシーンは、彼の酔いのなかで見られた夢であるかもしれない。だから、一つ一つの出来事には、巧みに仕上げられた飛躍があり、葉蔵がつぎつぎに知り合い、セックスをしたであろう相手の女たち(坂井真紀、寺島しのぶ、小池栄子、石原さとみ、室井滋)との濡れ場はほとんど描かれない。常子というカフェーの女(寺島しのぶ――ちっと古いタイプの女を見事に演じる)と入水心中をはかるシーンでも、「リアル」な過程は全くない。すべてが「大人」の描き方だが、安い暗示的な(たとえば、抱き合いそうな雰囲気のシーンを見せて、次に男か女がタバコを吸っているといった)描き方は絶対にしない。このへんに、映画を知り尽くした荒戸源次郎監督の見識がある。
大体、「おぼっちゃま」や執事(石橋蓮司)が登場すると、日本のある時期を過剰に高級化する嘘くささが感じられて、閉口するが、この映画が、その幣に陥っていないのは、生田斗真の幼少時を演じる役者がやけにバタくさく、また、その青年期・中年期を演じる大庭葉蔵が、一見太宰治の(写真の)風貌を思わせながらも、太宰の時代を超越した風貌をしているからである。さらに、生田と「現世」との媒介役ないしは、ゲーテの『ファウスト』のメフィスト的役割を果たしていると言えなくもない堀木正雄を演じる伊勢谷友介が、この映画ではほとんどアンドロイド的な存在感(非存在感)を出していることも功を奏している。
(角川映画配給)
2008年に完成しながら、昨年トロント国際映画フェスティバルを初めとして、いくつかの映画祭で上映されたきり、英語圏ではほとんど無視されているのは驚きだ。IMDBにある「user review」の欄にも誰も書き入れをしていないので、短いコメントを寄稿した。ここは、アップしたコメントに対する「検閲」があり、それをパスするとメールが来る。[今回は、4日後に掲載された旨、伝えてきた。]
それにしても、この映画は、23歳(2008年の時点で)の監督が撮った作品とは思えない。たとえ自分に同年齢の祖父母がいたとしても、老人夫婦、認知症、高齢者の孤独と愛といったテーマをここまで理解し、しかも映画的に完成度の高い作品に仕上げる才能は驚きである。まだ映画の公式ページもないが、監督と出演者へのインタヴュー、トロント国際映画祭での記者会見の模様はYouTubeで散見することができる。記者会見の映像を見ると、マーティン・ランドーやエレン・バースティンと監督のニック・ファクラーとのあいだにいかに深い信頼関係があり、非常にいい関係のなかで映画作りをしたことがうかがえる。また、登場人物と同年代の彼らがいかにファクラーの才能に驚いたかも、ランドーおよびバースティンのインタヴューで語られている。ファクラー自身は、インタヴューのなかで、それまで音楽をやったり、絵を描いたりしていたが、16歳のときに、映画が、書くこと、描くこと、写真、演技、音楽などを総合してくれるものだということがわかり、映画に興味を持ち始めたという。
この映画は、「結末」を知って見ても、その感動が薄れることはない。逆に、そのほうが、映画のディテールを味わうという意味での映画的感動は深まるかもしれない。試写室でもらったプレスには、はっきりと「結末」が書かれている。それは、決して「ネタバレ」ではないので、ネタバレ・クレーマーは騒がないほうが賢明である。わたしもここでそれを書こうと思う。
まず、「結末」を知らずに見る場合に、少なくともディテールを注意深く見ていれば気づく微妙な点を指摘しておく。まず、〈孤独な一人暮らしをしている〉ロバート(マーティン・ランドー)が、同年輩の女性メアリー(エレン・バースティン)と〈初めて〉会うときの彼女の表情。以後、「恋人」関係に変わっていくのだが、メアリーは初対面にしてはあまりに理解ある態度をする。次に、彼はスーパーマーケットに勤めているのだが、そのオーナーのマイク(アダム・スコット)が奇妙すぎる。彼は有能なオーナーなのか、ロバートはちゃんと仕事をしているのか(店の片隅で絵を描いていたりもする)。メアリーの娘アレックス(エリザベス・バンクス)がときおり、不安そうな表情をする。それは、一応、母がロバートと付合い始めたことに対する不安のように見えるが、それだけではないようなところを感じさせる。
あるシーンで、洗面所で薬を飲みかけたメアリーが、薬のケースを流しに落としてしまい、あわててドラッグストアに走るが、医者の診断書がなければその薬は出せないと断られる。そのときの彼女の狼狽ぶりが尋常ではない。それと、問題の薬が彼女自身のものではないような印象をあたえもする。何が起こったのか?
最後に、ロバートとメアリーがどんどん睦まじい関係になり、メアリーは彼女の家のパーティにロバートを呼ぶ。みんな、〈初対面〉の彼を親しげに迎え入れてくれて、彼はハッピーな気持ちになるのだが、一人の小さな女の子が近づいてきたとき、彼がその子の名前を知らないことを知ると、その子は泣き出して、走って行ってしまう。なぜ、その子はそんなに悲しむのだろう?
ここまで書いてきて、少し気が変わった。「結末」をバラすのはやめよう。その代わり、いくつかの暗示を書いておく。認知症の決定的な治療薬はないが、切らさずに持続的に飲むことによって、進行を抑制する薬が出ている。エーザイの「アリセプト」(ドネペジル塩酸塩)は有名である。ちなみに、最近、エーザイは、アルツハイマー型認知症の治療に使う抗体薬の開発を進めてきたが、6月までにまずアメリカで人体投与の実験を開始するという。これは、「アリセプト」のような抑制剤ではなく、「原因物質(アミロイドベータというたんぱく質)の沈着」を可能にするものだという。なお、エーザイが特許を持ち、この種の薬の80%以上を占有している「アリセプト」は、今年の11月で特許が切れる(『日経産業新聞』2月5日号)。メアリーが、薬局に買いに走ったのは、「アリセプト」かもしれない。
認知症の人は、短絡的な記憶に陥る。古い記憶はある程度残っていても、夫婦や親子の関係がわからなくなることもある。そして、最後には、自分が誰であるかもわからなくなる。認知症のどのレベルかが問題だが、あるレベルの患者の場合、見方を変えれば、その人は、「そのつどが新しい」という時間意識を持っていると言うこともできなくはない。その場合、そのつどそのつど、「新しい」人格をあたえてやって、まわりもそれにつきあうということは不可能ではない。認知症ではなくても、患者を「もとにもどす」というのではなくて、周囲の「健常者」が「患者」の位置に下りてきて、たがいに「共演」をするならば、そのプロセスのなかでは「病気」は消滅する。
少しまえ、わたしは、パーキンソン病になった友人のことを「雑日記」に書いた。わたしは知らなかったのだが、わたしが彼に肩を貸して、いっしょに歩くだけで、そのあいだだけ、彼の「病気」は「消滅」したのである。「共演」ということでこのことを思い出した。
「病気」と「健康」、「狂気」と「正常」との仕切りは、決まっているわけではない。「演技」や「嘘」は、両者の境界線のうえを動くことによって成立する。フィリップ・ド・ブロカの『まぼろしの市街戦』(Le roi de coeur/1966/Philippe de Broca) という傑作があった。これは、第一次世界大戦のフランスのある村を舞台にした話で、アラン・ベイツが扮するイギリス軍通信兵が、ドイツ軍が占領していたその村に偵察に入ると、ひょんなことで精神病院にまぎれこんでしまい、「狂人」たちによって「王様」にまつりあげられる。以後、奇妙なミハイール・バフチン的なカーニバル世界が展開するのだが、戦争の現実の方がよほど「狂気」で、「狂人」たちの世界の方がはるかに「正常」であるということを描いていた。
別に病気ではなくても、時間を「人生」とか「一生」とか、さらには「年」とか「月」とすら長く考えないで、たかだか一日ぐらいが自分の「人生」だと思えが、人生は気が楽だろう。むろん、それをあなたが一人だけでやったのでは、あなたは「勝手な人間」だと思われるだけであるが、一定の集団やコミュニティ全体がそういうテンポラリーな時間意識を生きるならば、毎日が新鮮である。ドラマティックな人生というのは、そういう時間性をよしとする人間たちにあたえられるものである。それを僥倖(ぎょうこう)――いい言葉だ――と受け取りハッピーな気持ちでいるか、それとも運命と受け取り、悲嘆にくれるかは、そのときどきの事情に左右されるとしてもだ。
(ピックス配給)
「殴る」シーンで始まるこの映画は、「殴る」ということの現象学である。監督ヤン・イクチュン自身が演じる主人公サンフンは、人をよく殴る。何かというと頭を殴り、さらに顎や鼻にパンチをくらわせることもある。ただし、カメラに関しては、冒頭の殴打のシーンでも、アップで撮り、拳が当たる場面は見せない。蹴りを入れるシーンではカメラが引き、足が相手の体に当たる生々しさは映さない。
頭を殴るというのは、日本の「お笑い」には欠かすことのできない身ぶりの一つだったが、最近は、やや弱まっているようである。頭をガツンではなくポカンとなぐるのは、ときには、親愛の表現になったりもした。いまは、必ずしもそうではない。小学校の先生が軽く生徒の頭を叩いても、「暴力」とみなされかねない。『グラン・トリノ』でイーストウッドが近所のモン族の家のパーティに招かれ、かわいい男の子の頭をなでると、周囲が驚いた顔をするシーンがあった。モン族にとって、頭は不可侵のテリトリーで、なでたり触ったりすることは、親愛の情を示すことにはならないのである。同じことがアジアの各地でも発見できる。
サンフンにとって、殴ることは彼流のコミュニケーションであって、それは、単なる暴力だけを意味しない。しかし、殴られたほうは、それはただの暴力であり、あげくのはて、彼はハンマーで頭を殴られる。こちらは、ただの暴力としての殴打であり、素手の殴打とは根本的に異なる。この映画は、ある意味で、殴ることが、もはやコミュニケーションにならなくなる趨勢を描いてもいる。
サンフンは、殴られながら育ち、殴ることで生計を立てるようになった。借金の取立て、スト破り、さまざまな恐喝、たとえ殴らなくても、彼の体からただよう暴力的なアウラが人を恐れさせ、彼をやとっている暴力団の組長(チョン・マンシク)でさえ、彼に身内の若い者を殴るのをやめろと忠告する。しかし、彼は殴るのをやめることができない。彼には、それが表現だからである。
サンフンには、恋人はいない。だが、そんな彼を殴る女が登場する。サンフンが路上で吐いた唾が、通りかかった一人の女子高生ヨニ(キム・コッピ)のネクタイにかかる。彼女は、気丈にもサンフンの顔を殴る。そんな経験のないサンフンは一瞬ひるむが、すぐに彼女を殴り倒す。しかし、それは、二人の愛の始まりだった。ヨニ自身、父親の家庭内暴力のもとで育った。
サンフンの父親(パク・チョンスン)は母をなぐり、家庭を崩壊させた。それは、愛情の殴打ではなく、酒乱の末の「ドメスティック・ヴァイオレンス」(DV)だった。おそらく、その背景には、貧困があった。何をやってもうまくいかない追い詰められた条件のなかで、彼の父親は、酒におぼれ、暴力をふるうようになった。ただし、サンフンが子供の時代には、酒乱の暴力が「DV」とみなされることはなかった。これは、日本でも同じである。「DV」という言葉自体、一般化するのは、1990年代以後である。
どのようにして、殴ることがDVになるのか? むかしから子供を殴る親はいた。「何歳まで殴るか」が育児のコツであった時代もあった。しかし、「近代化」のなかで、殴ることが暴力となる。だから、「近代社会」では、殴ることはタブーとなる。ヨニの父が母や彼女を殴るようになったのは、ヴェトナム戦争から帰ってきてからだった。パク・チョンヒ政権は、アメリカとの軍事協定のなかで、韓国人をヴェトナムに派遣した。ヴェトナム戦争の後遺症を身につけて帰国したのは、アメリカ人だけではない。近代戦の暴力は、素手の暴力ではない。そもそも近代テクノロジーとともに、素手の存在が希薄になる。素手は、テクノロジカルな機械の単なるインターフェースとなる。だから、たとえ素手で殴ったとしても、その殴打は、機械による殴打に準じてしまう。このことは、近代以降の人間のあらゆる身ぶりと身体性にあてはまる。
殴ることしか知らない男が、ヨニと出会うことによって、殴るのとはことなる表現方法を見出す過程。それは、映画的にも非常にユニークな「ラブストーリ」の形式を創造することに成功している。しかし、殴ることしか知らなかった男が殴ることをやめるとき、その先に見えるのは、悲劇的な結末である。この映画は、終始フィジカルな映像で構成されているが、全体としては、歴史の構造的な動向を示唆するようなつくりを秘めてもいる。つまり、「殴る」父親=父権と男性至上主義の終焉のあとに何が来るのかという問いと、「殴る」ことの終焉は、暴力の終わりではなく、逆に、より無機的な暴力の亢進でもあるという戦慄的な現実である。それは、イ・ファンが演じるヨニの弟ヨンジェの変貌のなかで鋭く示唆されている。彼の暴力は、わずかでも「人間的」な要素を残す父権的暴力ではなく、暴力機械としての暴力である。
(ビターズ・エンド配給)
はっきり言って、駄作である。まあ、隣にいた女性が、ときどき涙をぬぐっていた(ただし人差し指でさりげなく)から、「感動」する人もいないわけではなさそうだ。しかし、劇場試写の会場に感動の空気がみなぎることは全くなかったように思う。時代を意識して、マルチレイシャルな組み合わせや、複数のエスニシティを配慮したジョークも用意されていたが、翻訳ではそういうニュアンスは伝わりにくいから、笑いがはじけることもほとんどなかった。
リチャード・カーティスの『ラブ・アクチュアリー』を意識していることは、予想できたが、それならば、『プリティ・ウーマン』のことは、一切白紙にするべきだった。が、ゲイリー・マーシャルは、あの当たりに当たった作品の呪縛から逃れることはできないらしい。ちなみに、わたしは、『プリティ・ウーマン』は評価する。よく出来ていたと思う。が、マーシャルにはアルトマン的なアンサンブル・プレイは無理である。ならば、『ラブ・アクチュアリー』なんかをまねするのはやめたほうがよかったのに、子供のうぶな恋を父親(ここでは祖父)が手助けするとか、同性愛の関係とか、アイデアの安易な模倣をしている。
とはいえ、ここで、この文章を読んだ人がこの映画を見ないようにするために悪口を書いているわけではない。映画にせよ文学にせよ、意見は意見である。わたしがつまらなくても、面白いという人はいるだろう。わたし自身も、部分的に面白いところを見つけなかったわけではない。たとえば、陸軍大尉という設定のジュリア・ロバーツと、飛行機のなかで隣の席にすわったブラッドリー・クーパーとの話、エリック・デインが演じる有名アメフト選手の「秘密」のくだり、50年間連れ添い、たがいにほかの男や女を知らなかったという「理想」の夫婦(ヘクター・エリゾントとシャーリー・マクレーン)のエピソード(しかし、墓地での野外映画上映のシーンの二人のハプニングは無理すぎて笑ってしまう)等々。
まあ、そういうわけで、今回は、これ以上文章を綴るのをやめたい。その代わり、マインド・マッピング風にこの映画の登場人物の関係図をおおざっぱに作ったので、それを以下に添付することにする。画面をクリックすれが、大きな画面になる。なお、この関係図にジェイミー・フォックスとジョージ・ロペスを入れていないのは、二人は、この映画のトリックスター的な「つなぎ」役にすぎないからである。いや、というよりも、二人はほぼすべての登場人物に関係し、ドラマの進行役になるので、省略した。
もう少し「ネタバラシ」の関係図(「?」のところがポイントだが、その答えまではバラさない):
(ワーナー・ブラザース映画配給)
北朝鮮での過酷な生活のなかで栄養失調による結核をわずらった妻を助けるために「脱北」をする夫と家族の悲しい物語であるが、わたしには、その「泣かせる」作りよりも、境界(国境からあらゆる意味での制約までの)を越えるということをあらためて考えさせる作品として印象深かった。タイトルは、クロスする、「越える」という意味である。
日本に住んでいると、国境を意識することは少ないし、まして国境を越えるということを陸続きの空間で意識させられることがほとんどない。禁じられたテリトリーはいくつもあるとしても、国家権力同士がたかだかフェンスや川や壁の仕切りをへだててあい対峙している場を目の当たりにすることはない。実は、大使館の門は、一つの国境であり、だからこそ、北朝鮮の「脱北者」は、中国や韓国の大使館に飛び込んだのである。この越境も「クロッシング」であり、近年、テレビ報道でその姿を目の当たりにするようになった。
元サッカー選手で世界的にも名を知られたことのあるヨンス(チャ・インピョ――若き高倉健に似ている)は、メディア的には、たびたび国境を越えているが、いまは泥まみれの炭鉱労働に閉じ込められている。その妻ヨンハ(ソ・ヨンハ)は病気に、息子ジョニ(シン・ミンチョル)は、貧しさと不自由さの境界に閉じ込められている。しかし、そういう制約のなかにもそれなりしあわせがある。最初のほうのシーンは、貧しさが必ずしも不幸をもたらすわけでもないことを示唆する。もののない生活のなかで、親子はくちけたボールでサッカーを楽しむ。しかし、それも程度問題である。
境界を越えることができるかどうかが、人間の自由の尺度となる。むろん、その「自由」にもいろいろある。経済的な自由、精神的な自由、肉体的な自由等々。ヨンスの一家は、経済的に自由ではなかったが、家族や友人たちのあいだに心の自由を保っていた。経済的な不自由は、やがて肉体的な不自由をもたらす。他方、ヨンスの友人一家は、仕事の特権――つまりは越境の自由――を利用して、中国経由でテレビやウイスキーのような「禁制品」を享受している。が、やがて彼らは、悲惨にも、官憲によって身体的自由を奪われる。そこに心の自由だけは残されていたとは思えない。
病気の妻の薬を得るために、ヨンスは、密かに国境を越える。北朝鮮と中国とを川で仕切られた国境だ。中国にある「朝鮮解放区」に逃れたヨンスは、「脱北」活動グループに協力して、中国のドイツ大使館に逃げ込む。このあたり、国境を越えるということの緊張感がスリリングに描かれる。
さまざまな国境があることを見せてくれるこの映画のクライマックスは、ヨンスの息子ジェニが、苦しい困難のすえに中国の向こう側にあるモンゴル砂漠に達するシーンである。すでに母は病死し、必死の逃亡の旅のなかで、かつて裕福だった家の娘ミソン(チュ・ダヨン――非常に魅力的な役者で、将来が期待される)がホームレスになっているのに出会い、二人で中国への国境を越えようとするが、あえなく北朝鮮の兵士に捕らえられ、強制収容所へ入れられたのだったが、遠隔の地からの父親の努力でそこをも逃れることができた。が、いっしょに「脱北」した仲間たちが中国の官憲に捕らえられ、一人になったジェニが入り込んだモンゴル砂漠はあまりに広かった。カメラは、広大なモンゴル砂漠と、満天の星の夜空、突然襲う雨、をリアルに映す。そこには、国境は見えない。地平線の果てにはそれがあるのだろう。国境とはなんだろうということを思わずにはいられないシーンである。国境がなければ自由なのか? 国境があることが不自由なのか? 国境は誰が作るのか? 心のなかにも国境があるのか?
国境は、国家権力の統治に対する自信の度合いに応じて開かれたり、閉ざされたりする。「自由」な統治――暴力を用いずにメディアや環境を通じての統治を可能にできる国の国境はゆるい。また、国家の必要度に応じて国境の厳しさが変わる。アメリカとメキシコとの国境地帯の一つ、ティワナにサンディエゴから行ったことがある。川で仕切られた国境地帯には、警備の警官がいたが、両国を仕切るフェンスには多数穴があり、潜り抜けることはたやすかった。長々と続くフェンスのある場所に明らかに夜になったらそれを飛び越えてアメリカに密入国しようと身構えている集団がいた。アメリカにとって、メキシコからの密入国者は、安い労働力として不可欠である。また、基本的に戦争の必要性を内包する大国にとって、「悪の枢軸」は戦争を合法化するためにも必要である。だから、「脱北者」の問題も、単に、権威主義的国家の悲惨な結果とだけ理解することはできない。「脱北者」を必要としている国の経済的条件の変化と「脱北者」の数とが比例する側面があることも考慮に入れる必要がある。つまり、世界の「低開発国」や「権威主義的国家」の存在は、それらの国自体から生まれるだけでなく、それらを労働力や戦争の必要性から要請する国家の力学のなかでも生まれるということである。
(太秦配給)
「ありえない」と思いながら、最後には「ありえる」、「あってもいい」と思い、ぐいぐい引き込まれてしまうノリは、イーディッシュ(東欧ユダヤ人の言語と文化)演劇的である。それは、深刻な場面のなかにある種リスキーで(冗談すぎて命取りになるような)皮肉な要素と、同時に、天をあおいでオーバーに涙したり、地面を踏み鳴らして笑いころげるようなメロドラマ性の両極を持つ。監督のラデュ・ミヘイレアニュは、1980年、チャウセスク政権の時代にフランスに移住したユダヤ人であり、映画の物語の核には、1980年代のブレジネフ政権のソ連で起こった弾圧でシベリアの収容所に送られたユダヤ人のオーケストラ団員の悲劇がある。パリに住む国際的なヴァイオリニストという設定のアンヌ=マリー・ジャケを演じるメラニー・ロランもユダヤ系だという。
ユダヤ人は、パレスチナからドナウ河に沿って一時的な「定住」をくりかえしながら何百年もかけてポーランドやロシアの一帯に住むようになる。これが「アシュケナジ」、東欧ユダヤ人である。彼らは、長年月の「ディアスポラ」の放浪のなかでさまざまな文化や習俗を混交させ、媒介する役割を果たした。表記にはヘブライ文字を使いながら、古い中高ドイツ語に似た発音をするイーディッシュ語は、まさにそんな混交言語である。ちなみに、日本でも20年ぐらいまえから話題になりだした「クレズマー Klezmer」(むろん西欧で「新しい」ジャンルとして浮上したことによってそうなったのだが)は、イーディシュ語であり、とりわけ東ヨーロッパの「シュテットル」(ユダヤ人の集落)からシュテットル、また非ユダヤ人の住む街から街を移動しながら生活する音楽師のことを意味した。シャガールの絵に出て来るヴァイオリニスト、ショーレム・アレイヒェムの原作にある(一般的にはブロードウェイ・ミュージカルで有名な)「屋根の上のヴァイオリン弾き」(英語では「フィドラー fiddler」だが)もある種の「クレズマー」である。
東ヨーロッパのユダヤ人の運命は、時代の変わり目ごとに翻弄されてきた。19世紀になっても、ロシアやウクライナでは「ポグロム」(ユダヤ人の村を襲い、虐殺・強姦・略奪をする)が絶えず、ユダヤ人はそれを逃れて、移住しなければならなかった。そういう村の一つからニューヨークへ移住する家族の物語が「屋根の上のヴァイオリン弾き」であり、東欧ユダヤ人のあいだでは昔から有名だった物語を、ユダヤ系のルーツを持つジェローム・カーンがミュージカルにして世界的に知られるようになった。「ポグロム」とユダヤ人の話は、映画でも数多く描かれている。
ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦 USSR)には、ソ連以前からユダヤ人弾圧の「民衆的伝統」があったわけだが、差別が強くなるかどうかは、政権の力学と関係してくる。革命直後のソ連で、多くのユダヤ人アーティストや政治家が歴史の表舞台に出てくるが、彼らの多くはスターリンの登場によって、その活躍が抑え込まれる。最先端の演劇を主導していたメイエルホリドは殺され、多くの文化人・知識人が「ラーゲリー」(強制収容所)に送られた。トロツキーも、身の危険を感じて移住したメキシコでスターリンの刺客に暗殺される。このあたりも映画でたびたび描かれた。スターリンには、たしかにユダヤ人恐怖があった。だから、彼は、連邦内のユダヤ人をハバロフスクの上にあるビロビジャンという地域に移住させる政策を行った。だから、ここは、米ソの緊張関係が強まったブレジネフ時代にも、米ソのあいだの「自由貿易」の「非武装地帯」のような役割をした。1981年ごろだったと思うが、イーディッシュ演劇の俳優だった人物が連絡してきて、東京で会った。彼とはその少しまえにニューヨークで知り合ったのだったが、そのときは機械の会社の社長をしていた。「これからソ連に商売をしに行く」というので、(当時の状況では)「そんなことが出来るのかい?」ときくと、「ユダヤ人の親戚がビロビジャンにいるのでそういう特権があるのです」とのことだった。
ポストスターリニストといわれるレオニード・ブレジネフの時代は、スターリンほど露骨なユダヤ人差別はなかったが、アメリカと中東問題をめぐって対立していたから、中東におけるアメリカの前衛基地イスラエルには神経をとがらせていた。ブレジネフ時代のユダヤ人弾圧には中東とイスラエルの問題がからんでいる。東欧のユダヤ人にも、大分けして二派ある。ユダヤ人の国家を築こうとするシオニスト、そしてそういうものとして出来たイスラエルに執着する派が一派。もう一派は、現状に同化しながら、みずからの文化を維持していこうとする「イーディッシュ派」である。このなかには、完全に同化してしまう者もいるが、どこにも「定住」しないことこそイーディッシュの文化だとするラディカル派もいた。これは、ハキム・ベイことピーター・ウィルソンの「T.A.Z.」(Temporary Autonomous Zone=タズ=一時的滞在地帯)という発想にも通じる。
脱線が続いたが、この映画で、(ブレジネフ体制のもとで)仕事をほされた楽団員たちは、すべてがユダヤ人ではなく、マイノリティたちである。指揮者だったアンドレイ・フィリポフ(アレクセイ・グシュコプ)は、ロシア人として設定されているように見える。親友でチェリストのサシャ・グロスマン(ドミトリー・ナザロフ)はユダヤ系だろう。ヤムルケ(ユダヤキャップ)をかぶり、パリにはシナゴーグ(ユダヤ教会)はあるのかと気にするトランペット吹き(だったか?)のメガネの老人と息子はユダヤ人だ。彼らは、パリに着くと、ソ連から持ってきたキャビアの瓶詰めを売りさばいたりする。ヴァイオリン弾きの浅黒い顔の男はロマという設定で、彼らの仲間がロマの踊り(「ジプシーダンス」)に熱狂している姿が映る。みな、いかにもというステレオタイプのエスニシティが描かれるが、こういうコミカルなオーバージェスチャーの誇張表現がイーディッシュ文化の特徴の一つなのであり、監督のラデュ・ミヘイレアニュは、この映画をまさにイーディッシュ演劇調に撮ったのである。国を捨てたとはいえ、ルーマニアのユダヤ人である彼は、かつて「故国」には「国立ユダヤ劇場」があり、先端的な演劇を提供していたことは知っているだろう。(わたしは、1970年代にイーディッシュ演劇の研究をやっていて、たまたまルーマニアがその宝庫であることを知り、のこのこと東京のルーマニア大使館文化部に出向き、イーディッシュ演劇の英語(!)資料を依頼したことがあるが、当時は親切にいろいろな資料をくれた)。ユダヤ性を意識して映画を撮るミヘイレアニュが――英語タイトルが「Go, See, and Become」(2005)という作品もユダヤ人の話――、イーディッシュ演劇のドタバタ(それはユダヤ人のチャプリンにも引き継がれている)とおおげさな「メロドラマ」性を知らないはずはない。
わたしは、ここで「イーディッシュ」性ということを一つの操作概念として使っている。監督や関係者がその語をそのまま意識していなくても、その概念を当てはめることによって、隠れていることがパーと見えてくるような概念として「イーディシュ」を使ったまでである。
前半はモスクワが舞台で、出演者もロシア語を話す芸達者な俳優を使っているが、この映画の「モスクワ」には、ミヘレアニュの「故郷」ブカレストの要素が交じり合う。登場する「ロシアマフィア」のシーンは、銃まで乱射して、話が飛躍しすぎに見えるかもしれない。偽造パスポートにしても、(もう写真にスタンプを押すなどという方式は廃止されているのに)空港の片隅(しかも警察官がそばにいる)でその作業をするなどというには「非現実的」だと思う人もいるだろう。しかし、こういう「やりすぎ」こそがイーディシュ(ジューイッシ)ユーモアなのだ。アイザック・シンガーの物語には、こういう飛躍がいたるところにあるし、カフカの小説の飛躍もイーディッシュの流れをくむ。シャガールの絵は、「正統な」美術史からすれば「シュールレアリズム」に分類されるかもしれないが、その随所にイーディッシュのフォークロアからの引用が見られる。
この映画には、きわめてコンテンポラリーな要素もたぶんにある。その一つは「違法性」の肯定と活用である。「ロシア・ボリショイ交響楽団」のスター的な指揮者であったアンドレイが、いまは掃除夫をやらされていて、たまたま誰もいない楽団の支配人のオフィスに入ってきたファクスの招待状を見て、「なりすまし」を思いつくというのは、「違法」である。偽造パスポートの使用もそうだ。しかし、国家や権力が過ちや惰性に陥っているときにそれをくつがえすのは、正義である――というのが「違法性」の肯定である。ただし、その際、これまでの「反権力」闘争のように、「抑圧」に対峙してがんばったり、武装闘争をしたりするのではなく、「だまし」という技法を使い、権力を非暴力で笑殺してしまうところが、この映画の今性、コンテンポラリーなところである。
「違法性」の肯定と活用というテーマは、ラデュ・ミヘイレアニュの1998年の傑作『Train de vie』にも共通している。こちらは、もっとユダヤ性の明確な映画で、ナチの支配下の1941年、ナチの魔手が延びようとしていることを察知した東欧のあるシュテットルの全員が、ナチに「なりすまし」、強制収容所行列車をも「偽装」して脱出に成功するという、これまた奇想天外なドラマである(ただし、それは、強制収容所に入っているある男のホラ話かもしれないというイーディシュ物語的オチがついている)。この作品は、まだ日本では公開されていないと思うが、この機会に公開してほしい。
ちなみに、すぐれた才能の持ち主が、彼や彼女の才能を100%発揮できない仕事(「掃除夫」を低く見るわけではないが、そこではアンドレイの楽才は全く発揮できない)に強制的に配置転換させられるというのは、ソ連とその同盟国の官僚体制のもとではよくあった。たとえば、旧チェコの哲学者カレル・コシーク(邦訳には『具体性の弁証法』せりか書房があった)は、プラハの春の弾圧後、大学から追われ、市電の運転手をしていた。配置転換ならまだいい方で、もっとにらまれれば、この映画のなかの伝説的な女性ヴァイオリニストのように強制収容所送りにされたのである。アレクサンドル・ソルジェニーツィンやアンドレイ・サハロフのことは、最近は、あまり話題にならないが、このことは、しっかりと記憶にとどめておこう。
映画には、アンドレイらを楽団から追放するのに手を貸した前支配人イヴァン(ヴァレリー・バリノフ)が、いまは、体制の主流からもとりのこされていることが描かれている。彼は、いまだに「共産党」を信じ、「ボリシェヴィキ革命」の復活を願い、「労働者」のデモを定期的に開催している。そのときは、赤旗がひらめき、デモのシュプレヒコールが街頭にこだまする。しかし、この「デモ隊」は、アンドレイの妻イリーナ(アンナ・カメンコヴァ――これが実にパワフルな俳優)がイヴァンから金をもらって動員したアルバイトであって、そのデモ自体が最初からハリボテなのである。いまや、共産党にかぎらず、「党」を拠点とする政治が終わってしまったのだが、イヴァンにはそれがわからない(日本でも、自民「党」も民主「党」も、党としては機能していないにもかかわらず、それを表に出さないところに混乱がある)。しかし、アンドレイは、イヴァンの(少なくとも自分たちよりはマシの)人脈・金脈をたのみにして、彼を「なりすまし」渡仏のマネージャーにする。そのイヴァンが、パリでまず「フランス共産党」のかつての仲間と会うシーンが笑える。向こうは、もう「党」の無力さを知っているが、イヴァンのタイムスリップした「意気込み」に、困惑する。まだフランス共産党とソ連共産党(まあ、ブレジネフの時代でもいろいろあったが)とが「連帯」感を持ちえた時代の情報しか持っていないイヴァンが指定する場所がすべてズレていているのだ。かつて「党員」たちが使ったパリのレストランはないのだが、パリの招聘側(フランソワ・ベルレアンら)は仕方なく、その店を一時的に偽装する。そのシーンもおかしい。イヴァンが行ってみると、出てきたのは、トルコ人で、ベリーダンスのサービスでごまかそうとする。ちなみに、トルコは、ブレジネフの時代には反共・反ソの宿敵で、「共産主義者」のイヴァンには、まぎれもない「敵国」であったはずなのだ。
監督のラデュ・ミヘイレアニュは、「共産主義」の国を逃れた人であるが、それでも、彼がいわゆる「自由主義」圏の人とはちがうなと思わせるところがいくつもある。映画のクライマックスのまえ、パリについた寄せ集めの団員たちが、それぞれ勝手に久しぶりの「自由」を楽しみ、コンサートのリハもすっぽかす。いったい、これでは本番はどうなるのか? 特別の依頼で共演を引き受けたアンヌ=マリー・ジャケ(メラニー・ロラン)は、怒り、共演をキャンセルする。そんなこんながあったのち、何とか本番にこぎつけることができるようになったとき、アンドレイがイヴァンに廊下で、(正確なせりふは忘れたが)個々の人間がそれぞれの能力を発揮し、自由にことを進めながら、いっしょになること、こういう「アンサンブル」こそが「コミュニズム」なんだ、と言う場面があった。これは、まさに、ガタリとネグりが『自由の新たな空間』(杉村昌昭訳、世界書院)のなかで「共産主義」=コミュニズムを再定義したのと同じ地平で理解できる。
あちこちに散らばった旧団員を集めるやり方は、ちょっと『ブルースブラザース』を思い出させる。ブルースブラザースでは、元パトカーを使ったが、ここでは、(チェリストが運転手をしている)おんぼろ救急車で旧団員のところを回り、再結集を呼びかける。そのうち、ポルノ映画に音楽をつけているのがいて、その場所では、スクリーンに大股を開いた女の映像が映っている。面白いのは、その女性がハイヒールを履いていることだ。ポルノ映画ではそういうシーンがあるのは知っているが、先日見た「普通」のアメリカ映画でお産のシーンが映ったとき、その女性がその瞬間にもハイヒールを履いているのが異様だった。つまり、裸足や靴を脱ぐという感覚や意味が、日本とは完全に違うのである。また余分な話になった。
アンドレイが、パリ公演の曲目にチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲ニ長調Op.35」を選んだのは、30年まえ、その曲の演奏の最中にKGBによって突然演奏をストップさせられ、楽団員が解雇されるという事件があったことに対するリベンジであることは一つであるが、それ以上の意味があることは、映画を見てのお楽しみである。パリに着いたアンドレイが、共演者に選んだアンヌ=マリー・ジャケ(メラニー・ロラン)に会い、レストランで食事をするシーンで、ひょっとすると、アンドレイは、アンヌーマリーの父親なのではないか、という思いがする。しかし、事実は、もっともっと複雑で劇的なのだ。その秘密が、クライマックスの演奏シーンで明かされる。それは、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」のコンサート会場のシーンを映し、音は全く中断せずに、そのあいだに短い映像をぱっぱっ挿入するやり方で行われるのだが、演奏の成功、アンドレイとアンヌ=マリー、他の楽団員の思いと感情の高揚と、観客側の認識とがまじりあってどんどん感動を高めて行く作りは、見事である。
メラニー・ロランのヴァイオリン演奏の身ぶりとしぐさは、非常にいい線を行っていると思うし、それが感動的なのだが、音を出しているのは誰だろうという関心をいだいた。エンド・クレジットには、名前が載っていたのかもしれないが、見落とした。ちなみにルーマニア出身(しかもユダヤ系)の女性ヴァイオリニストで、この映画に合いそうな雰囲気の人がいる。シルヴィア・マルコヴィッチである。YouTubeをチェックしたら、彼女がチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」を演奏している映像があった。
(ギャガ配給)
ゲームの映画化は難しい。ゲームにはインタラクティヴな要素があるが、映画は観客の想像力だけがインタラクティヴィティであるクローズドなパッケージメディアだからである。映画の方が、スクリーンは大きく、アクションの映像強度が高いはずだが、映画では、観客がそのドラマに参加しているという意識は希薄で、距離を置いて見物しているという意識を持たざるをえない。
この映画は、ゲームのゲーム性とは無関係なものとして見たほうがよい。ゲームは、すでに独特の身体文化を構築してしまったので、この映画のように、格闘場面をカンフー映画や格闘技の身体スタイルで見せられると、ゲームの身体性よりもはるかに後退しているように感じられてしまうからである。
ゲームでは、最初にストーリーがあるのではなく、ゲームをするなかでストーリーが浮上するのだが、この映画は、普通の映画のやりかたで、終始ストーリーが気になる作りになっている。最初のナレーションにあるように、世界の諸政府は、世界的なテロ戦争の末に崩壊し、8つのグローバル企業に支配されるようになった。アメリカでは、「テッケン財団」が支配し、都市は、限られた富者と強者のための「TEKKENシティ」とその周囲をとりまくスラム街「アンヴィル」とに分割されている。権力は、素手の拳(鉄拳)で勝ち取るしかなく、「アンヴィル」から「TEKKENシティ」に入るには、「The King of Iron Fist Tournament」(鉄拳王者トーナメント)で勝ち残らなければならない。「アンヴィル」から這い上がり、トーナメントで勝ち残る(といっても、そこに屈折したドラマが入る)のが、ジョン・フー演じるジン・カザマだが、屈折があるといっても、そのプロセスは、ドラマとしてもアクションとしても安手である。
それはともあれ、一つわたしが関心を持ったのは、「近未来」のアメリカを支配しているのが、日系のファミリーなのかという点である。それは、製作に日本のバンダイとGAGAが深く関わっているからだというのでは、説明にならない。国際商品としてグローバルに売りさばくことを考えないでこんな映画を作ってもしょうがないから、いまどき日系人がアメリカを支配するという設定にするには、特別の理由がなければならない。さもなければ、この設定は、70年代に高度成長の日本企業がアメリカに進出した話の焼きなおしでしかないと言わざるをえないのだ。かつて世界を制覇したトヨタが、新型プリウスなどのリコール問題で窮地に陥っているいま、日本・日系パワーの強調は、リアリティがない。それとも、原作は2039年に設定されているそうだから、それまでには、また「日本の世紀」が再来するのだろうか?
わたしがわずかに面白いと思ったのは、親子関係だった。これも、いまのアメリカでは非常に特殊なものに映る。いま、アメリカでは(そしてじわじわと日本でも)「親なき」ファミリーがふえている。父親・母親はいても、その存在と機能が変わってしまったのだ。さらに、「ファミリー」という場が、肉体や土地や家屋に根ざした「確固たる」(世代時間のあいだ持続する)ものではなくなり、「ホームレスネス」が一つの習俗になりつつある。こういう状況に対して、この映画で描かれる親子関係は、まだイアン・アンソニー・デイル演じる息子(カズヤ・ミシマ)がケイリー=ヒロユキ・タグァ演じる父親(ヘイハチ・ミシマ)に反抗している。ヘイハチは、父権を維持し、カザマ財団のCEOとして、アメリカに君臨しているというのだから、立派な「古典的」な確たる父親である。他方、父親がいないジンと母親ジュン・カザマ(タムリン・トミタ)との関係も強固であり、ジンは格闘の技をこの母親から教わった。やがて、彼の実父が、とんでもない野郎であることがわかるので、この深い絆で結ばれた母子関係は納得がいくともいえるが、いずれにしても、いまの時代の母親としては強すぎるのだ。とはいえ、その母親が突然殺され、ジンの復讐が始まるのだから、母親の存在を強調しておくことは、演出上、納得がいかなくもない。
アメリカの俳優と監督とスタッフを使い、シュリーブポートのルイジアナ州フェア・グランズに巨大なセットを組んで撮られたこの映画から、親子関係を取り上げて、それが極めて「古典的」だと言われても困るだろうが、わたしは、文句を言っているのではない。面白いと思うのだ。というのは、わたしは、日本の「古典的」な母子関係とりわけ母親と息子との関係には、抜きがたくある種「近親相姦」的なものがあり、「父親の不在」は、むしろ歓迎すべきものなのではないかと思うからである。だから、逆に、息子とまともに向き合う(「ニューファミリー」の)父親の出現は、混乱を起こす。それが、「権威的」に振舞ってくれれば、「反抗」し、「乗り越える」こともできるが、「理解ある父親」であると、「母親」が二人になり、「近親相姦」が乱されるからである。
ストーリを書くと、すぐに崩壊してしまいそうな安手な映画なので、詳しくは書かないが、ジンの父親は、もともとあってなきがごとき父親だった。それが、逆に、あとから「俺がお前の父親だ」と名乗りをあげられたら、混乱する。「父親不在」でうまくやってきたのに、そうでなくなるし、その「存在」が耐えられない重さでせまってこられるのだから、かなわない。おそらく、このへんのことは、この映画よりも、村上春樹でも読んだほうがわかりやすいかもしれない。
(ワーナース・ブラザース映画配給)
4段目ぐらいからグタグタと細かいことを書くので、先に結論的な感想を書く。面白いところは、独特の映画的リズム、音楽の選択のユニークさ、『リービング・ラスベガス』のアルコールをコカインに換えたかのようなエキセントリックな主人公(ニコラス・ケイジ)の道化性といったところ。ハリケーン・カトリーナに襲われたニューオリンズという設定なので、土地の者が知っているニューオリンズともちがうという特殊性・架空性を逆手に取り、土地のけだるい空気がただような独特のリズムを生み出した。台本のレベルでは、アベル・フェラーラの『バッド・ルーテナント 刑事とドラッグとキリスト教』 (Bad Lieutenant/1992/Abel Ferrara) が下敷きになっているが、その「リメイク」とは考えない方がいい。ヘルツォークは、フェラーラの作品を無視したらしい。
この映画のなかで、2度しか顔を出さないが、その強烈な演技において、ニコラス・ケイジをはるかにうわまわる俳優がいた。それは、父親がガルフ・コーストのデヴェロッパーで、マフィアとも太いコネがあると豪語する変態男リックを演じるJ・D・エヴァモアーである。独り言のように、「オー、ヤー」というのが口癖で、フランキーの客になって、彼女に変態的な暴力を働き、それをテレンスに止められると、「オー・ヤー、ビッグ・ミステイク」(要するに、「そうなんだよなぁ、(わかったわかった)高くつくぜ」といった意味)とか言って凄みながらフランキーのマンションを立ち去る。その結果として現れたマフィアが、予想しない偶然であっさりやっつけられてしまうと、このリックは、署にわざわざテレンスを訪ねて来て、まえのことはこれで全部チャラにしたいと言い、例によって「オー・ヤー」を繰り返す。ここは、是非何度も見たいシーンである。
テレンスを脅し、金をゆするマフィアグループのリーダーを演じているのが、この映画の脚本を書いたウィリアム・M・フィンケルスタインだというのも面白い。この人、エミー賞を獲ったテレビの脚本家であり、プロデューサーとしてのキャリアもある人だが、映画俳優としての本格的な出演は、初めてらしい。ほんとかね、別名でいっぱい出ているじゃないのと思わせるくらい見事な演技だった。
アベル・フェラーラの『バッド・ルーテナント 刑事とドラッグとキリスト教』(以下、ヘルツォーク版を「新作」、フェラーラ版を「旧作」と呼ぶこともある)と決定的な違いは、新作の原題 (The Bad Lieutenant: Port of Call - New Orleans) が示しているように、「旧作」では "Bad Lieutenant" に定冠詞 the が付いていなかったのに対して、新作では付いている点である。つまり、「旧作」では、ある意味で〈名もなき〉〈悪い警部補〉であったのに対し、新作では、〈その〉〈悪い警部補〉となり、実際に、テレンス・マクドノーという名前が与えられている。これは、些細なことのようであるが、舞台がニューヨークからニューオリンズに移された以上に重大な変化である。なぜなら、久作の名のない匿名的な「警部補」は、ハーヴェイ・カイテルが個性的に演じてはいても、誰にでもあてはまるということを冠詞なしのタイトルで暗示しているからである。つまり、「旧作」の主人公は、決して「普通」ではない行動をするが、にもかかわらず、彼には名がなく、どこにでもいる刑事のある暗部を暴いてもいるという設定なのだ。
わたしは、『Bad Lieutenant』をニューヨークで見た。そのときのエピソードをたまたま『シネマ・ポリティカ』(作品社)の「あとがき」でちらりと書いているのだが、いかにもニューヨークという作品で、なつかしい気持ちがした。「なつかしい」というのは、まさにこの映画で映されるニューヨークの街路風景が、わたしのなじみの場所であったからである。主演のハーヴェイ・カイテルは、コカイン中毒の「変態」刑事を迫真の演技で見せた。鼻での吸引、スプーンを使ったあぶり、クラック・パイプでの吸引、さらには液化したコカインを血管に注射するといった、コカイン依存の全メニューを生々しく見せ、イギリスを含む国外では、これらのシーンのうち、「露骨」な部分がカットされて上映されたりもした。日本では、(わたしの記憶では)カイテルが性器を露出しているシーンがボカされていたと思う。ちなにみ、カイテルは、その後に彼が出演したジェーン・カンピオンの『ピアノ・レッスン』(1993)でも(こちらはドラッグの果ての状態からではなく、醒めた意識での――ホリー・ハンター演じる聾唖の女性に、「自分もこれだけむき出しにしているのだから、君も心を開いてくれ」という暗黙のメッセージ伝えるために裸になる)惜しげもなくその一物を晒していたが、この日本版では、巧妙なデジタル処理で彼の一物が見えないようにしていた。
今度のヘルツォーク版の「警部補」テレンス・マクドノー(ニコラス・ケイジ)は、ハリケーン・カトリーナに襲われたニューオリンズで、浸水した留置場の鉄格子のなかから被疑者を救出したことで(このへんはあまり明確ではない)背骨を痛め、そのときに医者から処方された鎮痛剤「ヴィコディン」がもとで、コカイン中毒に陥ったという設定になっている。フェラーラ版と比較すると、「わかりやすい」理由が提示されている。ちなみに、「ヴィコディン」は、ヒース・レジャーやマイケル・ジャクソンが過剰摂取し、彼らの死の引き金を引いた薬剤である。しかし、人がなぜ薬物中毒になるかということは、そう単純ではなく、このように最初から明快に理由付けをされると、その後に展開する話もそれほどの屈折はないだろうという予測が立ってしまうのである。
テレンスという人物の描き方は、極めて一本調子である。警察の証拠品として押収したコカインはむろんのこと、証拠保管室にある「オキシコチン」、「ブプレノフフィン」、「ジラウジッド」といった鎮静剤を同僚をだましてくすねたりもする。このへんは、まさに、『リービング・ラスベガス』でアルコールを過剰摂取して死のうと決意したケイジが、これじゃ、すぐ死んじゃうよと思うような仕方で酒類を買いあさる過剰さと似ている。あちらは、エリザベス・シューの息の合った助演もあって、映画としてはなかなか面白かったが、淫するということの表現としては、過剰なワンパターンで、せつなさよりも滑稽さが強調されてしまうのだ。しかし、ヘルツォークとしては、今回のケイジのコカイン中毒者をある種のトリックスター/道化として描こうとしているところがあるから、これでもいいのかもしれない。ラッパーでもあるイグジビッドが演じる、ブラック・マフィアの「ビッグ・フェイト」のところで、クラック・パイプを吸って痙攣的な笑いをするのは、あとで、ビッグ・フェイトをはめるための「演技」でもあったらしいことがわかるのだが、ケイジは、おおむね、この種の型にはまった「中毒」演技しかしていない。
「旧作」の「警部補」には、家族があり、映画は、カイテルが子供を学校に車で送るシーンから始まる。彼はその面では「普通」の生活者なのだ。だが、送ってすぐ、車のなかでコカインをやることによって、その「普通」でないことがわかる。以後、何度か家庭での「不幸」な彼の姿が映り、日常と非日常とのあいだを揺れ動く苦しみと悩みが描かれる。これに対して、新版のテレンスには、家庭はない。アパートはあるが、「生活」はなく、娼婦の愛人フランキー(エヴァ・メンデス)のマンションを訪れるといったところに、わずかに彼の「生活」がある。
「新作」では、テレンスの父親パット(トム・バウアー)は元アル中で、現在「禁酒会」(AA)に通っている。その若い妻ジェヌビエーブ(ジェニファー・クーリッジ)は、いつも手にビール瓶を握っている。テレンスがフランキーを連れてきて、彼女がコカインをやっているのを発見したジュヌビエーブが、「AAに通っている夫のいる家でとんでもないことをしてくれる」と怒り、コカインの袋を破って、床にばらまくシーンがある。最終的に、フランキーは、パットに説得されて更正施設に入る。このへんは、非常に「健全」で、あとの方のシーンでは、彼や彼女ら4人がミネラルウォータで乾杯しているシーンが見える。ただし、このまま「健全」には行かないよという示唆が最後のシーンで示される。が、そうだとすれば、これは、まさに「旧作」の「前史」を描いているとも言えるわけで、「旧作」は、この「新作」が終わるシーンから始まるのであり、テレンスの本当の問題は、この映画では描かれないということでもある。
【「凌辱」的シーンの比較:「新作」】テレンスは、クラブのまえで張っているとき、一組のカップルが出てきたのを追いかけ、駐車場で、ドラッグを所持しているのではないかという誰何(すいか)を行ない、(こういう場合、アメリカだったら、みんな叩けば埃の出るもの)男のポケットから大麻の包みを見つける。女はあわてて、毛皮のマフラーにつけてある宝石を渡して買収しようとするが、テレンスはきかず、麻薬所持で逮捕すると脅す。そのあげく、女が持っていたクラック・パイプに火を着けさせ、女の口から煙を吸い、気分が高揚したところで、女にセックスをさせる。まあ、とんでもない刑事ということになるが、その「陵辱」的シーンがさっと元の車中での張り込みシーンにもどる。このショットは両義的である。つまり、テレンスが事を終えて、また張り込みを続けているとも取れるし、彼はずっと車のなかにおり、すべての「陵辱」シーンは、彼の夢想だとも取れる。
【「凌辱」的シーンの比較:「旧作」】ハーヴェイ・カイテルは、車のなかに未成年の女が二人乗っているのを見つけ、誰何する。免許証を持っていないことを予想しての誰何だ。案の定、彼女らは持っておらず、カイテルはそれをネタに、一人の女に尻を露出させ、もう一人にブロウジョブのような口つきをさせ、両方を見ながら、彼は二人の車の外でマスターベーションをする。「新作」のような直接のセックスではないが、こちらの方がはるかに「悪質」であり、「変態」感が強い。
【テレンスの「幻想」・「夢想」の描写】「新作」では、テレンスがコカインにラリって見たという設定の映像が非常にあいまいな形で挿入される。これ見よがしにもっと「幻想的」にすればいいと言いたいわけではない。が、コカイン中毒者の意識を描こうとしているんであれば、単純すぎると思うのだ。ノミ屋の友人ネッド(ブラッド・ドゥーリフ)に頼まれて娘の交通違反のもみけしをしに行くシーンで、道路で交通事故があり、路上にワニが死んでいる。そのワニを道路際で別のワニがのぞいているというようなシーンは、必ずしもテレンスの幻想ではない。冒頭の水のなかを泳ぐ蛇のシーンのように、洪水のあったニューオリンズに引っ掛けただけなのかもしれない。が、張り込みのシーンでイグアナが出てくるのは、明らかにテレンスの幻想である。また、ビッグ・フェイト(イグジビッド)のところへ乗り込んで来たイタリアンマフィアとの撃ち合いシーン(この映画で唯一のガンファイトシーン)で、イタリアンマフィアがやられると、テレンスが、「もう一発だ、(まだ)魂が踊ってる」と言うシーンがある。すると、死んだはずのイタリアンマフィアの一人(デイブと同じ服装)が床のうえでブレイクダンスをしており、そのかたわらをイグアナが横切る。このへんは、映像の遊びでもあるが、テレンスのラリった意識にシンクロさせた「幻想」表現なのだろう。
【エヴァ・メンデスとゾーイ・ルンド】フランキー(エヴァ・メンデス)がコカインを吸うシーンがあり、常習者という設定だが、「旧作」のゾーイ・ルンドにくらべると「ヤバイ」雰囲気はない。「旧作」のなかで、ルンドが薄汚いアパートで腕をゴムで縛り、注射を打つシーンと、彼女がカイテルの手に注射針を刺すシーンは、尋常ではない雰囲気をかもし出す。イギリスでは、このシーンが問題になり、カットされたものが公開された。ちなみに、ルンドは、ドラッグが原因で1999年に37歳で死んだ。
【「絶望」の深さ】「旧作」のカイテルは、すべてに絶望している。それがなぜなのかははっきりしないが、家庭も警察の仕事もなげやりだ。悩んでいるのは、宗教的なモラルのことらしい。カトリックの環境で育った者が持たされる自責と懺悔がエスカレートしたパラノイア症といった感じ。終わりの方で、不良少年を捕まえて非常に屈折したやり方の「説教」をするシーンがある。そのときカイテルは半べそになり、そして、彼らをバスに乗せたあと、ニューヨークのポート・オーソリティ(バスターミナル)の構内を歩きながら、泣く。余談だが、カイテルは、この泣き方を、この映画のあとに出演した『ユリシーズの瞳』(1995)でも使い、また、『ルル・オン・ザ・ブリッジ』(1998)でもやっている。絶望の度合いの号泣表現としては、『ユリシーズの瞳』のときが一番すごかった。
【最終シーンの比較:「新作」】テレンスは、やがてコカインから「更正」したフランキーと結婚し、子供もできそうだが、テレンスのほうは、あいかわらずコカインを常用し、刑事の特権を利用した「恐喝」の誘惑からも逃れられないらしい。そんななかで、モーテルで一人コカインの粉を吸っているところへボーイが入ってきて、驚く。自分は、昔テレンスに助けられたという。それは、蛇が水のなかを泳ぐ水嵩の増した留置場でわめいていて、テレンスが気まぐれに助けた男チャベス(ニック・ゴメス)だった。彼は、その後、更正施設(「新作」ではけっこう「更正」が問題になる)に入り、いまはホテルで働いているという。この映画の最終シーンは、テレンスとチャベスが、水族館で魚をボケーと見ており、そこにWashboard Chazのボーカル「Mother Died」が流れる。ここは、「虚無的」でけだるい、なかなかいいシーンである。
【最終シーンの比較:「旧作」】若者をバスに乗せたあと、カイテルが、タイムズスクウェアのレストラン(看板に「It All Happens Here」と「777」という文字が見える店のまえに車を止めると、後ろからつけて来たらしい車が横に止まって、いきなり「ヘイ、コップ(おい、警察野郎)」という声がして銃声が響き、車が走り去る。カメラはそのままずっとその車と、通行人が騒ぎ出すのを映したまま終わる。バックには、その銃撃の少しまえから、ジョニー・エイスの「Pledging My Love」が流れている。ずしーんと心にしみるシーンである。この曲は、エルヴィス・プレスリーも歌っているが、あえてジョニー・ルイスにしたところがフェラーラらしい。ちなみに、ジョニー・エイスは、公演の楽屋でロシアンルーレットをやって死んだという。
Forever my darling our love will be true
Always and forever I'll love only you
just promise me darling your love in return
May this fire in my soul dear forever burn
(プレシディオ配給)
ジョニー・トーの作品はいろいろ見たが、この作品が一番気に入った。ジョニー・アリディという「西洋的」要素を加えることによって、ジョニー・トーのもともとの、決して「中国的」などという言葉に還元できないトランスローカルな味が引き締まった。アリディも、単に「西洋人」がアジアに来て「ヨーロッパ的」論理や力をふりまわす(007ボンドシリーズ以来のパターン)のではなく、たまたまアジアに流れ着いた「西洋人」の風体をした人間といった感じで、不思議な雰囲気を出すことに成功している。
同じように、アンソニー・ウォン、ラム・シュ、ラム・カートンの3人の殺し屋グループもいい味を出している。また、普通なら「中国マフィア」的な残忍さと不気味さがただようだけの親分ファン(サイモン・ヤム)も、そういう典型を越えた、エキセントリクなことの果てに生まれる痙攣する笑いのようなユーモアを生み出した。
何度も書いたが、食事や食べ物のシーンを魅力的に描く映画に愚作はない。この映画は、ポイントポイントで食べもののシーンが出てくる。まず、映画は、「平和で裕福」そうな家族写真をアップで見せたのち、すぐにシルヴィー・テステューが食材を刻み、パスタをゆでる鍋の蓋を開け、ソースを煮ている別の鍋をかき回すといったシーンから始まる。これは、どこにでもある光景だが、しかし、この何気ないショットから、料理の「おいしさ」がふわーと伝わってくるような、いかにも食い物にうるさいジョニー・トーならではの作りになっている。そして、子供たちと夫が車で帰ってくるのだが、その数分後、この家は凄惨な場面に変じる。
闇組織の秘密にからんで夫がターゲットになったのだが、フランシス・コステロ(ジョニー・アリディ)は、殺し屋たちの襲撃で瀕死の重傷を負った妹のために、パリからマカオにやってきた。病院の受付で、すぐに妹の名前が出ないシーン、ポラロイドカメラを携行し、写真の余白にメモをするコステロの癖に注意しよう。映画のなかでその謎がすぐ明かされるので、ここでは書かない。いずれにしても、このコステロという人物は、パリでレストランを開いているというが、非常に謎めいているし、現実とのあいだに見えないガラスの壁のようなものを感じさせる男だ。
コステロが一緒に行動するのは、妹一家を襲った殺し屋とは別の殺し屋グループだ。リーダー役のクワイ(アンソニー・ウォン)――中年時代の勝新太郎と三橋達也を合わせたような味――とホテルの廊下で眼差しをかわし合うシーンは、西部劇のスリリングな場面が凝縮されている。勝と三橋を出したついでに言うと、アリディのコステロは、芦田伸介を思い出させる。
契約が成立したクワイたちとコステロとが、惨劇のあった家に「現場検証」に行くシーンが実にいい。殺しの現場を想像しあう4人が、その殺し屋たちと同じ位置に立ち、同じようなポーズをとると、スパっスパっとフラッシュバックが挿入されるのだが、フラッシュバックの使い方としても斬新だ。銃を組み立て合う競争をするとか、銃の登場する映画のさまざまな「定番」シーンが引用されながら、独自の味付けになっている。しかし、妹が夫と子供のために料理をしていた台所を片付け、冷蔵庫に残された食材を使って、コステロがもくもくとパスタ料理を作り、クワイたちに食べさせるシーンは、ほかでは見たことがない。いっしょに食べながら、コステロの過去、3人の殺し屋たちの性格もあらわになる。実にいい。ここにこの映画のすべてがある。
この映画では、家族と無関係なのは、サイモン・ヤムが演じるジョージ・ファンという闇組織の親分だけである。彼は、女をただの所有物のようにあつかい、冷血動物のような目で笑う。おそらく、この人物は、この映画のなかでは、否定されるべき「悪」として設定されているのだろう。その「モラル」は、連帯であり契約であり仁義である。殺し屋のクワイは、コステロがポーンとテーブルの上に投げた分厚い500ユーロの紙幣と高級腕時計(そして「パリの自分のレストランを渡す」という言葉)つまりは金で妹の仇(かたき)を討つことを請合うわけだが、しかし、この映画の魅力は、マフィア映画やヤクザ映画のパターンを引き継ぎ、それを契機に次第に生まれてくる連帯感や仁義を守るモラルの一貫性にある。
トーは、残忍な殺しのシーンをさんざん見せながらも、殺しの根拠を暗示しないではいられない。なぜ彼らは殺すのか? 一つは商売。が、商売であれば、契約を重視する。たとえ自分の「常連」であっても、先に契約した者を優先する。もう一つは、報復。仲間やファミリーを破壊した者は報復される。それは、近代社会では許されないロジックだが、時代劇やマフィア/ヤクザ映画は、その美学で成り立つ。
随所に、トーらしい映像のための映像が登場する。車輪(自転車、子供たちが投げて遊ぶ蛍光塗料のついた輪、そして雨の街頭シーンにひしめくコーモリガサの円)への美学的な執着。射撃練習にゴミ置き場で4人が自転車を次々に撃つと、それが衝撃でいつまでも走り続けるというシーン。クワイたちと、ファンが差し向けた殺し屋たちと撃ち合うシーンで、四角に固めた廃品が盾のように使われるシーン。これらは、トーの美学的な要請で登場する。実際にそんなことが起こりえるかどうかはどうでもいい。
そんなこと「ありえない」といえば、すべて崩壊してしまうような構造によって映画のリアリティは出来ている。映画を見て「嘘くさい」と感じるのは、それが「現実」からかけ離れているからではない。映像の内在的なリアリティにそぐわないからだ。映画は、それぞれ独自の内在的リアリティをそのつど創造しなければならない。「嘘くさい」作品は、単にその創造に失敗しただけである。
マカオと香港を使うが、マカオの街のシーンでは、ふとリスボンやポートの街の一角を思い出させた。そういえば、マカオはポルトガルの植民地で、西欧のアジア進出の先進基地だったのであり、信長の時代に来日したポルトガル人も、マカオ経由で来たのでしたね?このマカオの海岸地帯のヨシズ掛けのような「家」で子供たちと暮らすビッグ・ママ(Michelle Ye ミッシェル・イェ)の子供たちは、みな西欧人との混血に見えるが、マカオの人口の95%が中国系で、残りの5%がポルトガル人などとの混血だという。しかし、この子供たちは、いまの「西洋人」との混血であるはずだから、この暗示は何だろう?
この映画で危機に瀕したり、守られたりするのは、「母親」を核とするファミリーである。「ビッグ・マザー」という名は意味深い。「男」が作るファミリーは、闇組織であったり、殺しの集団である。それらは、ここでは最後には、崩壊する。これは、アジア的な「型」かもしれない。最後のシーンで、コステロは、ビッグ・マザーのファミリーと中国式の食事をする。彼は、「男」のファミリーを作らなかった。殺し屋と連帯はしたが、それは、ファミリーではなかった。いま彼は、ビッグ・マザーのファミリーのなかにいるが、それは、おそらくつかのまのことだろう。彼がそこに定住するはずはない。そんな感じをジョニー・アリディは、見事にただよわせる。
銃に詳しいジョニー・トーの、銃への薀蓄が炸裂する映画だが、この分野に関しては、猛烈なマニアがいるので、知ったかぶりの言及をひかえる。そういうマニアの要求に十分応える作品だと思う。納富貴久男さん、是非見てね。
(ファントム・フィルム配給)
どう違うかに興味があった。山田洋次の『幸福の黄色いハンカチ』は、囚われの身となった自分(高倉健)のことなど、刑期が終えても、留守宅の妻(賠償千恵子)はもう許して迎えてはくれないだろうと思っているのが、半分は期待、半分は不安の観客のまえで、見事に期待通りになるメロドラマである。泣かせるという意味で歴史に残る傑作ではある。しかし、その基本は「忠犬ハチ公」的な誠実さをよしとする感性に訴えるドラマであり、泣かされながら、(もしあなたがわたしのようにひねくれた観客であれば)ちくしょう、まんまと山田のたくみなメロテクニックにはまってしまったと思わざるをえないような作品である。黄色のハンカチが見え、それが1枚ではないことがわかる最後のシーンへの引っ張り方は、見事な映画テクニックである。
ウダヤン・プラサッドのリメイクは、大分違う。山田版では、道化回し役ないしは高倉のドラマの進行役にすぎなかった花田鉄也(武田鉄也)と小川朱美(桃井かおり)という二人のやや芝居がかった人物が、プラサッド版では、もっと具体的な、いまのアメリカにいても不思議ではない、それぞれに時代の波のなかで屈折した意識をいだいている登場人物になっている。花田に該当するゴーディ(クリステン・スチュワート)は、親がネイティヴ・アメリカン(インディアン)で、リザベーションキャンプで育ったという。その風貌と、使い捨てのカメラを足で踏みつけて「アート」的な写真を撮ったりする素行からして、彼が「本当に」そうなのか、それとも、そう思い込んでいるだけなのかはわからない。わたしは、たぶん後者だと思う。「ルーザー」意識が強く、これまで、彼は、何をやっても他人から評価されたことがないと思っている。ドジなことばかりするが、武田の場合は、お笑い的な馬鹿をやっているにすぎないというドタバタ的な印象が強かったが、ゴーディの場合は、見ていてこちらも情けなくなってしまうような運の悪さを持っている。いま、こういう若者は、どこでも多くなっている。他方、武田が演じた花田のような青年が、あの作品が公開された1970年代の若者意識を体現していたとは思えない。むしろ、逆に浮いた存在に見えた。高倉健の場合も、それ以前にさんざん「任侠」映画でなじんでいた高倉が現代ものでこういう役をやるという映画的な意外性が新鮮だったのである。
おそらく、日本では、プラサッド版の最後のシーンを見て泣く者はあまりいないのではないだろうか? 山田版の場合は、あらかじめ高倉が妻に手紙で、そのなかで「もし、お前がいまでも独り暮らしで、俺のことを待っていてくれるなら、庭先の鯉のぼりの竿の先に黄色いハンカチをつけておいてくれ。ハンカチがなかったら、俺はそのまま夕張を去ってゆく」と書いたことが明かされる。そのあげくの「黄色いハンカチ」なのである。これに対して、プラサット版では、そんな説明はない。ただ、一度は獄中で離婚届を渡してしまった妻のメイ(マリア・ベロ)がひょっとしたら待っていてくれるかもしれないというウィリアム・ハートの態度が示唆されるだけである。が、それなのに、なぜ「イエロー・ハンカチウーフ」なのかというと、それは、アメリカの一般認識を知る必要がある。
アメリカでは、「黄色のリボン」は「国民的シンボル」である。それは、愛する人や兵役で出兵した兵士が無事帰還することを祈願し、待つことのシンボルなのである。それがいつごろから始まったのかについては、諸説ある。南北戦争以来という説は、最近くつがえされ、1950年代の中頃というのが妥当ということになったらしい。フォークロア学者のジェラルド・E・パーソンズによると、1959年に出た刑務所改革の本に、「イエロー・ハンカチウーフ」とそっくりのフォークロア(口承伝説)が載っているという。5年の刑を受けた者が、その近親者や友人に、もしその自分を許し、受け入れる気持ちになったら、家の近くの鉄道駅の立ち木に「白いリボン」を掲げておいてくれ、もしそれが見えたら、列車を降りる、そうでなかったら、そのまま通過する・・・という約束をした。そして、5年後、男は立ち木に「白いリボン」を発見し、泣くという話だという。「白」が「黄色」になる過程にも、色々な要素が介在しているという。
ピート・ハミルの「原作」("Going Home")以前に「黄色のハンカチ」が「黄色のリボン」の代わりに使われた例があるのかどうかはわかないが、「黄色のハンカチ」は、帰還を受け入れるシンボルになっていた。ハミルのストーリーが「ニューヨーク・ポスト」に「実話」として発表された時期は、1971年、つまりベトナム戦争の時代であり、アメリカの各地で「黄色のリボン」が掲げられていたのだ。わたしも、湾岸戦争やイラク戦争の時期にアメリカでそれを見たことがたびたびある。だから、(まして、いまだにイラクやアフガンでの戦死者がいるアメリカでは)最後のシーンで、黄色のハンカチ(わたしには旗のように見えた)が、はためくのを見れば、「待っていてくれた」ということが即わかり、その解説はいらないのである。だから、アメリカの観客は、ここで泣くかもしれない。
山田版は、ひたすら「待ったいる」という作品になっているが、プラサット版は、必ずしもそうではない。マリア・ベロが演じるメイという女性は、島光枝(賠償千恵子)よりもはるかに屈折しており、はたから見ていると、ブレット(ウィリアム・ハート)にとって「最良」の相手であるかどうかは疑わしいような気さえする。メイは、船のセールスの仕事をしていて、金には困らないらしいが、どこかで自分を責めているような情緒不安定で、ブレットの愛を素直には受け止められない。だから、ブレットの側からすると、刑期を終えて出獄したときに、彼女が待っていてくれるとは期待できないのである。だから、最後のシーンで彼女が彼を一応待っていてくれたことがわかるが、そのあいだに彼女がどのような紆余曲折を経験したかを思うと、今後、二人がうまくいくかどうかが危ぶまれもする。山田版では、そういう不安は起きない。
そういう意味で、ブレット版の登場人物は、どれもそれぞれに屈折していて面白いのだが、そういう3人の個性ある登場人物を配しながら、この映画は、せっかく切り出した登場人物の要素やエピソードをほとんどみな放り放しにする。観客に考えさせると言えば、そうとも言えるが、それにしては言葉足りずという感が否めない。冒頭のシーンで、ブレットが、カフェに入ってビールを飲み、ノートに日記を書くシーンで、「2007年8月・・・」という日付が見えるので、この映画は、むしろ、フレッドという男と二人の新しい「仲間」を登場させながら、2005年8月のハリケーン・カトリーナで破壊されたニューオリンズの人々の心に残された傷を描いていると見た方がいい。3人が車で移動するなかで見える荒廃した風景、そこには多数のトレーラー生活者が見え、ドジをやったゴーディにキレる男も、トレーラ生活をしている。
(松竹配給)
限られた予算(500万ドル――ちなにみ『アバター』は2億3700万ドル)で短期間(33日)に製作された出来の「安さ」は否めないが、生の出演部分はほとんどサム・ロックウェルの一人芝居に限定し、「同じ金額で最大の効果」をあげるように工夫されたVFXとCGの使用(と監督が言う)、エネルギー資源やクローンテクノロジーの問題への鋭い洞察とが、映像の「安さ」を補って余りある。
時代は近未来。サム・ベル(サム・ロックウェル)は、月面にたった一人で滞在し、「ヘリウム3」を地球に送る仕事に従事している。ほかにこのような労働者がいるのかどうかはわからないが、彼は、この仕事をたった一人で行っている。ロボット(といっても「人型」ではない)があらゆる手伝いをしてくれるが、地球にいる妻と娘とは無線によるモニタースクリーンを通してしかコミュニケーションを取っていない。月でこの仕事に従事する期間は3年で、もうじき地球にもどることになっている。しかし、そんなある日、月面を移動する掘削機を操作中、事故を起こしてしまう。気づいたときには、自分は、傷を負ってベッドに寝ている。ここから、奇妙なことが起こりはじめる。
この映画には、最初から謎が多い。実際に事故があったのか、あったとしたら、誰が基地ステーションに連れてきたのか?「ロボット」はステーションの外まで移動できそうにはない。月で作業するほど技術が進歩しているのに、なぜ、映画に見える道具類はいまの時代と比較しても「古」びているのか? 妻子と連絡を取るモニターに移る映像はなぜモノクロなのか? ロボットは、これも、一時代まえの工業用のロボットのような外観をしている。
にもかかわらず、この映画がリアリティをもっている理由として、まず、今後エネルギー資源を地球の外に求める可能性があることがまず挙げられる。石油はあきらかに末期症状だ。それは、枯渇が始まったからではなくて、その処理と運用にコストがかかりすぎ、またアラブ諸国との政治関係のめんどうくささにうんざりする傾向が出ているからである。代替エネルギーとして、太陽エネルギーは一つの代案だが、独占がしにくいエネルギーであるために、独占と支配を理念とする諸勢力は、これを好まない。とすると、地球外の惑星を「植民地化」し、そこからエネルギーを得る方が、これまで宇宙開発に投資してきた国(その最たる国がアメリカ)には都合がよい。
もう1つ、この映画が面白いのは、労働の形態の変化をなかなか批判的にとらえている点だ。いまの傾向がこのまま進めば、労働は、この映画のサムのように、ロボット的な機械の助けを借りながらたった一人で行う孤独な作業になる傾向がある。すでに、この30年間に、バスの運転ひとつとってみても、「ワンマン」の作業になってきた。すでにいま現在、わたしのように、コンピュータのモニターに向かって、たった一人で作業をしている――しかもその結果が、単なる文字の連鎖ではなく、会社や工場や国家を動かすような規模の仕事をそれぞれに孤立した状態でやっている――人が無数にいる。この傾向は、今後も変わることはない。映画のサムは3年間だけだが、一生そうであるような状態も起こりえる。ある種の「独房」生活、生活と労働の場の「刑務所」化は、すでに起こりつつある。
サムは、負傷したベッドで、自分の「クローン」に出会う。これは、彼の幻想ないしは妄想と受け取ることもできるし、「現実」と受け取ることもできる。月を植民地化できるような時代には、クローン技術も進むだろう。単純労働をさせるのだから、どれをとっても「同じ」クローン人間(どこにでもある「サム」という名前はお似合いだ)をたくさん作り、3年ごとに使い捨てすることもできるだろう。しかし、それだけなら、この映画は、近未来のテクノロジカルな「抑圧」を皮肉に描いたにすぎない。
面白いのは、わたしには、この映画は、「拡張現実」(Augmented Reality=AR) の理解のうえで作られているような気がする。すでに、『サロゲート』のところでも書いたが、ポストVR技術であるARは、すでにさまざまな現場で使われている。もし、月面から資源を採掘するというようなことになれば、生身の人間を月に送るよりも、AR技術を使ってヴァーチャルな人間を月に「リモート派遣」する方がコストが安いし、安全である。この映画を、そういうARシステムの話だと考えると、すべてのつじつまが合うし、先述した「謎」の大部分が氷解する。
日本で毎年開かれる「産業用ヴァーチャルリアリティ展」でも見ることができるが、年々そうしたシステムがスクリーン上で構築するヴァーチャル像は精巧の度を増してはいるが、逆にあまりに「本物」そっくりだと、コントロールしにくくなるので、ある種の「単純化」が行われる。ゲームの「アヴァター」のように、かえって戯画化されている方が、それを「敵」とみなしやすいし、ある程度幾何学的に整理された空間の方が戦闘もしやすいのだ。だから、実際にイラク戦に派遣される兵士たちが学習用に使っているARシステムでも、技術的には、いわば『ハート・ロッカー』なみの生々しさの3D映像の環境を作ることができるのに、逆に、『カールじいさんの空飛ぶ家』や『コララインとボタンの魔女』ぐらいのデフォルメをして、「簡素化」するのである。
ARのシステムで面白いのは、ARは、「現実」に代わる「現実」(ヴァーチャルな「現実」)を作ることが出来るが、そういう「現実」のなかに身を置く当人(あなたがそのシステムを操作する場合なら、「あなた」自身)を見たり、触ったりしようとすると、そのシステムは、アナログのカメラを自分の方に向けるのとは違い、あなたの(デジタル的に)変容可能な「クローン」を作るのである。つまり、あなたは、自分と「そっくり」のヴァーチャルな「あなた」をそこに見ることができるし、また、それを変形して怪物のような別の「あなた」に変えることもできるのだ。「素材」はあなた自身だとしても、ARの装置は、あなたを複数化したり、変形したりすることが出来る。だから、この技術は、「拡張された」(augmented)という形容詞を持つ。それは、分子生物学的な「そっくりさん」である「クローン」の技術とは違う。
この映画をARの「トラブル」の話として受け取ると、生身のサムは、地球にいて、ARのシステムを操作していてもいい。月には、彼の「拡張現実」としてのヴァーチャルな(つまり「実質的virtual」にはサムと同じ)「サム」がいる。システム的に、このヴァーチャルな「サム」は、代替可能であり、複数化も可能だから、そのヴァーチャルな空間のなかで、この映画のような、2人のヴァーチャルな「サム」同士を出会わせることも出来る。あるいは、システムのトラブルで、ヴァーチャルな「サム」が二人生まれてしまい、そのあいだで混乱が起こることもありえる。これを、キャメロンのように、いかにも旧時代のVR技術の産物であるヴァーチャルな「人間」(だから確信犯的に「アバター」と名づけているわけではあるが)にしてしまうと、面白みがない。この映画は、逆に、環境の方をゲーム空間のようにし、そのなかを動く「人間」を(生身の俳優を使って)「生々しく」したところがなかなかだと思うのだが。え?そんなに考えて作ったなじゃないって?!「俺、ARなんて知らないよ」とダンカン・ジョーンズに言われてしまえば、終わりだが、監督の意図や意思を越えて考えられるような映画が、面白い映画だとすれば、この映画は、かなり面白いのではないか。
(ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント配給)
「いい話」だと思う。「わかりやすい話」だと思う。サンドラ・ブロックの得意な「強気の女」の演技がいかされていると思う。クイントン・アーロンは、幼少時から不幸な人生を歩んできた巨体の少年の意識のなかに埋め込まれた屈折を体現したと思う。脇役も悪くない。しかし、これって、富豪のエクスキューズじゃない、という気持ちが最後まで残った。アメリカの富豪は、寄付や貧民救済などの「社会貢献」をするのが「まっとうな」社会的ジェスチャーである。自分が富を得たのだから、それを他に分け与えるのが当然だと思ってやっている富豪もいるだろう。しかし、多くの富豪は、富豪であることへの反発を回避するためにしている趣がある。
実話にもとづくというが、実在のマイケル・オーアーは、リー・アン・テューイ(サンドラ・ブロック)の家に引き取られるまえに、いくつかの家を転々としてはいたが、この映画の解説で言われるような「ホームレス」ではなかった。まあ、本当の「ホーム」がなかったという意味ではそうだったとしても、浮浪者ではなかった。フットボールの才能も、この映画ではまるでテューイ家に来てから開花したかのようになっているが、それ以前から才能を発揮していたらしい。つまり、この映画からただよう「まてよ」感は、話を単純かつわかりやすくしているところにある。「こんなことがあったらいいだろう」という気にさせながら、どこか「うますぎる」という気持ちを起こさせるのだ。これでは、まるで、マイケル・オーアは、「野生のゴリラ」で、それがリー夫人とその一家の「愛情」ある「調教」によって「アメフト全米代表のスター選手」に成長するかのようである。
セコイと思うのは、この映画は、こうした批判を先取りして、そのドラマのなかで予防線とアリバイを張っている点だ。映画のなかで、リーの友人の金持ち夫人たちが、「なにもそんなことまでしなくてもいいじゃない」、「それって、白人であることの罪悪感じゃないの?」という意味のことを言い、基本的に「キリスト教的慈善」である彼女の行為を、その典型とは見られないようにしている。たしかに、アメリカの富豪がみんなこういうことをやれば、アメリカは変わるだろう。しかし、そんなことをしたら、富豪であることができなくなるはずだ。なぜなら、彼や彼女たちの富は、貧民の存在によって「保証」されるのであり、彼や彼女らが競争と効率と格差の原理に従って、行動しているからこそ、富豪であり続けることができるのだからである。
ひどいと思うのは、マイケル・オーアーの母(クラック中毒)が住むメンフィスのスラム街の描き方だ。そもそも、ここに限らず、スラムは、犯罪者やルーザーたちが寄り集まって作った街ではない。開発や商業化のしわよせによって、かつてはそうでなかった場所がそうなるのである。スラムは、リッチな連中が侵入してきて開発をするなかで、そのしわ寄せとして生まれる。そういうものが生まれなくするには、まるごと地上げしてしまうという方法だ。だから、スラムは、そういうまるごとの地上げ的な開発ができなかった証しでしかない。むろん、丸ごとの地上げをすれば、貧民は、まさに1970年代のニューヨークで起こったように、果ての果てに追いやられ、その場所が新たなスラムになる。
メンフィスは、キング牧師が銃で撃たれ、死んだ場所でもある。牧師は、このとき、低賃金と待遇の改善のためにストライキをうって闘っていた市の清掃労働者の組合を応援するためにこの地におもむいた。映画のなかで、スラム街に単身入って行き、薬の売買などをやっている黒人(アイロンイー・シングルトン IronE Singletonが実にいい演技を見せる)に脅されると、「あたしは全米ライフル協会の会員ですからね」と居直るが、これは、悪い冗談である。というより、これは、「あたしは、共和党キリスト教右派です」と言っているようなものであり、マイケル・ムーアが『ボウリング・フォー・コロンバイン』で全米ライフル協会の会長だったチャールトン・ヘストンをからかったのとは、正反対の立場である。ただし、このへんも、この映画は確信犯であり、マイケルに奨学金を取らせるために猛勉強をさせるべく雇った家庭教師(キャシー・ベイツ)に、「わたしは民主党支持ですが、いいですか?」とう意味のせりふを言わせ、リーが共和党支持であるが、民主党の人間も許容できる度量の広い人間であるかのごとき布石をする。
(ワーナー・ブラザース映画配給)
この作品は、シェーン・アッカーが2005年に発表し、アカデミーの短編アニメーション部門にノミネートされた10分たらずの短編(YouTubeで見ることができる)を発展させたものである。短編の段階で、麻布生地 (rag) の人形たちと、彼らを襲う機械仕掛けの怪物という構造やデザインはすでに出来上がっていた。しかし、この時点で、その人形が人類の終末に望んで、人間(科学者)が自分の生命を吹き込んだ「ロボット」であり、人間の生命を継続する使命を負っているという設定になっていたかどうかはわからない。いずれにしても、短編の段階で基本となる絵柄/デザインが出来上がっていたとはいえ、本作で示されたアニメーション技術とセンスは、天才的な感じがする。
冒頭のナレーションで、「われわれは、われわれの賜物、われわれの知性を浪費した。テクノロジーの盲目の追求は、われわれを急速な破滅のためにしかつかわれなかった。われわれの世界は終わりつつある。だが、生命は行き続けなければならない」という、いささか哲学的な言葉が語られ、麻布/針/糸という手触りのするものと、電気、機械、そして廃墟と化した街、死に絶えた人間といった終末論的風景とが鋭い映像で姿をあらわすとき、わたしの期待はいやがうえにも高まった。機械というイメージに、布という、「肉」ほど生々しくなく、といって「木材」ほど無機的ではない、つまり「機械」と「人間=肉」との中間素材を選んだのも見事だ。
人形たちが、廃墟に残された活字の資料やデジタルのデータを復活させて、人間の破滅にいたる歴史を読み解くプロセスも面白い。とにかく、そういう映像の質の高さはこれまでのアニメのなかでも郡を抜いている。だが、そうした映像の質の高さが最後まで続き、「9」という数字の神秘主義な謎解きも披露されるとしても、哲学的な含蓄はそれほどでもなく、基本は、またしても怪物との闘いのサスペンスのように見えるのは、残念だった。質の高い映像は、哲学的な深さの結果ではなくて、デザイン的なひらめきの結果にすぎなかった。
ある意味で、さまざまなオブジェや機械は、デザイン的に巧みに組み合わされているが、その見かけほどには、そのアレンジメントに複雑さはないのである。人類を終末に導いた原因は、映画のなかで読み出されるホログラフィー的な記録映像によると、どうやら、ヒトラー的な独裁者の専制であり、核爆弾の爆発や細菌兵器によるものであるらしいことが推察できるが、そういう「人類終末」は、もう見飽きたし、現実には起こりえない。これまで、くり返しこういう人類終末のパターンは描かれてきたが、本当の終末は、実は、こんなには「劇的」ではないというのが、いまの考え方だ。人類が滅ぶとすれば、世界戦争によってではなく、何も破壊されないまま、人間が「廃人」になるにちがいない。
この映画では、人間の知性と魂を引き継いだ麻布人形たちは、その知性をまたしても、怪物との闘いのために使わなければならない。これでは、人間の歴史のくり返しではないか? それは、またしても、知性の浪費ではないのか?
その意味では、麻布人形は、まだ「人間」なのだ。まさに、ジャン・ボードリヤールの事実上の「絶筆」となった『なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか』(塚原史訳、筑摩書房)で記述されている「人間が消滅したあとの世界」にいきる「人間」つまりは現代人なのである。われわれは、いわば、生きながら(死んでいるのではなく)「消滅」している。
ボードリヤールは、われわれは、「われわれ人間がいない状態を見たいという、詩的誘惑を感じている」と書く。まさにこの映画がその具体化である。もはや「何も消滅しない」世界、「オリジナル」はなく、反復と複製しかない世界、「ネガ[フィルムと否定性とをかけている]からの解放」の世界、複製されたロボットの世界だ。
この映画の世界には、まだ「闘い」がある。つまり、「悪」がある。しかし、われわれの世界ですでに始まりつつあるのは、「悪」が消滅し、「対立」や「抑圧」が人工的にしか存在しえない世界である。かつて「知性」とは、批判と反省と否定性の作用だった。が、その知性が終焉するとき、そうした否定の「動力バネは消滅する」。もし、この映画の冒頭で言われるように、「知性」が終焉し、それが、麻布人形に受け継がれたのなら、彼らが、かつて人間が行ったと同じこと、つまり「否定性」にもとづく振る舞いをし、「闘う」のは当然である。そう意味では、この映画は、非常に深い皮肉を含んでいる。人間は消滅する、だが、人間は行き続ける、愚かに。
(ギャが配給)
これは、実にパワフルな映画であり、社会の底辺にいる者、弱者にされている者をずばりとらえた映画であり、そこからの脱出の鍵をあたえる映画である。家族から疎外されている点でも、主人公(こちらは女だが)の体型においても共通点がある『しあわせの隠れ場所』と見比べるならば、この作品の強烈さが倍加されるだろう。出来れば、アカデミーの「作品賞」、「監督賞」、「主演女優賞」(ガボレイ・シディベ)、「助演女優賞」(モニーク)のどれかでも獲らせたい作品である。
全編が、16歳のアフリカン・アメリカン(通称「黒人」)の少女クレアリース・「プレシャス」・ジョーンズ(ガボレイ・シディベ)のモノローグのようなナレーション、現在形の映像、フラッシュバック、願望の映像がたくみな編集で構成されている。彼女は、字が読めない。16歳まで何をやっていたのかと思うかもしれないが、アメリカではそういう例はよくある。日本の平均にくらべれば、識字率は低い。貧しくて、学校に行けない者もいるし、行っても悪循環でどんどん落ちこぼれて行く者がいる。格差は日本の比ではない。超リッチ、超エリートと超プア、超不幸が同居する。そして、この映画には、貧困者層の家庭内暴力、家庭崩壊、校内暴力、貧困、福祉制度への寄生、未成年少女の妊娠、エイズといった問題が鋭く描かれる。
アメリカは、つねに国内に「開発途上国」をかかえている国である。そういう形で移民と貧民の労働力を獲得して生きながらえている。ここでは、アメリカン・アフリカンの家族が描かれているが、16歳の主人公プレシャスは、母親からは虐待され、父親からはレイプされ、子供まで生み、さらに現在またも父親の子を身ごもっていながら、母親と暮らしているというとんでもない状況のなかにいる。こういう家庭では、父親が早々とどこかへ行ってしまうとか、薬物中毒にかかって死んでしまうとかいうケースがかなりある。プレシャスの父親も、家にはいない。毎日、寝るかクラックを吸うか、テレビを見てソファーに寝そべっている母親(モニーク)が、プレシャスをとどめておくのは、彼女が学校に行っていれば、生活保護を受けられるからだ。モニークが迫真の演技で演じるこの鬼婆的な母親は、自分の夫をおまえが奪ったと口癖のように言い、プレシャスを虐待するが、プレシャスは、反抗せずに彼女の命ずるままに料理を作ったりしている。こういう設定だと、いずれは、彼女が母に反抗し、殺すとか劇的な反撃が始まるというハリウッド映画的な期待をいだくかもしれないが、単純にそうは進まない。現実はそんな簡単ではないし、そんなことをしてもこの状況はまったく越えられない。
すべてが、単純な構図ではない。「悪い」父親や母親がいて、「善良」な娘がいるわけでもない。「悪い」のには理由があるし、むしろ、社会的条件がそれを生んだのだ。どうにもならない状況のなかで、彼や彼女らは、生き延びる方法を見出す。それが、姑息であっても、そうするしかないからだ。だから、こういう状況を抜け出すには、奇跡が必要だ。それは、どこから来たのか。そのへんは、月並みだといえばいえるのだが、人との出会いからである。もしプレシャスが、妊娠がばれて中学から「特殊」な生徒ばかりが行く「オールタナティヴ・スクール」に行かされたときにブルー・レイン(ポーラ・パットン)という教師に会わなければ、彼女は変わることができなかっただろう。ただし、その関係は、『しあわせの隠れ場所』におけるクイントンとリー夫人との関係とは根本的に違う。
この映画は、どの俳優もみな決まり役であるところが凄い。シディベ、モニークしかり、スーパー・スターとしてのバックグラウンドを全く感じさせないで一介の厚生員を演じるマライア・キャリーもそうだ。が、登場した瞬間からその役になりきっているのは、ミズ・レインことブルー・レインを演じるポーラ・ハットンである。彼女は、『デジャヴ』でもすばらしい演技を見せていたが、ここでは、やっかいな生徒をかかえながら、まったくめげることもなく、といって「キリスト教的使命感」やチャリティのような意識でこの仕事をしているのでもない――ちなみに、彼女はレズビアンである――女性を、役に共振したような存在感で演じている。とにかく、彼女のクラスの生徒たちが半端ではない。プレシャスは問題児だが、もっと殺気立っていて、何をするかわからないような女の子ばかりだ。ふてくされ、教師の質問にまともに答えようとしないのもいる。しかし、レインは動じない。「わたしは教えることが大好きだからここにいるのです」と言う。これが、「チャリティ」精神ではないところから発していることがわかるので、納得する。
「ツワモノ」の女たちにレインは、自己紹介のために、名前と好きな色を言わせる。これは、いいアイデアだ。日本の大学生も、このクラスの子たちのような暴力性や肉体性は希薄でも、どこかで自分や社会に対して投げやりになっている点で共通している。このクラスの子のようにどぎつい言葉を発したりはしないが、その沈黙のなかで同じことを言っている。その意味で、レイン先生のやり方は、参考になる。
だが、日本の場合は、この映画が描く世界のように、無知なるがゆえに不幸に陥っているわけでもない。識字率やある程度の教養は満たされているにもかかわらず、孤独や疎外感をいだいている者が多い日本の場合、教育者に出来ることは少ない。教育は、まだ「近代」が残っている世界でしか通用しないのではないか? この問いは、あきらかにこの映画を越えている。ほめ過ぎたので、あえてアドルノ流の批判を加えるならば、この映画は、「近代」という枠のなかで感動的な作品になった。教育が、メディアとともに拡大されたソフトな支配と管理と一体化したポスト近代の位相のなかでは、その社会の不幸を教育で救うことは出来ない。それは、ソフトな支配と管理をさらに多重化し、深化させるのに役立つだけだ。言い換えれば、日本では、こういう映画は絶対に作れないし、作っても絵空事になってしまう。ここが面白いといえば言えるし、不幸すぎるとも言える。
【追記/2010-04-23】ポーラ・ハットンが演じる先生「Ms. レイン」は、ひたすらプレシャスに文字を書くことを教え、薦める。彼女と会って間もないとき、プレシャスが、オフィスで個人的な指導を受けるシーンがある。クローズアップで映されるハットンの口と声が、いつもプレシャスを罵る母親(モニーク)の姿とダブる。つまり、声は、プレシャスにとって母のものなのだ。それをどう越えるかが、彼女が母の拘束と暴力から逃れる鍵を握るのである。それは、「話す」から「書く」への飛躍だとこの映画は考えている。プレシャスが、HIVのポジティヴであることが判明し、絶望の極みに達したとき、レイン先生が言うのも、「書きなさい」(write)なのである。クラスで課題の作文を一行も書けないプレシャスを不審に思った先生にプレシャスがHIVのことを告げ、クラスの全員が驚愕し、同情するシーンである。最初、男友達からエイズをうつされたのではないかと思ったレイン先生に、プレシャスは、それは自分の父親からうつされたものであることを告げる。が、その衝撃的な事実を知り、「愛なんてないんだ」と叫ぶプレシャスに、レイン先生は「あなたのベイビーこそが愛なのよ」と言い、涙を流しながら「書くのよ!」と言う。この映画の一つのクライマックスであるが、しかし、「書く」ということをこれほどまでに重視するのは、やはり西欧的ロゴセントリスムではないか? フロイト的な精神分析は、語り出すことが解放だと考えた。書くことが解放であるとするのも、その延長線上にある。文盲=非解放/非文明/不幸、識字=解放/文明/自由という構図では、どうにもならないような気がする。
(アスミック・エース配給)
ヴァンクーヴァーのオリンピックのニュースや実況ばかりがとびかっているので、うんざりしている時期に見たので、印象がよくない。そもそも、わたしはスポーツをテーマにした映画を論評する資格がないのだ。スポーツが大嫌い、というより、(スキーもスケートも山登りも多少はやったことがあるのだから)スポーツを映す/報道するテレビや新聞の単一なやり方が嫌いなので、その延長線上にあるような映像を見せられると、うんざりしてしまうのだ。わたしには、この映画のローラースケートの競技シーンの映像に、全然新鮮味を感じることができなかったのだが、いかがなものだろうか?
しかし、この映画は、ローラースケートの実況を映す映画ではない。それは、コアではあるが、それをめぐる16/17歳の娘ブリス(エレン・ペイジ)が、ちょっとしたことで背中を押されて変わる物語であり、親子関係の物語でもある。が、『ハードキャンディ』でわれわれを驚かせ、『JUNO/ジュノ』で早くも「円熟味」さえ感じさせたエレン・ペイジがこの映画でさらなる飛躍を見せたかというと、そうは言えない。彼女にとってあまり得にならない作品ではないか?エレン・ペイジに一本気の娘を演らせるのは、もったいない。
ドリュー・バリモアの初監督作品とのことだが、幼いときに俳優としてデヴュー(『E.T.』や『炎の少女チャーリー』の演技は忘れがたい)したが、思春期にはドラッグ問題などで苦労した彼女が初めて監督し、しかも10代の娘を主人公にしたドラマを撮ったわりに、彼女自身が10代に経験した苦しみや屈折がほとんど生かされていない作品である。
若い男の子がたくさん集まって子供じみたことをするとき、「ボーイボーイ」という蔑称が使われるが、この映画のローラースケートチームは、いわば「ギャルギャル」状態の女の子たちである。女が集まって、男など問題にしない勢いをずばっと見せた映画としては、ジョナサン・カプランの『バッド・ガールズ』(Bad Girls/Jonathan Kaplan/1994)が思い出される。ここには、ドリュー・バリモアも4人組の一人で出ており、今度の映画よりも、はるかに面白かった。
何が問題かというと、ありがちなパターンを踏みすぎているのだ。親子のすれちがいというのはどこにでもあり、映画で使われる定型の一つだが、「美人コンテスト」で娘を優勝させたいという(ちょっと思い違いの)母親(マーシャ・ゲイ・ハーデン)とのすれ違いは先が読めてつまらない。その母親をあの、目つきに険があり、いかにも「思い込んだがあきらめない」という感じのマーシャ・ゲイ・バーデンが演じているのだから、なおさらである。妻に逆らわない夫・父を演じるデニエル・スターンの起用もあまりに想定内すぎる。
悩んでいる人間がいると、忠告してくれる先輩がいるというアメリカ映画の古典的パターンも、非常に素朴な形で取り入れている。ローラースケート・チームのマギー(クリステン・ウィグ)がその役どころである。年齢がずっと上で、シングルマザーをやっていることがやがてわかるというのも、新鮮味がない。
テキサス州のボディーンという小さな田舎町という設定だから、まるで50年代(これは、ブリスが母親の保守的な態度に言うせりふでもあるが)に返ったようなモラリズムと世間体を気にする人々ばかりというのは、わたしには、信じられないし、あえてそういうことを強調されると、あらかじめ意図があるのではないかと思ってしまう。大体、最近のアメリカ映画のなかには、セックスなどに関しても変にモラリスティックなことを言うのが増えてきたような気がする。『しあわせの隠れ場所
』などはその典型の一つである。
ただし、ドリュー・バリモアが嫌いではないわたしとしては、この映画の深~い意味を深読みしてみたい。それは、タイトルにある。それは、原作(ショウナ・クロス)からのものだが、"whip it" とは、俗語では、コカインやクラックを調合するという意味だ。とすれば、若いときこの分野でさんざん苦労したドリュー・バリモアとしては、10代の若者に対して、この映画とそのタイトルによって、「薬物なんかやるのなら、スポーツをやった方がいいよ」というメッセージをあたえているのかもしれない。まあ、薬物に耽溺する者は、もともとドーパミンを自力で出す能力に欠けているという。想像したり、思考したり、映画や音楽に接するだけで、脳内快楽物質を分泌できるなら、薬物なんかいらない。そして、そういう自力能力に欠ける者が、一時的で安易すぎる薬物などに頼る(しかもそれに頼れば犯罪者にされてしまうことが多い)よりは、スポーツにはまる方が「安全」だということはできる。しかし、本当は、たとえドーパミンを自力で分泌することが出来ない人間でも、外部からあせらされることがなければ、薬物などにははまらない。つまり、興奮的に「楽しい」ことをよしとする文化・習慣が強くなくて、鬱や元気のない状態の者も容認する社会なら、薬物はおろか、スポーツもいらないのである。
(ギャガ配給)
かつて冷戦がまだ続いていた70年代の初めのころ、畏友だったポール・ピッコーネは、へたな政治論文より「007」シーズのほうがはるかに米ソ関係をとらえていると言ったことがある。ポール・グリーングラスは、オリバー・ストーンやマイケル・ムーアのように、自分を「政治映画」の作家だとは決して自称したりはせず、むしろ、この映画についても、「イラクを舞台にしたサスペンス」だと言うが、どうしてどうして、その政治感覚はそんじょそこらの「政治映画」を自称する作家よりもはるかに高い。彼は、現実の政治を批判する「政治映画」などというものが、ハリウッドや、そのグローバルな観客ネットワークのなかでは存在しえないということを承知している。商業映画の世界では、「批判」の身ぶりで描かれようが、それは、所詮エンタテインメントとして消費されるのであり、まさにその点こそが政治的なのだ。基本的に「面白く」なければ、商品にならないから、戦争自身が持つ退屈さや馬鹿ばかしさをストレートに感じさせるような「戦争映画」は作られない。作った者はいないわけではないが、公開には至らないのだ。ならば、権力の手口にはこういうのがあるとか、組織のなかには「こういう奴には気をつけろ」といったことを「面白く」教えてくれる作品のほうが、へたに「反戦」や「反権力」のせりふや身ぶりをむなしく繰りかえすよりもはるかに政治的なわけである。
この映画は、基本的に、疑問に思ったら、組織であれ、上司であれ、自分の信ずるままに行動し、やるだけやってみろということを言っている。マット・デイモンが演じる陸軍上級准尉で、イラクの大量破壊兵器の探索のための「MET隊」(Mobile Exploitation Team Delta)の隊長ロイ・ミラーは、そんな男である。ある意味で、アメリカで受けるタイプであり、これまでも多くのアメリカ映画のヒーローの一つのパターンとなってきた。アメリカでは、初めに何かをやった人物(パイオニア)や独立独歩の人間が尊重される。だから、アーティストであれ技術者であれ、引っこ抜かれればアメリカに行ってしまう。仕事のやりがいがあるからだ。しかし、ロイ・ミラーは、イラクに派遣されて、一体何のために俺がここに派遣されたのかという思いをさせられる。ここで、(あえて比較のために単純化するが)「仕方がないか」とあきらめるのが「日本人」だとすると、アメリカ人は簡単にはあきらめない。「ふざけんじゃねぇよ」と反逆するのだ。
この映画は、「大量破壊兵器」が存在するということでイラクに攻め込み、それが実は、チェイニー/ラムズフェルトを表の立役者とするブッシュ政権のネオコンたちの「陰謀」だった――という、いまでは誰でもが知っている茶番劇的なプロットを土台にしている。実際のところ、イラク戦争は、そんな単純な方法で正当化された(正当化に失敗した)わけではないとしても、ブッシュではだめだという「正統性」(レジティマシー)を生み出すのには役立った。映画は、そうしたからくりの内部にまでは迫らない。最初に、ブッシュ政権の高官レベルで陰謀があった。国防総省・情報局のクラーク・バウンドストーン(グレッグ・ギニア)がその中心人物だ。ウォール・ストリート・ジャーナル紙の記者ローリー・デイン(エイミー・ライナ)がその陰謀を知ってか知らぬか、一枚かんだ。CIAの古株のマーティ・ブラウン(ブレンダン・グリーン)は、「大量兵器」などないことを知っており、そのことを報告していたが、バウンドスートンに握りつぶされた。そこで、ロイ・ミラーの闘いが始まる。国家に忠実で、バウンドストーンの命令で動く陸軍少佐ブリッグス(ジェイソン・アイザックス)はそれを阻止しようとする。話は、明快だ。だから、たしかにこの映画はサスペンスなのである。
イラク戦争は、茶番という印象を世界に与えたが、「戦争株式会社」としては、ちゃんと元を取った。兵器と軍需物資で利潤を得ただけでなく、たとえば戦争ロボットの実用化という新しい軍事産業の課題を果たすことが出来たからである。『シリアナ』(2005)にも出てきた無人飛行機(偵察と攻撃)、スピルバーグの『マイノリティ・リポート』(2002)では、まだSFのなかの小道具に見えた探索ロボット、『ハート・ロッカー』が作り話に思える爆発物解体のロボット等々、砂嵐というメカには不利な環境がかえって、ハードなテストに役立った。このへんのことについては、P. W. Singerの新著『Wired for War: The Robotics Revolution and Conflict in the 21st Century』(Penguin Press) に詳しい。ちなみに、この本を読むと、戦争自体がすでに変わってしまっており、この映画が描くような「戦争」は、いわば歴史的な「戦争」というものを忘れさせないためのデータにすぎないとも言えるのだ。そして、だからこを、見終わってほとんどストレスなしに劇場を出ることができるのだ。
アメリカのバクダッド空爆に逃げ惑うサダム・フセイン側の側近たちの姿を映すオープニングのシーンから、カメラは手持ちで撮られている。その後の「大量破壊兵器」探索のシーンでも、非常に動きの激しいカットがつづくが、その割には疲れない。一貫したリズムが続くので、ぐいぐい引き込まれ、現場にいる感じがしてくる。データによると「ARRIFLEX 235」が駆使されたというが、これは、重さ3.5Kgで肩乗せでもステディカムでも手にかかえても使えるハンディな名機だ。
非常にスリリングに出来ているこの映画だが、先が読めてしまう個所もある。サダム・フセインの圧制のためにひどい目にあったイラク人青年フレディ(ジアド・ジャラ)がフセインの要人たちの隠れ家を教えに来たことから、ミラーは彼を通訳に雇う。しかし、彼がクライマックスで行うある行為は、かなり早い時期から予測でき、「やっぱりこうくるか」という印象を禁じ得ないのである。このような人物を登場させなくても、この映画は作れたはずで、最後になってこの映画のそれまでのすばらしいドライさがゆるんでしまうのは残念である。
もう一つ、おそらく「激戦の勇士」であるはずのロイ・ミラー隊長だが、それを演じるマット・デイモンの目が、どうもスウィートすぎるというか、ちょっと引いた感じに見えるのは気のせいだろうか? ブリッグス少佐を演じるジェイソン・アイザックスの目は、絵に描いた「悪党」のようにけわしいが、デイモンの目は、けわしいか、そうでないかというレベルではなく、ちょっとまわりの空気に押された感じなのだ。軍の記者会見のような、まわりに「軍人」がたくさんいるシーンや、他の「兵士」といっしょにいるときにそれが目立つのである。こういうことは、わたしの記憶では、『プライベート・ライアン』(1998)で軍人を演じたときにも気にならなかったのだが、今度は、彼がまるでプロの軍人ではないかのように見えるのだ。なぜだろう? それだけ、彼をとりまく周囲の出演者たちが、緊迫した演技を見せているからかもしれないし、あるいは、マット・デイモンに「兵役経験がない」ということがはからずも露呈したのかもしれない。
(東宝東和配給)
ハート・ロッカー (メカの描写がしっかりしており、サスペンスとしての魅力を最高度に保ちながら、ポスト・イラク戦の虚無的な気分を伝えることも忘れないなかなかの力作)。
モリエール、恋こそ喜劇 (モリエールというのは、もっとヒネくれていてイヤな奴だと思うので、ロマン・デュリスのはちょっと「善良」すぎる。ま、ある種のラブストーリーとしてはいいところもある)。
噂のモーガン夫妻 (「大衆ウケ」しているのに、現地の映画マニアはステレオタイプだと文句を言う。IMDbでは3.4の得点しかついていない。しかし、こういうオバカなステレオタイプも面白いと思う。わたしは好きだ)。
シャーロック・ホームズ 【前出】
花のあと 【前出】。
フィリップ、きみを愛してる! 【後出】。
時をかける少女 【前出】。
NINE 【前出】。
TEKKEN 【後出】。
アイガー北壁 (ナチへの批判を込めているらしいが、すっきりしない。ラブストーリーとしてもつつましすぎる。残るは、遭難シーンだが、これも『運命を分けたザイル』―【前出】―の方が凄い)。
マイレージ、マイライフ 【前出】。
息もできない 【後出】。
ウディ・アレンの夢と犯罪 (出演しないで演出に徹し、舞台をロンドンにする――アレンが二番煎じのマンネリから脱出する方法として編み出した技法。いまはやっぱりニューヨークよりロンドンなんだろうな)。
やさしい嘘と贈り物 【前出】。
ブルーノ 【後出】。
【追記/2010-05-23】3月に試写を見たあと、次のパラグラフからはじまるノートを書いたが、この映画で描かれる若者暴力団(「ストリートギャング」)「MS」(Mara Salvatrucha)(「MS」のほかに「Mara」、「MS-13」などとも略称される) のことが気になり、調べてみた。頭でこれを長く書いてしまうと、映画評がかすんでしまいそうなので、最下段にそのことを書く。
オープニングは、紅葉し、路の落ち葉が堆積する美しい森のような風景である。すぐにそれは、上半身裸で背中に「MS」という刺青のある若いカスペル(エドガー・フロレス)が外への出入口から見ている風景であることがわかるが、彼は本当にそんなに美しい風景の見える場所に住んでいるのだろうか? 彼はドアーからその風景のなかに出て行き、タイトルが映る。が、そのあとに続くのは、メキシコの田舎町のごみごみした風景である。映画の設定では、チアパス州のタパチュラということになっている。あの紅葉シーンは、カスペルの夢想であるかもしれない。
カスペル(エドガー・フロレス)は、「暴力団」に入っているが、その心は揺れている感じ。鉄道線路端にある家に行くと、その家の婆さんが「警察に言いつけてやるよ」と警戒するので何かと思うと、その婆さんの孫のスマイリー(クリスティアン・フェレール)が彼の手下になっていて、かっぱらいなどをやっているらしいのだ。スマイリーの方も、彼といっしょにいることを嫌っているわけではない。婆さんの警告を尻目にカスペルの家に行き、盗品を手渡す。それは、最終的にリーダーのリマルゴ(テノック・ウェルタ・メヒア)に渡さなければならないが、カスペルは、そのなかからデジカメをくすね、スマイリーに「これはリマルゴには秘密だからな」と告げる。秘密を持つことは「友情」のあかしでもある。
いくつもの線が錯綜しているが、その一つは、若者「暴力団」たちの掟と生き様だ。顔中に刺青をし、すでに「不気味さ」をただよわせるリーダーのリマルゴは、組に入りたての、まだ幼顔のスマイリーに殴る蹴るのイニシエイションをほどこさせる。実行するのは、組の「若いもの」(みんな若いのだが、相対的に)である、彼を組に誘い込んだカスペルも加わる。友達であり、子分であるスマイリーに「暴行」を加えるのは、組の掟であり、「愛の鞭」なのだ。組と個人との矛盾をこの映画は、最初からストレートに描く。ここからどんどんエスカレートし、捕らえた別の組の者を(これも「教育的」なイニシエイションとして)スマイリーに「処刑」させる。そのときに使われるのが通称「ジップ・ガン」(Zip Gun)と呼ばれる手製の銃である。リマルゴの組には作業場があり、パイプを溶接したりしてジップ・ガンを作っている。殺した「敵」は、解体してその肉を犬に食わせる。このへん、なかなか「非情」な描き方である。
もう一つの線は、不法移民というテーマである。場所は、メキシコからガテマラを越した先に位置するホンジェラス。別の場所の物語が描かれる。アメリカに不法移民をし、強制送還された男が、娘サイラ(パウリーナ・ガイタン)とともに再びアメリカへの不法入国を試みる。彼らは、グアテマラを通り、メキシコ領内に入る。スマイリーの家が線路沿いにあるのが最初の方で見えるが、そこは、アメリカへの不法移民たちが列車に乗る主要な場所らしい。夜の闇にまぎれて列車に乗ろうとする者たちが線路端にたむろしている。サイラと父親はそこにたどり着き、列車に乗る。といっても、正規の切符を買って乗るわけではなく、列車の屋根に乗っての危険な旅である。このくだりを見て、ふと思い出したのは、グレゴリィ・ナバの『エル・ノルテ 約束の地』(El Norte/1983/Gregory Nava)だった。『エル・ノルテ 約束の地』では、メキシコとアメリカのサンフランシスコ側の国境で危険な目に遭うのだったが、この映画では、苦労してガテマラからメキシコに入り、チアパス州から隣のベラクルス州に入ったところで生命の危機にさらされる。先のリマルゴの組が、そういう不法移民を襲うのを仕事にしているからである。無防備の彼らは所持品を強奪されたり、殺されたりする。このへん、滅入ってしまうようなことだが、弱肉強食のロジックはとどまるところを知らない。いつも底辺にいる者が犠牲になる。サイラの父親は犠牲になる。
第3の線は、ある種のラブストーリである。カスペルは、もともとはリマルゴの女だったマルタ(ディアナ・ガルシア)を愛してしまったが、そのためにマルタはリマルゴの仕打ちを受け、死んでしまう。リマルゴに恨みがあるカスペルは、サイラたちをリマルゴといっしょに襲ったのだが、リマルゴにレイプされそうになるサイラの姿を見て、彼女を救う。それは、組への完全な裏切りである。以後、彼は組に追われることになる。その「刺客」の役を受け持たされるのが、かつて自分の子分だったスマイルであるというのも、組の非情なロジックである。いずれにしても、この事件がきっかけになって、カスペルはサイラと出会い、いっしょに逃避行を始めることになる。そして、対岸にアメリカのテキサス州があるリオグランデ川のところまで到達する。果たして二人は無事アメリカへ渡ることが出来るのか?
ホンジェラスからガテマラに渡るのに川を越すシーンが出てくるが、アメリカへのテキサス州側の国境から入る場合には、リオグランデ川を渡る。どちらの場合も、大きな車のタイヤをゴムボートにして、不法移民を向こう岸に渡す商売をしている業者「コヨーテ」がいる。当然、警察の取り締まりがあり、うまく渡れる者とそうでない者とがいる。大分まえ(1990年代)BBCが面白い「ドキュンメンタリー」を放映していた。それは、ラテン音楽にこだわりのあるJeremy Marreが製作した番組で、ミュージシャンのリポーターが実際にリオグランデ川で「コヨーテ」を雇い、タイヤに乗って川を渡り、アメリカのテキサス州のエルパソにたどり着くのである。まだなごやかな時代だった。
線路端でたむろして列車を待つ人々を見て、ふと1995年の5月にティアナで見た光景を思い出した。古い友人のディーディー・ハレックの案内で、サンディエゴから車でメキシコのティワナの米国側の境界線に行ったのだった。すると、そこに所々裂け目や欠落の出来たフェンスがあり、そのメキシコ側の壁際に、ちょうどこの映画の鉄道線路の周辺にたむろしているのと同じ格好で、夜になったら、壁を越えて米国領内に入ってこようとする不法移民予備軍の姿があったのだ。アメリカの産業は、こうした不法移民の安い(極安)労働力でもっているので、彼らの移入を黙認せざるをえないのである。2001年の911以後、警備が強化され、国境には軍が配備されたりし、さらに2006年には「安全フェンス法」が成立し、表向きはメキシコからの不法侵入は難しくなった。しかし、労働力補給の構造が変わってはいないので、そうした移入はくりかえされ、この映画が描くような悲劇もくりかえされている。
【追記/MSのこと】MSは、1980年代に北アメリカのロサンジェルズで生まれ、やがて南北のアメリカに後半なネットワークを広げる。ドキュメンタリー映画のクリスチャン・ポヴェーダ(Christian Poveda)は、MSと「18th Street gang」との派閥抗争を「La Vida Loca」(2008)でドキュメントしたが、2009年に「18th Street gang」の団員によって暗殺された。このドキュメンタリーを見ると、MSのために息子や娘を殺された遺族の深い悲しみも描かれており、『闇の列車、光の旅』で見る、新参者へのイニシエイション的暴力のシーンも、この映画以上の迫力で描かれている。その点では、この映画に出て来るMSはカッコよすぎるのであり、実際のMSの社会悪としての側面は描き足りてはいない。
MSは、一説によると、1980年代のエル・サルヴァドルの内戦で国を逃れてアメリカにやってきた亡命者(そのなかにはゲリラもいた)がロサンジェルスで作ったという。そうだとすれば、MSとその派閥の戦いは、戦争の分子的増殖作用に似て、戦争がさらなる戦争を生み出すという轍を踏んでることになる。
(日活配給)
まだ「諧謔」(かいぎゃく)ということが生き残っていた。パロディとか悪ふざけは、孔子道徳がどこかに残っている日本では、基本的にはあまり強くはないが、それでも、いまより強かった時代があった。お笑いギャグにもそういう要素が残ってはいるだろうが、こちらは、「安全」枠のなかにちんまりと収まっている。決して「タブー」を逆撫でしたりはしない。しかし、サシャ・バロン・コーエンのやるのは、礼儀やセックスや政治や娯楽の「タブー」を、「セレブ無視」、「人種差別」、「猥褻」、「政治的挑発」、「地方人蔑視」等々すれすれでからからかっている。それは、わたしも激賞した前作『ボラット』をはるかに越え、諧謔の極みに達している。
冒頭、スクーターのテクノ「Nessaja」をバックに、ウィーンという設定の水庭のなかに立つブルーノが、「ゲイ」っぽく、「ハ~イ、アタシはブルーノよ」(What's up? I am Brüno)と言ったあと、「アハハハ~ア」という、「ゲイ」的というより宇宙人的というか、(月並みだが)カフカの「オドラデク」の笑いというか、奇妙な声をあげる。この声が、そもそも、われわれの既知の感覚を越えている。
「下ネタ」の「下品」な駄洒落で笑いを取っているだけに見えて、そのねらいは、もっと広く、深い。そもそも、この映画は、「有名になりたい」と願望し、そのための「プロジェクト」を画策するブルーノ(サシャ・バロン・コーエン)の「冒険物語」ないしは、そのためのパフォーマンス集成なのだが、そもそも「有名になりたい」ということ自体が、われわれが生きているいまのシステムのテロス(究極目的)だ。多くのハリウッド映画のなかで描かれるのも、この欲望をどう実現したか、どう実現に失敗したかである。「左」であろうと、「右」であろうと、「有名になりたい」という欲望を禁止してはいない。日本のような、かつては「つつましさの美徳」のような文化を持っていたところでも、有名になって何が悪いという発想の方が有力である。ブルーノは、そういう「基本的」な欲望を最初からパロディ化してしまう。
基本的に茶化されているのは、「アメリカ的」な平均的価値観やモラルである。(1)「セレブ」にはどの程度の寛容さがあるか? ポーラ・アブドゥルを呼び、むくつけき裸体の男の腹と胸を「皿」に盛り付けた料理を供する。(2)大統領候補はどの程度の性的偏見を持っているか? まじめ顔の政治家ロン・ポールを個室に誘導し、ブルーノが性的誘惑をする。(3)セレブが手を出す「チャリティ」とはいかなるものなのか? 有名人や金持ちになると「チャリティ」に手を出すのがアメリカ的価値。『幸せの隠れ場所』の世界はまさにその典型。が、ブルーノは、チャリティのなかでも、ダイアナなんかがやった「平和貢献」ないしは「平和活動」というチャリティ。イスラエルとパレスチナの「和平」に貢献しようというもの。(4)養子ってそんなに人道的なの? 西欧とりわけアメリカの中・上流階級は、非白人の子供を養子に迎える。それには、相当の金がかかり、大変な手続きがいるのだが、ミア・ファーロの例を見るまでもなく、これも、自分が人道主義者であることを社会的に示す流行的身ぶりになっている。ブルーノは、それをあえて物品を密輸するかのごときやりかたで行ない、みずから顰蹙を買う。(5)テレビのトークショーやバラエティショーの常識はどの程度のもの? スキャンダラスで人種差別的な話題を出したらどうなるかをブルーノは試す。(6)軍隊の規律はどの程度のものか? この部分は、この映画ではあまりサエていない。ほかにも、軍隊の機械的な規律の不条理を異化した映画はたくさんあるからだ。(7)アメリカの「フリー・セックス」はいかなるものか? これは、「潜入取材」風で、諧謔度は低いが、SM嬢にブルーノが鞭打ちされて、窓からコケるシーンは、最高のスラップスティック演技である。(8)キリスト教は性差をどう考えるか? ただし、アラバマのマジメな牧師(ゲイをストレイトに転換させる「ゲイ・コンヴァーター」の専門家)(Jody Trautwein)との対話シーンでは、ブルーノにしては「異化」度が低く、牧師が言うであろうことが読める。(9)「ゲイ・プライド」があるはずのアメリカだが、その実際は? アーカンソーあたりに行くと、依然メール・ショーヴィニズム(男性至上主義)が主流。
どこがヤラセでどこが隠しカメラの盗撮なのかが気にならないのは、一貫して変わらないサッシャの天才的なまでのポーカーフェースのためである。彼にあっては、どれが「本気」でどれが「演技」かなどということは気にならない。いわば、21世紀のバスター・キートン的な無表情(キートンよりはもう少し表情があるが、目は「無表情」)のまえでは、ヤラセであれ、盗撮であれ、カチンコの入った演出映像であれ、それらの差異は、意味をなさなくなる。
「アルカイダのテロリスト」を筆頭に、「ホント」っぽさが半端ではなく見えるのもそのためだ。カメラの安定感からして、隠し撮りよりも、ちゃんと許可を取った撮影が多いとしても、それが騙し撮りや隠し撮りに見えてしまうところが凄いと思う。この点では、マイケル・ムーアも顔負けだし、映画とはそういうものなのだ。
ある意味、この映画は、マイケル・ムーアよりも、もっと鋭く「キャピタリズム」を批判している。ただし、そのやり方は、ムーアのように直截的に文句を言うスタイルではなく、嘲笑うというアイロニーと諧謔の方法によってである。ムーアは、いまのシステム(体制)はダメだから、もっと「左派」の路線にしなさいという指示をするが、『ブルーノ』は、現状を「異化」し、観客に再考をうながす。どちらがしなやかかといえば、後者であることはあたりまえである。代案を提起するということは、映画というメディアを意識操作の道具にすることで、それは、もう古いのである。
色々試みたブルーノだが、ことごとく「有名になる」ことに失敗したのち、8ヶ月の「充電期間」を置いて今度は「ゲイ」としてではなく「ストレート」の格闘技の選手としてデヴューするのが大詰めのシーンである。場所は、(ステレオタイプ的に言えば)「男は男」というカルチャーがまだ強い米国南部のアーカンソーのとあるスタジアム。「俺はストレートだ」とわめくブルーノの観客は沸く。「おれのケツはクスするためだけだ(ゲイセックスはしない)」という彼の言葉は受ける。われわれは、彼がこれまで「ゲイ」として行動してきたのを見ているから、「ゲイ・プライド」ならぬ「ストレート・プライド」を主張する彼の姿勢の二重性を知っている。すると、場内から「おまえはオカマ(faggot)だ」(faggotは、ゲイの蔑称)という声がする。ブルーノは、格闘技の流儀で、「いま俺のことをオカマと言った奴は誰だ? ここに上がってこい」とどなる。すると、そこにあらわれるのが、彼に最初から「付き人」としてついてきたルッツ(グスタフ・ハマーステン)である。そして、ブルーノは、愛する人を格闘技のステージで痛めつけなければならなくなる。むろん、それは続かない。殴りあいが、奇妙なラブシーンに変わって行く。観客は総立ちになり、怒りをあらわにする。許せない。ゲイはくたばれ。この瞬間、大衆の意識のなかに隠れているゲイ差別と偏見が一挙に露出する。以後、どうなるか、それは見てのお楽しみである。
この映画は、Universal Picturesの製作だが、地球儀をぐるりと巻く形で冒頭に出る「UNIVERSAL」の文字の「U」の部分が、ウムラート付のユー「ü」に変わる。これは、むろん「Brüno」の「ü」である。ところで、ユーにウムラートがついた場合、ドイツ語では、(碩学の関口存男によれば、「鼻の下の髯を剃刀で剃るときの口つきしてユーと言う」)「ユー」と「ウー」との中間の発音をしなければならない。「Brüno」は「ブルーノ」ではなく、ほとんど「ブリューノ」という発音になる。しかし、文字表記ではウムラートを付けておきながら、発音では、みずから「ブルーノ」と発音しているのは、きわめて意図的で、こういうディテールにも、(ブルーノはウィーン出身という設定で、作中にたびたびドイツ語が登場するが)基本的に「キマジメ」なことはどうでもいいという布石がしてあるのだ。ドイツ語を話す人間からすると、ブルーノのドイツ語には、オーストリア・ドイツ語のなまりなど出ていないという。
(クロックワークス配給)
映画を見ながら、「この話はいつの時代設定になっているのだろう」という問いが浮かんできた。ここでは、「フリーター」という言葉がまだ生きている。そして、学生時代の「バンド」仲間が意味を持っている。この映画に登場する芽衣子(宮崎あおい)、種田(高良健吾)、ビリー(桐谷健太)、加藤(近藤洋一)は、大学の軽音サークルの仲間であり、それから6年の月日がたっている。芽衣子はOLとして会社に勤め、種田はフリーターとしてデザイン会社で働いている。ビリーは、家業の薬屋を継ぎ、加藤はまだ大学6年生をやっている。種田がボーカルとギター、ビリーはドラムス、加藤がベースを担当するバンド「ロッチ」は、ライブハウスを借りて定期的に練習している。芽衣子と種田はいっしょに住んでいる。親にはそのことをはっきりとは言っていないらしい。こういう雰囲気は、1980年代の「若者」のあいだではごく「普通」だった。しかし、この映画は、80年代の話でも、90年代の話でもない。少なくとも、登場する「小道具」や「大道具」を見るかぎり、時代は「現代」である。ケータイ、種田が働くデザイン事務所のコンピュータ(Mac)、自前で作って盤面にプリントしたCD、街を走る車や自転車の型を見てもそれがわかる。
2010年のいま、「フリーター」や「バンド」はほとんど死語になってしまった。おそらく、浅野いにおの原作漫画が発表されはじめた2005年という時点でも、「フリーター」や「バンド」は死語への道を歩み始めていた。だから、この漫画はノスタルジアをかきたてるのだ。「フリーター」や「バンド」が、最も輝いていたのは1980年代である。「フリーター」には「フリー」(解放)の、「バンド」には「連帯」や「団結」の意味がみなぎっていた。政治の「連帯」や「団結」はむずかしくなっていたとしても、音楽演奏でのグループ活動は逆に熱かった。日本のパンクは、イギリスやアメリカから10年ぐらいズレて活気を呈していた。所詮は「バイト」という昔からある用語で表現できることをやっていても、「フリーター」たちは、サラリーマンとして、つまりは組織の専従者として組織や会社に奉仕するのではなく、それらから「自由」な立場に身をおき、しなやかに生きているという自負があった。
この映画に登場する人物たちは、事実上「フリーター」なのだが、そのことに自足してはいない。ただ、大急ぎで断っておかなければならないが、「フリーター」という語が輝いていた時代でも、フリーターたちは、必ずしも自分らがやっている仕事に満足していたわけではない。ほかに身を挺することがあったから、仮のバイト仕事をやっていたにすぎない。「フリーター」の「フリー」は、その仕事が解放感に満ちているという意味ではなく、組織や体制から自由であるという意味だった。仕事はつまらなくても、ほかにやることがあったから、心はさわやかだった。しかし、この映画の登場人物、とりわけ種田は、そういう「フリーター」ではない。
1990年代以後、何が変わったか、なぜ「フリーター」が死語になったかというと、それは、たとえ自己妄想であれ、組織や体制から自由であるということが困難になったからである。いま、ケータイを「若者」から奪ったら、彼や彼女らは生きていくことができるだろうか? いや、オヤジ世代も、仕事ができなくなって、干上がってしまうだろう。ケータイは、グローバルな「組織」である。それ自体は「自律」し、そのユーザーたちがコントロールしているかに見えても、全体的な組織の支配下にいることには変わりがない。というより、ケータイ世代は、当面の意識レベルで支障がないように感じられれば、「組織」とか「全体」とかを無視して生きることができる世代なのだ。「フリー」であるかどうかは、大したことではなくなった。
この映画は、芽衣子の回想的なナレーションで始まる。つまり、この映画の「現在」で種田はこの世にいないのだ。その際、種田を「80年代の生き残り」としてしかとらえないならば、この映画のような終わり方でも納得が行く。彼の「遺志」を芽衣子が継ぐという終わり方だ。しかし、種田は、「80年代の生き残り」ではない。彼は、もっといまの若者だった。なぜ彼は「フリーター」をやっていたのか? 本当はバンドで食って行きたいが、当面それが出来ないので、とりあえず(いつでもやめられる)バイト仕事をしているだけなのか? むろん、そうではないから、彼は、「幸せ」であるはずの状態を自己破壊的な状態に追い込むのである。それは、ミューシャンとして成功しないからでもないし、芽衣子とうまくやっていけないからでも、また、バイト仕事に精を出せないからでもない。倦怠感ともちがったある種のニヒリスティックな空気が彼を襲う。わたしは、この映画のクライマックスは、最後に芽衣子がライブステージで演奏するシーンではなく、そのはるかまえの、種田がスクーターを運転しながら、自分が「幸せかどうか」を自問し、赤信号を無視してアクセルをふかすシーンだと思う。しかし、映画は、その部分をあまり掘り下げずに、最後の宮崎の「熱唱」というお定まりの「クライマックス」に持って行ってしまう。
宮崎あおいは、今度もまた、『少年メリケンサック』のときの熱演ともまた異なる質のすばらしい演技を見せる。が、そのすばらしさのために、高良健吾が繊細に演じた人物の「存在の耐えられない軽さ」を消してしまう結果になったのは、残念である。この映画は、本当は、種田の「存在の耐えられない軽さ」がテーマであるべきだったのであり、そのためには、宮崎は最後に「熱唱」してはならなかった。
ロックバンド「ロッチ」をレコード会社に売り込もうと、種田たちは、テスト版のCDを作り、あちこちに送りつける。その結果、大手のレコード会社から連絡が来る。その事務所に行ってみると、「新人開発」の担当者の冴木(ARATA)という人物は、種田がかつてあこがれたロックバンドのリーダーだったことに種田は気づく。冴木が出してきた提案は、「ロッチ」のバンド活動そのものを認めるというのではなく、これから売り出すグラビアタレントのバックバンドとして仕事をしてみないかというものだった。その提案を断固として蹴ったのは、芽衣子だったが、その決断は、いかにも80年代的である。映画では、そのとき、種田やほかのメンバーがどう思ったかははっきりとは描かない。それは、それでもいい。しかし、問題は、この冴木という人物である。
いま会社で中堅として活躍しているのは、この冴木という人物の世代である。年齢的には30代の後半から40代の初めで、80年代の「カウンターカルチャー」を実体験している。いまの世代にくらべれば、若干「身体」感覚への執着を残している。冴木が、種田たちに関心をいだいたのも、そうした自分らの過去がいますっかり消去されつつあることへの「罪責感」(なぜならいまの動向を推進しているのが彼ら自身でもあるから)が働いていた部分もある。こういう人物はいつの時代にもいる。それは、一見、「大人」世代の「良心的部分」のように見えるのだが、わたしは、実は、こういう手合いが一番「ワル」なのではないかと思う。「若者」をおだて、「若者たちの神々」なんかをでっち上げたのも、こうした手合いである。ちなみに、優遇されたのは「若者たちの神々」であって、「若者」ではなかったのだ。それどころか、そうした「神々」を造り上げて、若者をその崇拝に誘導したのである。
冴木の提案を芽衣子が一言のもとに拒絶したのは、若者として鋭い反応だった。しかし、この映画では、冴木のような「大人」のインチキさは、決して暴かれない。それどころか、種田が交通事故で急死したのち、彼の「遺志」をついでヴォーカルとギターを猛練習し、バンドを復活させるというクライマックスでは、この冴木は、バンドを依然として支援する人物であるかのように描かれる。この映画は、そういう旧世代がやりたそうなことで終わるわけだ。芽衣子的には、そういう方向に行くべきではなかったのに。
岩田さゆりが、チョイ役ながら「端倪(たんげい)すべからざる」雰囲気をただよわせていたのが、気になる。次の出演が楽しみ。
(アスミック・エース配給)
たぶんエグゼクティブ・プロデューサー・阿部秀司のコンセプトだと思うが、日本にも、ハリウッド映画が(良きにつけ悪しきにつけ)維持してきた「国民教育」的要素が定着しはじめたようだ。むろん、黒澤明や山田洋次の映画もそういう要素を持っていた。しかし、黒澤は「思想」を前面に出しがちだったし、山田は、「思想」はむき出しにはしなかったが、「庶民性」というからめ手で「国民」を「啓蒙」した。先日終わりになった「釣り馬鹿シリーズ」は、「現状況」を映すという意味では「ハリウッド映画」的だったが、ハリウッド映画に特有の「教育」的機能は薄かった。その点、阿部秀司+ROBOTの一連の作品(『ALWAYS 三丁目の夕日』、『ALWAYS 続・三丁目の夕日』)は、「状況論」と「教育」を合体させ、その「たくらみ」を感じさせない「ハリウッド映画」の方式を確実に始動させた。タイトルに必ず横文字が入るのは偶然ではない。
「国民教育」はない方がいいと思うが、「国家」が存在するかぎり、それは存在するし、それを意識しなければ、「国家」は滅びる (I don't care, though)。しかし、「国家」はいつも同じ形態と機能を持ち続けるわけではないから、いまの日本国家にとっては、司馬遼太郎流の「国家教育」ではどうにもならないのである。司馬の「日本」は、「戦中派」に特有の「近代国家」にすぎず、何かというと「坂本竜馬」を出すという風に、「偉人」主義だった。ハリウッド映画も「偉人」が嫌いではないが、もっと日常に即した「教育」がうまい。階層の幅をたっぷり取り、「誰でも」が自分を同化できるような人物を配して、過去を「反省」させたり、今よりもちょっぴり先の「未来」を考えさせたりするのである。
最初の方で、「大手家電メーカーの経営企画室・室長」という設定の筒井肇(中井貴一)は、工場の封鎖とリストラの推進役をし、同期入社の旧友(遠藤憲一)のクビを切らなければならない羽目に陥るというエピソードが描かれる。これは、若干古くなりつつあるが、依然として日本の「今」を映している。しかし、もっと「今」的なのは、筒井が家に帰ると、娘の倖(本仮屋ユイカ)は、ケータイに集中していて、顔も見ない、そして、食卓につけば、ケータイが鳴り、筒井は食事を中座せざるを得ないといった「ケータイ地獄」のシーンである。妻の由紀子(高島礼子)にしたところで、ハーブの店を開き、家庭よりも、そちらに意識が向いている。要するに、家庭が、ケータイを通じて外部に連結してしまい、家庭の自律性がなくなっているのである。これは、いまの日本で最も深刻な事態である。
この映画は、母親(奈良岡朋子)の病気をきっかけにして、筒井が、登りつめた会社取締役という地位を捨て、故郷に帰り、子供のころの夢だった電車の運転手になるという話であるが、地方への回帰、前時代的なものの珍重(年寄りや旧型の電車等も含めて)、コミュニティの強調、都会の否定という180度の転換にもかかわらず、誰もケータイを捨てないところが注目である。(ただし、筒井は、電車を運転している最中はケータイを止める)。
この映画には、「今の日本」への批判と提言がある。しかし、残念ながら、この映画のようなやり方では日本は変わらない。この映画の世界は、一つの「気休め」にすぎない。あなたは、こういう世界があるかもしれないという思いにつかのま浸り、そして映画館の外に出て、また「今の日本」に戻るのだ。
ただし、国家が存在し続けるならば、その国家の基本的性格は維持され続ける。いまここでは、「国家」の先に何があるかについては問題にしないことにする。で、日本国家の基本的性格は、母親を基盤とする家庭を「小モデル」ないしは「モジュール」としている。簡単に言えば、母系制の家族を統合したものが日本国家である。だから、日本人の息子はすべて大なり小なり「マザコン」であり、母親との関係次第で人生が変わる。この映画でも、(父親は死んでもういないという設定であるとしても)父親不在であり、筒井の母親は、(病気の治療に東京に連れて行こうとする息子に)「かーちゃんはここ(生まれ故郷)がええ」と言い、母として自分が土地・故郷と不可分離の関係にあることを示す。「子供(息子)がうれしそうにしているのが一番」なのは、世界共通かもしれないが、あえてこう言われると、息子としては、荷が重い。
この映画のように、本当に若干の「過去」に時間を戻すことによって「今の日本」を変えようとするのならば、まずケータイの電源を切る自由を獲得することだ。ケータイの電源を切らない→切れない→切ったら死ぬ→とエスカレートしているのが現実で、せっかくフェイス・トゥ・フェイスで顔を合わせても、それぞれにケータイしていて、会った意味がないというようなことがしばしば起こる。そんなことをしたら、仕事やっていなけいよ、というのがケータイユーザーの本音だが、それから得ているビジネス利得の分、コミュニケーション度は落ちているのだ。
しかし、わたしは、だからといって、ケータイを廃止すべきだなどと言っているわけではない。ケータイは、今後も普及し続けるであろうし、それに従属する人口は増えるだろう。その流れは止められない。それは、テクノロジーに依拠する権力(単なる政権や金権ではない、もっと大きな力のこと)は、テクノロジーの持つテロス(究極目的)に従って動くからだ。そうならば、そのテロスが、何を求めているかを知ればよいのだが、現状はそうではない。なぜケータイがフイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションを壊すのか? それは、簡単だ。このテクノロジーは、そういう関係を不要にするテロスを持っているからだ。これまでの場や関係は、すべて「近さ」を価値として構築されてきた。「遠い」よりも「近い」方が「親しい」関係であり、「血沸き肉踊る」関係のはずだった。これが、いま、電子テクノロジーの登場とともに、「近さ」よりも「遠さ」(リモートネス)を優先するようになった。にもかかわらず、一方でそういうリモート・テクノロジーに頼りながら、他方でそれと逆行するものに執着しているわけだから、矛盾が激化しても仕方がない。
電子テクノロジーのテロスは、個々人が、カプセルのなかに孤立して住みながら、相互にリモートでつながっているような世界を「予料」(よりょう=anticipate)している。だから、このテクノロジーを使うかぎり、そのユーザーがそういう状態に陥ることを避けることが出来ない。だが、テクノロジーは一つではないし、電子テクノロジーのテロスもただ一つではない。テクノロジーの逆説はたえず起こっている。そういう「逆説」のはざまで生きるならば、何もそうしたカプセル化に閉ざされることもないし、脳天気に「テクノロジーからの解放」などという所詮は無理な「夢」にひたる必要もない。
この映画で、面白いのは、高島礼子が演じる妻の状態だ。彼女は、夫が故郷に帰ったあいだも東京に残り、ハーブの店を続ける。ときどき、二人はいずれ別れることになるのではないかと思われるようなせりふやしぐさもある。しかし、最後まで二人は別れないし、今後も別れる気配はない。いま、(この30年間に世界で最も「家族」の形態が多様化した)アメリカで、「リモート・カップル」が増えている。いっしょに(フェイス・トゥ・フェイスの関係で)暮らす時間はかぎられていても、依然「夫婦」であるような結婚形態である。それは、当面、「仕事のため」であることが多いのだが、もし、この「リモート」の関係をもっと能動化するならば、ここから面白い家族形態が生まれるはずだ。
この方面の研究は、「拡張現実」(AR)の世界ではさかんであり、『サロゲート』でそのスケッチが提示されてもいたが、ネットをスキャンしたら、離れたところにいるカップルが、ARの技術を使ってハグする研究をやっている学生(?)の論文と試作モデルの映像が載っていた。映像を見ると、どうも稲見昌彦さんからのパクリではないかと思ったが、とにかく、こういう研究がさかんなのであり、軍事の世界でも使われている。
ハリウッドのスタジオは、それぞれ多くの「ものづくり職人」をかかえている。コンピュータ技術もみな「職人技」だ。この映画を製作したROBOTは、CGで有名だが、この会社の有力なところは、かなり幅の広い「職人」をかかえており、みな「メカ」への執着を持っている点ではないだろうか? この映画でも、電車のメカへの手抜きのない関心が示されている。メカの描写をごまかさないのは、メカを描くときのガイドラインだ。ROBOTはそれを守っている。
一つの型を売る映画だから、当然だが、「釣り馬鹿」シリーズで八郎を演っていた中本賢が、シジミ取りの役で出てきたのには、笑った。なんだ、これは「釣り馬鹿」の続きかと一瞬思ったよ。
中井を含め、この映画の登場人物は、みな、日本映画である時期に形作られた「他人事(ひとごと)」のように語るせりふのスタイルを通している。このスタイルは、小津安二郎の作品(たとえば、『東京物語』の杉村春子のしゃべり方)でも聴ける調子であり、それがときどき違和感を感じさせる。しかし、この映画では、家庭のすみずみに隙間が出来てしまったところから出発するので、この言い方がかえって「自然」な印象をあたえる。「釣り馬鹿」シリーズでは、奈良岡朋子が一貫してやっていたしゃべり方(この場合も、三國連太郎演じる夫へのある種の距離をあらわしてもいたが)だが、逆にこの映画では、奈良岡は、役柄上、その度合いを弱めている。意外にその「他人事」風のしゃべり方を通すのは、中井貴一なのだった。
ハリウッド映画の一つのパターンとして、年上の男が年下の者に自分の人生を語り、そのバックでノスタルジックなピアノ曲なんかが流れるというのがあるが、この映画でも、中井が三浦貴大(肘を痛めて野球のピッチャーとしてのプロ入りを諦めた青年の役)に人生を語るシーンが、そのパターンだった。
(松竹配給)
冒頭で「Peter Jackson Presents」(ピーター・ジャクソン製作)と出るので、彼の好みの作品ないしは、彼の考えが入っているという予感がする。実際、この映画はある種の「モキュメンタリー」であり、「モキュメンタリー」といえば、ピーター・ジャクソンの傑作『コリン・マッケンジー/もうひとりのグリフィス』(Forgotten Silver/1995) が思い浮かぶ。しかし、この映画は、ニール・ブロムカンプの6分間の短編『Alive in Joburg』(2005)の「忠実な」拡大版であるから、この短編がジャクソンの目にとまり、具体化したというのが順序かもしれない。ちなみに、「製作総指揮」(executive producer) を担当するビル・ブロックは、オリバー・ストーンがG・W・ブッシュを徹底的に笑殺した『ブッシュ』のプロデューサをやっており、この映画の政治的アイロニーは気に入ったはずである。いずれにしても、本作の面白さと規模の大きさは、演出と技術面ではジャクソン、資金面ではブロックの支持を得て、めぐまれた条件のなかで作られたことを感じさせるのである。
『Alive in Joburg』は、「Moving Image Archive」に「Open Source Movies」として公開されている。
具体的な現実へのアイロニーと皮肉がある。タイトルとなっている「District 9」は、ケープタウンの「District 6」を揶揄(やゆ)しながら使われていることは言うもまでもない。すべてがアイロニーにあふれている。そもそも、南アフリカのヨハネスブルグに宇宙船がやって来るのだが、それが、空中に浮かんだままの状態を続ける。偵察隊がなかに入ってみると、衰弱した宇宙人(エイリアン)の群れがいる。これは、他国から到着した列車のコンテナーを開いてみたら、息も絶え絶えの「難民」がいたという実際によくある出来事を誇張して描いている。ちなみに「エイリアン」(alien)は、日本語としては「宇宙人」を意味することが多いが、外交用語としては「外国人」の意味であり、「難民」(refugee) も含まれる。
宇宙人といえば、普通は人間よりすぐれた能力(それが聡明であるか獰猛であるかは別として)を持っているものだが、この映画のエイリアンたちは、大半が無能であり、その頭は「エビ」と「キリギリス」を合わせたような感じである。その振る舞いは、未開発国から大挙してやってきた難民を揶揄しているイメージであり、それが、政府が委託した軍事企業の「MNU」の管理のもと、「ディストリクト・ナイン」という「難民キャンプ」に収容され、そこが次第にスラム化していくということも、まさに、ケープタウンの「ディストリクト・シックス」で起こったことを思わせる。
ここでは、軍事や管理のアウトソーシングが揶揄されているわけだが、「MNU」の文字を印字した白い装甲車やバンの姿は、「MNU」→「UN」のマジック効果で、国連(UN)の難民対策への皮肉に感じられもするのである。
基本的に、この映画のアイロニーと皮肉は、かつての南アフリカへのものである。監督のニール・ブロムカンプは、まだアパルトヘイト(人種隔離政策)の続いていた1979年に南アフリカで生まれ、18歳のときにカナダに移住し、ヴァンクーヴァーで映画の勉強をした。彼には、旧・南アフリカに強い恨みがあるかのようである。ケープタウンの「ディストリクト・シックス」は、まさにそうしたアパルトヘイトの象徴的存在だったから、そこに隔離された最貧民層を「エイリアン」に置き換えることは、ブロムカンプにとっては容易なことだった。
ブロムカンプのアイロニーは、「ディストリクト・シックス」を「ディストリクト・ナイン」に置き換えることにとどまらない。「第9地区」のスラム化とアフリカン・マフィアの横行に手を焼いた政府がその地区のエイリアン「エビ」を別の地区に移住させるプロセスを皮肉たっぷりに描く。映画は、ここから始まるのだが、その移住手続きをスーパーバイズするのが「ヴィカス・ヴァン・デ・メルベ」というオランダ名を持つ「MNU」の白人職員である。ヴィカスは、いつも笑顔を忘れない馬鹿丁寧な男であり、ここでも、うわべだけの国連的「人権主義」が揶揄されている。ヴィカスを演じるのは、『Alive in Joburg』の製作を担当したシャルト・コプリーであり、職務に忠実なだけが取り得のお人好しがユーモラスに演じられる。そして、土台「無知蒙昧」で「権利の感覚がない」、「野蛮」な「エビ」エイリアンの住居を一軒一軒まわって、丁寧に移住の確認をするドお人好しのヴィカスが、やがて怒り心頭に達するほどの「MNU」の「非人道的」なやり方が批判的に描かれる。その残忍で執念深いクーバス大佐を演じるデイヴィッド・ジェイムズも、なかなか存在感のある演技をしている。
ヴィカスがオランダ人名になっているのも、アイロニーである。というのも、南アフリカへのヨーロッパ人の植民地化は、17世紀以後、オランダ人によってなされたからである。南アの支配階級のなかには、オランダ系が多かった。
SF/宇宙人ものということになると、超能力は欠かせない。最初、ダメ宇宙人を廃棄する宇宙船(地球が廃棄場所になっているのも皮肉)という設定で始めたこの映画も、やがて、そうしたダメ・エイリアンのなかに、たった3人だけエリートがいたというくだりを描く。その一人は、クーバス隊長の攻撃に倒れるが、親子の「エビ」が生き残り、皮肉なアキシデントから逆に「MNU」から追われる身となるヴィカスと連帯して、「MNU」と闘うという方向にエスカレートする。このあたりには、クロネンバーグの『ザ・フライ』や、スティルバーグの『未知との遭遇』を初めとする「接近遭遇」SFのパターンが踏襲され、この映画のエンタテインメント性を強化している。
この映画で使われているホログラフィーのようなモニター兼キーボードは、『アイアンマン』にも登場していた。
ギャングやマフィアのような存在は、どんな環境でも湧き出てくるかのように必ず登場するものだが、この映画でも、エイリアンが住む「第9地区」に入り込み、この地区の弱者を搾取する黒人マフィアが登場する。彼らは、アフリカ人の女をエイリアンのための売春婦にしたり、エイリアンが持っている兵器らしきものを密売しようとつとめる。このへん、彼らの拠点の映像とともに、なかなかリアルなうさんくささが出ているのだが、そういう彼らも、この映画ではアイロニカルな存在だ。彼らは、「エビ」エイリアンの肉体を食べることが精力増強をうながすと信じているという描き方なのだが、これは、アフリカにはまだカニバリズム(食人)の「伝統」が生き残っているかのような、差別的なイメージに抵触しそうである。
(ワーナー・ブラザース映画+ギャが共同配給)
一見、父親と娘との深い愛情物語のように見えるかもしれないが、わたしは、この映画に、ファシズム期のイタリアにおける国家とファミリー(家庭・家族)との共時的関係の深い洞察を見た。ムッソリーニ政権(国家)の出現は、同時代のファミリーに無言の変容を要求した。すんなりとその国家(「マクロ・ファシズム」)に順応でき、ファシズム・ファミリー(「ミクロ・ファシズム」)を形成する流れが主流になる。しかし、そういう流れに(ファシズムに反対を唱えるというようなマクロなやり方でではなく)抵抗したファミリーもあった。それは、外見的には全然「政治的」ないのだが、ファシズム国家とシンクロしたファミリー形態とは一線を画していた。それが、意図的であったわけではないが、とにかく、違ってしまったのだ。
ファシズム連合を作ったドイツ/イタリア/日本は、母系制ないしは母系社会の要素の強い国家である。要するに「かあちゃん」の力が強い。ファミリーは母親によって支えられている。そうした社会にとっては、もともと近代国家は無理なところがある。最も向いている国家形態は、分散的な地方国家であって、決して中央集権的で父権的な国家ではない。ファシズムは、母系社会に強引に父権制を導入する観念的な手続きであり、強引な「近代」化の方法だった。いつの時代でも、社会は、それ自体としては、別に「変革」を必要とはしない。テクノロジーとエネルギー資源の変化に伴う権力構造の変化によって「変革」が必要となるにすぎない。「近代」への変革は、機械テクノロジーと石炭資源とともに始まり、電気/電子テクノロジーと石油で一つのピークに達する。こうした変化を推進するために、ファミリー(家庭・家族)を小モデルないしは基礎地盤とする変革が始まった。要するにファミリー形態の変容だ。それまでの母親依存から、父親を際立った指導者とする形態が生まれる。それは、もともと父系制の地盤のあるところでは、無理なく進んだが、母系制の社会では、無理が生じる。その結果、「新しい」指導者は、極めて暴君的な「父親」か、「母の顔をした父親」とならざるをえない。イタリアのファシズムの指導者たちは、「暴君」とみなされるが、その実、「母の顔をした父親」の要素も持たざるをえなかった。その点では、日本の天皇が一番その要素を持っていた。ドイツでヒトラーはユダヤ人を「絶滅」しなければならなかったのは、ユダヤ人のファミリーが母系的な要素を強く持っていたからだ。
この映画は、父親ミケーレ(ソルヴィオ・オルランド)、母親デリア(フランチェスカ・ネリ)、娘ジョヴァンナ(アルバ・ロルヴァッケル)の3人から成るカザーリ家(ファミリー)の出来事を描く。時代は、1938年(次第にムッリーニが実権を握る)から1945年(ムッソリーニ政権の崩壊)、さらにはそれから8年後という10年以上の長いスパンにおよぶ。
【ファシズムとも伝統とも別のファミリー】娘のジョヴァンナは、生まれたときから、統合失調症的な障害を負っていたらしい。「繊細すぎる」のだと父親は言うが、それだけではない。そういう風に自己に言い聞かせながら、彼は、「普通」の父親以上に娘を庇護する。母親は、父親が娘を愛する分、娘に距離を取り、父親が「母親」のような機能を果たす。彼女は、同じアパートメントビルに住むミケーレの親友セルジョ・ギア(エッツィオ・グレッジョ)を密かに愛している。父親が母親以上に娘を愛しているファミリー、母親が身を引いてしまうファミリー、これはイタリアの「伝統的」なファミリーではない。ということは、このファミリーは、ムッソリーニ的なファミリーにもなれないということでもある。
【ファシズム・ファミリー】セルジョは、警部補であり、ムッソリーニの信奉者、つまりファシストである。彼は、家父長的な父親であり、一家を闇物品と警部補の特権とでしっかりと支えている。彼がジョヴァンナの名付親(ゴッドファーザー)であるというのも示唆的だ。彼は、カザーリ家が殺人事件に巻き込まれても、一貫してこの一家を助ける。ものを買うときにも、街で警察のIDを見せて特権を利用するのを除けば、彼は「温和」で「親切」な男である。このへん、ファシズムと日常性とが癒着関係にあることがしっかりと現れており、タランティーの『イングロリアス・バスターズ』のような、「ファシズム」と反・非「ファシズム」とがきれいに分離出来るような単純な描き方はしていない。そして、こういう父親が、ファシズムを支えることになったのだ。
【アルバ・ロルヴァッケル】ジョヴァンナがどのような精神病理学的な素因を持っていたかは、わからない。が、彼女は、「ヒキコモリ」と激情しやすい性格をあわせ持ち、子供のころから人間関係が難しかったらしい。アルバ・ロルヴァッケルは、そういう複雑な性格を入魂の演技で演じる。うしろのほうの、彼女が医療保護施設に収容されているときに彼女が、面会に来る父親のまえで見せる「狂気」は、凄い演技である。彼女は、この映画の演技で「デイヴィッド・ヂ・ドナテロ賞」の最優秀女優賞に輝いた。
娘を何とか励まし、助けようと、父親は、涙ぐましい努力をする。彼は、自分が美術を教える学校に娘を入れ、彼女がクラスのイケメン生徒ダルマストリ(アントニオ・ピス)に好意を抱いていることを察知すると、成績の単位と引き換えに、娘を裏切らないでほしいと頼む。このエピソードを映画はさりげなく描くが、これって、凄いことである。ここまで父親が娘の行動に介入するのは「異常」である。母親のなかには、このくらいやるのがいるだろう。そういう母親の息子ないしは娘は「マザコン」と呼ばれる。その意味では、ジョヴァンニは「ファザコン」であるが、そのコンプレックスのなかには「擬似母親」が混入している。
どの娘も、ある程度はみな「ファザコン」だが、それが夫婦関係を冷やしてしまうところまで行くと、尋常ではない。この映画で、母親は、終始、夫に対してある種の距離を取っている。このあたりを演じるフランチェスカ・ネリの演技は見事である。ところで「マザコン」も「ファザコン」も当人がそれを大なり小なり意識しているものだが、統合失調症的なジョヴァンナは、それを全く意識しない。父親の密かなアレンジを知っていたのかどうかはわからないが、とにかくそんなことは意に介さない。そして、ダルマストリが、彼女の親友マルチェッラ(ヴァレリア・ビレッロ)と親しくすると、激怒して彼女を殺してしまう。このシーンも、さりげなく描かれ、ボーっと見ていると、彼女がやったとは思えないかもしれない。
【ジョヴァンナとファミリー】「分裂症者[統合失調症者]は、まさに自らがもはや信じてもいない親の世界から逃亡している」(フランソワ・ドス『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』、杉村昌昭訳、河出書房新社、p.216)。ジョヴァンナにとって、父と母は「オイディプス」的ファミリーの父母ではない。
殺人犯になっても、自分が悪いことをしたとは思わない娘を、父親は献身的に助け、弁護士(これも友人でファシストのセルジオの紹介であるところが微妙)のテクニックで、刑務所ではなく医療保護施設に入れさせることに成功する。このくだりは涙ぐましいが、他方、母親の方は、一度も娘の面会にも行かない。
連合軍によるムッソリーニのイタリアへの空爆が始まると、父親は、ボローニャの市内から離れている医療保護施設に電車で行くことが出来なくなるというので、施設の近くの村に引っ越す。それは、妻への決別でもあり、彼女をダルマストにゆだねることでもあるが、映画は、このへんをどちらが原因でどちらが結果であるかといった「還元主義」的なやりかたでは描かない。
ファシズムの時代、それ以前にはムッソリーニを嫌っていた人々までもが、次第にムッソリーニを支持するようになっていく話は、映画でもよく描かれるし、現実にもあった。この映画では、セルジオ家のメイドのリア(リタ・カルリニ)がそういうキャラクターを体現する。すでにファシズムとシンクロするファミリーなのだから、それも当然である。
【ファミリー自体の矛盾】父親ミケーレは、一人の人間(娘ではあるが)を愛する者として当然のことをやったにすぎない。問題は、父親が母親にも優る献身をほどこすと、母親の方は立つ瀬がなくなり、ファミリー自体が崩壊の危機に瀕してしまうというファミリー形態である。それは、やがて「核家族」として、父親/母親の分業体制を確立して生き延びるのだが、それは、「近代民主義」国家に対応している。(実は、20世紀末から、にわかに、この「核家族」/「近代民主主義国家」とのカップリングがうまく機能しなくなってきたのだが、そのことはここでは書かない)。
【核家族でもなく】1946年、ムッソリーニとともにファシストたちが人民裁判にかけられ、銃殺される。この映画でも、警部補のセルジョはが処刑されるエピソードを映す。ジョヴァンナは、施設から解放されるが、その統合失調症的症候が治ったようには見えない。そして、それから、テレビが電気店の店頭に並ぶ1950年代になる。父と娘はいっしょに暮らしている。そして、二人は母親に再会する。三人がいっしょに歩く最終シーンは、ある意味で、この時代から定着する「核家族」の姿を暗示する。母親は、「伝統的」な母親にもどるのではない。彼女には、もともとその要素がない。言い換えれば、彼女はもともと「モダン(近代的)」だったのだ。だから、彼女は、イタリア的な「母系的」母親になることができなかった。が、時代が彼女に追いついた。しかし、たとえ「核家族」としての新たな出発をするとしても、長い空白ののちに、彼女にどんな役割があたえられるのかは、わからない。核家族は、父親と母親との分業体制をある程度再確立したが、相手を独占しようとする愛の欲望は、ファミリー(家庭・家族)という形態そのものと矛盾する。こうして、この映画は、ファミリーと国家そのものの存在に「アンチオイディプス的」(ガタリ=ドゥルーズ)な疑問符を付す。
(アルシネテラン配給)
「日本初の試写」。宣伝プロデューサみずから壇上に立ち、挨拶。近々ある記者会見のために来日したばかりのティム・バートンがプロデューサの的確なインタヴューに答えるというサービスもあった。宣伝するトップが、率先して宣伝するというのは、アメリカ方式であり、コンピュータの世界では、アップルのスティーブ・ジョブズが早々とやっていたが、宣伝の「見習い」に型通りの挨拶をさせるよりは、はるかに効果的である。
大いに期待を盛り揚げられたのち、場内が暗くなると、いきなりそれまでのムードを壊す「NO MORE 映画泥棒」が始まり、げんなりする。そのせいか、期待した本編は、退屈に見えた。インタヴューで、バートンは、「ルイス・キャロルの原作と3Dとの組み合わせに興味を持った」と言っていたが、実のところ、バートンなら出来たと思うことが、半分以下しか実現されていなかった。
わたしは、ティム・バートンは好きな監督の一人であり、この10年間の作品、『スリーピー・ホロウ』(1999)、『PLANET OF THE APES/猿の惑星』(2001)、『ビッグ・フィッシュ』(2003)、『チャーリーとチョコレート工場』(2005)、『ティム・バートンのコープスブライド』(Corpse Bride/2005)、『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』(2007)には、おおむね、高い評価を与えてきた。しかし、今回は、バートンとしては、原作へのアプローチが甘く、3Dも、子供サービスの域を出ないと言わざるをえない。
3Dに関して言えば、ルイス・キャロルの世界をあつかうのならば、それを単に「19歳の女性」アリス(ミア・ワシコウスカ)が「白うさぎの」の穴に落ちて気を失っているつかの間の時間に見た「夢」の表現に使っているというのは、お粗末だ。原作『不思議の国のアリス』ではもっと若い少女のはずなのに、なぜ「19歳」なのか? 19歳といえば、もう大人である。映画のアリスは、母親の言いなりにはならない娘であり、コルセットもストッキングも着けない。母親が仕組んだ見合いをボイコットする。彼女の意識の基底には、いまはなき父親への深い思いがある――父が健在だった少女時代への回顧という形で、原作の「アリス」が維持される。映画の最初の方で、夢を見て眠れない自分について、「あたしは頭がおかしいと思う?」と父親にたずねるシーンがある。そのとき、父親は、「そうかもしれない」、「手に負えなくて、気が狂っていて、頭がおかしいかもね」――「でも一つ秘密を教えると、偉大な人物はみなそうなんだよ」と答える。アリスは、父の価値基準に従って成長した子である。ある意味で、彼女のすべてを肯定してしまった父親のコンプレックスから逃れられない。一方に、夢見がちな自分があり、他方には、母親が代表する世俗的な社会がある。映画は、その「あれか、これか」ではなく、映画で描かれる「夢」の世界の経験を通じて、その両方を乗り越える女性の話になっている。そのためには、19歳という年令が必要だったのだ。
しかし、それならば、ルイス・キャロルでなくてもよかったのではないか? ルイス・キャロルの世界は、コンピュータによるVRやARの世界にも刺激をあたえ続けてきていることの一つは、異なる位相の世界(たとえば「夢」と「現実」)のあいだに明確な仕切りがないという点である。映画でも一応は出てくるが、アリスは「穴」の世界に入り込んでしまってから、自分の体を拡大したり縮小したりすることが出来る薬に出会う。知覚の変容が薬であるところが、ルイス・キャロルの時代(19世紀)のヨーロッパ文学に共通するところだが、コンピューター・サイエンスがルイス・キャロルに示す関心の根底には、キャロルの時代の「薬」(化学物質)が電子テクノロジーになったという転換がある。だから、いま、3Dの映像テクノロジーを使ってルイス・キャロルの世界にアプローチするとすれば、アリスの知覚の変容という点をしっかりと押さえなければならない。しかしながら、ティム・バートンは、せっかくの3Dを使いながら、アリスの体のサイズが変わることしか描いておらず、それにともなう彼女の知覚変化(それは半端ではないはず)にまでは迫らない。
「不思議の国のアリス症候群」(Alice in Wonderland Syndrome, AIWS) というのがあるが、これは、「知覚された外界のものの大きさや自分の体の大きさが通常とは異なって感じられることを主症状とし、様々な主観的なイメージの変容を引き起こす症候群である」という。この症候は、視覚というものが、主観的・相対的なものであり、さらには、視覚は、単なる「受容」ではなくて、「創造過程」なのだということを示唆する。アリスは、単に夢を見ているのではなくて、それを自ら「創造」しているのである。原作「アリス・イン・ワンダーランド」は、一人の少女の表の意識と無意識とが重層的な関係を持ちながら、通常「日常」といわれている世界と、あらたに生み出された世界とのシームレスな関係を例示しているのであり、その世界が、単に連続的な関係を持つのではなく、エッシャーの世界のようにたがいに「入れ子状」になっていることを示している。
観客がメガネを装着して見る3Dシステム (realD )は、まだ未熟であり、その「定式」もあいまいである。使い心地からしても、メガネをかけている者には、わずらわしい。表現は「定式」が出来、それを壊す形で新しい表現が生まれる。その点では、ジェイムズ・キャメロンの『アバター』は、バートンよりももっと深いところに迫ったと思う。しかし、まだまだこの世界は未開拓であり、ましてバートンが今回試みた程度ならば、2D映像でも十分表現できるだろう。しかも、この映画のヤマは「怪物」との闘いシーンなので、3D技術は、子供向きの効果にとどまっている。3D映画は、ページに印刷された文字のメディアと一層距離を置かざるをえないから、字幕のあつかいも、再考されなければならない。
仕掛けは複雑でも、使い方が未熟なので、登場するキャラクターは、単純明快であればあるほどアッピール度が高くなり、そのギャクに複雑なキャラクターは、生かされない。ジョニー・デップが、必ずしも彼でなければならないという印象をあたえなかったのも、そのためだ。
(ウォルト・ディズニー・スタジオ・モション・ピクチャーズ・ジャパン配給)
ジェフ・ブリジスがアカデミーの主演男優賞の有力候補になったとき、YouTubeなどの映像を見て、なぜ彼がこんなに有力なのかを考えた。とにかく、あちこちのサイトがジェフ・ブリジスを最有力に挙げていたので、この分では彼が賞を獲るのだろうと思ったが、映像を見るかぎり、そこにいるのは、いつもの彼であり、この映画での役がずば抜けているとは思えなかった。この映画の感じのジェフは、すでに『ビッグ・リボウスキ』で見ている。だから、今回の試写は、なぜ彼が賞を獲ったのかを最終的に解明したいと思いながら見た。
結論的に言えば、審査員たちは、まずこの映画自体を評価したのであり、そのトーンを代表しているジェフ・ブリジスを採用したのだろう。この作品は、『アバター』や『ハート・ロッカー』のような強い対抗馬がなかった場合には、作品賞にも推されたはずの作品なのだ。わたしは、必ずしもこの作品を高く評価するものではないが、いまのアメリカ、いまのハリウッドを支える映画人の好みからすると、非常によくわかる気がする。要するに、ある種の「60年代」ノスタルジアがあり、ジェフ・ブリジスのような臭さが歓迎されるのだ。
歓迎されるということは、そういう人物はもういないということでもある。バッド・ブレイク(ジェフ・ブリジス)は、相当のチェイン・スモーカーであり、アルコールもやめられない(映画では一回しか出てこなかったが)マリワナも気楽に吸う。ゴーイング・マイウェイで、家庭などかえりみない。他方、マギー・ギレンホールが演じる女性ジェーンは、4歳の子供を育てているシングル・マザー。都会人とはちがう、まだシャイで「つましい」心を残している。そういう女性をマギー・ギレンホールが絶妙に演じる。マギー・ギレンホールという役者は、その目の特徴からか、ちょっと現実からズレている女性を演じるのがうまい。カントリー・シンガーのバッド・ブレイクの滞在するわびしいモーテルに、地方紙の記者としてインタヴューにやって来るシーンで、ブレイクが、「あんたが来て、この部屋のひどさがわかったよ」と言うと、彼女が顔を赤らめる。要するに「美人だ」と言われたからである。すると、ブレイクは、「顔を赤らめる人を見るのは久しぶりだ」(字幕では、「いまどき顔を赤らめる女なんて少ない」)と言い、ここから、急速に二人の関係が接近する。
演技という点では、マギー・ギレンホールの方が、ジェフ・ブリジスよりうまかったとも言える。この映画のなかで彼女が見せる「つつましさ」や素朴さは、いまのアメリカでは絶対に受ける。女性が「強く」なったという意識が浸透してもう30年以上はたつが、人々はそういう意識に飽きている。他方、かつて、妻や子供を捨て、家から出て行った男を軽蔑していた女たちが、それなりに「自立」の方法を見出すという意識が定着し、そういう男を許すという意識が広まっている。ある意味での「父還る」が可能になったのだ。ブレイクには、24年まえに無責任に「捨てた」息子がおり、長い逡巡(しゅんじゅん)の末、電話帳で探した母親の姓をたよりに電話をすると、偶然彼の息子が電話に出て、話をするというシーンがある。が、さすが、この息子は、ブレイクを許しはしなかった。
わたしの周囲でも、あいかわらず結婚式は開かれるが、ことアメリカでは、最後まで「ママパパ」が離婚せずにそろっている家庭というのは、もう終わりつつあるような気がする。ならば、最初から「通い婚」のような形式にしたほうがいいと思うが、結婚式だけは、あいかわらず執り行われる。これは、不動産会社や弁護士の「陰謀」ではないかという気がしないでもない。しかし、本当のところは、国家と家庭・家族との関係が基本のところで変わっていないところから来る「保守性」である。国家は、依然として、「ママパパ」関係の家庭・家族つまりは「オイディプス・ファミリー」と手を取り合いながら、存続しているからだ。
もう一点、「60年代」ノスタルジアよりもさらに「古い」(というより、アメリカではそう「普通」ではない)人間関係がこの映画では描かれる。それは、ブレイクがかつて育てた弟子格にあたるトミー・スウィート(コリン・ファレル)が、一貫して師を立てるところである。ブレイクは、いまでは若いカントリーファンからは忘れられた存在で、(ユダヤっぽい)マネージャー(ジェイムズ・キーン)の言うままに町から町へ移動してしがないコンサートを開いているが、トミーの方は、いまではカントリーのスーパースターになっている。しかし、彼は、ことあるごとにブレイクが自分の師であることを公言してはばからない。日本の芸能界では、「俺がお前を世に出してやった」と威張る「師」、一生「よいしょ」している「弟子」がまだいるが、アメリカでは、後世まで師を立てる弟子は少ない。ときには、自分のゼミのレポートを勝手に使ったといって、師を訴える弟子もいる。そういうドライなところがアメリカのいいところでもある。おそらく、実際にトミーのような奴がいたら、何か魂胆があるのではないかと思われるだろう。現実にはなさそうなことを映画で見るからいいのである。
しかし、現実にはありそうでないことを描くハリウッド映画とはいえ、バッド・ブレイクが、愛するジェーンのためにアルコール依存を直すシーンは、あまりに安易である。彼は、もともとアル中経験者だという旧友のウェイン(ローバート・デュヴァル)に頼んで、AA(Alcoholics Anonymous=禁酒会)に入り、1年4ヶ月後には、「更正」して戻ってくる。しかし、映画は、彼が、AAの庭で、アルコール依存症の人々と輪を囲んで自分の依存症経験を告白しあうという、よくあるシーンのほんのとば口を見せただけで、1年4ヶ月後に飛ぶ。その間に彼がやったことが全く描かれないから、こんな簡単に依存症から脱出できるのだろうかという印象をおぼえてしまう。実際、アルコール依存から逃れるのは、そんな簡単なことではない。もっとも、ブレイクの依存症からの脱出は、ジェーンとの愛の回復にはあまり役立たないことになるから、このシーンは、この映画を「健康」な路線で終わりにする手段にすぎなかったのかもしれない。
バッド・ブレイクがジェーンのインタヴューに答えるなかで、影響を受けた歌手の名前がずらずらと挙がる。羅列すると、Lou Lubella、 Scottie、 Emmet Miller、 Georgia Wildcats、 Hank Willeams、 Gene Autrey、 Waylon Jennings、 Lefty Frizzelであり、またブルースの影響も受けたと言い、Sam Howes や Big Bill Broonzyの名が挙がる。ジェフ・ブリジスの歌は、彼自身が歌っているとのことだが、『ウォーク・ザ・ライン』でジョニー・キャッシュを演じたホアキン・フェニックスや、『ビヨンドtheシー ~夢見るように歌えば~』でボビー・ダーリンを演じたケヴィン・スペイシーほど本格的ではなく、ほんのさわりを歌っているだけだ。だから、上述の名前は、映画のせりふとしてのただの装飾にすぎないが、YouTubeに載っているファイルを参考までにリンクしておく。
あまり重要でないが、わたしが気になったシーンがある。それは、最初の方で、ボーリングアレイで演奏をするためにニューメキシコのクロヴィス(?)に車でたどり着いたブレイクが、演奏会場をチェックしたあと、地元の酒屋に行くと、トム・バウアーが演じる酒屋の主人ビル・ウィルソンが、バッド・ブレイクの姿を認めて、「あれまあ、ブレイクさんじゃないですか」と近づくシーンだ。彼は、ブレイクのファンで、ブレイクが「McClure's」というブランドのウィスキーが好みであることを知っており、さりげなくそれを袋に入れ、プレゼントする。ちなみに、このウィスキー・ブランドは実在はしないらしい。また、この「ビル・ウィルソン」という名前は、アメリカでAA(禁酒会)を創立した人物の名でもあるという。これは、なかなか意味深長なジョークである。さらに、このシーンで、ビルは、「実は妻のビヴァリーがあなたの猛烈なファンで」というようなことを言い、その夜の演奏には、彼女がかぶりつきで聴いているところがちらりと映る。そして、翌朝のシーンで、これもちらりとだが、ブレイクが宿泊するホテルのベッドにそのけっこういい歳の女がいぎたないかっこうで寝ていて、ブレイクは、彼女をそのままにして忍び足でモーテルを出るというシーンが続く。わたしは、クレジットされていないこのビヴァリーという女性を誰が演じたかが大いに気になった。
(20世紀フォックス映画配給)
ギャスパー・ノエは、新作が発表されると大いに期待する監督の一人だった。『カルネ』、『カノン』、『アレックス』は、みな、とりわけその肉体的暴力の偏執的な表現に感心させられた。非常に「主観的」な映像と編集も面白かった。だから、今回も期待した。早い試写が日仏会館であったが、あそこのスクリーンはあまり好きではないので、試写室での上映を待ち、いま見て来たところだ。が、結論から言うと、がっかりした。ヤバイよ、これは。いつもなら、ノエの表現が「過激」すぎて言われるかもしれないこの表現が、今回は、こんな手抜きの映画を撮っていたら、これからヤバくなるよという意味で使わざるをえない。
音は、決して悪くはないが、新しさがない。全体として、クラブDJノリであり、その意味では、この映画は、映画館でではなく、クラブのプロジェクターで映し、色々なDJが別の音を加えながら見せたら、何とか生かせるかもしれない。
東京が舞台であるということになっているが、まるで「国籍不明」である。東京をノエらしい俯瞰で撮って行く映像が、クラブやストリップ劇場や「ラブ・ホテル」の室内までシームレスに侵入し、さらには、女の膣や子宮のなかにまで入り込んで行くスタイルは、悪くはないが、今回は映像の質があまりに安すぎる。それは、ドラッグにラリった人物の主観的な意識とないまぜになっているという見方もできるが、それは、言い訳でしかない。映像として、全然面白味がないのだ。
これまで見た3作は、映画で特定されている場所をあまりよく知らないから、気づかなかったが、東京が舞台であるということになっている本作では、「被写体」とその設定のあまりの杜撰(ずさん)さが気になった。たとえば、オスカー(ナサニエル・ブラウン)がバー「VOID」で、麻薬の手入れに遭うシーンで、闖入(ちんにゅう)する警察官の一人は制服を着ているが、まるで20年まえの警察官のような帽子と、いまではどこかのセキュリティ会社の社員が着ているような制服を身に着けているのだ。パトカーや救急車も、現実感がない。そのくせ、ケータイはよく見えるから、時代設定は「いま」なのである。
追われてトイレに逃げ込んだオスカーは、粉を水に流すが、ドアの外からいきなり撃たれてしまう。拳銃を所持しているという疑いをかけられたからというが、(白人の外国人に対して)日本の警察はこういう「無茶」なことはしない。オスカーは「外国人」のはずだから、そんなことをしたら(しかも、検視もされずに火葬にふされてしまう)、外交問題に発展することが必至だからだ。日本の権力は、外圧を過剰に気にする。いまここでは、ノエが、そんなことも知らなかったのかどうかはどうでもいい。問題は、ディテールの描写や設定がそんな大味なのなら、この映画自体が、大味に作られているにちがいないということだ。
オスカーは、子供のとき、妹のリンダと母といっしょに、父親の運転する車に乗っていて、事故に遭い、両親を失っている。そのときに事故の映像がくり返し映され、見ている方もトラウマになるかのようだ。オスカーとリンダは、「いま」ではいっしょに住んでいる。オスカーは、ドラッグのディーラーをやり、リンダは、ストリッパーをやっている。二人のあいだには、近親相姦的な関係があるらしいが、それは、はっきりとは描かれない。しかし、ニューヨークからやって来て、日本に住んでいるという割には、どちらも甘すぎる。毎日ラリりながら、電話がかかってきたときだけ、手持ちのドラッグを特定の人間に売るというオスカーは、まあいい。ドラッグと「労働の拒否」/「怠惰の文化」とは背中合わせである。彼がどんなにぐうたらでも、それは絵になる。(それにしても、ナサニエル・ブラウンの演技はひどいけれど)。だが、リンダのような大人の女が、日本人らしい男マリオ(マサト・タンノ)とセックスして、すぐに妊娠してしまうのは、馬鹿じゃないかと思う。まあ、これも、堕胎のシーンを映したいために、そういう設定にしたのかもしれないが、ニューヨークから来て、ストリッパーをやっている女にしては、あまりに「未熟」に見えるのだ。いや、そういう女はどこにでもいるとしても、この映画の登場人物としては、全然不釣り合いなのである。
「つりあいなんか求めてないよ」とノエなら、言うかもしれないが、じゃあ、オスカーが「DMT」をやったときの意識をシンクロさせたとしか読めない映像が、どいつもこいつも、ありきたりの「フラクタル」的映像なのは手抜きではないのか? YouTubeを探せば、「DMT」を飲んでセックスしたときに頭に浮かんだ映像ですといった安い映像があちこにに載っている。しかし、そうした映像は、脳から直接はみ出して来たものではなく、それを思い出しながら、安い映像ソフトで作ったものである。そいうものを安易に流用したかのような映像をノエが作るべきではない。「並の」使用者には表現できないような表現をしてこそ、映像クリエイターではないか。
とにかく、月並みな映像が多すぎる。画面に、縦に割れ目のある丸いものが映ったので、何かと思ったら、それは、膣に挿入されたペニスの亀頭を子宮の内側から撮った(という設定の)映像で、そこからカメラが引くと、子宮内部が映り、精子が卵子に向かって泳いで行く様が映ったりする。おいおい、生物学の教育映画じゃないだろうと言いたくなるような映像だ。基本の路線が全然違うから無理だとしても、同じ「亀頭」を見せるのなら、『ブルーノ』の方がよほど面白い(但し、日本公開版では修正が入っていて見えない)。亀頭ではないが、ノエも、『アレックス』では、ペニスをもっと効果的に使っていた。ヴィンセント・ギャロが、路上の「売春婦」に、探している復讐の相手の名を聞きだそうとして、「おまえが本人じゃないか」と疑われると、その「女」が、「あたしは女じゃない」という表現として、スカートをまくりあげて、ちらりとペニスを見せるシーンだ。ほんの一瞬のシーンだが、なかなかうまい見せ方だと思った。
「アートとポルノとのあいだに境界線はない」とノエは言ったことがあるらしい。たしかに、この映画には、ポルノ映像に近いシーンがかなりある。しかし、大島渚の『愛のコリーダ』にくらべれが、本作は、ポルノには一線を引いている。この映画には、むしろ「ポルノ」を避けようとする(つまりは配給のことを考えて?)意図的な構図やショットが目につくのだ。あまりポルノを甘く見ないほうがいいだろう。ポルノの世界は、ノエが思う以上に進んでいるかもしれない。
ギャスパー・ノエは、とっくにフロイトなんぞは越えているのかと思ったら、この映画はまるでフロイトかラカン止まりなのにもがっかりした。くり返し出てくる交通事故での両親の死、両親のセックスをドアの隙間から見てしまった記憶、兄妹の「近親相姦」的関係、オスカーがドラッグを売る若い友人ヴィクター(オリー・アレグザンダー)の母親とのセックス・・・こうしたことへの罪責感が、オスカーの薬物依存やリンダのセックス依存(でもないけど)と結びつけられているような設定が感じられる。また、自分の母と寝るオスカーへの復讐としてオスカーの密売行為を警察に通報するヴィクターの意識も、さらには、オスカーの死を、ヴィクターがリンダを愛し、子を産ませて(先述の受精シーン)「オスカー」を「再生」させるかのような無理な(?)な構成も、きわめてフロイト/ラカン的である。
『アレックス』では、時間を逆にたどる見せ方が面白かった。本作でも、最初から、オスカーはすでに警官にトイレのなかで殺されており、映画全体が、死の世界からのオスカーのモノローグで構成されているように思わせるところもある。しかし、それは全然成功していない。何回か『チベット死者の書』のことが出て来て、「生者」と「死者」の世界がシームレスにつながっているような言及がある。前述の「再生」もここにつながる。しかし、そんな本の名を出しても、映像のレベルがつりあわないから、映画としては、全然面白くないのである。
(コムストック・グループ配給)
結婚式をまえにした花婿ダグ(ジャスティン・バーサ)とその義弟となる予定のアラン(ザック・ガリフィアナキス)、「悪友」のフィル(ブラッドリー・クーパー)とステュ(エド・ヘルムズ)の4人は、最後の独身期間を「無礼講」で楽しむバチュラー・パーティをやろうと車でラスベガスを目指す。フィルは、中学の先生、ステュは、結婚予定の彼女がいるという身で、「悪徳の街」(シン・シティ)に行くには、内心後ろめたいものがある。ステュは、ワインヤードめぐりをすると嘘を言って出てきた(これは、『サイドウェイ』を意識している?)。ところが、ホテルにチェックインして、屋上に登って騒いだりしたあと、目が覚めてみると、3人はとんでもない光景を発見する。部屋のなかを鶏が歩いている。バスルームには虎がいる。ステュの歯が1本ない。クローセットには、アジア人の赤ん坊がいる。そして、花婿になるダグは行方不明。あとは、どこかに書かれているだろうから、やめておく。とにかく、見るほうも、その意外性に爆笑してしまう。
原タイトルの「hangover」は、二日酔い、酩酊、薬物でラリった状態ないしは、そういう状態の持続を意味するが、日本では見てもわからない人がいるかもしれないのでちょっと「ネタ」をバラしておくと、この映画は、通称「ルーフィーズ」(roofies)と呼ばれるドラッグ「Rohypnol」をまぜたビールを飲んで丸2日間、記憶が飛んでしまう――2日間ラリったが、それが思い出せない話なのだ。ちなみに、「ルーフィーズ」は、「デイト・レイプ」のドラッグとも言われ、それをこっそりアルコールのなかに入れ、相手が悪酔いしたような状態にして、自宅に送ったり、ホテルに連れ込んでレイプするといった行為に使われる。『エンター・ザ・ボイド』にも出てきた「GHB」や「ケタミン」も同系統の薬物とみなされる。
この映画を見ると、アメリカと日本とのドラッグ・カルチャーの厚み、そしてハメのはずし方の違いを感じざるをえない。法的規制は、アメリカ(州によるが)も日本(「麻薬特例法」では最高が終身刑)と大差なく厳しい。しかし、映画でのドラッグのあつかいは、アメリカと日本とでは大違いである。映画にドラッグが登場すれば、それだけ「麻薬汚染」が広がるとは思えないし、映画は映画だと思う。とはいえ、アメリカとて、アベル・フェラーラの『バッド・ルーテナント 刑事とドラッグとキリスト教』(新作『バッド・ルーテナント』との比較参照)のような作品をおおぴらには作らない。異例の大当たりを取ったこの「ハングオーバー」は、推定予算は$35,000,000(『アリス・イン・ワンダーランド』の7分の1)で、しかも、公開1ヶ月で簡単に元を取ってしまった。この映画のポピュラリティには、ドラッグをあつかいながら、それが、自分たちでは(アランを除いて)「ドラッグ」とは知らなかったというカラクリを映画のなかに仕込んでいるところが大いに影響している。が、そういう絡め手を用いても、日本でこういう映画を作れば、最初から否定的な目で見られてしまうだろう。つまらない日本!
ザック・ガリフィアナキスが臭さ~あく演じるアランは、相当イディオシンクラティックな男。4人でバチュラー・パーティに行くことが決まると、いきなりナイフで手の平を切り、誓いの儀式をみんなでやろうとする。いつも「オイ、オイ」という感じ。が、こいつは、ギャンブルの天才。
ステュは、強制収容所にいた祖母の形見の石で作った結婚指輪を用意しているが、いっしょに住んでいる女性トレイシー(サーシャ・バレーズ)とはやや冷え切った関係になっている。いずれにしても、ステュがユダヤ人であることがこの映画では強調されている。この映画のなかでこの人物に当てられている焦点が他とはちがうので、ひょっとすると、監督のトッド・フィリップスは、ユダヤ系なのかなと思った。ステュが「知らずに」結婚式を挙げてしまう相手ジェイド(本業はストリッパー)を演じているのが、あの「恋多き」ヘザー・グラハムだ。彼女がステュとの「別れ」で見せる屈折した愛のこもったような表情がなかなかいい。グラハムでなければ演じられない。
表情といえば、この映画では、ちらっと見える表情に手抜きがない。4人が車でヴェガスに向かうハイウェイで、馬鹿騒ぎをして興奮したアランが走行する隣の車に向かって叫び声を上げると、車の後部座席に一人で乗っている少女が、「ファック・ユー」の意味の指を立てる。この少女の態度に存在感があり、「この人何者?」という印象を残す。
もっとすごいのは、クローセットにいきなり姿をあらわし、男たちを困惑させる赤ん坊。場面場面で実に個性的な表情を見せる。飛んだ記憶の一つを知って度肝を抜かれたステュが口のなかの飲み物を噴射すると、それがこの子にかかり、驚いて泣き出すシーンもあり、赤ん坊にこんなことをしていいのかなとこっちが心配になるくらい。が、これは、赤ん坊としてはあたりまえの反応だが、さも幸せそうな、穏やかに隣の人の顔を見ているような自然な表情のシーンはどうやって撮っただろうかと思った。実は、この赤ん坊の撮影には、3組の双子やダミーの人形も使い、手をかけて撮ったという。
とにかく、消えてしまった記憶が、次第に解き明かされるプロセス、そのきっかけになる意外な人物たちの登場が、すべて爆笑ものなのだが、あとは見てのお楽しみ。
(ワーナー・ブラザース映画配給)
ソラニン 【前出】。
シャッター・アイランド (この映画で、スコセッシの主要テーマが「パラノイア」であったことがわかる。タクシーの「密室」から孤島の医療刑務所まで拡大されても、基本は変わらない)。
第9地区 【前出】。
月に囚われた男 【前出】。
アリス・イン・ワンダーランド 【前出】。
17歳の肖像 【前出】。
オーケストラ! 【前出】。
クロッシング 【前出】。
ジョニー・マッド・ドッグ (気を滅入らせる意味では今月最高。少年がポルポトの少年兵士のように変貌して行く恐ろしさ。その先には虚無しかない)。
プレシャス 【前出】。
ボーダー (鍵を暗示しながら、その予想を裏切る結末に、「そりゃないよ」と言いたくなるが、そのヒネリ具合が面白い。デニーロ65歳、パチーノ68歳の作品ながら、演じる人物たちは精力旺盛)。
スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド (なまりの強い英語をまくしたてる「思想家」のしたたかさが鼻につくが、次第にその魅力に惹きこまれて行く。映画の声の分析のところなど、「理論」に合う作品だけを選んでいる感じもするが、そのお手並みは見事)。
ここに登場する男たちは、かつてグレていたが、その後就職したりして、幾分歳をとった。みな、「ワルガキ」から「少年愚連隊」になり、それから「大人」になったような世代である。自衛隊に入っていたのもいる。お笑い芸人を目指しながら、まだバイトで食いつないでいるのもいる。そういう過去を持つ連中が、昔の「連帯」と「暴力」をよみがえらせるという方向に進むが、どうもそれがサエない。井筒は、むしろ、時代が変わったこと、もうそういう「連帯」や「暴力」が存在する余地がなくなったことを描こうとしているのかもしれないが、どこか及び腰だ。チラシには、「R‐15指定=中学生は鑑賞不可」と書かれているが、その対象となっているはずの暴力シーンも、思いもよらぬ方向に暴力がエスカレートして行く虚しさや怖さは、出ていない。根底に虚しさを持つ集団的暴力の表現としては、最近のものでは、『ジョニー・マッドドッグ』が凄かった。また、『息もできない』は、まさに「暴力の現象学」のような映画だが、その最後のほうで「新世代」が見せる暴力は、まさに無の暴力――それがなにものにも通じない、その中心に空虚な穴があいている暴力だった。
井筒は、例によって、出演者たちにかなりハードな撮影を強いたらしいが、しかし、映画が示唆する登場人物たちの持つらしい「過去」のわりには、鬼丸というワルを演じた阿部亮平以外は、みな「やさしい目」しかできない俳優ばかりだ。もとは相当暴れ、その後自衛隊に入ったという設定の石川勇気を演じる後藤淳平は、途中から、かなり屈折した目をするようになるが、しかし、とてもそういう過去を秘めた目の表現には至らなかった。
わたしは、この映画に暴力表現への新しい切り込みを期待したが、それがかなわなかったので、ファミリー(家族・家庭・組・党派)という観点でこの映画を見たことにした。そのほうが、面白い要素を発見できるだろう。この映画の登場人物たちは、それぞれ異なるタイプのファミリーに属している。田舎に父母がいる、ある種「あたりまえ」のファミリーを持っているのは、鈴木ユウキ(福徳秀介)だ。彼の母は、折にふれ、田舎の食べ物などを東中野の彼のアパートに送ってくる。自衛隊にも勤め、いまは配管工をしている石川勇気(後藤淳平)の母は、彼が彼女の家に帰ると、若い男とセックスをしている。ある意味で「崩壊した家庭」である。ユウキとお笑いコンビを組んでいたことがあり、いまも発作的にやりたい放題のバカをする癖が抜けない剛志(桜木涼介)は、鬼丸(阿部亮平)という、明確ではないが、どこかの「組」と関係のあるらしいヤクザ気取りの男とある種の徒弟的「ファミリー」関係を維持している。だから、剛志は、バイト仲間のノボルが彼の彼女に手を出すと、鬼丸に頼んで、ノボルに焼きを入れてくれるように頼む。ここで「徒弟的」ファミリー関係が始動し、鬼丸がノボルをやっつけ、金まで脅し取るが、いっしょにいたツトム(米原幸佑)とユウキがとばっちりを受ける。そのことをツトムから聞いた兄の拓也(林剛史)は、昔の「ファミリー」(ある種「愚連隊」的ネットワーク)の石川勇気に連絡を取り、勇気が「おもしれぇ、久しぶりに暴れてやっか」的なノリで助っ人にやって来る。ちなみに、ツトムと拓也の家は、父親が市長選挙の運動中で、母親もその応援に入れ込んでいる――要するに、名声とビジネスを目指す功利的「ファミリー」である。家では、みんながそれぞれにケータイをやっているようなこの種のファミリーはいま増えている。
ファミリーは、色々な形態があっていいし、いいもわるいも、現実に多様なのだが、国家という存在は、ファミリーを「わかりやすい」単純な形態に統合したがる。この映画に出てくるファミリーでは、田舎に住み、夫婦で屋台を開いている、父母がそろい、一応「地道」に仕事をし、子供を気遣っているような形式のファミリーが、好ましいとされる。勇気の母の家は、「崩壊した」ファミリー、剛志や鬼丸のファミリーは、「暴力団」、ツトムと拓也の家は、「金と名声にしか目がない」功利主義的なファミリーとみなされ、肯定的には受け取られない。そして、実際、この映画自身も、その「わかりやすくて」単純な、一般的基準を肯定しているように見える。ここが、この映画のつまらないところだ。母の家庭をよしとはしない勇気は、調理師の免許を取って、石垣島に渡り、食堂を開こうと夢見ている。彼女のあさみ(ちすん)に子供がいることを知って動揺するが、すぐにその子と3人のファミリーを作ろうと決心する。この映画で中間的な役(ある種の道化)を演じるユウキも、最後は両親のところへ帰る。ただし、彼らが、そのままうまく行くかどうかはわからない。
井筒和幸は、近年ますます、映画よりも、「日本国家」を論じることのほうが好きであるかのような態度が目立つが、その点では、この映画からは、いまの日本国家への井筒の「悲しみ」のようなものが伝わって来ると言えないこともない。しかし、国家に関心のある人は、とかくして、「あれか、これか」の判定しかせず、本当は能動性や創造性に転化するかもしれない「多様化」を単なる「混乱」や「崩壊」の序曲として受け取ってしまう。この映画で描かれる「バイオレンス」は、「多様化」した「ファミリー」のそれぞれの歯車が不幸な連結を起こしてしまったところから凝縮的に生まれたアキシデントである。その「連結」は、別様でもありえたのだ。それをこういうやり方で描いたのでは、何も生まれない。国家ならば、そういうアキシデントを「犯罪」と呼んで切り捨てるだろう。が、映画は、それを「犯罪」ではなく描くことが出来たはずなのだ。せっかく、ファミリーの「多様さ」を出したのなら、そのファミリー間の共存不可能性ではない側面をもっと想像力豊かに探ることもできた。が、そのときは、決してこの映画のような「悲劇」的なトーンにはならないだろう。井筒は、「悲劇」よりもドギツイ「喜劇」を撮るべきだ。
(角川映画配給)
リチャード・ケラーの評価の高い旧作『ドニー・ダーコ』のときもそうだった(とわたしは感じた)が、本作も、「深遠」のようでいて「コケオドシ」、「思わせぶり」のようでいて「けっこう真実をついている」ような両義性につきまとわれている。原作は、リチャード・マシスンの短編 「死を招くボタン・ゲーム」(伊藤典夫訳、原題:Button, Button: Uncanny Stories)で、こちらは、こんなにもってまわってはいない。
映画は、ある日、朝の5時45分に玄関のベルが鳴ったらしいことに気づく夫婦ノーマ・ルイス(キャメロン・ディアス)とアーサー(ジェイムズ・マースデン)が目を覚ますところから始まる。ノーマが階下のドアーを開けてみると、そこに「(その)箱」(原題)がある。やがて、アーリントン・スチュワードと名乗る、あごが半分えぐれた男(フランク・アンジェラ)があらわれ、その箱の説明をする。その装置のボタンを押せば、100万ドルをもらえるが、その代わり、二人が知らない他人が死ぬ。赤の他人の死と引き換えに現金をもらうか、それとも赤の他人を自分の隣人とみなすか。これは、「他者性」とは何かへのモラル的な問いに誘い(いざない)はする。が、映画はそれをそのまま追うわけではない。以後、まがりくねった話が始まる。
コケオドシだと思うのは、たとえば、サルトルの戯曲「出口なし」が2度登場するが、それは、サルトルの戯曲そのものとの関係よりも、単にそのタイトルを使いたかっただけという印象をおぼえる。最初は、ノーマが高校の授業でこの戯曲について触れる。次は、彼女と夫が、見に行く舞台が「出口なし」であるという設定。二人外出するとき、息子のウォルター(サム・オズ・ストーン)はベビーシッターのデナ(ギリアン・ジャイコブズ)にあずける。この子はもう赤ん坊ではないが、アメリカでは小学生でも、親の外出時にはベビシッターを雇うのが普通である。この女性が、やがて不可解な行動に出ることになるが、二人が出かける劇場でも、不可解な人物の姿がある。むしろ、「出口なし」の状況をかきたてるために、「出口なし」というタイトルを使ったのであって、別にサルトルの必要はなかったように思う。ちなみに、この映画は、「1976年のヴァージニア」という設定になっているが、サルトルがアメリカでこの時代に流行ったわけではない。
この映画に登場し、どうやら「異世界」にあやつられているらしい人間たちは、みな、急に鼻血を流す。どばっとではなく、話をしている最中にたらりと血が出てくるのである。おおむね、「闇の組織」の秘密を漏らしたときなどに出たと思う。が、これも謎めかされたまま最後までその理由は明らかにはならない。
箱を届けて来て、二人に「解説」をほどこしてくれる謎の人物アーリントン・スチュワード(フランク・アンジェラ)については、一応、1976年にNASAが行った火星探査の「バイキング・プログラム」に関わっていて・・・それにNSA(国家安全保障局)やCIAがからみ・・・というもってまわった話が持ち出される。アーサーは、NASAのために火星探査船で使う全方位カメラををデザインしたことになっているが、監督のリチャード・ケリーの父親は、NASAに勤め、そこで「火星ヴァイキング・ランダー・プログラム」に加わっており、火星表面の最初の写真を撮ったカメラの開発をしたという。また、彼の母は、映画のなかのノーマと同じように、事故でX線を浴び、足が不自由になったという。ノーマとアーサーは、彼の両親をモデルにしている。
そうだとすれば、息子のワォルターは、リチャード・ケリーの少年時代がモデルになっているのか? 映画のなかで、ウォルターは、(異界の謎の組織によって)視力と聴力を失い、自室から出られなくなる。要するに強度の「ヒキコモリ」状態に陥るわけだ。アーリントンによれば、彼がその「永遠の闇と沈黙の世界」から逃れるためには、アーサーがノーマをピストルで殺さなければならないという。ノーマは、そんなことをしたら夫は犯罪者になってしまうから、自分が自殺するだけではダメかと訊くが、それではダメだという。要するに、父親が殺人者=犯罪人になり、母親が死ななければ、子供は「ヒキコモリ」から脱出することができないわけである。簡単に言えば、家庭が崩壊し、しかも父親が第1級の犯罪者にならなければ、子供は「まとも」に生きることができないというのだから、面白いではないか? これは、国家と家族/家庭とがリンクした形で機能する現存のシステムを完全に否定するアナーキーな原理だからである。このへんは、「ヒキコモリ」が深刻な問題になっているいまの日本の状況を考えても、非常に面白いと思うが、映画は、そういう面を積極的に描いているわけではない。
こんな書き方をすると、わたしが、映画からテーマを引き出すことに関心があるかのように思えるかもしれないが、そもそも、「テーマ」などというものは、映画の製作者の側にとっては、製作を進めるためのレールにすぎず、また、観客にとっては「わかったつもり」になるための小道具である。わたしにとって映画の基本は、映像と音の空間に包まれ、知覚的・思考的な経験をすることである。だから、いま書いたような「テーマ」は、観念としてではなく、知覚・思考経験としてその場で直覚されるのでなければならない。しかし、その点では、この映画は、決してそのような「テーマ」を直覚的に経験させてはくれなかった。
(ショウゲート配給)
試写会場の東劇に入ったら、カウンターを持った人が、「試写ですか?」ときく。なんか人が多い。エスカレーターを登ったら、また「試写ですか?」ときかれ、そうだと答えると、「どうぞ」と先導され、劇場内に連れていかれた。大勢の人がいる。なんだ、キリスト教関係の団体に声をかけて、客を動員したのか?!と思ったが、すぐにそうでないことがわかった。『幸福の黄色いハンカチ』のポスターが見えたのだ。今回、『イエロー・ハンカチーフ』の公開に合わせて(逆か?)『幸福の黄色いハンカチ』のデジタルマスター版が上映されるのだが、今日はその一般試写なのだった。動員された教会関係の人で一杯になり、試写を見れなかったのは、メル・ギブソンの『パッション』のとき。会場はいまはなきヘラルド試写室だったのを思い出した。
この映画は、実は、カトリック教会、さらにはバチカンにも反逆する主人公の話をあつかう。宣伝で使われている写真だと、スール・スーリー(英語では「歌う尼僧」)ことジャニーヌ・デッケルスを演じるセシル・ド・フランスが「清純」な白い尼僧姿をして「明るい」笑顔を見せている。しかし、映画は、そんな「清純」な女の話ではないし、結末も「明るく」はない。もっと屈折していて、保守的な1950年代のベルギーでは、むしろ「パンク」的精神にあふれた女の話であり、「女」であることにも安住できなかったたぐい稀な人の実話の映画化だ。ジャニーヌ・デッケルスは、家を飛び出し、自分で修道院に入って尼僧になり、そこで世界的ヒットを飛ばす「ドミニク」で歌手になるが、結局、修道院を飛び出し、最後は、いっしょに住んでいた女性と心中をする。
ジャニーヌがレズビアンであったのか、それとも「性同一性障害」であったのかどうかはわかっていない。映画では、ジャニーヌは、ボーイッシュなメイクをしている。ネットで実在のジャニーヌの姿と声に接すことができるが、セシル・ド・フランスは、実在の彼女をよくまねている。1975年生まれのフランスが、20代から50代までのジャニーヌを破綻なく演じる。映画は、ファンタジーの装置だから、実際に似ているかどうかよりも、われわれがファンタジーする「ジャニーヌ」と、セシル・ド・フランスが演じる「ジャニーヌ」とがファンタジー的にかぎりなく接近すれば、それでいい。その意味で、彼女の演技は見事である。
明るい笑顔には、悲しい出来事や忍耐が隠れていることが多い。「ドミニク」という歌も、一見「清らか」で「明るい」が、それを歌ったジェニーヌは、決してそうではなかったし、それを歌った環境も決して「明るく」はなかった。時代は1950年代から1960年代の初め。表面的には、まだ「反乱の60年代」の華々しい気配はなく、冷戦の暗雲と冷気が深くただよっていたのだが、やがて訪れる大きな変化を予兆する出来事が起きつつあった。日本では、日米安保条約の改定をめぐる論争が始まっていた。アメリカでは、キューバ革命(1959年)への危機感が高まった。中東危機も深まる。ケネディ(アメリカ)、ド=ゴール(フランス)、フルシチョフ(ソ連)が同時期にデヴューする。韓国ではクーデターが起きる。映画の舞台となるベルギーは、1957年にオランダ、ルクセンブルグとベネルックス連合を形成したが、ベルギーのかつての植民地コンゴでは、反乱が相次いだ。表はまあまあ「明るく」ても、裏は大変だったのだ。
ジャニーヌが、家で母親(ジョー・デスール)と対立するのは、ただの個人的な感情のすれちがいからだけではない。寛容な父親(ヤン・デクレール)が経営するパンケーキの店を継いでほしいという親の気持ちと、アートなんかをやっていては食っていけないという不安から母は娘をしめつけ、娘は、それに反発するという悪循環だった。この時代は、どこもまだ「豊か」ではなかった。『17歳の肖像』にも、似たようなシーンがあった。いつの場合も、家の状況と国の状況とはシンクロしあっている。
ジャニーヌが修道院に入ったのは、一元的な理由からではなかったが、親への反発も大きな理由のひとつだった。それは、当時の修道院の状況から考えると、みずから刑務所に入るようなことだった。実際、映画で見られるように、その閉ざされた門、厳格な規律、私物の不許可、面会の制限、手紙の検閲、集団行動、規律に反すれば雨のなかでも戸外で縛られ、祈りの仕置きを受ける等々、むしろいまの刑務所よりも厳しい条件だ。その意味では、ジャニーヌは、反逆の子であり、当時としては非常に「ラディカル」な人だった。
美術学校以前からの友達アニー(サンドリーヌ・ブランクが実にいい演技をしている)は、同性愛者的に描かれており、早い時期からジャニーヌに愛情表現をする。彼女はそれを最初拒否するが、自分のなかに同性愛的感情があることを感じはじめていく。親も公認の男性ピエール(ラファエル・シャルリエ)には、性愛を感じることができず、親の目を盗んで、深夜にアニーの家を訪ねるようになる。しかし、当時のカトリック教育を受けた彼女は、同性愛者になることには抵抗があり、アニーとの縁を無理やり切ろうとするために修道院に入ったようなところも見える。
修道院は、非常に保守的な場所だが、そこにも新しい風が吹き込む。バチカンでは、1958年、ヨハネス23世が新しく法王の座に就き、ある種の「規制緩和」がはじまる。おそらく、そうした空気のなかで、カトリック教会のメディア戦略が始まる。ちなみに、プロテスタントのほうは、もっと早くからラジオ(やがてテレビ)を使った宣伝を開始しており、日本でもラジオの「ルーテルアワー」は1951年に開始された。映画のなかに、修道院のドキュメンタリーフィルムを作るプロジェクトを担当するデュボワ神父(ベルナルド・アイレンボッシュ)が登場し、彼がジャニーヌを発見し、レコードの発売、歌手としてのデヴューのきっかけをつくるところが詳細に描かれているが、このようなことは、バチカンの「規制緩和」の空気のなかで生まれたのだった。それは、彼女がいくら才能を持っていても、それだけでは実現しなかったことであり、また、彼女の才能と野心と当時の状況とが奇跡的にからみあうなかで実現したことだった。
映画は、そうした教会を描くときにも、それを一枚岩的には描かない。どんなに保守的な組織のなかにも、面白い人はいる。役職上、氷のような表情をしている者でも、ときには、やさしい顔をすることがある。そうした屈折とゆらぎを、修道院長役のクリス・ロメ、最年長尼僧役のツィラ・シェルトンが演じる。彼女が修道院に入ろうとするのをとめる、街の教区の神父ジャンを演じるヨハン・レイセンもなかなかいい感じを出していた。ちなみに、ツィラ・シェルトンは、フランスでウジェーヌ・イオネスコの舞台の多くに出演していた人だ。
しかし、教会は所詮教会である。だんだん、ジャニーヌが有名になるにつれて、その限界を露呈させる。刑務所化している空間が新しい表現やアートを許容できる限界は決まっている。ジャニーヌは、修道院を去り、シンガーソングライターとして生きようとする。が、さまざまな壁が立ちはだかる。まず、世界的に知られるようになったその芸名「Soeur Sourire」ないしは「The Singing Nun」は、教会とレコード会社が権利を握っていて、彼女が自由に使うことができないのだった。むろん、それまでに百万枚以上も売れたというレコードの印税もすべて彼女とは無関係であった。映画では、修道院が、レコードの収益を教会のために使えることをあてにして、彼女を大いに利用したことが描かれている。
「俗界」にもどったジャニーヌは、新しい家を買って、アンと共同生活を始める。そこから、プロデューサーのブリュッソン(フィリップ・ペータース)のサポートでカナダツアーをするプロセスは期待にみちている。しかし、それは、モントリオールの大会場で「ドミニク」を歌い、万雷の拍手ののち、アンコールに応えて歌い始めるまでのことだった。勢いに乗って、「ピルの歌」を歌ったのがまずかった。会場にいた神父の一人が教区の責任者に通報し、その情報はただちにバチカンにおよび、翌日から、ツアーの会場のキャンセルが始まる。相手が悪い。CIAより怖いと言われるバチカンだ。ジャニーヌの才能に惚れ込んでいるブリュッソンは、別の会場を探しまわり、最後は、ストリップ劇場やバーで彼女に歌わせるが、彼女のプライドが許さない。このへんも、厄介なアーティストをかかえたマネージャーの側から見ても、自分の才能を信じているのに、周囲が自分を認めてくれない不遇なアーティストの観点から見ても、面白い。
アンとの関係をスキャンダラスに報道されたり、当時のバチカンが頑として認めなかった産児制限を支持する者とみなされたジャニーヌは、どんどん孤立していく。しかし、バルビタールの瓶を手にしたジャニーヌとアンの最期のシーンは、信じがたいほど「楽しげ」で「幸せ」そうである。これも、ある種のラブストーリであり、ジェニーヌにふさわしい特異なラブストーリである。
(セテラ・インターナショナル配給)
パリのアメリカ大使館の大使(リチャード・ダーデン)のもとで働く有能な大使館員ジェームズ・リースを演じるジョナサン・シース・マイヤーズは、いい目をしている。この映画、キャスティングは、完璧で、彼の恋人キャロリン役のカシア・スムトゥニアクは、ふと見せる悲しそうな目が最後に活かされるし、今回スキンヘッズにして、ワイルドな感じを全開させるジョン・トラボルタも、彼としては新しいキャラクターを生み出すことに成功している。まあ、それにしても、彼演じるCIA諜報員チャーリー・ワックスは、よく殺す。絶対に怪我をしないから、こいつはスーパーマン以外の何者でもない。観客は、その超人的なアクションを楽しめばよい。ガンエフェクトとカーアクションは、なかなかのもの。
映画の古典的王道がアクションだ(った)とすれば、この映画はその定石を踏み、いい線を行っている。問題があるとすれば、アクション効果のためにはレイシズム的な表現や無慈悲な殺人表現も許されるのかどうかである。が、映画というものは、モラルを越えて突き進まざるをえないのだと思う。たとえば、戦争をどんなに「批判的」に描こうとも、「敵」を攻撃したり殺戮するシーンに共感をおぼえれば、あなたがある種の「殺意」をいだいたことには変わりがない。殺意は誰にでもある。問題は、にもかかわらず実際に殺すかどうかである。映画を見て、ある種の殺意が満たされたとしても、実際に人を殺していなければ、殺人ではない。映画で殺人シーンをくりかえし見れば、殺人者になるわけではない。もしなるとすれば、それは、別の要因が働いている。映画で人を殺すことと、実際に人を殺すこととの違いは、人を殺すことによってではなく、映画をたくさん見ることによって養われる。映画の殺人と、歌舞伎の立ち回りシーンとのあいだに、基本的な差異はない。
レイシズムも、モラル的観点から見たのでは、この映画を論じることにはならない。そもそも、映画は、本来、どんなに差別的な表現をしても、レイシズムとは関係がない。映画で「レイシズム」が問題になるとすれば、それが、映画として紋切り型であるかどうかである。映画は、想像力の装置である。だから、実際にありえないレイシズムを描がけば描くほど、それは、レイシズムについての思考や批判に刺激を与えうるものとなる。逆に、それが、紋切り型の「レイシズム」を描けば、レイシズムの描き方として単純すぎる(ステレオタイプ)として批判されても仕方がない。問題は、映画表現としての強度と深さの問題である。
その点では、この映画は、人種の描き方がステレオタイプである。それは、辣腕プロデューサーのリュック・ベッソンの選択でもある。商売人の彼は、ステレオタイプの大衆性を熟知している。それも、ある意味では、大衆映画の技法である。以下に、この映画で使われているステレオタイプを列記してみる:アメリカ大使館がCIAの支部であること(実際のところ、大使館員は、潜在的にみなそういう機能を持たざるをえないわけではあるが)/殺される「悪人」はほとんど白人以外/中国人→徒党を組む/中国人マフィアはコカインの取引を牛耳っている/イスラム系=テロリスト/自爆テロリストとは狂信的な信仰関係で動く/似ていれば、「インド人」俳優がイスラム系のキャラクターを演じるのもあり・・・。
ステレオタイプでも、ちょっとひねっていて面白いのは、少年ギャング。ドラッグの元締めを追って、スラム地域へ行き(そのときのジョン・トラボルタのせりふがいい――「こういうところはパリのガイドブックには出てなかったな・・・[ニューヨークのスラムで育った]昔を思い出すよ」)のアフリカ系の売人に案内されて、建物に入ると、少年たちがいて、彼らがいきなり銃を取り出して、トラボルタとマイヤーズをホールドアップする。これは、カンボジャのポルポトの少年兵の怖さを思わせるし、映画としては、古くは『カラーズ 天使の消えた街』、最近のものでは、『闇の列車、光の旅』や『ジョニー・マッド・ドッグ』のシーンを思い起こさせる。
ジョナサン・シース・マイヤーズが「いい目をしている」と書いたが、その目はどちらかというと、「ホモイロティック」(ゲイではないが、ゲイ的な)な感じだ。面白いのは、最後の方で、マイヤーズにカシア・スムトゥニアクが撃たれたあと、トラボルタの目が、同じようような目をしていることだ。ある意味で、この映画は、マイヤーズとトラボルタが「ホモイロティック」な関係に入っていく映画でもある。「同志」的関係には必ずそういう要素があるのだが、この映画での二人の目は、単なる「同志的」なものとは、少しちがっていた。
そういえば、サミット会場にテロリストが潜入するというので、トラボルタとマイヤーズが、CIA職員の運転する車を突っ走らせるシーンで、助手席に乗ったトラボルタが、ラジオのダイヤルを回すと、バート・バカラックの「Close to You」が聞こえて来る。トラボルタは、「ああ、これが好きなんだ」と言い、隣の職員に「何か言ったらどうだい? これは、あんたとおいらのことだろう」と言う。このとき聴こえるのは、この歌の「Everytime you are near ? /Just like me, /They long to be close to you/Why do stars fall down from the sky/Everytime you walk by/Everytime you walk by」の部分だ。車が猛烈なスピードを出しているから、「あんたと俺は一蓮托生だよ」といった程度の意味にもとれるが、もっと意味深にも感じられるた。ちなみに、この歌手は、カレン・アン・カーペンターではなくて、マット・モンロー。なお、明らかにこの映画の原題が意識しているテレンス・ヤングの『ロシアより愛をこめて』(From Russia with Love/1963)のテーマソングを歌ったのも、マット・モンローだった。
(ワーナー・ブラザース映画配給)
『ペイ・フォワード』以後、ミミ・レダーのフィーチャー・フィルムを見る機会がなかったので、期待したが、残念ながら、裏切られた。一体、ミミはどうしてしまったのか? 似た映画ですぐ思い浮かぶのは、フランク・オズの『スコア』だが、そんな小気味よさも、ひねりもない。
出演者は大物ばかりだ。モーガン・フリーマンを起用し、渋い演技では定評のあるラデ・シェルベジアや(レダーの傑作『ピースメーカー』でも、グレゴリー・ホブリットの『ジャスティス』でも、重要な脇役を見事に演じた)マーセル・ユーレス、しけた刑事がはまり役のロバート・フォスターといった俳優人は完璧だ。ただし、ラダ・ミッチェルを筆頭に、どの俳優もベストを演じ切れていない。というより、出演に熱が入っていない。シェルベッジアとユーレスは短い出番をそれぞれに破綻なく演じているとしても、肝心のアントニオ・バンデラスが全然よくない。非常に無理をしている感じがして、痛々しい。そもそも、ラダ・ミッチエルに「ロシア人」を演じさせるのは無理ではなかろうか?
一個所だけ、ロシアのバックグラウンドを持つミミ・レダーらしさが出ているシーンがあった。それは、盗んだロマノフ王朝の秘宝が木製であることに不満を表したバンデラスに、ラデ・シェルベジアが言うせりふだ。「あれは1917年のことだった。ロシア。人々は飢えていた。宝石なんかなかったんだ。ダイヤモンドなど残っていない。希望もなかった。しかし、皇后アレクサンドラは〔たとえ木製でも〕自分のミステリーエッグを所有せざるを得なかった。たぶんきみはわかるだろう、なぜわれわれが革命を起こしたかが。人々は、何かを信じる必要があったんだ。・・・俺は殺人者じゃない。ただの貧しい〔ロシア〕移民だ。たぶんきみと同じように」。このとき、バンデラスは言う――「そうは思わないね。俺はきみとは全然ちがう」。バンデラスの役柄は、革命のキューバを逃れてやってきた「移民」である。ここで、二つの「革命」が暗黙に比較されている。ミミ・レダーは、ロシアの最後の皇帝ニコライ2世の皇后アレクサンドラを銃殺した「革命ロシア」には反対なのだ。シェルベジアが演じている人物には批判的なのだろう。まあ、こういう観点から見れば、この映画も面白いが、ちょっと「内輪」すぎる内容だ。
この映画は、ニューヨークのブライトンビーチでロケをしている。ここは、別名「リトル・オデッサ」と言われ、ソ連時代に亡命したユダヤ系のロシア人が多かった。映画でもしばしば使われている。ここをもっぱら舞台にしたずばりのタイトルの『リトル・オデッサ』(Little Odessa/1994/James Gray)があり、ここを根城とするロシアマフィア(ティム・ロス)とその弟との悲劇を描いた。『ロード・オブ・ウォー』でニコラス・ケージが演じる男もこのあたりの生まれという設定だった。
(日活配給)
久しぶりに「大人」の作りの日本映画を見た。原作(永瀬隼介『閃光』)に負うところ大としても、全体を把握しなおし、優れた多数のカットに分解し、統合しなおした手並みは見事。三億円事件という、いまや1968年の日本を表象させる一つの神話と化した出来事への映画的イマージネーションを刺激して、大いに楽しませる。冒頭、火の輪が見えるが、それが、石油缶で作ったストーブのなかの火を起こすためにホームレスがその石油缶を振り回している火であることがわかる。なかなか暗示的な導入である。
全共闘運動が高まるなかで起こった三億円事件は、時代の気分としては、痛快な事件だった。実際には、この事件が、当時まだまだエスカレートしていた「反権力」運動側にとってプラスになったのか、それとも、この事件を利用して進められた警察のアパートローラー作戦にとってプラスだったのかはわからない。ただ、当時は、これほど世の中を騒がせた事件でなくても、何か事件があれば、それを利用してアパートを一軒一軒回って住人の身元調査をしたり、たかが赤信号を渡っただけの「活動家」を別件で逮捕したり、「活動家」が古本屋に立ち寄れば、後をつけて来た刑事が古本屋の主に彼ないしは彼女が買った本の名を尋ねたりといった奇奇怪怪なことが普通だったから、おおざっぱに見積もれば、この三億円事件は、権力に対して異議を感じている人間を元気づける方に役立ったのではないかと、わたしは思う。
この映画は、しかし、そうした三億円事件の「社会効果」には焦点を当てない。当時、憶測された単独犯説、政治的ないしは知能犯的なグループによる犯行説、警察による陰謀説といった諸説を統合したパラメーターを持ち出すのだ。つまり、全共闘グループ+不良グループの連合による犯行と警察の「特殊事情」とによる「迷宮入り」である。これは、事実ではないかもしれないが、サスペンスとしては、クレバーなとらえ方である。そして、この解釈は、サスペンスとして効果的であるだけでなく、この事件を単なる過去の事件として物語のなかにノスタルジックに押し込めずにいまの時代も続く権力の性格を思い起こさせる点でも成功している。
奥田瑛二が刑事をやるとすれば、その人物は「素直」な人柄の男であるはずがない。実際、彼が演じる滝口政利は、3年まえに愛妻(中田喜子)をガンで亡くし、一人暮らしをしている。定年まであと2ヶ月である。彼は、過去にあの三億事件の犯人を追い詰めながら取り逃がしたという無念な記憶がある。が、それよりも、奥田らしいシーンがこの映画には何箇所も出てくる。奥田が出る以上、彼が口にする食い物には最低限の気遣いがいる。映画には、最初隅田川死体で浮かぶラーメン屋の主人の捜査で奥田と渡辺大が尋ねるラーメン屋で出されたラーメン(奥田の旨そう食い方を見よ――ただし、食っているのには湯気が見えるが、運んでくるラーメンには湯気が立っていない)、極秘に情報をもらうために呼び出した刑事を招待する焼肉屋(テーブルの上の贅沢な肉や野菜)、一人暮らしの奥田が、自分で作ったトースト(目玉焼きと軽くあぶった厚切りのソーセージがのっている)、生ビールを旨そうに飲みながらつつく七輪の上のホルモン焼き、隅田川沿いの「おたふく旅館」で女将(烏丸せつこ)が作ったらしいおにぎり(それにそえられた新香とジャコ?にお猪口での酒)――決してこれ見よがしではないが、しっかりと撮っている。食のシーンがちゃんとしている映画に愚作はない。
半世紀もたてば、全共闘(映画では、当時流行の中国語略字を使って「全共斗」と書かれたヘルメットが見える――その全部が白いのには若干違和感があるが)の連中の人生も変わる。大病院の院長(宅麻伸)になったのもいるし、高級クラブのオーナー(かたせ梨乃)になったのもいる。家業(?)のラーメン屋(針原滋)を継いだ者も、(あいかわらず初志を貫徹して?)ホームレス(飯田裕久)になってしまったのもいる。暴力団の組長(ダイヤモンド勝田)は、別の系統か? いや、そういう全共闘もいただろう。あの時代、党派に属しているかどうかを問わなければ、誰もが「全共闘」だったから。
事件が起きれば、家庭に波風が立ち、それが地獄にまでエスカレートし、家庭崩壊が起こる。この映画は、そのへんの機微を正しくつかんでいる。事実は知らないが、この映画のなかの三億円事件で現金輸送車の護衛係は、責任を感じて自殺する。その首吊り現場を見てしまった6歳の息子は、事件の実行犯へ深い恨みをいだく。その子は成長して、記者(武田真治)となっても、そのことを忘れず、調査を続ける。/少年のころから事件を犯していた息子の父親(夏八木勲)は、警察官という仕事柄、ジレンマに立たされる。警察官の父親への反抗というのは、月並みが図式だが、父親が何らか社会的な機能を果たしているばあいの息子の「非行」は家庭崩壊の要因になりえる。そして、その子が長じて(奥村知史)あの三億円事件に関わっていたとなると、ただでは収まらない。このへんの描写はリアルである。
奥田とコンビを組む渡辺大は、ヘルス嬢(川村ゆきえ)と同棲している「進歩的」な刑事役だが、最初はあきれるほど下手。しかし、だんだんよくなり、最後に隅田川に飛び込むシーンでは、けっこう様になっていた。頭から撮ったかどうかはわからないが、とにかく、最初のほうがせりふもしぐさもダメだった。川村は、それっぽさを出していて、まあまあ。それっぽさといえば、警察官を演じる面々は、やや過剰。すべてが軍隊式で、時代錯誤。ところで、いまの刑事のなかには、犯罪関係の情報を得るためにデリヘル嬢なんかと同棲しているような「進歩派」も実際にいるらしい。要注意。
【最後に若干の批判】三億円事件は、すでに時効になっているのだから、いま実行犯がわかっても、罪に問われることはない。だが、その事件を迷宮入りさせたのが警察だったとすれば、その事実が明るみに出るのは、いつの時代でも警察にとっては不都合である。だから、犯人がバレそうになったとき、その人物の暗殺が始まった。その背後に警察がいるのは明白である。その意味で、この映画は、警察への確とした批判になっているのだが、あえて言えば、その点では、不十分である。なぜなら、この映画は、陰謀が警視庁内部だけのものとして描かれていて、検察のレベルは全く問題にされていないからである。もし、犯罪が起これば、検察庁(法務省管轄)が同時に動くから、警察のやることを検察が見逃すはずはない。検察がいしょにならなければ、この映画が描くような大きな陰謀は実現不可能である。犯罪の重さ軽さを左右するのは警察ではなく、検察であり、その検察が、いま、ますます末期症状的な横暴さをふるっているのである。その意味では、むしろ、いま警察を笑うことは、警察などは道具にすぎないとみなしている検察を見逃すことになる。このへんのことに関しては、郷原信郎「小沢狙い撃ちに見る検察の暴走と劣化」(『中央公論』2010年4月号)が役に立つ。
(角川映画配給)
絶対に負けないヒーローというのは、映画や劇だけの存在で、「現実」にはありえないことだが、じゃあ、映画にとって「現実」とは何かといえば、結局、フィルム上の光の変化が現実であり、一般に言うところの「現実」は、そういうヴァーチャルな現実の隙間から仄(ほの)見えるだけなのだ。その意味では、この映画の「殺陣」(マーシャルアート)やガンアクションは、小気味よい。痛快である。デンゼル・ワシントンのアクションは、『パリより愛をこめて』のトラボルタと互角、いやそれより上である。ワシントンは、スタントなしですべて自分で演じたという。
仕込み杖ではなく、大型のサバイバルナイフであるところが違うが、デンゼル・ワシントンが演じる「ウォーカー」ことイーライは、明らかに「座頭市」である。その旅のなかで出会う徒党(バイクに乗って旅人を襲う)の本拠地にでんと座って、権力をほしいままにしている悪党の親玉「カーネギー」(ゲイリー・オールドマン)は、さしずめ、やくざの親分である。こいつが登場するシーンで、本を読んでいるのだが、その大判の本の表紙には、「ムッソリーニ」とある。
イーライはなぜ歩く? 彼には、座頭市とはちがって、自己に課した使命がある。原題になっている「イーライの本」を運ぶためだ。が、その「本」には「the」がついているから、ただの本ではない。西洋人にとっては、「ザ・ブック」といえば、聖書に決まっている。で、その向かう先は「西」。敵たちをなぎ倒しながら行き着く「西」はサンフランシスコだった。
世界(少なくともここで描かれるアメリカ)は、キリスト教に依拠した政権によって、まさに若きリュック・ベッソンの傑作『最後の戦い』(1983)のような、あるいは、そのモデルであるはずのクリス・マルケル『ラ・ジュテ』(La Jetee/1958/Chris Marker )のような「ポスト・アポカリプス」的廃墟と化し、多くの人々が視覚を失ったりしている。愚かな戦争がオゾン層を破壊し、紫外線の直射が強まったのだという。
世界を破滅に導いた「キリスト教に依拠する政権」とは、G・W・ブッシュとネオコンのキリスト教右派を思い出させるが、そういう政権の失敗が明らかになったにもかかわらず「聖書」を守るというところが、アメリカのしがらみではないかとも思う。アメリカは、多民族・多宗教の国であり、キリスト教がダメなら、ほかの宗教もあるし、もしキリスト教で失敗したのなら、もう宗教そのものをやめてしまえばいいと思うが、そうはならないのが、伝統と記憶のしがらみであり、それしかないのかもしれない。が、イーライは、アフリカン・アメリカンの風貌(デンゼル・ワシントンが演じているのだから)をしているが、悪党は白人で構成されているところを見ると、この映画のなかのもう一つのキリスト教と聖書の存在は、さまざまな伝統のなかの一つとしてのそれらを守るという、文化と記録への愛の表現にすぎないのかもしれない。たしかに、イーライがたどり着く場所――アルカトラズ島――には、西欧文化の記念碑的な著作が並べられていた。
イーライは、歩く人、旅する人であり、記録を保持し、伝承する人である。伝統や民族の記憶は、いつもこういう形で保持されて来た。当然、その過程で変容や逸脱が生まれ、ヴァリアント(変異体、異文)が生じる。聖書はもとより、古いテキストは、口承(こうしょう)で引き継がれ、書かれたテキストも、いまのようにオリジナルなきコピーマシーンはなかったから、手書きで伝承された。中世ヨーロッパの修道院では、さまざまな書物が書き写されたが、それを行うのが「書記生」の仕事で、彼らは気分次第で、自分の考えを書き加えたりもしたらしい。となると、伝統や伝承とは何であるかが問われる。現象学のフッサールは、「伝統とは起源の忘却である」と言ったとメルロ=ポンティが書いている(「哲学者とその影」、『シーニュ』所収)。わたしは、それをフッサールがどこで書いているのかを探したが、ついに見つからなかった。メルロ=ポンティは、フッサールの遺稿をルーヴァンのフッサール文庫で閲覧したから、それは遺稿のなかにあったのかもしれない。が、いずれにしても、「伝統とは起源の忘却である」という言葉自体が、その「起源」を忘却され、「伝統」になる。
一冊の本なり、人類の遺産的な記録媒体がある場合、それをあつかうやり方には、二様ある。一つは、それを継承し、広め、そのユーザーがみずから活用することである。イーライはそうしようとしている。他方、カーネギーは、それを独占し、民衆を操るために利用しようとしている。彼は言う、「それはただの本ではない、兵器なんだ」。宗教も、その定義次第であるとしても、自らの維持するためにみずから信じる宗教と、「民衆のアヘン」としての宗教とがある。ネオコンたちは、たしかに、キリスト教を後者として利用しようとした。
カーネギーはイーライを泊め、自分の娘のソラーラ(ミラ・クニス)を一夜の花嫁として提供してイーライから情報を盗もうとするが、賢明なイーライは、その策略を見抜く。彼がソラーラにしたのは、食べるまえに祈ることを教えることだった。これは、極めてキリスト教的な習慣であり、それをこの時代の人々はこういう「敬虔」な習慣をすっかり忘れてしまったという設定である。アメリカ映画では、時代が右に傾くと、この種の身ぶり・習慣を強調し、復活させようとする映像が目立つ傾向がある。しかし、考えてみると、食前に祈るという身ぶりは、必ずしもキリスト教的と取る必要はないかもしれない。日本でも、わたしの母親などは、食事のまえに箸を捧げるようなかっこうをして目礼をしていた。昔の人は、どこの国でも「いま」よりは敬虔(けいけん)だったのだ。
終わりのほうで、イーライの衣装が、イスラムとヒンズーをまぜあわせたような白の衣装になり、頭髪をスキンヘッズにしてりまうのはなぜだろうか? 民俗学的・宗教学的な博学に尋ねてみたい。
カーネギーにしばしば虐待を受ける妻の役を演じるジェニファー・ビールズを見るのは、わたしは久方ぶりだった。すこし歳をとり、別のアウラが生まれていた。
悪党ながらカーネギーの冷酷横暴さには異議のあるナンバー2、レッドリッジを演じるレイ・スティーヴェンソンは、その屈折をうまく演じていた。
イーライが、カーネギーの攻撃を逃れながらたどりつく荒野の一軒家の夫婦(マイケル・ガンボンとフランシス・デ・ラトゥーア)の感じは、どこかで見たことがある。追いついたカーネギー一派が『ワイルドバンチ』に出て来るような機関銃で家を蜂の巣にするシーンも含め、思い出せないが、デジャヴュのようなシーンである。
イーライが使うマッチの箱には「KFC」(ケンタッキーフライドチキン)のロゴマークが見える。
最初の方で、カーネギーが支配する街に到着したイーライが、さまざまなジャンク品がならぶ店に入る。店主はいきなりイーライに銃をつきつけるが、あっさりイーライに奪われてしまう。その類人猿風の顔をした店主を演じるのがトム・ウェイツ。イーライは、バッグから箱型の電子機器らしきものを出す。店主が、「ああ、ファントム 900じゃないか、動くのか?」と言う。わたしは、最初、イーライがいつもつかっているiPod的な機器かと思ったが、それよりもはるかにサイズが大きい。で、ネットで「Phantom 900」を検索してみたが、そういう製品は見当たらなかった。「ファントム」は聞き間違いかもしれない。あるいは、架空の製品か?
(角川映画・松竹配給)
「田舎に住みたい」、「農業がしたい」と本気でのたまう御仁がいる。むろんそういう「田舎」はあるし、21世紀の「カントリー・ライフ」というガイド付の商品もある。そこそこの土地を区画して、木造の家と庭と畑のある場所。そこで、農園をやり、花を植え、野菜を作る。ハーブなんかも不可欠のメニューだ。もうちょっと気張って葡萄を植え、ワインをつくってもいい。ワインやジャムを作ったら、ブログの写真を載せよう。まあ、いいでしょう、暇と余裕があるのなら、やってみてください。しかし、この映画は、「田舎がいい」と礼讃する作品ではない。この映画を見て、そう思う人がいるとしたら、よほどのマゾか、この村の厳しい生活と自然環境が想像できない人に違いない。この映画は、「田舎」を美化しないし、農業の産業化に取り残された村を哀れむわけでもない。
映画は、小高い山の上の土道を車のなかから撮った映像からはじまる。山が見えるから、「田舎はいいな」と思う人がいるかもしれない。が、道路はたに立っている電柱や柵はとても手入れがいきとどいているとはいえない。むしろここは僻地であり、過疎地であり、忘れられつつある場所なのだ。だから、バックで流れる音楽(ガブリエル・フォーレの「エレジー 作品24」)もいかにも物悲しい。が、監督・撮影のレイモン・ドゥパルドンは、農業の「産業化」から取り残された農民とその生活を哀れむためにこのドキュメンタリーを撮っているわけではない。彼にとって、南仏のこのセヴェンヌの村とその住人たちは、彼の映画のなじみのロケ地であり、おなじみの「登場人物」なのである。それらが、他の世界から孤立しているとか、滅び行く運命にあるとかいうことはどうでもよい。結果的に、そういう映像世界が現出することになったとしても、それが目的ではない。
すでにドゥパルドンは、2001年に『農夫の横顔:接近』(Profils paysans: l'approche)を、2005年に『農夫の横顔:日常』(Profils paysans: le quotidien)を同じ場所と「登場人物」を使って撮っている。この村と村人からすれば、ドゥパルドン夫妻が車に撮影機材を積んでやってくるのは、ある種の「移動祭日」のようなものであり、楽しみであるはずだ。写真家でもあるドゥパルドンは、すでにこの村人たちを撮り、それが新聞に掲載さたこともあり、この村ではある種の「セレブ」になっている。当然、歓待もあるだろうし、酒や食事の宴もあるはずだ。しかし、この映画のなかでは、村人たちがそのときどきに食べたり飲んだりするものを薦められるようなシーンはあっても、彼が歓待されるシーンもないし、村人たちが盛大に食事をするシーンもない。大半は、この村に点住する農民たち(そのなかには村の男アランのところへ娘といっしょに都会から再婚してきているセシルのような女性もいる)へのインタヴューで構成されている。
その意味では、この「移動祭日」は、カメラを鏡にして、ドゥパルドンと村人とが対話し、対面することに終始する。それは、いわば、カットを無数に増やした静止画写真の連続であり、それに声が随伴する。これは、村人の「ありのままの生活」を写しているのとはちがう。もし「ありのまま」だとすれば、それは、彼や彼女ら(とりわけ高齢のブリヴァ兄弟シャライ夫妻など)がながいあいだ続けてきた「姿勢」と「対応」、人や自然への対応の仕方であり、「モダンな生活」からくらべるとはるかに「つましく」かつ「つつましい」態度である。実際、はるばる尋ねてきたドゥパルドンに対して、一人暮らしのポール・アルゴーは、タバコを吸いながらテレビに見入っていて、ドゥパルドンの来訪に無関心であるかのようだ。「都会流」にいえば、愛想がえらくわるい。が、そのとき彼が見ているテレビでは、フランスのカソリックのアベ・ピエール神父の葬儀の中継を流していた。「カソリックなの?」というドゥパルドンの質問に、「いや、プロテスタントだ」と答えていたから、神父の死を悲しんで無口になっているわけでもなさそうだ。つまり、これが彼には「普通」だということだ。お客が来たら、愛想よくしなければならないというのは「近代」(モダン)社会の脅迫観念である。そんなものにこだわってきたから、「近代」は終わるのだ。こう考えると、この映画が描く世界は、その「過疎」的な雰囲気にもかかわらず、「近代」よりもしたたかであるかもしれない。
「愛想」「笑顔」「大仰なゼスチャー」・・・そういうものは、ここにはない。そして、もし、「自然に生きる」(これをいまでは、い「地球にやさしく」と、環境のほうに視点を移し替えてりまう)つもりなら、エコロジカルな食事をしたり、アスレチックをやったりするよりも、しゃべりたくないときにはしゃべらないということ、やりたくないことはやらないということが先決だ、といわんばかりである。
この村は、物品や機械を優先する「モダン・ライフ」からすれば、すべてが「貧しく」、「滅び行く」過程にあるように見えるかもしれない。しかし、少なくとも「滅び行く」と思われる老人たちのほうが、はるかに「自然に」生きているかどうかはわからないが、言語に対して「自然な態度」をとっている。自分にさからって語ることはない。
この映画で一番「ドラマティック」なシーンは、ジャン=ロワ夫妻の居間のシーンである。例によって、カメラに向かい、ジャン=ロワ夫妻と、すでに初老の息子ダニエルの3人が座り、カメラの背後のドゥパルドンとなごやかなおしゃべりをしている。そのうち、どこからともなく黒い犬がやってきて、ダニエルの隣の椅子にポンと飛び乗り、ちゃんと座り、この「写真撮影」に参加する。ダニエルは、さりげなく、犬を撫で、首輪をひっぱったりする。最初は無視していた犬が、二度目に触られたとき、ダニエルの手を「うるさいな!」といわんばかりに噛むのである。むろん手加減をした噛み方だと思うが、この犬の態度が面白い。拡大解釈をすれば、この村では犬もまた、「自然に」生きているのである。「田舎はいいな」と思っている都会人は、まず都会で「自然に」生きてみではどうか? むろん、田舎の自然は、環境的には都会よりも厳しいだろう。都会には都会の「自然」がある。が、いずれにしても、「モダン」を代表する都会は、「自然」を失い、各人が自由にあやつることが出来る(はずの)世界になろうとしてきた。しかし、それが果たせないことがだんだんわかってきた。が、それならば、都会に「自然」をとりもどせばよいではないか。といって、それは、都会に緑をといった発想を言っているにではない。かつて都会にはあった「つましさ」と「つつましさ」の文化を見直すということだ。
(エスパース・サロウ配給)
25歳で夭折したイギリスの詩人ジョン・キーツ(ベン・ウィショー)の短い「晩年」が、史実にもとづいて描かれるが、カンピオンは、キーツが生きた19世紀の前半の時代のテンポと「空気」を映像のなかに溶かしこもうとしている。テンポは、19世紀の時間感覚に合わせるかのように、ときには眠くなりそうなくらい「ゆったり」しているが、キーツの死の知らせに文字通り「息をつまらせる」ブローンの激越な演技は、ジェーン・カンピオンが『ピアノ・レッスン』(The Piano/1993)でも示した独特の映像手法とあいまって、強い感動を呼ぶ。この映画は、よい劇場の大スクリーンでみるとき、その映像の100%の効果を体験できる。
冒頭、布に針を通している超アップが見える。裁縫をしているのはファニー・ブローン(アビー・コーニシュ)であるが、彼女は自分の服をすべて自分で縫うと告げる。映画のなかで見える服は、すべて彼女が縫ったということになるが、それは、まさに、キーツが詩と詠み、手紙を書くことに対応している。つまり、この映画では、<書くこと>と<縫うこと>とがアナロジカルな関係になっている。キーツの詩と手紙からの引用の言葉の多彩さと呼応するかのように、ファニー・ブローンが着ている服がひんぱんに変わる。19世紀のイギリスのコスチュームに関して、わたしはまったく無知だが、そのディテールと衣装換えの微妙な変化がわかれば、もっと面白く見れるだろう。
詩的なシーンがたくさんあるが、それもすべて「つましい」描き方をしながら、かつ華麗である。部屋のなかに蝶がたくさんいて、ブローンの手に留まったりしてるシーンがある。彼女の妹マーガレット(イーディ・マーティン)と弟サミュエル(トーマス・サングスター)が野外で採集してきて部屋のなかに放したのだ。部屋に入って来てその蝶が飛び交うのを見た母親(ケリー・フォックス)は、「空気を入れないと(死ぬ)」と言う。事実、しばらくして、その蝶がすべて死骸となって床に落ちている。このシーンは極めて暗示的である。ブローンは、「キーツから手紙が来ないと、わたしは死んだも同然、まるで空気がわたしの肺から吸い出されてしまったよう」と言う。また、最後の方のシーンで、キーツのイタリアでの客死を聞いた彼女が、次第に悲しみをつのらせて行き(このシーンは、この映画で最も激情的に描かれる)、泣き崩れてしまい、「息ができない」と母に訴える。キーツが手紙のなかで重ね合わせた蝶とファニーとの関係が、ここでも反復される。キーツは、彼女に、「わたしたちが喋喋であればいいなと思ってしまうこともあります。そして、夏の三日間しか生きなければいいなと」と書いていた。実際、キーツは蝶のような存在であり、蝶のようにはかなく死んだ。だが、残されたファニーは、蝶にはなれなかった。だから、彼女は野外をさすらい、彼に想いをはせる。
キーツの死の知らせを知ったあと、ファニーが雪のなかを泣きながら暗誦する「Bright Star」のあと、エンドロールにかぶって、ベン・ウィショーの声が流れる。彼が朗読するのは、「Ode to a Nightingale」(夜鳴き鶯によせる抒情詩)である。どちらも、宮崎雄行編『対訳sキーツ詩集』(岩波文庫)で読めるが、訳が古文調て実感が出ない。
キーツの仕事をサポートしつづけたチャールズ・ブラウン(ポール・シュナイダー)は、最初から、ファニーがいみ嫌う存在として描かれる。チャールズがキーツに同性愛的な意識を持っていなくもなかったと思うが、これも、19世紀的な調子で「あいまいに」描かれる。チャールズは、ブローン家のメイドのアビゲイル(アントニア・キャンベル=ヒューズ)に手を出し、妊娠させ、結局彼女と結婚するのだが、終始カッコよくはない男をポール・シュナイダーはたくみに演じている。ただ、キーツ自身が彼をどう思っていたかは、終始あいまいで、はっきりはしない。ファニーを恋していたことは確実であり、彼女こそ「輝ける星」(Bright Star)だったと思うが、それだけでもないような感じがする。
(フェイス・トゥ・フェイス配給)
冒頭、ひと気のないシャフト(高層のアパートビルに囲まれた狭い空間)の地上の苔むしたようなタイルのうえをカメラがなめるようにうごく。その瞬間、どかんという音とともに上から血だらけの人間が落ちてくる。ショッキングなシーンだが、この分だと、こいつはサスペンスかスリラーで来るかなという期待と予想がわく。だが、必ずしもそうはならない。落ちてきたのは、香港警察特捜班のタイ警部(チェン・クアンタイ)で、以後、病院に収容され、意識をとりもどさない。彼は、主席警部のレン・クォン(アーロン・クォック)と捜査に従事していたらしいが、このレン警部は、タイが落ちてきたあたりのベランダで倒れており、病院で意識をとりもどしたときには、その間の記憶をすべて失っている。彼には、妻(チャン・チュニン)と息子(タン・チェンヤッ)がおり、「普通」に「美しい」妻と対照的に妙にオタクっぽいメガネをかけた息子の姿がちょっと気になるが、特に異常なことは発見できない。
だから、レンが、同僚のクァイ(チョン・スファイ)と事件の謎を追うなかで、レン自身が犯人ではないかという気になってくる。そういえば、宣伝のポスターで不気味な薄笑いを浮かべている男の顔は、アーロン・クォックのものだった。こいつが狂っていて、アパートの階上で同僚の体にモータードリルで穴を空け、失血状態にして突き落としたのだ、と。そういう推理を立証する証拠が、以後、どんどん出て来て、なんだ、ありがちな主人公=狂気ものなのか、と先が読めた気になる。だが、そうではないところがこの映画の面白いところ。ストーリーを明かして「ネタバレ」になるような映画にロクなものはないとかねがね主張し、「ネタバレ」警告人から何度もクレームをいただくわたしとしては、この際、その「ネタ」を書いてしまいたい誘惑にかられるが、その一発勝負的なネタの奇抜さには、すっかり頭が下がり、今回はそのことには触れないことにする。
ある意味で現代的な「イジメ」と復讐、家族・家庭というコンセプトの終焉というテーマ、他方でアジア映画でなければリアリティをもちえない奇想天外な怪奇譚・幻想物語の要素をこき混ぜた、ブッ飛んだアイデアがここにある。それにしても、「不老症」と「早老症」とは考えたもの。とはいえ、このくだりも最後には相対化され、映画の「真実」は、観る者が自分で決めるしかない。ここは、『シャッター・アイランド』の「結末」と似ていなくもない。予告編も、香港の限られたサイトにしかないようで、これは、映画館で見るしかないだろう。見て損はない。
(ツイン配給)
この作品、力作だと思う。が、試写を見て、すぐに以下で敷衍するパラグラフを書いたまま、仕上げることなく、時間がたち、一般公開がはじまった。この作品は、「ネタバレ」を犯さないと十分なことが書けないような作品の一つで、やっかいなので後回しにしているうちに、日がたってしまったこともある。ここに書いていない作品には、『ぴあ』『報知』『キネマ旬報』のコラムに先に書いてしまって、あらためて書く気勢をそがれたというものもあるが、『告白』に関しては、まだどこにも意見を発表していない。そんななか、読者のかたからメールで、<先日「告白」を観まして、ものすごい衝撃を受けたのですが、「シネマノート」にはありませんでした。中島哲也監督の作品で「シネマノート」にあるのは「嫌われ松子」だけですし、粉川さんは、中島監督をお好きではないかもしれませんしが、「告白」をご覧になっていらっしゃるのでしたら、ぜひ、作品について触れていただきたく思います>という丁寧なメールをいただいた。中島哲也は、尊敬する監督の一人だが、たしかに、このノートでは、『嫌われ松子の一生』しかあつかっていない。あの作品についても、もっとたくさん書くはずだったが、意気込みが逆作用してあれだけしか書けなかった典型的な例でもある。が、こういうメールをいただいては、書かないわけにはいかない(2010-06-10)。
「いまの」中学生や「ひきこもり」に悩む親、そういう生徒をかかえた教員の屈折とねじれがなかなかうまく描かれているという思いがかなりのあいだ続くが、結局彼や彼女らは肯定的にはあつかわれず、松たか子が演じる中学教師・森口悠子つまりは中年世代が彼や彼女に復讐して溜飲を下げるという方向に進む。これでは、「若者」をせっかく鋭くとらえながら、その核心にあるものをどぶに流してしまう。「いまの若者」にうんざりしている「大人」の意識が描かれているにすぎなくなるからだ。しかし、この映画は、そんなに単純ではなかったはずだ。
森口は、自分の教え子に原因のある「事故」で3歳の娘を失った。彼女は、それが事故ではなく、殺人だと確信するが、問題の2人の生徒(「犯人A」と「犯人B」)は、「少年法」に守られて、大人の罪を問われない。彼らも、それを承知のうえで「犯行」に及んだらしい。といって、この映画は、少年法を批判しているわけでもない。むしろ、少年法があったから、彼らが「殺人」を犯し、また彼女が「復讐」することができるという相互的な仕組みが描かれている。
その点では、この映画は、実にスタイリッシュであり、見事な仕上がりである。が、あつかっている問題が、きわめて「社会的」なので、この映画を「映画としての映画」、スタイルを楽しむためだけの映画として見ることもできない。映画としては「完全犯罪」の作りなのだが、その隙間から「社会」が漏れ出るのだ。この映画は湊かなえの同名の原作小説(双葉社)にもとづいているが、小説は、映画よりも読者の想像力と構想力に負うところが大なので、そうした「社会」への逸脱と遺漏は、読者の自由性にまかされる。が、映画はより直接的で、具体的な個物や肉体を突きつけるので、観客が「想像変更」(現象学の用語)する度合いが限られる。つまり、映像と「社会」との通路が太くなり、映画が直接「いま」や「ここ」の現実を「参照」させてしまうのだ。
そうなると、現実には、森口という教師が示すことは、映画のなかだけの「復讐」に見えてきて、彼女がそこにいたる生徒たちのやったことのリアリティが色あせてしまう。現実には、この映画で生徒たちが示したことは、彼らの「犠牲者」である教師によっては決して復讐しえないものであるというのが現実だからである。
この映画は、過剰な自意識で構成されている。教師をことごとくバカにしている生徒「犯人A」は、自分がやっていることの意味を100まで承知している。その意味ではワル中のワルである。が、いつの時代にも、こういう「大人」をおびえさせる「アンファン・テリブル」はおり、その「犯人A」が、物理学者を母親に持ち、早くから電子工作に手を染めているというのも示唆的だ。電子工作というのは、手先と頭との両方(カントが言ったという言葉にならえば、脳の外在的な側面と内在的な側面)を使う、つまりは脳をホーリスティックに使うので、脳のパフォーマンスを最大限発揮させるのに役立つのである。
しかし、人間は、別に「天才」ではなくても自意識過剰な存在である。この映画の秀逸なシーンで、森口教員が辞めた後任として入ってきた「ウェルテル」という教師(岡田将生)が、「熱血教師」ぶりを発揮し、生徒は、それを十分意識しながら「熱血教師」への「それなり」の「おつきあい」をするというのがある。この場合にも、この「ウェルテル」とて、自分がそういう道化役をしていることを全く自意識しないわけではなく、その感じもこの映画ではちゃんと描かれている。その意味では、この映画は、自意識を自意識しているのだある。そして、おそらく、ここが、映画としてのこの映画の矛盾になっているのかもしれない。小説ならば、「自意識の自意識」は、読者のほうにまかされるのだが、それを映画で意識しようとすると、自分のまなざしを見返すことができない視線をあたかも見通せるかのように主張するのと似て、理論的に矛盾するからである。「理論的に矛盾する」という言い方があいまいに響くとすれば、(現象学で言う)「超越論的主観の侵犯」を犯していると言おう。
要するに、最後に「サスペンス」的展開になることと、森口教員が、みずから「謎解き」をしてしまうことが、わたしとしては、この映画にいだく不満なのである。映画が、「社会」への若干の通路を開こうとすれば、「謎解き」なしのあいまいさを残すしかない。それと、わたしのかぎられた観察にもとづく直感によれば、「犯人A」のようなアンファン・テリブルは、いま無数におり、しかも、「犯人A」のようには「犯罪」は犯さず、学校では「平静」を装っている――あるいは狂気や暴力は極力内に押し込めており、対する教員のほうは、ますますストレスを深めさせられている。 そして、現実に、「負ける」ないしは淘汰されるのは、そういう教師のほうであり、よかれ悪しかれ、この「アンファン・テリブル」たちが、これからの時代を支配するようになるのは確実なのだ。 とすると、この映画も小説も、中・高年層の憂さ晴らしでしかないかもしれない。メールをくださったTさん、こんなところでどうでしょうか?
【追記/2010-06-11】映画好きの女子大生が『告白』を見たというので、話をしていたら、<松たか子が最後に言う「なんてね」って、どういう意味ですか?>ときかれた。そうか、もう「なんちゃって」の時代ではないのだ。実は、わたしが、このレヴューを書くのを後回しにしたのは、この台詞(せりふ)に言及すれば、この映画のすべてが語れるが、そうすると「ネタバレ」になり、ネタバレモラリスムの連中が眉をつり上げるような気がしたからである。しかし、この《一括相対化》の用語がわからない世代が増えているとすれば、むしろ、このことから始めたほうがよかったのだ。「なんてね」は、「なんちゃって」よりもソフトな言いかただが、いずれにしても、一旦強いことを言い、相手を驚かせたり、脅かしたりしたあとで、「なんちゃってね」と言うことによって、すべてを「水に流す」語法である。むろん、言ってしまった以上、いくら「なんちゃってね」という語を付加しても、言ったことが無化されるわけではないから、この語法は、そういう形で、言ったことがもたらすかもしれない深刻な帰結に対する責任を回避する予備工作的な操作である。前述したように、わたしは、この映画は非常にいい線を行きながら、結局は「旧世代」の目線になっていると思うのだが、その点がこの台詞で露呈している。
(東宝配給)
コロンブス 永遠の海 (別にそこに行っていなくても、自然に「望郷」を感じさせるのはなぜ? 監督の婦人マリア・イザベル・ド・オリヴェイラに魅惑される――『ぴあ』と『キネ旬』にレヴューを書いた)。
運命のボタン【前出】
9<ナイン>9番目の奇妙な人形 【前出】
グリーン・ゾーン 【前出】
パリより愛をこめて 【前出】
ザ・エッグ ロマノフの秘宝を狙え【前出】
ビルマVJ 消された革命 (カムコーダーとネットとケータイを駆使したヴィデオ・アクティヴィズムの最新の活動が描かれる。僧侶すら殺した軍事政権の強引な暴力には負けたが、この記録で個人と少数グループを単位とするトランスローカルな運動の有効性は余すところなく示された)。
冷たい雨に撃て、約束の銃弾を 【前出】
エンター・ザ・ボイド 【前出】
ローラーガールズ・ダイアリー 【前出】
処刑人 II (前作では新味のあった「アンサンブル」ガンアクションが、今回はマンネリ。役者としてわずかに見栄えがするのはジュリー・ベンツ)。
座頭市 THE LAST 【前出】
RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語 【前出】
ヒーローショー 【前出】
不遜にも、わたしは、アガサ・クリスティの小説を面白いと思ったことはあまりない。それは、彼女の原作にもとづく映画がつまらなかったからかもしれない。いや、こういう言い方も映画のアガサ・クリスティ・ファンには不遜であろう。全部原作を読み、映画を見たわけではないのだから。が、映画に登場する探偵エルキュール・ポアロで映画的に傑出した印象を残した例はあっただろうか? どいつもこいつも、みな作りものめいていなかっただろうか? いや、これも、その一部しか見ないで結論を出す不遜な意見だろう。
この映画は、クリスティの「ホロー荘の殺人」にもとづくらしいが、原作には登場する探偵ポワルは出てこない。それは、わたしには救いだった。が、それにもかかわらず、この映画からは、アガサ・クリスティ臭がぷんぷんして、結局、楽しめなかった。おそらく、わたしがアガサ・クリスティが好きになれないのは、その登場人物のあつかい方やとらえ方に「フロイト主義」的なところがあるからではないかと思う。この映画で主要な登場人物を演じるピエール・コリエ(ランベール・ウィルソン)が精神科医であるのは、偶然ではない。精神科医といっても、フロイト主義者ばかりではないが、この人物は、最初から、ソファー(フロイト主義的医師が使う寝椅子)に寝そべってケータイをかけている姿で登場することからもわかるように、映画は、この人物をフロイト主義の精神科医として描いているわけである。
最近は、アガサ・クリスティから「ポワロ」や「ミス・マープル」を取り除くのが流行りだそうで、映画では、パスカル・トーマスが「Mon petit doigt m'a dit...」(2005) と「L'heure ze'ro」(2007) でそういう解釈を試みているという。
とはいえ、自分が女にもてるという自信ないしはパラノイアと一体になっている胸糞悪いこの精神科医をランベール・ウィルソンがなかなか嫌味たっぷりに演じ、そのあげく、何者かに殺されてしまうのだから、この映画は、フロイト主義者を肯定しているのではなくて、むしろ否定しているととることもできる。起こった殺人事件の犯人が探偵によって解き明かされるというのは、いかにもフロイト主義的精神分析の手口であり、その殺人は、最初から「あるべからざること」として前提されている。が、この映画では、殺人は、必ずしも否定されない。あいつなら、殺されても仕方がないかといった趣きで描かれる。これは、なるほど、クリスティの解釈としては新しい。
しかし、にもかかわらず、アガサ・クリスティはアガサ・クリスティである。この映画は、フロイト主義は否定しながらも、ネオ・フロイト主義、つまりはラカン主義でアガサ・クリスティをとらえなおしている。わたしがここで言う「ラカン主義」とは、かのジャック・ラカンを深くとらえた末でのラカン思想ではなくて、一般に流布した「ラカン思想」である。それを要約している本があるので、引用しておこう。ディラン・エヴァンスは、『ラカンは間違っている』(桜井直文監訳、冨岡伸一郎訳、学樹書院)のなかで、ラカンの基本思想には「鏡像段階」と「象徴秩序」と「知っていると想定された主体」との3つがあると言い、最後のものに関し、こう言う――「精神分析医は《自身》を、患者の言葉の隠された意味を暴くことができるエキスパートと考えてはいけないが、《患者》は、「精神分析医はそれができる」と考えるべきであると、ラカンは考えていた。つまり、精神分析医は全知全能でも、秘密の知識を持っているわけでもなく、患者によってそうした知識を持っていると単に「想定され」ているに過ぎない。治療を続けるうちに、患者はそれがただの思い込みであったに過ぎないと気付き、つまり、「想定を解 de-suppose」き、精神分析を信頼しなくなる。このプロセスこそが、精神分析による治療のすべてなのである」(p.10-11)。
フロイト主義もラカン主義も、問題なのは、どんなに錯綜した複雑な問題も、「そうだったのか!」と「納得」してしまうようなある種の単純化を行うからだ。それらは、決して、複雑さをより複雑なものに導くようなことはしないし、複雑さをそのままにもしない。それらは、基本的にある種の「マインドコントロール」なのである。映画をフロイト主義的に論じた文章は数かぎりなくあるが、最近日本でも公開された『スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド』(The Pervert's Guide to Cinema/2006/Sophie Fiennes)は、「ラカン主義者」と公言する主演のジジェク自身による「ラカン主義」的映画分析の好例である。が、これは、文章ではなく、映画講義であるという点で、文章によるフロイト主義やラカン主義の映画分析の陥穽をまぬがれている。ラカン自身、座談の名手であったように、ジジェクは、高邁な知的法螺話/はったりの名手であり、その見事な「法螺」演技が150分もの長きにわたって披露されるは、一つの快楽である。
この映画に登場する女性たちは、みな、かつては精神分析医ピエール・コリエを「信頼」し、「愛し」た、ある種の「患者」であり、自分がもてると自尊しているピエールは、彼女らを自由にあやつっていると妄想してきたが、この映画のプロセスは、それが「de-suppose」していくことを描く。彼が精神分析医でありえたのは、むしろ、強烈なイタリア系女優のレア(カテリーナ・ムリーノ)やアーティストのエステル(ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ)であり、謎めいた82歳の記憶障害の老女ジュヌヴィエーヴ(エマニュエル・リヴァ)であり、銃の収集マニアで政治家のアンリ(ピエール・アルディティ)の妻エリアーヌ(ミュー=ミュー)によってなのである。銃のコレクターというのも「病気」であるが、ナルシストでアル中の作家フィリップ(マチュー・ドゥミ)などは、典型的な「フロイト主義的な症例」を絵に描いたような「患者」である。
ディラン・エヴァンスによると、ラカンの「患者は、辛い幻滅のプロセスを経験することができ、それによって、人生の鍵を握るのは他の誰でもない自分であるということに気付く」のだというが、この映画の登場人物たちに何が起こるかといえば、たかだかそういうことなのではないか? まあ、その意味では、これまでのアガサ・クリスティものにくらべて、登場人物の一人ひとりに奥行きがあり、その人数分の映画ができることを思わせる一方、どの登場人物もみな中途半端にしか描かれていないという印象を残しもするのである。
(アルバトロス・フィルム配給)
この作品は、2007年にデンマークのスサンネ・ビアが監督した『ある愛の風景』のリメイクである。前作では、アフガニスタンに派遣され、「死亡」する兄の不幸は、突如やってくる形で描かれた。美しい妻と子供二人の家庭は、銀行強盗をやって刑務所から出てきたばかりの弟トミーの問題はあるものの、なんとかやっていけそうな雰囲気で始まり、突如、不幸が始まり、エスカレートして行くのだった。が、本作では、兄のサム(トビー・マグワイア)は、最初から「遺書」を書いている。アフガニスタンから生きて戻れるかどうかはわからないという雰囲気である。これは、2年まえのデンマークではまだしも、「対テロ戦争」なるものの虚しさと悲惨さとを身をもって知ることになったアメリカでは、ごく自然の現実だからである。だから、出征の前日、妻のグレース(ナタリー・ポートマン)の笑顔もわざとらしいし、彼の下の娘イザベル(ベイリー・マディソン)は落ち込んでベッドにもぐり込んでいる。
前作は、「不幸」な出来事によって翻弄される家庭、兄弟と夫婦関係が、その危機からどのように(一応の)平静を保つにいたるか見せたが、本作の最後は、むしろ、彼らは果たしてこの先うまくやっていけるのだろうか、という不安を残して終わる。それは、サムの戦地での恐怖の体験が、彼をまるで別人のようにしてしまい、その後遺症がかぎりなく深いからである。彼は、もともとプロの軍人であるから、人を殺すことを学び、それに習熟しているはずである。が、そうした能力を極限的に発揮せざるを得ない限界状況に追い込まれたとき、人間はどうなるのか? 友情はむろんのこと、夫婦やや兄弟との関係は、意味を持つのか? 出演者たちの演技やディテールの描写においてスサンネ・ビアの前作はなかなかのものではあったが、そこでは、家族という存在に対し、まだ幾分かの期待が残っていた。それに対して、ジム・シェリダンの本作は、むしろ、家族という存在がぎりぎりのところに立たされ、もうその先には、孤立した人間を幾分かでも救い、癒す場としての力が残ってはいないのではないかという不安を感じさせる。
ある意味で「狂って」行くサムという人物をトビー・マグワイアは、鬼気せまる演技で演じている。それは、へたをするとスリラーになってしまうぎりぎりの演技であるが、その「過剰」さが独走してしまうのを、弟役のジェイク・ギレンホール、妻を演じるナタリー・ポートマン、父親役のサム・シェパードらが防いでいる。
ナタリー・ポートマンが演じるグレースは、16歳のときからサムとつきあっていて、そのまま結婚し、軍人の妻として「破綻のない」生活を送ってきた女性である。義弟が犯罪者となったときは、「破綻のない」とは言えない経験をしたかもしれないが、いずれにしても、夫のことで追い詰められるような経験はなかったはずだ。若いときは色々あったかもしれないが、結婚後は一筋に生きてきたような女性である。そういう役をナタリー・ポートマンが演じるのは、いささか「完全犯罪」の趣もあるが、夫の「死」が伝えられ、トミーが次第に心の支えになって行ったある日、彼にマリワナを薦められ、一瞬躊躇しながら、「わたしだってむかしは・・・チアガールやってたし・・」というようなせりふを言うときのさりげない変貌の演技は、ポートマンならではのものである。ポートマンは、「軍人の妻」のリサーチ入念にやったらしい。「破綻なく」生きてきた女性が、予想外の事態に直面し、追い詰められる女の演技は、なかなかのものであった。
前作を一部分踏襲してはいるが、長女のマギー(テイラー・ギア)の誕生パーティーでサムがキレるシーンは、前作とは比較にならないほどテンションが高い。マディソン家の人々が集まり、トミーが連れてきた女性(キャリー・マリガン)が加わって、食事をしていると、次女のイザベルが、風船を手でギシギシ言わせはじめる。母親は注意をするが、彼女はきかない。すでに「普通」ではない表情のサムの表情がみるみるけわしくなっていく。前作では、個々の人物を個々のショットで描いていた。本作では、個々の出演者が同時にそれぞれの演技をしながら、その場がある種の「破局」に向かって行くアンサンブル・プレイとして描かれる。これは、はるかに凝った演出だ。ここでは、イザベル役のベイリー・マディソンが猛烈な演技を見せるが、彼女だけでなく、すべての出演者が最高の演技を見せている。
(ギャガ配給)
『9 ナイン ~9番目の奇妙な人形~』、『ザ・ウォーカー』とたてつづけにポストアポカリプスものが封切られることになったが、「地球温暖化」の「危機」がマスメディアで浸透するなか、アジアではスマトラ島沖地震 (2004年)、アメリカでは「ハリケーン・カトリーナ」(2005年)、ヨーロッパでは「アイスランドの火山噴火」(2010年)とアポカリプス・ムードがいやましに高まり、「文明」後の「荒廃した地球環境」を映像にすることが売りになっている。しかし、わたしの考えでは、破滅が来るとしても、それは、(そのときには「破滅」へ向かうとは認識されないほど)非常に緩慢に、何百年、何千年もかけて来るのだと思う。何百年、何千年もかけて進む「終末」のなかで、現在の家族や都市や国家の形態が徐々に消えて行くから、最後の「終末」の瞬間は、それがあたかもあたりまえのように感じられ、誰もそれに気づかないだろう。ある種の自然な衰弱・萎縮である。が、それではドラマにはならないから、映画も小説も、劇的な「終末」が来てしまったところから始まる。
冒頭、郊外か田舎の家には花が咲きほこり、馬もいる。男(ヴィゴ・モーティセン)は妻(シャリーズ・セロン)と平穏な生活を送っていたらしい。が、ある日、目を覚ました男は、窓外の異様な事態に気づく。カーテンの隙間から火が見え、人の騒ぎ声がする。そして、映画は、すでに破滅の危機に瀕している「現在」に移る。最初のシーンは、荒地に息子(コディ・スミット=マクフィ――おもかげがセロンによく似ている)と横たわる男の記憶のフラッシュバックだった。のちに何度も夢やフラッシュバックの形で示唆されるように、すでに終末が訪れはじめている状況で、妻は子供を生みたがらなかったが、男が強く望み、その子が生まれたこと、のちに妻はいずこかに去り、父子が二人だけで逃亡の旅に出たことがわかる。この映画は、コーマック・マッカーシーの原作(黒原敏行訳、早川書房)にもとづいているが、原作でも、なぜアポカリプスが訪れたかについては明記していない。自然破壊によるのか、地球環境全体を破壊するような強力な核爆発事故や戦争によってなのか? モーティセン親子が出会い、一夜をいっしょに明かす老人(ローバート・デュヴァル)は、「こういうことが起こる警告があった」と言う。しかし、彼も誰も、その厄災への準備はできなかったし、しなかったのだ、と。
なぜ、母と息子ではなくて、父と息子なのかは、時代の係数がからんでいると思う。いまの時代、アメリカでは、母親の力は以前より弱くなっている。逆に家庭内での父親の存在意味が以前より見直されている。父子のシングルファミリーも増えた。この映画では、母親(シャリーズ・セロン)は、これ以上、生き延びることに希望を持たなくなり、絶望的な死を選んだように見える。少なくとも、家にいれば、人間狩りに狂った者たちの犠牲にあう可能性が高いので、家を出なければならないわけだから、家を単身出るということは自殺行為なのである。が、彼女がどう考えたかは、あまりはっきりとは描かれない。この映画は、基本的に父子の映画である。
自然環境が悪化し、食料が底をついたとき、人は人間を殺して食うようになるだろうか? 自分を襲おうとする者を殺さざるをえなくなるだろうか? 親は子供を守れるだろうか? 子供を守るために相手を殺したとすれば、その現場を見た子供はどういう感情・観念を持つだろうか? 世の終末と人々が殺しあう修羅場を見てしまった子供はどういう人生観を持つだろうか? 映画は、こうした問いを、教育的な意識を感じさせずに問い、それらの答えは保留する。モーティセンが演じる父親は、肉体的にも決して強靭な男ではない。そうした弱さとあいまいさが、この映画のいいところであり、弱いところでもある。
逃げることがメインのこの二人にも、いくつかの息抜きのシーンがある。一つは、放置された自動販売機に残っていたコカコーラを1本手に入れ、飲むシーン。アメリカ人はこのシーンを見て泣くだろう。もう一つは、防空壕のようなものを見つけ、入ってみると、さまざまな缶詰や保存食品があるというシーン。しかし、全体としては、親が子にしてやれることは少なく、他人を信じないこと、自分だけを信じること、襲われたときに自殺する方法を教えることぐらいしかない。
夜の草むらで父親が息子に読んで聞かせる本は、"If you flicked your tongue like a chameleon" というフレーズから判断するに、David Schwartz著、James Warhol Aのイラストレイションによる『If You Hopped Like A Frog』だと思う。
ニック・ケイブが音楽を担当していることをエンドロールで知ったが、エンドロールの一番最後に流れる、人声を使ったサウンドスケープ的な音が新鮮だった。これもニック・ケイブの制作か?
(ブロードメディア・スタジオ配給)
この映画は、セラフィーヌ・ルイという実在の人物を比較的事実に忠実に描いているといわれるが、事実は知らなくても、ヨランド・モローのまさに入魂の演技によって、一人の天才的人物がどのように魂を突き動かされて絵を描き、そしてこちらも凡百ではないアート・コレクター、ヴィルヘルム・ウーデ(ウルリッヒ・ドゥクール)に出会い、世に知られるようになり、さらに時代の波にもまれながら、晩年を送っていくかが、観る者の心をゆさぶる。その際、何といっても、ヨランド・モローの演技に負うところは大きい。彼女が出演しているはずの作品(『最後通告にも出ているという)はほとんど観ているのだが、最近見た『ミックマック』(Micmacs à tire-larigot/2010/Jean-Pierre Jeunet)でブレヒトの「肝っ玉おっ母」風の役を演じていたが印象に残ったぐらいで、鮮烈な記憶には残らなかった。こんなに凄い女優だとは思わなかったのである。
ヨランド・モローが演じる「セラフィーヌ」が実物と似ているかどうかよりも、彼女が初めて表情を見せる教会でのシーンから、最後の(宣伝チラシのイラストにもなっている)大木に歩いていくまえのシーンにいたるまで、終始その目が、ある意味で「来てしまっている」人の目なのである。普通、俳優はそれなりの「学」があるわけだから、126分ものながい時間、表情をさらしていると、少なくとも目のなかにちらりと登場人物とは異質の「知的」な要素とか、あるいは逆に登場人物にはあっても、その俳優にはないものが露見したりするのだが、ヨランダ・モローの目は、最初から最後まで、この映画で設定されている人物の世界をはずれることがない。これは、驚くべき演技である。
アーティストにとって、その才能に関心を持ち、その才能を見出し、支援してくれる人ほど重要なものはない。ユニークなものを表現し、それを何らかの形で公開していれば、誰かが関心を持ってくれる可能性はある。しかし、その関心が創造的な形で持続し、広がるかどうかはわからないし、そういう方向で関心を持ち続けてくれるような支援者はめったにいない。また、同じ才能の持ち主でも、そういう人に出会うかどうかでその人生も変わる。セラフィーヌにとってウーデは、まさにそういう人物だった。ブラックやピカソと交流があり、アンリ・ルソーの発見者の一人であった彼に見出されたことは、幸運だった。その出会いは、極めて偶然的であったと映画は描く。ウーデがたまたまパリの北方50キロに位置するサンリスで「隠遁生活」を送り、セラフィーヌの絵を目にすることがなかったら、彼女の名が美術史に残ることはなかっただろう。映画では、邸宅の持ち主のデュフォ夫人(ジェヌヴィエーヴ・ムニシュ)が、ウーデを著名な「画商」と知り、地域の画家たちを集めてディナーパーティをしたとき、たまたま夫人がセラフィーヌの絵(板に手製の絵の具で描いたもの)を部屋の片隅に置いておき、ウーデがそれを偶然目にするという風になっている。この「劇的」な発見のシーンは、(映画ではありがちなパターンだとしても)なかなか「感動的」である。
どんなにすぐれた理解者や支持者に出遭っても、世に出たい、人に知られたいという意志がなければ、有名にはならない。本人にその気があるから、支持者のサポートを得て、飛躍できるのだ。その意味で、セラフィーヌには、そうしたある種の「野心」はあった。ただ、それが、彼女のキリスト教的「執心」(ある種の妄想)と一体になっており、ウーデが彼女の個展の開催を約束したときのまいあがり様は、いわば神の光を浴びたかのようになるわけだ。だから、個展の当日、世界中の天使が天から降りて来ると信じ、真っ白な花嫁衣裳のようなものを特注したりもする。
何かを達成するためには、何らかの「妄想」がなければ不可能だ。ある意味で、誰でもがその内に「妄想」をかかえている。それは、ときに「信仰」と呼ばれることも、「執着」や「欲望」と呼ばれることもある。しかし、「妄想」なしに創造できたり、愛のあるコミュニケーションを達成できるのにこしたことはない。「達成」とは、基本的に無理をすることだ。セラフィーヌは、「妄想」のなかで描きつづけ、描きあがった絵のかたわらで気絶したかのように眠りこける。ドアの外には、「仕事中につき誰にも会えません」というカードが下げてあり、夜を徹して絵に没頭するのだ。没頭は、天才の一つの条件である。が、当然、その代償は生まれる。
第一次世界大戦の勃発で高まったフランス国内でのドイツ人憎悪の波を逃れて、ウーデ兄妹はサンリスを脱出する。セラフィーヌとの出会いは短期間のものになってしまった。その別れのシーンもとても感動的に描かれている。が、偶然の女神は再度微笑む。基本的にドイツが嫌いなウーデは、1920年代にまたパリに居を構え、コレクターとしての活動を始める。彼は、妹のアンヌ・マリー(アンヌ・ベネント)とドイツ人の若い画家のヘルムート・フォン・ヒューゲル・コーレ(ニコ・ログナー)と3人で広大な屋敷に住んでいる。コーレは彼の同性愛的恋人であった。そういう生活のなかで、兄がかつてセラフィーヌを高く評価したことを覚えていたアンヌ・マリーが、サンリスでローカルな画家たちの展覧会が開かれるニュースを新聞で見て、兄に告げる。ヴィルヘルムは、しかし、「彼女はもう死んでいる」と最初はとりあわないが、結局は自家用車を走らせてサンリスにおもむく。そして、またしても劇的な再会が起こる。このあたり、メロドラマ的に描けば白々しくなるが、抑えた大人の描き方で納得させる。
その間に歳もとり、掃除婦としての仕事が出来なくなったセラフィーヌは、食べるのにも困る生活をしながら、絵を描き続けていた。いまや、ヴィルヘルムの全面的なパトロネージュを得て、セラフィーヌは、おそらく彼女の人生で最も幸せな時期を迎える。が、それは長くは続かない。1929年の世界大恐慌のあおりを受けて財産を失ったウーデは、約束した個展を開けなくなる。失意のなかでセラフィーヌがもともと持っていた精神の病をエスカレートさせていくプロセスを表現するヨランダ・モローは、文字通り「入ってしまっている」感じだ。
ヴィルヘルム・ウーデがセラフィーヌを最期まで世話をしたかどうかについては異論がある。が、映画は、彼が彼女の病に対して最高の癒しをあたえたという風に描かれる。彼がアレンジした個室に移されたセラフィーヌ(ヨランダ・モリーによるその目つきの演技を見よ)が放心したようにドアーの外に出ると、椅子がある。それは、かつて、ヴィルヘルムが彼女にその才能を納得させたときに座らせたのと同じ椅子である。彼女はそれを下げて広大な土地の庭を歩いて行く。向こうには巨大な大木が見える。圧倒するシーンである。おそらく、彼女が背負っていたような精神の病は、「矯正」するやり方では直ることはむろんのこと、癒されることすらないだろう。この映画が見せる精神病院は、刑務所と同じ雰囲気である。それは、閉じ込め、型を強制する施設にすぎない。が、その人間がもともと慣れ親しんだ場所やものたちのもとにもどすことは、いくばくかの癒し効果があるかもしれない。セラフィーヌにとって、最も慣れ親しんでいたのは、木々が生い茂る場所であり、大木と戯れることだった。
(アルシネテラン配給)
「ポンペ病」という生命に関わる「奇病」の一つにかかっているわが子二人を救うために、父親(ブレンダン・フレイザー)が、その分野で傑出した理論を提出している学者(ハリソン・フォード)を発見し、助けを求める。気難しい男であるストーンヒル博士は、「わたしは研究者であって、医者ではない」と言い、依頼をはねつけるが、提示した金額に興味を示し、常識では想定外の計画を持ち出す。それは、ポンペ病の治療薬の会社を立ち上げてしまおうというもの。フレイザーとその妻(ケリー・ラッセル)はそれをのみ、治療薬の開発にまでこぎつけるのだが、映画としては、その会社の立ち上げの過程、フォードの偏屈さでこじれる関係、巨大製薬会社との合併(身売り)、そこから生じる親会社の官僚的な幹部(これも博士)(ジャレッド・ハリスが嫌味な感じをたくみに出す)との小競り合いといった、企業ドラマとして見たほうが面白い。最初は、家族を思う父親(ブレンダン・ブレイザー)の努力のプロセスがよく描かれるが、途中から、ヴェンチャービジネスとのやりとりの話になり、一方はパーソナルな話、他方が政治的な駆け引きの話なので、トーンが分裂してしまう。ここがこの映画の問題。
ある意味では、「感動的」このうえない物語なのだが、どこかに違和感が残るのは、この映画の話が、わが子への親の「自己中心的」な愛(親というものはみなそうなのかもしれないが)と、自分の研究を達成したいという研究者の「私欲」(強欲にも見える)がモチベイションになっているからだ。自己中心主義も、極まれば、万人を助けるのかもしれないし、家族はそういう「愛」によってしか維持できないのかもしれないし、大事業を達成するには、どのみちそうした私的モチヴェイションなしには不可能なのだとしても、それをあたかも「美談」であるかのように描かれると、うんざりする。
フレイザーは、自分の会社を作るために、それまで勤めていた大企業を辞める。その意志を聞いた妻は、保険が得られなくなることを恐れ、反対する。アメリカで企業などの組織への帰属を失うと健康保険の保証がなくなる。だから、会社を辞めるということは、家族の健康を危機にさらすことになる。国民健康保険がある国とはちがう。だから、この映画も、そういう文脈のなかで観なければならないのだが、それでも、原題の「extraordinary」という言葉が含む両義性(「普通」を越える/「とてつもない」←→常識はずれの、異常な)の後者の意味を強く感じてしまうのは、出演者のイメージによるところも大きいし、演出の仕方にも原因がある。
ポンペ病にかかりながら、車椅子で積極的に生きる娘役のメレディス・ドローガーは、なかなかの熱演で、10年まえのダコタ・ファニングの才能を思い出させるような面がなくもないが、それが、映画の根底にある「利己主義」的傾向のために、「小生意気な娘」にしか見えない。最初から、ビジネスの話として描き、そこから家族の救済、ポンペ病の治療薬の開発による社会貢献といった側面をつつましく浮かびあがらせるようにしたほうがよかった。
(ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント配給)
映画のなかに「ペルシャ猫」は出てこない。タイトルは、世界で一番高価な部類に属するペットなのに、ペルシャ(イラン)では「誰も知らない」ペルシャ猫に寓意して、欧米の音楽シーンを凌駕してもいるイランの現在進行中の音楽活動、さらにはイランの街の人々全般の現状のことを指す。ミュージック・ビデオとして見ることもできるし、バンド公演を実現しようと虚しく奔走する若い男女のドラマとしても、現在のイランの社会文化状況を垣間見させるドキュメンタリーとしても見ることができる、多重的な作品。
『亀も空を飛ぶ』で、制約の多いイランにもまだ「自由」ないしはポジティヴな生き方の可能性があるということを示したバフマン・ゴバディ監督は、次作の『Half Moon』が政府の検閲を受け、以後映画製作の道を絶たれてしまった。あれだけの柔軟性を示したのにという思いがある彼は、イランを捨て、国外に出た。
アッバス・キアロスタミのもとで『風が吹くまま』の助監督をしたことがあるゴバルディが今回採用した技法は、キアロスタミが、『桜桃の味』で行なった技法である。すなわち、「主人公とともに移動するカメラがドラマを作りながら、同時にイランの日常的現在を見せてしまう」というやり方である。まあ、ある種の「隠し撮り」だが、すでに彼らは、そうした技法を「伝統」にしているわけである。そのやり方は、冒険的な「盗撮」一辺倒ではなく、適度にドラマ的な撮影方法をバランスする。たてえば、車を走らせていると警官に停止を命じられ、乗せていたペットの犬(イランでは禁止だという)を奪われるシーンでは、警官の姿は写さない。明らかにそれまでのシーンを撮っていたカメラは、警官を写せるはずだが、それをしないのは、警官を写すことができないからではなく、そうすることによって、かえって警官の抑圧性が倍加するからである。ドキュメンタリー的要素とフィクションとの要素がシームレスにつながりあう見事な(音楽的な)スタイルが確立されている。
イランの多彩なインディ音楽シーン(ノイズはなかったが)をたっぷり堪能できるだけでなく、車窓から見える街の風景のなかから引き出せる(スパイなら多くの情報を読み取るであろう)さまざまな記号、ネガル・シャガキとアシュカン・クーシャンネジャードの二人が計画している(嘘か本当かはわかなない)ロンドンでの公演を実現させるために奔走し、街を移動する「ドラマ」のなかでちらりと出て来るさまざまな物=記号。たとえば、ネガルが、自分のアパートメントで読んでいる本の表紙には、フランツ・カフカの肖像写真が見える。アラビア文字がわからないので確実なことは言えないが、おそらく『変身』だろう。ページにカブト虫の絵が見え、それを彼女が写したらしいノートの紙切れも見える。カフカとは、非常に示唆的である。細部をもっとチェックしたい映画だ。
(ムヴィオラ配給)
退屈な印象で始まるが、すぐに「異様」なシーンがさりげなく登場する。が、今度は「ボーイ・ミーツ・ガール」的な方向に転調し、学校でイジメを受けている少年オスカー(カーレ・ヘーデブラント)と、最近越してきたばかりの異邦人的な雰囲気の「少女」エリ(レイーナ・レアンデション)との淡(あわ)いラブストーリ的な展開になる。しかし、その流れは、彼女の驚くべき行動で凍りつく。何だ、この子は吸血鬼だったのか?!と思うわけだが、しかし、この想いも、やがて変わらざるをえなくなる。これは、単なる「吸血鬼もの」ではないことがわかるからだ。さんざん手を換え品を換えて引き出されたヴァンパイアーでも、なるほどこういう使い方があったのかぁと思わせると同時に、新しい「愛」の形に接して、感動を覚えるのである。
ヴァンパイアーは、男でも女でもよいのだが、この映画のエリの外観は「女」である。しかし、なかごろのとても美しいシーンで、彼女は自分で、「オスカー、あたしが女の子じゃなくても、愛してる?」と尋ねる。が、だからといって彼女は、「男」であるわけでもない。要するに、「人間」ではないから、「男」でも「女」でもないわけだが、より発展的な解釈を加えると、エリは、既存のジェンダー(「男」と「女」)、年令、場所といった境界線を越える存在なのである。そういう存在としてヴァンパイアーをとらえている点でも、この映画の潜在性は深い。ここで言う「潜在性」とは、映画の作り手たちが考えている以上の意味を作品から引き出せる幅と奥行きのことである。
エリが既存のジェンダーを越えている存在であるという意味では、試写で見たプリントで、エリがオスカーの家に行き、バスルームで服を着替えるとき、ドアを少し開けて盗み見るオスカーの目に、エリの裸体が見えるシーンにスクラッチの検閲的修正が入っていたのは、致命的だ。なぜなら、ここで一瞬映るエリの股間には、「男性」性器が「去勢」されたかのようなわずかの疵が見え、いかなる性器も否定されているからである。これは、全然「検閲」の対象にはならないはずで、このスクラッチは、理解に苦しむ。
エリを演じるリーナ・レアンデションは、映画出演はこれが初めてらしく、「1995年9月27日」生まれのスウェーデン人であることぐらいしかわからない。イスラム系の血を引いているという説もあるが、アップのショットでびくともしない貴族的な個性と存在感をたたえており、将来が楽しみな俳優である。なお、エリの性別・年令不詳という感じを出すために、この映画では、リーナの声(の一部?)が、中性的な声質を持つElif Ceylanという女優(1995~)によって吹き替えられているそうだ。
原題は、脚本も書いたヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストの原作小説にもとづいているが、"Let the Right One In" は、モリッシイのヒットソング "Let the Right One Slip In" へのオマージュだという。オスカーの両親は別居し、孤独な生活を送っている。学校でもイジメを受けている。エリは、ヴァンパイアーとして、人間界では孤立している。そういう二人の孤立者(ローナー)が、たがいに相手を自分の世界に引き入れるのだ。
Let the right one in
Let the old dreams die
Let the wrong ones go
They cannot
They cannot
They cannot do what you want them to do
Oh ...
吸血鬼の血生臭い行為と流れる血がかえって「暖かさ」(血の?)を感じさせるのは、雪の深い時期のスウェーデンの郊外の雰囲気と、のんびりしているようで陰惨なイジメ、狭いコミュニティーでもどこか陰険な住人、会ったときには優しくしてくれる父親だが、同性愛的な友人がいて、オスカーには入り込めないところがある・・・といった孤立的環境とが、生々しい肉と血の温度でバランスを保たれるからだ。なお、このドラマの時代設定は、映画にちらりとソ連のブレジネフ書記長(スターリニズムの最後の継承者)の写真が映るように、1981年、スウェーデン南部の港カールスクローナ近くの軍事立ち入り禁止区域にソ連の原子力潜水艦が座礁事故を起こし、西側に属するスウェーデンと東ブロックとのあいだに緊張が走った時代だ。当然、人々の気分も、いまの時代ほど解放されてはいなかった。
エリに噛まれた女が、猫に敵視され、集団でからまれるシーンや、窓から射し込む光で「昇天」してしまうシーンは、決して「高価」な映像を使っているわけではないのに、妙にインパクトがある。それは、最後の方のプールでオスカルがイジメられる、エリに「救出」されるシーンについてもいえる。「安い」のだけれど、感動的なのだ。
オスカーは、隣のアパートメントに越してきたエリと知り合い、モールス信号を教える。無線を使うわけではなく、壁を叩いてモールス信号で意思を伝えるなんて、実に孤独な話である。が、二人が得たこの通信方法が、最後のシーンで実に効果的に使われる。列車のコンパートメントの座席に座っているオスカー。「トントン」という音がして、そのあと何かをこする「スー」という音、それからまた「トントントン」という音が二度聞こえる。すでにわれわれは、モールス信号が「トントン」という音と「延ばす」音できているのだとオスカーがエリに教えるシーンを見ている。わたしは、昔、モールス信号を少し習ったので、わかるが、最後のシーンで最初に聴こえるのは、モールス信号の記号に換えて記述すると、「・・―― ・・・ ・・・」で、アルファベットの「USS」を意味する。この音に応えてオスカーが出すのは、「・―― ―― ・ ・・―― ・・・ ・・・」つまり「PUSS」で、これは、スウエーデン語の「kiss」の意味である。このやりとりで、二人がどうなったのかがすべてわかる仕掛けになっている。見事なエンディングだ。
(ショウゲート配給)
すっとぼけた感じが実にいい。ただ、こういうアイロニーやユーモアは、いま風ではないのかもしれない。IMDbの評価が意外と低かった。でも、わたしは、こういうのが好きだ。主役にちかいジョージ・クルーニーは、この種の政治がらみのアイロニーが好きなのだと思う。『ピースメーカー』はちょっとかっこよすぎたが、『シン・レッド・ライン』では、批判されるべき側の軍部の高官を演じ、『』では、この映画と似たアイロニーを共有、みずから総指揮をした『シリアナ』はまさに政治的アイロニーの映画、みずから監督を見事につとめた『グッドナイト&グッドラック』、『さらば、ベルリン』も『フィクサー』も『バーン・アフター・リーディング』も、政治的アイロニーが色濃く、『マイレージ、マイライフ』は、きわめて自虐的な人物を演じた。
すぐれていると思うのは、この映画でとりあげられるほとんどすべてのことのなかにアイロニカルな「距離」を挿入している点だ。それは、キャスティングにまで及んでいる。ベトナム戦争で、攻撃しても全然弾が当らないベトナム人の兵士を見て、非暴力こそ最大の戦力だという「啓示」を受けたビル・ジャンゴという男は、最初姿をあらわしたとき、ジェフ・ブリジスとはわからないような小太りの親父を演じているが、米国に帰って、その「啓示」を実践していくにつれて(時代の影響もあり)どんどんヒッピーっぽくなっていき、なんだジェフ・ブリッジスだったのかといいう感じをあたえるように作っている。『ビッグ・リボウスキ』や最近の『クレイジー・ハート』で、ヒッピー・カルチャーの影響が抜けない男を演じていまや彼の右に出る者がいないという映画的記憶(先入見/ドクサ)をうまく利用している。
ビルがリーダーになって米軍内に秘密裏に進められたのが「ジェダイ・プロジェクト」で、かねがね軍のなかで超能力を発揮していたリン・キャシャディ(ジョージ・クルーニー)(彼がコンピュータのそばを通ると、画面が崩れてしまう)がオルグされるのだが、彼にインタヴューを試みて、その結果、ビルとイラクまで行ってしまうのがユアン・マクレガー演じるボブ・ウィルトンというジャーナリスト。周知のように、ユアン・マクレガーは、『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』、『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』、『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』の3作で、「ジュダイ」の一人を演じていた。そのため、これは、フザケすぎではないかという意見もある。
スプーン曲げの超能力があり、「ジェダイ・プロジェクト」のリーダー、ホスグッド将軍に取り入り、めきめきと頭角をあらわす嫌な奴ラリー・コーパーを演じるのが、ケヴィン・スペイシー。この人は、何をやらせても猛烈うまいから、この山気たっぷりの男を見事に演じるが、『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』で演じた屈折した人格を思い出し、憎いキャスティングだなと思った。こいつが、ビルをプロジェクトから追い出すことになるが、イラク戦争の時代になって、ビブとリンが再会したときには、ビルを雇って心理操作作戦(ラジオ局もある)の戦争株式会社のトップにおさまっているというのもアイロニー。いまや、戦争は、民間委託であり、イラクでもアフガンでも、民間戦争会社に雇われた新「傭兵」が「お国のために」戦っている。
この映画のなかで、「ジェダイ・プロジェクト」というのは、米軍が偽装プロパガンダとして似たようなプロジェクトを立ち上げたことをソ連に向けて(単なるプロパガンダとして)宣伝したところが、ソ連がそれを本気にし、サイキックな戦術の本格的な研究と実験をはじめ、逆に米軍は驚いて、あわてて自分のほうでもその方向でのプロジェクトを開始したという話が出てくる。これは、ある点まで本当らしい。たとえば、ラリーが関わったというCIAの「MK-UL TRAプロジェクト」(Project MK-UL TRA)というのがあり、リンが見せる「遠視」(リモート・ヴュー)や「念波」のような実験とか、実際にこの映画の話のようにヤギを殺すトレーニングを受けた兵士などもいたらしい。ちなみに、キリスト教的「常識」では、ヤギは、「悪魔」つまり反キリストのシンボルである。
CIAや米軍の秘密戦略に関しては、膨大な資料があるが、日本語の文献でも、大分まえに翻訳されたマーティン・A・リーとブルース・シュレインの『アシッド・ドリームズ――CIA,LSD,ヒッピー革命』(越智道雄訳、第三書館、1992)は、主として薬物の面でのアプローチではあるが、サイキックな意識操作(感覚破壊、睡眠学習、ESP、潜在意識に訴える映像投射、エレクトロニクスによる頭脳刺激、人為的とわからない形で心臓発作やガンを引き起こす化学薬品の開発、磁場、超音波振動、光線エネルギー等による頭脳操作・・)の雰囲気の一部をつかむうえでなかなかいい本だ。その「プロローグ」で次のように言われているが、これは、時代が変わっても続く権力の皮肉であうる。
マリファナ、コカイン、ヘロイン、PCP,硝酸アミル、茸、DMT、バルビツール、笑気ガス、スピードその他のいろいろの、1960年代に闇市にでまわったドラッグのほぼすべてが、実はすでにCIAや陸軍の科学者の手で詳細に研究され、そのいくつかは実際に精製までされていたことがわかった。
LSDの中心的な皮肉は、それが武器と恩寵、精神を支配するドラッグと精神を拡大するドラッグという、それぞれ正反対の道具として使われたことだろう。ふたつの可能性は、ともにそれぞれにユニークな歴史を生み出した。いっぽうでは、CIAと軍の幻覚剤実験に根ざした秘密の歴史、他方では、1960年代に爆発的に台頭したドラッグ・カウンターカルチャーの草の根的な歴史である。
ジョークだらけで、たとえば、ビルの秘密部隊で、パナマの独裁者だったマヌエル・ノリエガの存在を一人の超能力兵士の「遠視」でさぐるシーンがあり、そこでその兵士は、「アンジェラ・ランズベリーに訊け」と答える。実際に尋ねた結果、ランズベリーは「知らない」と答えたという落ちがある。ノリエガは、当時、CIAの捜査の目をかいくぐって、スラムに逃げ、手をやいたアメリカは、実際にこの映画のような「遠視」まで用いて調査をしたらしい。スラムに人が住んでいるにもかかわらず、ノリエガが隠れていると推定されるスラムに爆弾を落としたりもした。この個所は、ジョン・ロンソンの同名の原作では、「クリスティ・マックニコルに訊け」となっているのを映画では「アンジェラ・ランズベリー」に変更したという。クリスティ・マックニコルとアンジェラ・ランズベリの接点は、1984年から1996年まで続いたテレビドラマ「Murder, She Wrote」(殺せと彼女は書いた)の1988年シリーズの「Showdown in Saskatchewan」ぐらいしかないように見えるが、ノリエガ捜査の時点でアメリカでクリスティ・マックニコルがどのように受け止められていたのかをわたしは知らないので、なんともいえない。ちなみに、クリスティ・マックニコルは、「双極性障害」で現在あまり仕事が出来ないらしく、ある種の超能力があるという伝聞があったのかもしれない。なお、アンジェラ・ランズベリーならば、彼女は、上述のシリーズで作家として事件捜査の役割をし、また、朝鮮戦争時代に中国の捕虜になった米兵への洗脳操作のドラマ(冷戦時代の反共意識丸出しの)『影なき狙撃者』(The Manchurian Candidate/1962/John Frankenheimer)(ローレンス・ハーヴェイといういい俳優が出ていた)で陰謀の黒幕としての母親役を演じており、洗脳の歴史ともつながるのである。
ボブが無意識にメモにいたずら書きをしていて出来上がるピラミッドのなかに目がある絵(pyramid eye symbol)は、米ドルのなかにもプリントされているが、これは、フリーメイソンのシンボルだといわれてきたが、同時に、映画では、国際的な、そして長い伝統を持つ秘密組織のシンボルだという映画的記憶がある。したがって、この映画のなかで、ボブのメモのなかにこの絵を発見して、はっとするリンは、ボブとの深いつながりを感じるという設定である。ボブは、胸にこのシンボルを刺青している。
(日活 映画営業グループ配給)
日本人の母親から生まれた3人の日系アメリカ人の子供たち(みな成人)と日本人の祖母が登場するが、舞台はアメリカ(カナダ? 撮影はトロント)で、全篇会話は英語。字幕が付いているから、洋画のようにも見えるが、キャラクターの一人ひとりにくっきりとした味付けをし、それぞれの素材をいかしながら、全体としてバランスよく仕上げた美味い「無国籍料理」の感じ。これなら、言語を越えた観客の口に合うだろう。
「今日ママが死んだ」と、アルベール・カミュの小説『異邦人』の書出しのようなナレーションをするのは、次男のレイ(アレックス・ハウス)で、ヴィンテージもののプラモデルを収集している。仕事は、化学実験室のようなところで、友達にはなりきれないインド人の同僚アグニ(ガブリエル・グレイ)がいる。が、自分のアパートが火事になり、大切なプラモデルをかかえて、実家に戻ってくる。そこには、「パニック障害」(Panic Disorder)のためにヒキコモっている長男のモーリー(デイヴィッド・レンドル)と、口数が多くて仕切り屋のリサ(タチアナ・マズラニー)、そして、死んだ母の部屋からほとんど出てこない「ばーちゃん」(もたいまさこ)がいる。彼女は、愛猫のセンセー以外には心を開かないかのよう。すべてちょっとずつ「変」で、レイは、いつも同じ服装(同じシャツを7枚持っているという)をし、同じ周期で日常生活を送っている。
荻上作品ではおなじみのもたいまさこの起用は、非常に微妙である。この映画のなかで、彼女が演じる「ばーちゃん」はたった1度しか声を出さない。なぜ彼女が黙っているのかは、子供たちにも、観客にも最後までわからない。表面上は、英語がしゃべれず、無口で、子供たちにはなじめず、おまけに娘(子供たちの母親――俳優としては出てはこない)の死で失意に陥っている・・・という設定である。その態度自体はだんだんほぐれてきて、わずかにほほえんだりもするが、その沈黙は最後まで謎。子供たちは、それぞれに納得したかのようだが、本当に(ドラマのロジックのなかで)そうなのかどうかはわからない。というのも、もたいまさこは、終始、あの意味ありげな目つきを変えないし、どこかでとんでもないことをするのではないかというアブナサを捨ててはいないからである。
それが荻上の「隠し味」なのだとすると、その効果は何だろうか? 「ばーちゃん」との意思疎通が一応、前進と展開を見せる。モーリーは、あるとき、母親がまえに使っていた古い、足踏み式のシンガーのミシンを見つけ出し(あるいはその存在に思いついて)、触ってみる。興味が沸き、何かを縫ってみようとするが、使い方がわからないので、「ばーちゃん」に尋ねる。英語と身ぶりで必死で説明(母親が日本人なのに全く英語を解さないというのもミステリーだが、そういうところがこの映画の特異性ないしはイデオシンクラシーでもある)すると、彼女は、巧みにミシンを動かして見せてくれる。このとき、終始無言であるもたいの表情と目つきの尋常ではないところはあまり変わらない。この婆さん、本当は英語がわかるのではないか、わかっていて口をつぐんでいるのではないかという思いがしてしまうのだ。
「ばーちゃん」が宇宙人的存在であって、そのまわりにいる「普通」の人間たちが、彼女の存在によって、自分を見出したり、変わったりしていくという形がないでもない。なぜかわからぬが、彼女は、財布に100ドル紙片をどさっと入れており、孫たちに惜しげもなくあたえる。モーリーは、ミシンを教えてもらったことがきっかけでスカートを縫い、愛用するようになり、ここから、彼は、しばらく遠ざかっていたピアノを弾くようになる。彼は、天才的なピアノの才能がある。リサは、エア・ギアに専念するようになり、ヘルシンキで開かれるエア・ギターの大会に出ようと決心するようになる・・・。
「ばーちゃん」の態度に一番疑問をいだくのはレイであり、彼女が使ったヘアブラッシの毛を盗み取り、自分の毛と比較するDNA鑑定までするくらいだが、彼が同僚のアグニのいかにも「インド人らしい」明晰なロジックの助けを借りて最終的に到達する結論は、彼女は、日本式(といってもウォッシュレットの)トイレが恋しいらしいということなのだ。彼女は、母親が手を尽くして探しあて、死の直前に呼び寄せたのだという。まあ、このへん、この家族にもさまざまな隠された事情があることが何となく暗示され、登場する人物たちが、みな、一見するほど単純な生活を送ってきたわけではないことが想像できもする。そして、このウォッシュレットも、レイの勝手な解釈だったかもしれないということを思わせるシーンがある。「ばーちゃん」は最後まで謎めいているが、ファミリーという存在そのものが、そもそも謎なのだろう。
荻上監督の作品らしく、ちらりと登場する食べ物がみな、魅力的に撮れている。今回は、ギョーザを作り、食べるシーンが2度出て来るが、ギョーザにしたところがなかなかの妙だと思う。この映画でギョーザが出て来るのは、母親がよく作ってくれたという設定で、それを「ばーちゃん」が主になって作るのだが、海外に長く住んだ日本人は一体にギョーザが好きだ。伊川東吾が出演しているフランス映画『Le hérisson』(2009/Mona Achache) には、彼が演じる比較的裕福な日本人が、孤独で本と猫を愛する管理人の老女(ジョジアーヌ・バラスコ)を食事に誘い、みずからラーメンとギョーザを作る。このシーンが決して不自然には見えないところに、在欧経験の長い伊川東吾のアドバイスが生きていると思う。話が横飛びしてしまったが、『Le hérisson』にも、ウォッシュレットのトイレが一つの重要な小道具として登場していたので、思い出したのである。
(ショウゲート+スールキートス配給)
マイ・ブラザー 【前出】
ブライト・スター いちばん美しい恋の詩 【前出】
告白 【前出】
殺人犯 【前出】
アウトレイジ(トレイラーで見る「ヤクザ」たちの啖呵の切り方、怒鳴り方がワンパターン。無理すんなよという感じ)。
FLOWERS フラワーズ 【前出】
クレイジー・ハート 【前出】
パリ20区、僕たちのクラス (『キネマ旬報』6月20号に短評を書いた)。
アイアンマン2 (ミッキー・ロークはよかったが、もっと生かすことができた。今回は、すべての出演者に関してそういう不満が残った)。
闇の列車、光の旅 【前出】
瞬 またたき (未見だが、気になる)。
マイケル・ジャクソン キング・オブ・ポップの素顔 (ありあわせの映像のつぎはぎではないかという説もあるが、まだ試写の機会がない)。
ザ・ロード 【前出】
ボローニャの夕暮れ 【前出】
イエロー・ハンカチーフ 【前出】
アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち (スタジオ録音現場の巨匠たちの姿と回想。ブエノスアイレスの街。涙)。
3. モダン・ライフ 【前出】(去り行くものに冷淡なわたしが面白いと思えたのは犬が怒り出すシーンだけだったと思ったが、見直してみたら、「自然に生きる」ということの意味を教えられるような気がした)。
この映画は、2度見るといい。最初にアジア人に似たイモい(失礼!)女性(リューシー・チュルガルジック)が登場し、自分がイヌイット(エスキモー)の最後の子孫で、これから、「わたしがどのようにして夫と出会ったかについて話させてください」と、イヌクティトゥット語で語るのだが、次のシーンから展開するドラマは、およそこの女性の印象とは無縁である。当然、観客は、ナティクトゥクと名乗るこの女性が、いつどこで登場するのかが気になる。しかし、その気配はなく、次第の彼女のことを忘れてしまう。が、最後に彼女が登場し、なるほどこういう手があったのかと思うと同時に、この女性が持つ不思議な包容力とパワーに魅惑され、もう一度最初のシーンを見てみたくなるのだ。
イヌイットの女性ナティクトゥクを演じるリューシー・チュルガルジックは、実際にイヌイットのルーツを引く女性らしい。すでに俳優として活動しているが、あたかも地ないしは「素人」のような笑いが、妙に魅力的で、印象深い。着ている服は、いまの時代のダウンコートなのだが、その表情と言葉は、遠く日本の原住民(アイヌ)などと同じルーツを感じさせる。イヌイット語のことは知らないが、破裂音を含んだ「ガ」ないしは「カ」、「ッタ」、母音を含む「ネ」、「ル」は古代日本語との、「・・ミラ」は、朝鮮語とのつながりを感じさせる。
ナティクトゥクが出たあと展開するのは、クラウン(道化師)芸人でもあるドミニク・アベル/フィオナ・ゴードン夫妻のドタバタ的に様式化された独特の世界。20年前に妹が火災事故で亡くなって以来、聾唖状態になっているルネを演じるフィリップ・マルツもサーカス芸人。みな体が鍛えられている。床を歩くのにもタップダンス調であったり、パンツとシャツを逆にはいたり、朝食のパンにバターをつける身ぶりの奇妙さ、すべて滑稽だが、日常生活がパターン化しているという暗示もある。
一言で言えば、この映画は、二つの「愛」を描いている。一つは、平凡な夫婦フィオナ/ジュリアン(フィオナ・ゴードンとドミニク・アベル)の壊れかかる愛。もう一つは、イヌイットの女性と、心身疾患的な問題を抱えているルネとの劇的な出会い。
フィオナが家を出てしまうのは、別にジュリアンが嫌いになったためでもなさそう。きっかけは、ハンバーガーショップの冷凍室に閉じ込められてしまうという事故。一晩家に帰ることができなかったのに、夫のジュリアンも2人の子供たちも、何も心配しない。が、だからといって彼らは、彼女を嫌っているわけでもない。ある種の惰性と倦怠感がこの家庭を支配しまっているのかもしれない。「ああ、もういやだ!」とフィオナは思い、夢遊病にかかったかのように家を出て、あてどもなく歩き、バスに乗る。行き着いた果ては、起点のブリュッセルからフランス国境を越え、対岸にイギリスがある海の見える素朴な田舎町バルフール(Barfleur)。ここで、彼女は、孤独に小さなボート(名前は「タイタニック」)を所有しているルネと出会う。しかし、絵葉書をもらって、あとから追いかけてきたジュリアンが合流して、スラップスティック的な船旅をし、最後にあのイヌイットの女性と出会うというのは、かなりの飛躍。イヌイットの女性は、自分の船で漁業か何かにやってきたのだろうが、カナダの果ての地に住むイヌイットがこんなところまで船でやってくるのだろうか? それに、3人があんな薄着で海につかるのだから、とてもありえない話である。しかし、そんなことはどうでもいいというのが、あるいはその「不条理」さ(アプサーディティ)が、この映画の面白さである。
(フランス映画社配給)
めずらしい2本立ての試写。が、『アイスバーグ!』を先に見てしまうと、若干、この映画の面白さが薄れる。というのも、この映画は、『アイスバーグ!』とほとんど同じテンポと雰囲気のギャグが使われているからである。特にわたしのように、『ルンバ!』を先に見ていて、『アイスバーグ!』を今回初めて見た者は、後者の魅力のまえで前者が若干かすんでしまう気がするのである。しかし、一貫しているのは、アベル/ゴードン/ロミのスタイルであり、それが好きなら、十分に楽しめる。
『アイスバーグ!』でイヌイットの女性の表情が実によかったが、こういう撮り方は、ドミニク・アベル/フィオナ・ゴードン/ブルーノ・ロミの3人組の独特の才能かもしれない。今回は、冒頭でフィオナが英語を教える教室で見える子供たちの表情が同じように「自然」でユーモラスなのである。最後のほうの、海岸のパラソルの下にいる犬の表情もいい。
今回、二人を離ればなれにするのは、「倦怠感」のようなものではなく、事故である。二人の日常生活はドタバタ喜劇風にパタン化されて描かれるが、型にはまって退屈では全然なく、軽快なルンバのリズムのように反復的で、そのつど新鮮なのだ。そこには、たとえ退屈のなかにすら、楽しさがあるわけだ。「ルンバ」というタイトルは、そんなことを思わせる。
二人を引き裂く事故は、自動車事故である。鉄道自殺を試みようとした男ジェラール(フィリップ・マルツ)が、なかなか来ない列車にしびれをきらして、今度は道路を走る車に飛び込んでやろうと道端に立つ。たまたまそこにフィオナを乗せてやって来たドムは、レンガの陸橋の壁に衝突し、大怪我をする。フィオナは片足を失い、ドムは記憶を失う。問題のジェラールは、どこかに逃げてしまったらしい。
記憶喪失のドムと片足のないフィオナとの生活が始るが、悲惨な事実が前提されているので、観る側としては、二人がドタバタをくりかえすたびに、何か痛ましい感じがしないでもない。この両義的なトーンが、この映画と『アイスバーグ!』との大きな違いである。ここには、ひと時代まえにはよくあった「身障者」による見世物を見せられるようなきわどい雰囲気がある。だが、そうした両義的な「悲壮さ」は、二人をそんな目に合わせてしまったことを深く後悔しているジェラールの意識でもある。つまり、映画は、二人をどんどん追い詰めて行き、そのあげくにジェラールに出会わせ、彼にある種の「償い」をさせるのである。が、その「償い」は、大げさなものでは全くなく、むしろ偶然の産物にすぎない。
ドムは、家に帰る道がわからなくなって、海岸の町にたどりつく。『アイスバーグ!』のフィオナと似ているが、こちらは、別に家を離れたくなってそうしたわけではない。が、逆にいえば、家や生活が嫌になって家を出ることも、記憶を失って家を離れることも、その無意識の深層では、同じことかもしれない。その場合、別離がそのままになることが多いとすれば、再会は、偶然しかない。が、その偶然を生かせば、二人はまたやって行けるかもしれない。記憶がなければ、毎日がいつも新鮮なのだから。
(フランス映画社配給)
蒼井優、鈴木京香、竹内結子、田中麗奈、仲間由紀恵、広末涼子の5「大」女優たちが競演するのだから、大いに興味をいだいていたが、なぜか試写に行く機会を逸した。試写状の絵柄も、蒼井の顔の丸いモノクロ写真のまわりに赤い花弁状に5人の女優の顔が囲み、花を想わせるという華麗なデザインで、映画の仕上も洒落ているだろうという予感をあたえもした。この日は、試写の最終日(公開は6月10日)で、30分まえに着いたら、東宝試写室の廊下にはすでに長い列が出来ていた。
<シネマノートは「結論」がわかりにくい>という注文があるので、結論から先に書くと――5人の女優たちはそれぞれにいい演技をしていたし、時代色をその時代に一般的だった画調(モノクロやテクニカラーなど)を使ってあらわすなど、ちゃんとした時代考証にもとづく物や町並みのエイジングとともに、なかなか楽しめる仕上がりだった。ただ、わたしのように、すぐ映像のポリティックス(とりわけミクロな――つまり無意識の政治)を気にする者には、途中から、「これって少子化対策キャンペーンじゃないか」という印象をぬぐえなかったということは記しておきたい。登場する女たちが、みな、子供を生み、育てることが「幸せ」であり、時代をつないでいくことなのだといわんばかり(実際に台詞でもある)なのだが、女性たちは賛同するだろうか? まあ、観て損はないから、観てからみんなで議論してみてください。とりわけ、若い女性の意見をうかがいたものです。え?これでは「結論」ではない? まあ、話を難しくするのは得意でも、「平易」にするのが不得意なわたしにそれを期待しても無理なのです。
この作品も、『RAILWAYS[レイルウェイズ] 49歳で電車の運転士になった男の物語』、『ALWAYS 三丁目の夕日』、『ALWAYS 続・三丁目の夕日』を手がけたROBOTの阿部秀司がエグセクティブプロデューサーをつとめている。
すべての作品に英語がアルファベットのまま使われているのも示唆的で、ROBOT/阿部秀司は、一貫した路線を意識しているのである。それは、一言にして言えば、ハリウッド型の「国民教育」である。しかし、ハリウッド映画の「国民教育」との違いは、ハリウッドの場合は、市民が国家に対して「造反」する権利をもうたっているアメリカ合衆国憲法にのっとるかのように、ときには国家への反逆を教育したりもするが、ROBOT/阿部秀司映画の「国民教育」は、一貫して「保守主義」のすすめである点だ。
教育や啓蒙は、イデオロギーや思想を投げつけるのでは効果がない。そういうものが効果を持つ場合にも、日常的な場面で日々行われる「感情教育」のつみかさねがあって可能となる。映画は、その意味で、効果的な教育・啓蒙装置であり、単なる「娯楽」のつもりで楽しんでいるうちに、マインドだけでなく、身のほうも一定の方向に動くことを動機づける機能を持つ。不特定多数の観客を動員する装置(テレビも大量生産品も)は、いずれも、そういう機能を持っているが、それを製作側が意識し、より明確な方向づけをするかどうかは、大きな違いである。
ROBOT/阿部秀司映画の大きな特徴は、(1)「昔はよかった」という印象づけをする点と(2)あたかもその時代を目の当たりにするかのような繊細で手の込んだエイジングの操作と技術がたくみな点である。この映画では、最初、6人の女たちを短く映す。まず雨のそぼ降る東京でタクシーから降りる鈴木京香。これは、現在(2009年)らしい。次は、両脇に竹がそびえる道を歩いて行く田中麗奈。海辺の竹内結子。広い草原を子供と歩いている仲間由紀恵。列車が走る壮大な雪景色が引くと、広末涼子が登場(ここは『鉄道員(ぽっぽ屋)』みたい)。再び一転して桜の景色になり、着物姿の蒼井優が映る。そして、画面がモノクロに変わり、「昭和11年4月」の文字とともに、窓から桜が見える和風の家と、その2階で「吉田絃二郎」などの文字が見える本のならんだテーブルで憂鬱な顔をしている蒼井の本格的な登場となる。この導入部は、なかなか手際がいい。
この映画は、一つのファミリーを描いているのだが、そのなかで一番古い時代の娘を演じるのが蒼井であるというのも、面白い。モノクロで描いても、蒼井は蒼井であり、その「現代性」はぬぐいきれないからだ。それを、いまの時代にはお目にかかれない(だから映画としては「らしく」に描ける)「権柄尽」(けんぺいずく)――こんな表現があった――な父親(塩見三省)が登場して、彼女の「現代性」を1930年代に味付けし、観客は彼女を「昔の女」なのだと思うしかなくなる。が、塩見は、シャイさを頑固さで覆い隠している「昔の男親」という設定だが、いまどきは、狂っているがゆえにこんな感じの若者もいないわけではないので、多少は「昔」を知っているわたしなどは、必ずしもこの時代表現に納得するわけではない。見合いをし、式の日取りも決まっているのだが、蒼井がうかない顔をしているのは、父親が勝手に決めた結婚に、当時の女としてはあけすけに反発しているからである。こういう頑固な父親と(当時としてはわがままな)娘とのあいだをとりもつのは母親の役どころというのもパターンだが、それがこの映画のスタイルであり、母親を演じる真野響子は、その条件を十分に意識しながら最上の演技を見せる。
モノクロシーンは、結婚式の当日、蒼井が白無垢の衣装を着たまま外に飛び出し、この分だと、『プリティ・ブライド』でジュリア・ロバーツ演じるランナウェイ・ブライド(出奔花嫁)の方向に展開するのかと思わせながら、彼女の走るモノクロの足が、ジャズの流れるカラーの画面のなかに消え、鈴木京香がタクシーを降りるときの足に融解する。「平成21年5月」という文字が出て、「現代」であることがわかる。彼女は音楽ホールの会場の楽屋に入るが、うかぬ顔をしているのはなぜか? 彼女はピアニストか? ちらりと映る大聴衆のまえで華麗なピアノ演奏を披露するのではないかという予感。が、彼女は、「譜めくり」(ページ・ターナー)にすぎないのだ。何かの事情でピアニストになりそこねたのか? が、ストーリーを追うのは、このへんでやめておこう。
広末涼子が鈴木京香の妹役つまり「現代」の女性を演じているのは、キャスティングとしては実に賢明だ。彼女は、あいかわらず「ただいま」が「タライマ」となり、"歯科矯正世代"の発音しかできないからである(ただし、今回はいつもよりはひどくない)。が、この映画では、いつも笑顔を忘れない人は、その笑いの背後に深い哀しみを隠しているという法則そのままの女を演じていて、これなら、へたをすると「へらへら笑うんじゃねぇ」とどならせそうな笑いが身についている広末にはうってつけの役である。
鈴木と広末の母親が仲間由紀恵で、彼女も、深い哀しみと運命を背負って笑顔を見せ続けているといった薄倖の女を見事に演じていて、これも、キャスティングがにくい。
仲間由紀恵には二人の姉(竹内結子と田中麗奈)がいる。竹内は、登場したとき、なんかぎごちない(わざと明るくしているような)笑いを見せるので、へたくそだなと思ったが、それは、彼女がその笑いの下に押しやっている哀しみとの関係で生まれた笑いであることが次第にわかり、なるほど(しかし、ちょっと演技しすぎかな)と思ったのだった。
この映画のなかで一番「つっぱった」感じの女を演じるのは、田中麗奈である。眉毛のつり上がったあの顔からして、適役なのだが、彼女が出版社の編集者として登場する場面には、「昭和44年7月」という文字が出る。画面はすべて一時代まえのカラー(「天然色」)に変わり、う~ん、60年代から70年代の前半期の映画的記憶(当時の映画と時代の空気とによって刷り込まれた記憶)をなかなかよく押さえているなと思った。「時代色」を出す映像テクニックとしては、田中の出るシークエンスが一番成功しているかもしれない。
田中麗奈は、有名小説家(長門裕之)の担当編集者で、会社では日々同室の男性社員から「セクハラ」に遭うが、そんなことにはめげない。当時はみんなそうだった。そばで待機していないと原稿が書けない大先生のお守りは、当時はごく「あたりまえ」だったから、田中のような女編集者は何百人もいたわけだ。彼女は、口ではぽんぽん言うが、所詮は60年代を引きずっている女だから、勝間和代をうやまういまの時代の「カツマー」にくらべれば、おとなしいものである。ちなみに、この映画では田中だけが、特に深刻な悩みをかかえてはいない。しかし、結婚し、子供を生むことが女の幸せであるというロジックには、最終的に、逆らわない。
田中が70年代に結婚し、子供を生んだとすれば、その子は、「現在」、年令的には30代のはずだ。その子は、「現在」に生きる鈴木や広末とどういうつきあいをしているのだろうか? 映画にそれらしい場面があったのかもしれないが、うっかり見落とした。わたしの印象では、いまの30代は、日本流の「集団主義」(「団塊の世代」が身をすり寄せた)にはなじめず(そのくせ、ケータイによるリモートの手離れのいい擬似集団性に依存せざるをえない)、といって西欧流の「個人主義」に徹するわけにもいかず、けっこう生きるのに苦労しているようにみえる。彼や彼女らにとっては、この映画から得る教訓は、あまり多くはないのではないか? 映画で「国民教育」をするのなら、この世代に照準を向けなければなるまい。
(東宝配給)
アメリカでこの映画のようなサタイヤーの感覚が生き残っているのは元気づけられる。日本では、近年、急速に「皮肉」や「冗談」(なんちゃって、うそうそ」)のカルチャーが衰えているという意識をわたしは持っている。これは、テレビで多くのコメンテイターが毎日毎日文句ばかり言い、党首も「冗談のように」ではなく、本当の冗談としてくるくる変わり、しかもパニックが起きないという冗談=現実があたりまえになったからだろう。冗談は、現実へのある種の(批判的)距離が必要であり、そういう距離を取る余裕がなければ起動しえない。この映画は、冒頭、ちらっと「星条旗永遠なれ」のメロディがながれ、以下、冷めた実況放送のナレーション調で、「ピープル(人々、人民、国民)がいなければ国家はない。が、もうピープルはいない。・・・ここは、ユナイテッド・ステイイツ・オブ・ゾンビランドだ」と来る。この皮肉なナレーションにかぶって、『パリより愛をこめて』のジョン・トラボルタのようなゾンビがいきなり飛び出してきて、襲いかかり、肉をむさぼる。なるほど、ブッシュ政権のアメリカは、人間を人間がむさぼるような空気をふりまいた。が、それをいまこのように風刺できるということは、アメリカはまだ「ユナイテッド・ステイイツ・オブ・ゾンビランド」ではない。
ゾンビの国で生き延びることができる人間はどのようなタイプか? 映画は、二人の男と二人の女を描く。ナレーションをしているのは、コロンバス(ジェシー・アイゼンバーグ)という若者。おそらくゾンビランド化する以前は、どちらかというとイジメられるタイプの「孤独」な「ヒキコモリ」系の青年だったにちがいない。自分でも、「ローナー」だったと言っている。彼は、自分に「32」のルールを課することによって生き延びる。ナレーションで「32」あるといううち、映画で「例示」(これがこの映画のユーモラスでクールなスタイルになっている)されるのは10例だけ。その一つは、ゾンビに追われたときに逃げ切ることができる「カーディオ」(「有酸素運動」と訳されることも多いが、要するに心臓[cardio]を鍛えるエクササイズ。マスターベイションのことも言う)。次に、「ダブル・チェック」(ゾンビを撃つときは一発だけではなく、もう一発とどめをさす)、「トイレに注意」、「(車に乗ったら)シートベルトをする」、「身軽に移動する」(ただし、「これは持ち物のことだけじゃない」とコロンバスはつけくわえる――つまり「定住者」にならないということだ)、「ヒーローにならないこと」、「柔軟体操をする」、「あやしいときは、出口を確保する」、「後部座席をチェックする」、「些細なことをたのしめ」。
コロンバスが、ルール通りに生き延びる過程で出会うのがタラハシー(ウディ・ハレルソン)であるが、このカーボーイのような出で立ちのマッチョ男も、実は繊細で「こだわり」の人であることがわかる。彼は、体力と運動神経が発達している分、コロンバスのような厳密なルールを決める必要はない。しかし、彼を生き延びさせてきたのは、直感と、「こだわり」とセンチメンタルな繊細さだ。彼は、息子をゾンビに殺されたことを忘れない。ゾンビとの闘いは、その怨念に裏打ちされている。それから、彼は、スナック菓子の「トゥインキー」に目がない。いまでは体に悪い食品として有名であるが、こういう馬鹿げた駄菓子を必死で探す「幼稚さ」は、苦境を生き抜くささえになる。また、映画好きで、ビル・マーレイの映画は全部見るくらい敬愛している。彼らが、ハリウッドのマーレイ邸に忍び込むくだりは最高。
なお、俳優ウディ・ハレルソン自身は厳密な菜食主義者(ヴィーガン)で、トゥインキーは絶対に口にしないので、彼がそれを食べるシーンの撮影にあたっては、特別の菜食仕立ての「トゥインキー」を作ったという。
ふたりが道すがら出会うことになるウィチタ(エマ・ストーン)とリトルロック(アビゲイル・ブレスリン)の姉妹は、少女時代から、「つつもたせ」的な詐欺行為をして生活してきたらしい。「善良」や「かよわさ」を装って人をだます才能が身についている。こういうタイプも、「ゾンビ帝国」で何とか生きていくことが出来る最後の人間のタイプである。
コロンバスは、ゾンビが横行する以前から、「ゾンビ的な奴」は避けてきたと語る。ゾンビとは、何も考えることをせず、相手を襲い、むさぼり食うことしか知らない利己的な欲望マシーンにほかならないが、裏を返せば、人間は、程度の差はあれ、ますますそういう道を歩んできているのであり、世界は「ゾンビランド」になりつつあることを思えば、最後に生き残ることができるのは、この映画に登場する4人のタイプということになるのだろうか?
この映画には、エンドロールの最後の最後におまけ映像がある。これを見逃さないでほしい。ここでウディ・ハレルソンがビル・マーレイに言ってくれるように頼む台詞は、「サタデー・ナイト・ライブ」系の映画『キャディーシャック』(Caddyshack/1980/Harold Ramis)のなかでビル・マーレイが言って非常に受けた台詞である。ゴルフ場に穴をあける野生のリス(gopher)に手を焼いたマーレイ(カール・スパックラー)は、穴にダイナマイトの導火線を仕掛けながら言う、「In the words of Jean Paul Sartre: 'Au revoir, gopher'.」。直訳すれば、「ジャン・ポール・サルトルの言葉で言うならばだな、バイバイ、ホリネズミちゃんってとこだね」。この際「サルトル」はどうでもいい。この爆笑喜劇では、この野生のリスも立派なキャストで、その小憎らしくもひょうきんな表情(むろん人形を使った特殊効果)をして笑わせる。
(日活配給)
「トゥルーストーリー」というものに飽きることがある。このジャンルは、ひとつ確立されたものがあり、それなりの文法と結構があるわけだが、それが鼻について見続けることが出来なくなるのである。この映画を見ているときは、全然そうではなかったが、いざそのレヴューを書こうとする段階になって、書けなくなってしまった。なんで「トゥルーストーリー」は、どいつもこいつも「それっぽさ」を重視するのか、しかもその「それっぽさ」は、既存の写真や映像を模倣しているにすぎない。こういう表現の基本にふれる疑問におちると、ことはやっかいである。
この映画では、クリストファー・プラマー演じるレフ・トルストイも、夫人ソフィア・トルストイを演じるヘレン・ミレンも、実物を模倣している。ヘラン・ミレンは、どんな役を演じても、エリザベス女王のそっくり度を越えることはないから、逆に安全だが、プラマーの場合、とても「ロシア人」には見えないその風貌にもかかわらず、衣装だけ模倣しているから、すべてが日本の新劇シェイクスピアのように見える。そう、基本は「新劇」なのだ。そう割り切って見ないと、こういう作品は楽しめない。
新劇や翻訳小説を読むフィルターをかましておいてから見るならば、この映画が描くのは、「理想」に走りすぎる高齢の人物と、それでは家庭も家計もたちゆかないと思って「現実」的な対応をする妻とのあたりまえの物語であり、そういう男の理想主義を煽ることが生きがいの侍従的男(チェルトコフ/ポール・ジアマッティ)とそいつと「理想」主義老人とのあいだでどちらにも忠誠をつくそうと気をもむ助手(ワレンチン/ジェームズ・マカヴォイ)が、こういう老人と妻とのあいだにしばしば出来がちのラディカルな悪女的娘(マーシャ/ケリーコンドン)を愛してしまい、おろおろするというエピソードがつく。映画としては、登場人物の心理の綾を眺めて楽しむことになるが、トルストイ解釈にとってどれだけこの映画が役立つかどうかは疑わしい。
こういう映画は、俳優たちの演技のディテールを楽しまなければ、意味がない。その点では、ジアマッティは、うまいし、ホームドクター役のジョン・セッションズも悪くない。
この映画の取得は、「三大悪妻」の一人に数えられるソフィアにあたりまえの人間としての顔をあたえたことだろう。彼女は、決して「悪妻」ではなかった。むしろ、トルストイのほうが「悪夫」だったのだ。映画でも出てるように、ソフィアが13人もの子供を生み、育てたという事実は尋常ではない。昔の女性は子沢山だったとしても、13人は多すぎる。ソフィアの場合、乳母や召使に恵まれ、子育ての労働は、貧乏人の比ではないとしても、13人を借り腹で生んだわけではない。そして、ソフィアが、『戦争と平和』の草稿を6回も清書しなおしたと言うのは重みがある。まあ、「偉人」として世に知られるようになる人間というのは、みな身勝手である。この映画は、そういう面をそれほどキツくは表現しない。トルストイのそうした身勝手さや、「精力絶倫」的な怪物性を強調して描いたならば、その「実像」にもっと迫れただろう。
トルストイが「悪夫」であるかは置くとして、彼が、家を出たということには、「実存的」な決断があったはずだ。「偉大」な文学者の決断というより、82歳という高齢の男のやや「認知症」的な決断が。ただし、この映画は彼のそうした決断の核心には迫らない。だから、この映画は、高齢者が見ても、そこに自分に共通するものを見出し、共感をおぼえることは難しいだろう。
(ソニー・ピクチャーズエンタテインメント配給)
予備知識なし、もらったプレス見ないといういつものパターンで映画を見はじめて、主役のドレという少年の顔が、ウィル・スミスによく似ているなと思った。あとでデータを見たら、彼の実子だった。キャリアウーマンの母親(タラジ・P・ヘンソン)の転勤で北京にやってきた繊細な少年を見事に演じている。運動神経はあるが、映画のなかで成長するような強靭さを持っているようには見えないところが、かえっていい。父親の後ろ盾なしにはこの役を得ることはできなかったかもしれないが、まあまあ今後いい俳優になるのではないか?
この映画のキャスティングは悪くない。ドレが親しくなる「良家の娘」メイを演じるウェヌェン・ハンは、どういう経歴の子役かは知らないが、彼女が演じる少女は、アメリカから来たドレに興味を持ち、ヴァイオリンを弾き、英語もわかる娘。いつも妙に親しみのある笑いを浮かべていて、キュートである。ドレの師匠となる空手の名人ハンをジャッキー・チェンが演じるが、これほど脇役として控えめで「真面目」顔の演技をするチェンを見たことがない。こういうのも出来るんだという印象。自動車事故で妻を亡くし、アパートメントビルの雑役係をやっているが、空手はめっぽう強い。彼が空手の世界にいるわけではないのには、いろいろな過去の事情があるらしいが、そういう過去を漠然とにおわせながら、寡黙を貫いているキャラクターをジャッキー・チェンは見事に演じる。ドレをいじめるチョン役のチェンウェイ・ワンは、若年ながら凄い「悪役」を演じている。この俳優は、今後楽しみだ。
映画としては、1984年の『ベスト・キッド』(The Karate Kid/1984/John G. Avildsen)よりも出来がいいと思うが、映画として特に凄いところがあるわけではない。だが、その「教育」効果と時評性を取り入れた営業的配慮は、なかなかしたたかである。1984年の『ベスト・キッド』(The Karate Kid/1984/John G. Avildsen)は、主人公を白人、移動はニュージャージーからカリフォルニアへだった。そうした選択には、時代性や時評性はあまりなかった(あるとすれば、シングルマザーの家庭であることぐらい)が、今度の主人公は黒人(アフリカン・アメリカン)であり、デトロイトから北京へ移る。オバマ政権のアメリカでは、アフリカン・アメリカンを主人公にすることは、白人の場合よりも今様という印象をあたえる。さらに、いまのアメリカにとって中国は最大に関心の的である。その意味では、非常によく計算された「傾向映画」でもある。
この映画を見れば、一般にアメリカが中国をどう見ているかがわからないでもない。アメリカは、共産党系の「古い」中国を恐れている。この映画で悪役になっているのは、ドレをいじめるチョン(チェンウェイ・ワン)とその仲間たちだが、彼らは、リー(ユー・ロングアン)が率いる道場の門弟である。広場で100人単位の門弟たちが、真っ赤なユニホームを着て練習している姿は、規律で一斉に同じ動きをする(とされる)全体主義的な「共産主義」社会のステレオタイプのイメージである。リーは、つねづね弟子たちに、「弱さ、痛さ、情けは無用」と教え、クライマックスの試合のときも、あくどい計略をしかける。これは、古い中国のステレオタイプである。
しかし、アメリカの昔の「反共」傾向映画とはちがい、そういうステレオタイプを提示し、それをやっつけるような終わり方はしない。その試合に臨むドレが(師匠ハンからこの試合のために贈られた)真っ白な試合着を着ているのは、意味深長である。ドレ自身は、「ブルース・リーと同じだ」と喜ぶだけだが、それ以上の意味がある。なぜなら、ロシア革命の昔から、「赤色ロシア人」と「白系ロシア人」とは対比関係にあり、前者は共産主義支持、後者は、その政権を逃れて亡命した貴族などを指したからである。しかし、その「赤色」のユニフォームに身を包んだチョンたちが、最後に示す態度のなかに、アメリカが中国共産党(その新世代)をどう見ているかがうかがえなくもない。中国は依然共産党の指揮下にあるが、その古い世代といまの若い世代とは全然考え方がちがうとアメリカは考えている。そのあたりが、身ぶりではっきりと示されるので、注意して見てほしい。
ドレが恋するメイの父親、その家の描写に、中国で進んでいる階級差があらわされている。中国で、市場や小路地での雰囲気とは全く違う光景がどんどんひろがっているのは、外から傍観していてもよくわかる。中国はどこへ行くのか? この映画は、中国の暗部や問題の個所には全く立ち入らないから、中国としては、大歓迎であろう。撮影には、協力を惜しまなかったようで、万里の長城のうえでハンがドレに空手を教えるシーンもある。実際に一般観光客がこんなことをしたら、どうなるだろう?
ドレとメイがデイトをする影絵劇場のシーンと、ある日、亡き妻と子供を思い出して悲嘆にくれている師ハンを見つけ、訓練を「無理矢理」頼んで外に出て、棒術的(?)な稽古をするシーンとにワヤン的な影絵が出て来て、先日、バリのワヤンを川村亘平さんに見せてもらったばかりなので、なかなか面白かった。
(ソニー・ピクチャーズ 映画マーケット部配給)
暗闇に不気味な音が響く。壁が崩れ、掘削機の音がする。寂しげな音楽が聴こえ、創造よりも破壊の雰囲気がただよう。光が射す穴が開き、充満する埃のなかに「出口」が見えるが、それは、「未来」へではなく、困難のなかに吸い込む入口のように見える。重苦しい音楽とともに、溶接機が鉄筋を焼き切る赤い火花が画面に広がるが、それは、まるで戦火を思わせる。そういえば、このドキュメンタリーの監督ウケ・ホーヘンダイクは、世界のホロコースト・ミュージアムを批判的にとらえたドキュメンタリー (The Holocaust Experience/2003) を撮っているらしい。
しかし、ホーヘンダイクは、最初からアムステルダム国立美術館の改築プロジェクトを批判的にとらえるために撮影を開始したわけではないだろう。改築を野心的に推進する館長のロナルド・デ・レーウと各部門のそれぞれにスノビッシュであったろオタク的であったり、プロを鼻にかけているような「学芸員」たち、そして改築を担当する二人のスペインの建築家、アントニオ・クルスとアントニオ・オルディスのコンビ。彼らに密着して撮影をするのに、最初から批判的な態度では記録ができないだろう。
いや、いまになって、ふと思うのだが、この映画が最初に発表されたのが、2008年11月のアムステルダム国際記録映画祭においてだったから、改築計画のトラブルが明るみに出てから編集にかかっても、十分間に合ったはずだとすれば、ホーヘンダイクの胸底には、最初からこの美術館そのものを批判的にとらえるねらいがあったかもしれない。実際、両袖に分かれているこの美術館の中央の通路は、南地区へ徒歩や自転車で行く重要な通り道になっていたから、2004年にこの中央通路が閉鎖されたとき、市民とサイクリスト協会は抗議の声を上げ始める。この映画にも、サイクリスト協会のマリヨライン・デ・ランゲの抗議発言が出て来るが、「オランダの国家としての最盛期を象徴する美術品の宝庫」といわれても、地域住民にとっては、毎日世界中の観光客でごったがえし、ありがた迷惑な場所でもあったのだ。また、膨大な改築費は、市民の納めた税金からも負担されるわけだから、教育文化科学省も改築に賛成ではないのだった。
ピエール・カイパースが設計し、1885年に開館したときには、この美術館は、19世紀に爛熟する諸理念を集積していたかもしれない。そして、近代の「表象的」視覚形式を人々が儀礼的に遂行する儀式空間(近代の伽藍)として十分に機能したのだろう。しかし、もはや美術館は、もはやそういう機能を発揮できないし、「伽藍」的なものへの人々の欲求は、マスメディのほうにうつってしまった。だから、美術館は、20世紀になって、マスメディアの空間性を模倣するようになる。そして、それならば、美術館は、フィジカルの場である必要はないわけだが、建築物というフィジカルな場に執着しているために、中途半端なものとなり、「歴史的遺産」を抱えているという思い込みのために、ディズニーランド的な空間にもなりきれない。その意味で、この映画は、美術館の終焉をまざまざと記録したドキュメントということになる。何でもアムステルダムは時代に先行するから、こういう事態が、今後、世界の大美術館で起こらないとはいえない。
近代文明は、収集と再現と展示の理念のなかで動いてきた。侵略と植民地化がこれらの理念を大規模に(国家的規模で)実現してきた。国立美術館のコレクションは、大英博物館の例を見るまでもなく、植民地や強大な権力の行使の証である。展覧会、つまりコレクションの公開は、勝利した国家や民族の歴史を展示する。その際、その公開の仕方は、距離を置いて「ながめる」という表象形式に向かう。「表象」とは、英語では「リ・プレゼント」つまり「そこにある」(プレゼント)ものを「再・現前」させることであるが、なぜ「再」になるかというと、そのものに対してつねに「距離」をとらせるからだ。ものそのものに直接関わらせることはない。ちなみに、古代の「美術」は、「観客」が触ったりして「鑑賞」できたし、そもそも「鑑賞」という観念にはそぐわなかった。近代には、建築も「美術品」になり、「記念物」になってしまうが、建築は使うものであり、古代の建造物が、「美術」だとしても、その「美」は「用」の美だった。
アムステルダム国立美術館の場合、それを19世紀の一つの記念建造物・保管所ぐらいのものとして保存の方向で改築するにとどめれば、このようなトラブルは起こらなかったかもしれない。クルスとオルティスは、カイパースの建築理念をひたすら壊そうとしたわけではなく、一部は、むしろ、60年代に分断化された展示スペースをカイパースの理念に引き戻し、広いスペースに時代の異なる作品を展示するような改造も計画していた。(冒頭にリンクしたYouTubeの画像は、彼らがプレゼン用に作ったシュミレイション映像の一つである)。しかし、基本においては、(いつも満員で)さばききれない来館者を収容し、レストランやミュージアムショップの機能を「充実」させ、かつ21世紀の建築らしい実験もとりいれようという野心は大いにあったことは否めないし、やり手の館長レーウはそういう路線を推進し、予算がどんどんふくれあがっていったのだった。
現代の美術館は、どのみち、芸術を利用した複合的な「ショッピングモール」とディズニーランド的なエンターテインメント・スペースになるしかない。これは、音楽ホールも同様であり、いまの時代、美術館やコンサート(特に外国の作品を展示した美術展や、外国のオーケストラを招聘した演奏会)などに行くのなら、料亭やレストランで美食をしたほうが、よほど五感を創造的に刺激される。
アムステルダム国立美術館の館長ともなると、日本などとは権力の規模がちがう。ロナルド・デ・レーウは、ある時期から改築計画に嫌気をさし、館長を辞めることを内心で決めていたらしく、ウィーンに自宅を購入するが、夏季をすごすための別荘がイタリアにもあり、セルビアに贅沢は事務所を持つ建築家のアルティスに、「あなたは世界中に家を持っているんですね」と皮肉られるシーンがある。館長職を辞任し、アムステルダムから引っ越すとき、ちらりと映る彼の家には、(おそらく国宝級の)絵があるのが見える。
映画のなかに、レーウが日本に来て、正倉院を訪ね、金剛力士像を買い付けるシーンがある。あとのほうで、アジア美術の学芸員のメンノ・フィツキが、「2年半かけて購入にこぎつけた」と大喜びをしながら、届いた金剛力士像の荷解きをするシーンもある。金額はいくらだったのか知らないが、けっこう「日本文化の遺産」が海外に流失しているのね。まあ、ゴッホの絵だってそうだから、創られた土地にいつまでも残る作品は少ないのかも。ここでもグローバリズムが。
後任の館長には、「無派閥」のヴィム・パイベスが就任し、レーウが推した(?)20世紀美術担当のヴィム・デ・ベルが選ばれなかったが、新しい収集担当のディレクターには、17世紀美術担当の学芸員だったタコ・ディビッツが就任した。レーウは、この美術館は20世紀の作品収集に弱く、「20世紀のものはアールデコしかない」と言っていたが、彼は、この美術館を「現代美術」にも拡大する野心があり、その期待をヴィム・デ・ベルにかけたのだろう。完成したあかつきに開く展示の打ち合わせの席で各学芸員(キュレイター)がそれぞれに野心を開陳するシーンは生臭い。
修復作業に熱意を燃やす修復士(女性ばかり)や、「この建物は女房みたいなもんだ」と語る警備員レオ・ヴァン・ヘルヴェルンの姿も映るが、彼女たちや彼の仕事への情熱はわかるが、修復士の手つきは、「商品」を仕上げるエンジニアの手つきを思わせたし、「この美術館の人間以外は通さない」と言って、通路をベニヤ板で閉鎖するレオの姿は、とてもこの空間を市民に明け渡す気などないような感じに見えたが、これも、監督の批判的なレンズのせいか? とにかく、デテールにこだわれば、いろいろな観方ができる映画である。
(ユーロスペース配給)
実際にバレーの才能のある人物が役を演じているのだから、その才能を開花させてゆくプロセスの描写は、面白くないはずがない。1970年代の初め、まだ「文化大革命」(文革)が続く中国で少年リー(ホアン・ウェンビン)は、山東省の村から北京の舞踏学校に入る。村にバレーの若い才能をオルグしにきた視察団の役人の目にとまったからである。最初役人は、小学校の教室に来て、生徒たちを一人ひとり見る(何で見るだけでわかるのか?)程度のおざなりのテストしかしなかったが、リーの才能を見込んでいた担任の先生のたっての推薦で、ようやく役人がリーをテストする気になり、合格したのだった。官僚制に寝そべった役人たちの権威主義や横柄さを見せ付ける描写である。ちなみに、この先生は、のちに「下放」を受けて、車でいずこかに連れ去られるシーンがちらりと移る。リーが彼に再会するのは、彼が世界的なバレーダンサーとして故郷を訪ねることができるようになってからだった。
文革は、最近では、ナチのホロコーストまではいかないとしても、それを肯定的に論じることは不可能になった。が、たとえば、ゴダールの『中国女』(La chinoise/1967/Jean-Luc Godard) にはっきりと出ているように、フランスをはじめとする1950~60年代のポスト実存主義の知識人(サルトルからアルチュセールまで)にとって、文革は、実存主義を脱出してマルクス主義に飛び移る(あるいは移行する)カタパルトの役割を果たした。言い換えれば、1970年代の西欧思想とりわけ「西欧マルクス主義」は、中国の文革への(いまの批判者なら言うであろう「妄想的」な)想い入れなしには形をなしえなかったのだ。これは、いかなる運動や出来事も、地理的・歴史的「距離」をへだてると、別のものになるという実例だろうか、それとも、文革には、いまはタブーとして隠されている別の能動的側面があったということなのだろうか? このへんに関しては、当時文革を支持していた論者から生産的な発言はなされていない。へたに肯定すれば、命取りになりかねないからでもあるが、文革否定の波の圧倒的な強さのまえで、その屈折を形にすることが難しいからだ。
この映画のなかでは、文革は、現在の「常識」でとらえられている。制作された舞台を江青(当時はまだ公式的には毛沢東夫人)が見て、バレー団の舞台に銃が見えないと言って機嫌を害し、再制作された舞台でダンサーが銃をかかえて踊るのを見て満面笑みをたたえるというシーンがある。そのどちらもがあえて低レベルの仕上がりになっていて、本気で批評しても仕方がないが、このシーンでの江青は、完全にカリカチュアされている。彼女が当時どんどん悪しき政治主義に突っ走っていたとしても、演劇を見る江青の目はここまでは曇ってはいなかったほずだ。1972年に日本に中国上海舞劇団が来日し、「白毛女」と「紅色娘子軍」という、まさにこの映画で江青がご満悦のスタイルの公演をやったが、その身ぶりのブレヒト劇的な鋭さは半端ではなかった。それは、プロパガンダであることは確かだが、それを突き抜けた演劇的水準をマークしていた。
この映画のなかだけで判断しても、江青が否定するだらけた「舞踊」よりも、彼女とその取り巻きたちがご満悦の舞台のほうが、様式化や構成度の点で、ずっといいような気がした。この映画からこの部分だけを拡大するのは適切ではないだろうが、アートと政治(状況)との関係はいつもねじれているのであり、すぐれたアート表現は、つねに、「状況にもかかわらず」という逆説のなかでなされたのだと思う。そういえば、ロラン・バルトは、1960年に書いた舞台評のなかで、「パリの選良が『母』のうちにプロパガンダ劇を見たのは、非常に盲目なことであった。カトリックの立場を選んだからといってそれがクローデルの作品のすべてでないように、ブレヒトのマルクス主義に対する選択が彼の作品を汲みつくすものではない」(『エッセ・クリティック』、晶文社)。
この映画のリーは、「状況にもかかわらず」芽を出し、世界的なバレリーナになっていくのではあるが、その「状況」(文革)は、当時の言い方に従えば「弁証法的」にとらえられなかればならない。つまり、動的かつ相互的な関係のなかでだ。リーが、文革時代の北京舞踏学院で徹底的に鍛えられ、それがなかったら、彼の将来はなかったことはいうまでもない。その場合、北京舞踏学院が、「文革にもかかわらず」どのように生徒を教育したか、その屈折は、この映画では微塵も描かれていない。まるで、もし彼が最初からアメリカかヨーロッパのバレー学校に入学する機会を与えられていたら、もっとすぐれたバレリーナになったかもしれないといいたげである。しかし、歴史に「イフ」は無意味だとしても、リーが、文革時代の緊張と屈折のなかで育ったことは確かなのだ。むろん、だから、「文革は有意義だった」というロジックはなりたたない。言いたいのは、すぐれた表現や人物は、いつの時代も、決して「最上」の環境で生まれるわけではないということだ。
ツァオ・チーは、ちょっと演技が硬く、アマンダ・シェルは演技が稚拙ではあるが、全体として、ある種の「ビルデゥーングス・ロマン」および「ラブストーリー」としては見られなくなない。が、文革に関してはいたしかたがないとしても、ディテールの描写において、この映画はかなりずさんである。たとえば、中国で英語を勉強してきたはずのリーが、アメリカで知り合って愛するようになるエリザベス(アマンダ・シェル)と抱き合い、深い関係に入りそうになったとき、エリザベスが、「わたしは処女なの」と言うと、リーは、「virgin」の意味がわからず、けげんな顔をする。そこで彼女は、「セックスをしたことがないの(I had never sex before)」という。しかし、リーはそれでもわからないので、彼女は、「You know sex is」(セックスってわかるでしょう)と聞く。すると、彼は、「うん、わかるよ1、2、3、4、5、6のシックスだろう?」と答えるのである。これがジョークなら、聞き流せなくもないのだが、この二人の俳優は大真面目でこの台詞をやりとししている以上、これは、リーが「virgin」という言葉も「sex」という言葉も知らなかったということになる。そんなことは、リーが天才で「世間知らず」だとしても、ありえない話で、少なくともこの映画のような普通のレベルのリアリティを追う作品の台詞としては安易すぎる。そして、この安易さがこの映画の全体の水準をあらわしてもいる。
エリザベスとの結婚に対して中国大使館が見せる態度、それに対抗し、リーを支援する、弁護士(カイル・マクラクラン)をはじめとするアメリカ側の人間たちの態度は、非常に表面的だ。まるで、この種の事件の要約をスポーツ紙で読むときのように、奥行きが見えない。同様に、結婚はするが、どんどん著名になっていくリーと、家で孤独な日々を過ごすことが多くなるエリザベスとの破局も、もっと描き方があっただろう。そういえば、リーをアメリカに呼ぶヒューストンのバレー団の主任ベン(ブルース・グリーンウッド)は、明らかにゲイであることがわかる描き方がされているが、そうだとしたら、当初、ベンが一人で住む家にリーが寄宿していたとき、ベンがちらりと見せる彼への「愛」も、もう少し奥行きを持って描いてほしかった。そうすれば、リーのさまざまな人間関係に厚みが出たであろうし、ときおりこいつはアンドロイドじゃないのかと思わせるシーンが改善されただろう。
(ヘキサゴン配給)
この映画は、織田裕二を御輿(みこし)にまつりあげた「お祭り」だから、映画として論じるのは馬鹿げている。この「映画」は、「観たよ」「面白かった?」「まあまあね」というレベルで見られるべきものであって、真剣にああだこうだ言うことを最初から排除している。オタク的には、出演者やテレビとの細部の比較も可能だが、その場合は、かなり大雑把で期待を裏切られるだろう。すべてが、織田裕二的な「まあ、いいんじゃないすか」の感覚なのだ。
とはいえ、いや、だからこそ、この映画には、日本の「いま」があらわされてもいる。何が「標準」なのか、具体的にはマスメディアが「マス」(大衆――そういうものが存在するとして)をどうとらえているか、企業や政府が宣伝や教育(学校のだけでなく)を打つ場合に何を価値基準とするか・・・といった面がこの映画にはよくあらわれてもいる。
非常に「ありがち」なパターンがくりかえしあらわれる。湾岸戦争から最近までアメリカ映画の「悪役」に「イスラム系」の人間(人物設定)が多かった(最近少し変わりつつある)が、この映画の「悪役」ないしは「ネガティヴな人物像」が、「派遣」や「ネットゲーマー」らであり、彼や彼女らのたまり場が「インターネットカフェ」であるというのもありがちなパターン設定である。当然「ハッカー」もポジティヴなイメージではとらえられないが、警視庁が「サイバー犯罪」の摘発に乗り出している「いま」、小泉孝太郎が演じている「ハッカー」的警部はポジティブで「カッコイイ」存在として描かれる。捜査の過程でどこかから「拉致」されてきてパスワードの解析を強要される「ハッカー」男は、もとは「ワル」だがいまは警察に協力しているという中間的な設定。基本的には、ハッカーは社会の余計者なのである。
テロや殺人予告の脅迫とひきかえに刑務所にいる重罪犯の釈放を要求するというのもありがちなパターンである。しかし、獄中から指令を発し、かなりのところまで警察を振り回すカルト的な人物は、小泉今日子の演技力と入れ込み方のおかげで、もっとふくらませたいキャラクターになった。『羊たちの沈黙』の例もあるから、この設定自体は安いとしても、小泉はよかった。そういえば、深津絵里もうまいなと思わせる演技を見せていた。
湾岸暑が新しい建物に引越し、そこが厳重な電子セキュリティで守られているが、逆にそのために、署員たちが内部に閉じ込められて右往左往するという「ハイテクの矛盾」は、月並みなパターンである。予想されるように、こうした「ハイテク」には、「足を使った捜査」や先輩や経験者の知恵が対比される。いかりや長介が演じた「和久さん」の甥という設定の「和久くん」(伊藤淳史)が、「和久さん」が残したメモをたびたび持ち出し、それが捜査に効果をあげるというのも、「ハイテク」批判のパターンである。
「ハイテク」が自動的に起動し、人間が制御できなくなるというパターンは、そろそろ願い下げにしてもらいたい。そういうことは、ありえるとしても、その原因はつねに人間にある。電子機器やソフトを買って、使い勝手の不便さや誤動作を指摘すると、「仕様です」という答えが返ってくることが多い。ふざけた話である。そういう「仕様」を不動の前提とするならば、「ハイテク」はどうにもならないしろものである。しかし、ハイテクの「ハイ」なるゆえんは、それをいつでも修正でき、さらには「オートポイエシス」的に自己修正できる自己能力にあるはずだ。「仕様です」という言い方は、店頭で在庫を尋ねたときの最悪の返事「出ているだけですけど」と同様の怠慢さと、まずい料理を出して文句を言われたレストランのシェフなりマネージャーが「うちのお味です」(自分のとこの味に「お」をつけるな)というような居直りである。これ以上書くと、映画とは関係のない気難しい文句になりそうなので、これでやめる。ここで書いたことは、この映画を見るのには余分なことである。
(東宝配給)
3D版の試写を選んだため、吹き替えヴァージョンだった。3Dといっても、まだメガネを装着する方式のだから、わずらわしい。そのうえに、字幕を見るのはめんどうだから、3D版が吹き替えヴァージョンになるのは、興行的にはいたしかたがないだろう。が、その代わり、オリジナルの印象とは大分ちがってしまうのは避けられない。すでに日本には、アニメの吹き替え用の達者なディスクール(ものの言い方やスタイル)が出来上がっているから、ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパンの新スタジオのすばらしい音響・映像システムを通して見るこの作品も、印象としては、テレビでアニメを見るのと似てしまうのである。
3Dを意識しているために、横移動よりも、縦移動のシーンが多い。これは、ただ立体感を出そうとしているだけなので、平板に映る。特に前半は、子供っぽい印象が強く、『モンスターズ・インク』あたりから密度をどんどん高めてきたディズニー/ピクサーの2Dアニメにくらべると見ごたえがないような気がした。2Dヴァージョンのときに、プラスチックのおもちゃが「生命あるもの」に変身する面白さがあったが、それが3Dになると、人工物としての感じが強調されてしまい、変身の面白さが弱くなるのである。
最近の「3Dブーム」は、かつて映画がサイレントからトーキーへ、モノクロからカラーに変わったときのような映画にとっての大転換を予兆するのだろうか? メガネをかけて立体映像を見るというのは、全然新しくない。わたしは、もう半世紀もまえにそういう「立体映画」を見た記憶がある。が、いま、メガネをかけずに3次元映像を見せる技術が開発され、商品化されつつある。しかし、それが映画館の大スクリーンで普及するまでには大分時間がかかりそうである。まず、ゲームやコンピュータのモニターのレベルで普及することになるだろう。それは、時間の問題だ。
しかし、いま目にする3D映像は、まだ、映像表現としてはつまらないものが多い。量販店のモニターやテレビの売り場では、3D映像のデモをよくやっているが、物がこちらに飛んで来るのを見せているだけのようなお粗末なものが多い。こんな効果に映画が重点を置いたら、映画はこれまでの蓄積を相当程度犠牲にしなければならない。また、逆に、映画が本格的に3Dを導入するようになれば、トーキーが登場したとき、それに乗り切れなくて、映画界から去っていった俳優や監督がいたように、新しい状況に乗り移れない映画人がたくさん生まれるだろう。3Dは、製作・演技の側にとっても、また観る側にとっても、これまでの映画とは全く違う姿勢を要求するからである。
映画を観ることには、一つの型が出来ていて、それを越えることはできない。技術的にはできるが、いまの型を越えてしまったら「映画」ではなくなる。映画は、観客とスクリーンとが分かれていて、観客は一応「受動的」(体を積極的に動かさない)ことを前提にしている。だから、映画館で、たびたび頭の位置を変えたり、背伸びをしたり、立ち上がったりするのはご法度なのである。映画館という空間がそう出来ている。しかし、ゲームの世界では、それはすでに越えられている。ゲームではなくても、任天堂の「Wii」のように、体を積極的に動かすことを前提として作られている映像システムが普及している。3Dは、こういうシステムにとって都合のよいものであって、観客が椅子やソファに「受動的」にもたれかかって「観る」場合には、その機能がかなり制限されてしまう。3Dの技術は、VRやAV (Augmented Reality/拡張現実)のように、「観客」ではなく「操作者」に向いているが、映画は、「操作者」には向いていないのだ。そうなると、3D映画は、「観客」を一方的にどこか「未知」の世界(宇宙であれホラーの空間であれ)に連れていくとかしかなく、その効果は「驚かす」ことぐらいにとどまってしまうのである。
『トイ・ストーリー3』の台本自体は、決して3D向きには書かれていない。客席で「受動的」に見て、「感動」させ、「教え」、「考えさせる」古典的な映画のスタイルで書かれている。そこには、どうしても3Dでなかればならないというシーンはない。「古典的」な「映画」がどんなに「受動的」であれ、「観客」は、(少なくとも居眠りをしていなければ)想像力を発揮し、自分の意識のなかで3D世界を組み立てている。その意味では、3D映画は、「観客」のそうした想像力を萎縮させてしまう可能性もある。
この映画も製作総指揮をジョン・ラセターが取っているが、彼が製作するアニメは、みな、「健全」な意味で教育的である。それが、露骨ではなく、楽しんで観ているうちに、納得させてしまうような巧みな手さばきである。それは、ある種の「意識操作」ではあるが、どのみちハリウッド映画はそういう機能を捨てることができないとすれば、「操作」は「健全」なほうがいいだろう。
どこが「健全」かというと、この映画には、子供から大人への飛躍の不可避性と使い捨て文化への批判が根底にある点だ。ラセターは、「ヒキコモリ」や「オタク」を擁護する、というより前提して映画を作っている人だが、愛着するおもちゃや持ち物を簡単には手放せない「オタク」でも、ある年令に達すると、子供時代に使っていたおもちゃを捨てたり、整理したりしなければならなくなる。「トイ・ストーリー」のトイたちは、孤独な子供(おもちゃに語りかけ、家族の一員であるかのようにしていっしょに遊ぶ)のフェティシズムを形象化してもいる。「大人」になるということは、そういう意味でのフェティシズムと決別することだが、それはどういう形でなされるべきか? そんな「べき」をこの映画は暗黙に示唆する。捨てるよりも、誰かに受け渡すこと。
この映画には、「おもちゃ」を、ただの使い捨てのものとしか考えない子供たちが登場する。ウディ(声:唐沢寿明/トム・ハンクス)たちが「遍歴」のなかで閉じ込められる保育園の子供たちである。映画は、彼や彼女たちをワイルドでアグリーな存在として描く。ここでは、マーク・トウェインの「トム・ソーヤー冒険」や、1930年代のシーリズ映画「The Little Rascals」(1970年代でもテレビで再放送されていた)といった世界で肯定された「腕白」や「いたずら小僧」が、むしろ否定されているのであり、もう「腕白でいい」とは言えなくなっている現実が浮かびあがる。これは、日本ではむしろ他の国々よりも先行している現実であるが、その先に何があるかは、まだはっきりとはしない。
(ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン配給)
レポゼッション・メン (役者も悪くはないし、テーマも面白いのだが、スタイルへの執着が最後のシーンに凝縮され、不消化。『ぴあ』と『キネマ旬報』にレヴューを書いた)。
踊る大捜査線 THE MOVIE 3sヤツらを解放せよ!【前出】。
ロストクライム 閃光【前出】。
ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い【前出】。
シスタースマイル ドミニクの歌【前出】。
トイ・ストーリー3【前出】。
ぼくのエリ 200歳の少女【前出】。
ビューティフル アイランズ (ハッとするシーンがあり、浸水の危機にある島や都市のことはわかったが、何か中途半端な印象)。
バウンティー・ハンター (クリシェばかりで笑えない。光っているのは、悪役を演じたピーター・グリーンぐらい)。
華麗なるアリバイ【前出】。
インセプション【後出】
小さな命が呼ぶとき【前出】。
ゾンビランド【前出】。
ジェニファーズ・ボディ (タイトル、出演のミーガン・フォックス、アマンダ・セイフライドのありがちなイメージを予想外のものに変換する終盤。映像もおしゃれ。)。
ソルト【後出】
フェアウェル さらば、哀しみのスパイ (しっかり撮っているが、どこか古く感じるのは、事実にもとづくネタ自体が過去のものだからか? が、映画は映画だから、そういう理屈は成り立たない。『キネマ旬報』の星取りのコラムに批評を書いた)。
冒頭、岩と砂漠の風景が映り、「1979年4月、西サハラBir Amzarane地区」というサブタイトルが出る。時間と場所を限定しているのはなぜかと思っていると、地雷撤去作業をする兵士の「のんびり」とした光景にカメラが移動する。一人のフランス人兵士(カメラがパンするとき、車両の旗がフランス国旗だった)が、地表に露出した地雷の土を払い、一息つく。遠くで傍観するイスラム系の女性(?)二人。次の瞬間、遠景から見える地雷の現場から突然爆音と煙があがる。シーンは一変して、プラモデルに塗料を塗っている少年。隣室で電話を受けている母親の異常に気づき、立ち上がる。父の訃報。以後、通夜のシーン、母親が精神を病んで病院に連れ去られるらしい映像、孤児院での生活、そこからの脱出のシーンが、簡潔に描かれる。決してついているとはいえない。が、これが、次のシーンで、ビデオを見ている中年男バジル(ダニー・ブーン)の過去らしい。
かつてスペインの統治下にあった西サハラは、70年代にスペインが撤退後、モロッコの支配下となり、独立はのポリサリオ戦線とのあいだで戦闘が始った。モロッコ軍が敷設した地雷原は、今日でも悲惨な事故を招いているが、この映画がサブタイトルで指定するBir Amzarane地区は、1994年のパリ・ダカールラリーのコースにもなった。映画が、なぜこの地区を特に指定したのかは、不明。
孤児院脱出後、バジルがどういう人生を送ったのかはわからないが、「30年後」の「いま」、レンタルビデオ屋でバイトをしているところをみると、「フリー」な道を歩いてきたように見える。他人といっしょに仕事が出来ない、孤独な作業を好む、ある種「ヒキコモリ」(ちなみにわたしは「ヒキコモリ」を21世紀の人間の基本的性格と考える)的パーソナリティ。いま、彼は、レンタル屋で与えられているらしい自室でハワード・ホークスの『三つ数えろ』(The Big Sleep/1946/Howard Hawks)をしけたテレビ(ソースはDVD?)で観ながら、その最終シーンでのハンフリー・ボガードとローレン・バコールのせりふ(フランス語の吹替)を空で口づさむ。フランス語の吹替版をくりかえし観て来たことを思わせる。そのとき、映画のシーンにかぶさるように、店の外で車とバイクとのチェイスが展開し、銃撃戦がはじまる。最初のシーンからは考えられない展開だ。そして、車は店に激突し、バイクは逃走するが、車から這い出した男の銃がバイクの男をとらえ、バイクは横転する。そして、その男が手にしていた銃が地面に落ち・・・。実に凝ったシーンがくりひろげられる。
レンタルビデオ屋の職を失ったバジルは、大道芸などをするほかは、ほとんどホームレス状態の生活をする。ダンボールは、フランスでもホームレスの必需品になっている。この映画では、大道芸の要素がかなり重視されている。ある意味では、この映画自体が「大道芸」的である。バジルは、どこで大道芸を学んだのだろうか?
印象深いシーンの一つに、バジルが、街の子供たちに向かってハンドクラップの芸を見せる、というよりもそれを手話のように使って子供たちに何事かを伝えようとするシーンだ。ハンドクラップ芸というのはこうやるもんだと言っているかのようでもあるが、それを見た子供たちも、達者な手つきでリスポンスを返す。このシーンの意味は、よくわからなかったので、今後の宿題。
原題の意味に関しては、異説があるが、監督によると、"micmac"というのは、「猛烈な混乱」、「災難つづき」といった意味で、"A tire larigot" は、文字通りには、「笛を吹きながら」→「笛を吹くように酒のボトルを口に持っていく=空ける」で、つまりは「ピッチが最高に上がって」といった意味らしい。ちなみに、Wikipediaは、「Micmacs à tire-larigot」を「Non-stop shenanigans」(とどまりなきおふざけ)と訳している。
バジルが、キャフェに面した広場で大道芸を披露していると、骨董を売っているジイさん(ジャン=ピエ=ル・マリエル)が彼を呼びとめられ、それが縁で彼の「コミューン」に連れて行かれる。そこは、それぞれに特殊技能と屈折した過去をもった人間たちの集まりで、バジルはすぐに溶け込む。『デリカテッセン』の監督は、食事にも入念で、このコミューンでは、『セラフィーヌの庭』で怪演を見せたヨランド・モローが料理おばさんを演じ、みんなに毎日うまいものを食わせている。ほかには、ガラクタでロボット(というより「人形からくり」というべきか)をつくったりするのが好きな老人(ミッシェル・クレマド)、体が柔らかいアクロバット芸人の愛らしい女(ジュリー・フェリエ)などなどがいる。
つぎの展開は、このコミューンで暮らすある日、ガラクタ集めの作業をして街に出たとき、自分の頭のなかに留まっている銃弾の会社の名前と、父親の遺品のなかに見た地雷の破片のなかに刻まれた兵器会社のマークを見るはめになったのだ。しかも、その弾を作っている武器製造会社と地雷を作っている会社とが、道をへだてて向かい合わせのビルに鎮座している。バジルの家庭と人生をめちゃめちゃにした武器製造会社。彼はこの会社への復讐を決意する。
コミューンの連中が、それぞれの特殊能力とガラクタを駆使して「敵」に対峙する以後のシーンは、そうとうのドタバタ、いわば「無声映画」的スラップスティックで展開する。それは、武器製造と銃の問題との関連では、あまりに子供っぽい抵抗であり、ある意味では失望させるが、スラップスティックの映画としては、なかなか新鮮である。
この映画を見ると、それぞれに孤立している癖の強い人間が、その特殊性を維持しながら他者と「協同」の行為を出来る可能性のようなものがどこにあるのかを示唆しているような気がする。一つの鍵は、ガラクタ(ワルター・ベンヤミンのクラカウラーへの言及参照)とローテクの高度な使い方である。そういうものを通じて「ヒキコモリ」的孤立者がいっとき「協同」する。ガタリは、それを「コミュニズム」と呼び、ハキム・ベイは、そういう形で形成される場を「T.A.Z.」と呼んだのだった。
この映画は、最初から最後まで、独特のトーンの色彩と特殊効果で仕上げられている。いわば、コミック化したレンブラント的画質で、おそらく、さりげない風景シーンでも、ブルー/グリーン・スクリーンなどを多用し、一見「自然」に見せながら、相当のCGI技術が駆使されている。CGIを「空想」化の技術としてよりも、「現実化」の手段として用いるのは、新しいやり方で、ひとつ一つの画面が示唆に富む。
(角川映画配給)
クリストファー・イシャウッドの原作にもとづく作品なので、期待して観た。悪くない。イシャウッドの映画への関わりは、これまで、ヘンリー・コルネリウス監督『わたしはカメラだ』、その新ヴァージョンのボブ・ホッシー監督『キャバレー』の原作、トニー・リチャードソン監督『ラブド・ワン』(原作はイヴリン・ウォー)の脚本などがあり、わたしはすべて観たが、いずれも彼の原作を裏切らない仕上がりになっていた。今回の映画は、20~30年代のベルリンの最も輝ける時代を経験した知識人であるイシャウッドが、ナチのドイツを逃れて最終的にアメリカに亡命し(1946年に市民権を取得)、現在のUCLAで英文学を教えていた1950~60年代前半期に、冷戦期の無味乾燥なアメリカでどのような気分でいたかを思わせるような作品になっている。音楽もいい。
暗い水中を二人の男が裸で浮遊するような映像ではじまるこの映画は、やがて雪の草原で車が横転し、男が下敷きになって死んでいるショットを映す。この時代を象徴する「生真面目」な背広を着たコリン・ファースが、呆然とした歩調で近づき、血まみれの男にキスをする。それは、ファース演じるジョージのトラウマ的な夢であることがわかるが、悲しくも美しいシーンである。彼は、ベッドを離れ、身づくろいをして「世間が期待するジョージ」として「一日を生き抜く」(ナレーションの言葉)ために大学の職場に向かう。そのあいだにも、彼は、先の夢にあった、自動車事故で死んだ恋人のジム(マシュー・グード)を想い、現実をのろっているかのようである。体調も思わしくないらしく、胸痛(心筋梗塞の前兆?)に襲われる。家は豪華であるが、インテリアの一つ一つがジムとの日々を思い出させる。全編にわたって、ジムの思い出が何度もフラッシュバックで登場するが、書斎でたがいに本を開きながら知的会話を交わすシーンは、なかなかいい感じだ。そのときジムは、カフカの『変身』を読んでいる。ジムのほうは、カポーティの『ティファニーで朝食を』を手にしていることがわかる。ゲイであれ、ストレイトであれ、知的なカップルが日常的に「しあわせ」であることを描く描写の一つのパターンであるが、それがうまく演じられ、うまく撮られている。
フラッシュバックと場所が複雑に入り組むが、時間・時代は、1962年11月30日の1日に設定されている。これは、まさに「キューバ危機」の時代であり、映画のなかでもジョージの大学の同僚が「核シェルター」をこっそり作ったと話す。この時代のアメリカ人にとってキューバ危機は、世界がひょっとしたらソ連とアメリカの核戦争で破滅するかもしれないという恐怖を広めた。これは、日本のようなところにいては(日米安保条約との関係で、米ソの核戦争が始れば即巻き込まれる運命にあったのだったが)想像できないほどの恐怖であったらしい。当時の日本のジャーナリズムとアメリカ本国のそれや一般人の印象の記録とを比較してみるとよくわかる。その意味で、この映画が描く日常のなかには、《恐怖》が空気として実在していたのである。映画のなかでジョージの学生が言うように、「世界の破滅」が刻々とせまっており、「死が未来だ」といった気分が蔓延していた。ジョージは、この映画のなかでつねに死を考えている。それは、「キューバ危機」のためであるよりも、恋人の死によって希望を失ってしまったからであるが、そういう形でこの映画は、アメリカのある特定の時代の雰囲気を活写してもいる。
ジョージは、大学の講義でオルダス・ハックスリーの小説『多くの夏を経て』 (After Many a Summer Dies the Swan)(彼の家のテーブルのうえにこの本があり、教室でもそのタイトルを語る)をテキストに使う。学生にはすでに読んでくるように指示してあったらしく、ストーリーとタイトルとの関係について問われた学生が応える――「その女性に対して自分が歳をとり過ぎているのではないかと恐れる金持ちの男の話で・・・」。これは、この映画にとって意味深長である。というのは、ジョージの彼はかなり歳下であり、また、クリストファー・イシャウッドが48歳のとき(1953年)に出会い、以後(1986年の死まで)30年以上にわたって生涯のパートナーとなったドン・バカーディ(Don Bachardy)は、そのとき16歳だった。『Chris & Don. A Love Story』(Tina Mascara + Guido Santi/2007) は、二人の関係を描いたドキュメンタリーである。
「ハーシュ」という明らかにユダヤ人と思われる学生が「ハックスリーは反ユダヤ主義ですか?」と訊くと、ジョージは、ナチのユダヤ人差別には少なくとも「原因」はあった、それは「恐怖」なのだと語る。この発言の背後には、ジョージ自身がユダヤ人であり、かつゲイであることの「恐怖」がある。1962年のアメリカでは、まだ、ゲイ・プライドは存在しなかった。ジョージは、ここで熱弁をふるう。マジョリティにとってマイノリティはつねに「恐怖」なのであり、しかも、マイノリティというものは「見えない」ものなのだ。だからマジョリティにとってマイノリティは「恐怖」の対象であり、(ちょっとでもその存在があらわになれば)マイノリティの差別や排除が生まれる・・・。そして「恐怖」は、政治から広告の領域まで「マニュピレイション」(操作)の道具に使われている・・・。ハックスリーの小説についての話からどんどん脱線しながら、彼は、ふと、「エルヴィス・プレスリーのヒップだって恐怖だ」と言い、つぶやくように「あれは、本当の恐怖かもしれないけどね」と語る。これは、プレスリーがゲイにとってもホットな存在であったことをゲイ自身の言葉で語っていて面白い。
この映画ではさり気なく提示されるものが非常に示唆的である。ハックスリーは、60年代の前半期には思想の先端部に位置していたし、テクノロジーと文明についての発言は多くの関心を呼び、また、ティモシー・リアリーが彼に私淑したように、その後のドラッグカルチャーの先導者的な位置にいた重要な知識人であった。イシャウッドは、同時代人として彼を尊敬していただろう。また、歳下の「恋人」というテーマは、この映画では、ハックスリーの小説、インシャウッドとバカーディの実際の関係、ジョージとジョンの関係、そしてジョージに近づく学生ケニー・ポッター(ノコラス・ホルト)との関係において複雑な展開を見せる。
ジョージが講義をする教室の最前列にいるケニーの隣に座ってジョージの講義を聴いているブリジット・バルドー風の女子学生が、終始シガレットをくわえて、紫煙をくゆらせているのをいまの人が見たらどう感じるだろうか? ジョージは彼女の方を見はするが、ほとんど気にとめない。この女がカッコをつけてタバコを吸っていることは明らかだが、この時代には、教室でタバコを吸うことは禁止されてはいなかった。わたし自身、学生時代にはこの学生のようにこれ見よがしに教室でタバコを吸ったことがあるし、教師を始めてからも、1980年ぐらいまでは、講義をしながら一服つけたこともあるし、それを聴いている学生がタバコを吸うこともあった。
ジョージの亡きボーイフレンドを演じるマシュー・グードはなかなかいい演技をしている。特にその目がいい。かつて関係があったが、別れても、たがいに一番よき「フレンド」でありつづけている女性をジュリアン・ムーアが演じる。彼女もまた、ストレスのたまる難しい時代に生きている複雑な人間、いつも(自)死の危険につきまとわれている。ムーアはそんな女性を控えめな演技でその屈折をただよわせる。
この映画は、一度観ただけでは見過ごすような微妙な表現が多い。考えて見ると、ケニーという学生がジョージ先生に近づく態度が不可解だ。彼はゲイなのか? 本当にジョージを(敬)愛しているのか? 若いときのトム・クルーズに似ているのも気に入らない。こいつは、何か魂胆があってジョージに近づいたのではないか? 彼はスパイか? たしか、彼は、大学の事務所でジョージの住所を調べた。話しかけてきたとき、「先生、ドラッグやります?」なんて訊いていた。こう考えると、この映画は一つの推理作品ないしはクライムストーリーとして観ても面白い。
(ギャガ配給)
クリストファー・ノーランが、現在の文化・政治状況の認識において、また、映画技法の最高レベルをつかんでいるという点、エンタテインメント作品の提供による商業的成功という面で最高のランクに位置する監督であることはたしかである。ここで言う「文化・政治」とは、決して「教養文化」ではないし、「政党政治」とは関係ない。文化とは、現在この世界に生きる人間が考え、感じる仕方であり、政治とは、個々人の意識のなかで、また他者や集団との関係であなたやわたしが行う距離の取り方つまりは「ミクロ・ポリティクス」のことである。といきなり大上段にかまえてからこういうのは恐縮だが――だが、今回の作品は、ノーランが本来出したかったことを商業的たくらみの方がまさってしまったという印象を否めない。特殊撮影の規模は猛烈であり、そういう面での楽しみはかぎりない。が、わたしには、そのスピルバーグやジェイムズ・キャメロンを意識したハデハデの映像は、この映画が問題にしている「リアリティの問題」(リアリティとは何か、何をもってリアルというのか、リアルと非リアル、リアルとヴァーチャルとの境目は?)にとって必ずしも必要ではなかったのではないかという思いを深くしたのだ。それに、この映像には、いずれ3D化することを予定したかのような構図や仕掛けも感じられるのである。
ネタバレを避けながら、知る人ぞ知る暗示を試みるならば、この映画は、中国の故事で言う「一炊の夢」、「黄粱の夢」、「邯鄲の夢/枕」の話である。それは、唐の時代に邯鄲(かんたん)にある宿で呂翁 (りょおう) という道士に出会った盧生 (ろせい)という男が道士から枕を借りて居眠りをすると、夢のなかでさまざまな人生行路を体験するが、目がさめてみたら、黄粱(こうりょう)の飯がまだ炊けていない短い時間が経っていただけだったという話である。これは、映画のテーマとして別に新しくはない。すでにわたしは、マーク・フォースターの『STAY ステイ』や『マイ・ブルーベリー・ナイツ』でこのことに触れた。そもそも映画というものが、それ自体「邯鄲の夢」である。が、ノーランのこの映画は、現在あらゆるリアリティがあいまいになっているという状況のなかで、そういうことを可能にするVRやAVのテクノロジーと同根のテクノロジーを使って問題を提起しているという点では注目すべきである。
前提として、個々人の脳を操作してその夢を自由にあやつれるということになっている。原題の「Inception」の意味は、明確ではないが、concept(conceive=con+capere[take]=共有する形で取り込む→妊娠、概念)の「con」を「in」にしたinception(in+capere=内に取り込む/生物学では「摂取」の意味もある)なのだと解釈すれば、脳のなかに入り込むことと、入り込みながらも「外部」ないしは「他者」と共有関係を維持しているコンセプト(概念)だということにもなる。
ノーランは、『メメント』と『インソムニア』で「記憶」の再生が不可能なこと、『プレステージ』で「人格」の「移動」が可能ではないことを示唆した。ヒュー・ジャックマンのニコラ・テスラ頼りの身体「テレポーティング」は自分を犠牲にしてのみ、可能だった。同様に、ノーランは、『ダークナイト』で、「人格」の「変容」(変身)が結局は「人格」の破滅にいたることを描いた。今回ノーランは、「人格」が「夢」という領域で混じりあうこと、ある種の「連帯」行為がなりたつこと、しかし、同時にそれは、他の「人格」への侵害(脳の記憶の窃取)にもなることを描く。
夢には、夢を見る者がおり、そしてその夢の観察者がいる。「わたしは夢を見ました」と言う場合、夢を見る者=夢の観察者である。が、この映画では、複数の夢見る者がおり、そして、彼や彼女の夢の全体を観客であるわれわれが見ている。「わたし」は、この映画を見ることによって、複数の人格の見る夢を見ているのであり、彼や彼女らとその夢を共有している。映画のなかで、デカプリオとジョゼフ=ゴードンは、他人の夢のなかに入り込む装置と技術を開発したことになっているが、実は、この映画自体が、そうした「夢の装置」そのものなのである。
かつてハリウッドを「夢工場」(dream factory)と呼んだ(スピルバーグやカッツェンバーグらが創設したスタジオ「DreamWorks」のdreamもここから来ている)。ベルト・ブレヒトは、ハリウッド映画を批判し、「夢」よりも「現実」が重要だと述べた。が、テクノロジーの発達によって、「夢」と「現実」の境があいまいになった。また、脳の研究によって、「夢」の意味が拡大された。ジル・ドゥルーズは、脳の思考と創造と知覚の機能が、映画のスクリーンと構造的にシンクロしていることを明らかにした。こうして、いまや、映画と夢との関係は、ブレヒトなどが考えたようなレベルをはるかに越えた。
デカプリオらが相手を夢に誘導するとき、その発端をなすのが、エディット・ピアフのシャンソン「Ne, Je ne regrette rien」(いえ、あたしは何も後悔しないわ→「水に流して」や「水にながすわ」という訳もある)であるのは面白い。というのも、デカプリオの妻役を演じているマリオン・コティヤールは、少しまえに『エディット・ピアフ 愛の讚歌』でこの歌を「口パク」したからである。
夢を他者が共有することが出来るということは、「夢」と「現実」(リアリティ)との境界線があいまいになることである。いまの時代、何か「真実」という基準に頼って「現実」の「現実度」(リアリティ)を判定することは意味がない。かつては「神へに信仰」や「自分の身体感覚」がそうした基準になったかもしれないが、いまはもう無理である。そこで、「すべては幻想」だというような発想(かつて岸田秀の「唯幻論」などという浅薄きわまりない説が流行った)が生じたり、すべてが「非現実」ならば、生きている意味はないというある種の「厭世論」ないしは「虚無主義」が登場したりする。これは、別にいまに始ったことではなく、歴史上くりかえしあらわれては消え、消えてはあらわれる思想・風潮であるが、いまの時代は、電子テクノロジーが可能にした複製技術が「オリジナル」なき「シュミラクラ」の反復を可能にしたことによって、誰でもが「リアリティ」への不安をいだく度合いが強まった。すくなくとも、いま「リアル」だと感じることがいつまでも「リアル」だとは信じない傾向が強くなっている。しかし、映画を観ている瞬間に「リアル」だと感じるもの・ことがリアルであることは、誰でもが認めるだろう。では、この映画はいま現在のあなたの意識にとって最高度に「リアル」だと感じることができるか?
それは、イエスであり、同時にノーであろう。なぜならば、この映画は、明らかに「夢」を「夢」として描いている部分があるからである。映画が夢装置であるのならば、そこで「リアル」に描かれるもの・ことは、それ自体が「夢」なのであり、それを「夢」として相対化する必要はない。無重力状態になって廊下を移動すること、パリの街が折り曲がって迫ってくること・・・この映画のなかで「夢」の一瞬として描かれていることを「夢ですよ」と言う必要はない。また、ときおり現れてはデカプリオを悩ますコティヤールの姿(映像)を「フラッシュバック」や「記憶」の再生として描く必要はない。いきなりシームレスに登場させるのが、この映画のやり口としてリーズナブルではないか? ここが、今回のノーランの映画の矛盾というか、ある種の「啓蒙主義」への後退を感じる部分である。
『シャッター アイランド』と似たような最終シーンは、ある意味で『シャッター アイランド』に似ており、「夢」へのインセプションを問題にするのであれば、こういう「謎解き」はいらない。『シャッター アイランド』に関して、このノートにはちゃんとした文章を書いていないが、それは、『告白』の「なんてね」にも似た逆転を書くわけにはいかないからであり、そういう「種明かし」を仕込んだ映画はつまらないと思ったからである。が、『インセプション』の場合は、必ずしも「種明かし」ではないとも解釈が出来、そう単純ではないところがここでぐたぐたと文章を書き連ねることができたゆえんである。
この映画は、一度観た程度の経験で批評できるような作品ではない。このノートも、再度観て、書き加えたい。
(ワーナー・ブラザース映画配給)
マノエル・デ・オリヴェイラ『ブロンド少女は過激に美しく』の試写を見にきたら、意外なオマケがついた。「ヌーヴェルバーグ以前の」ゴダールのこの短編がなぜ併映されるのかは、わからないが、この作品が見れるのはありがたい。わたしは、1970年代と1980年代に見た記憶がある。1度目は東京でだったが、2度目がニューヨークであったか、メルボルンであったか、あるいはモントリオールであったか、思い出せない。初めて見たのは、1970年代の初めだったと思う。
色々と思い出のある作品で、わたしがこの作品をまだ見ていなかった1960年代の後半の時点で、この映画のジャン=ポール・ベルモンドの声は彼自身のものではなく、ゴダールが吹き変えているということを知っていた。そういう情報は流れていたからである。が、「録音のときにベルモンドがスタジオに来れなかった」ということを知ったときのわたしの印象は、あのベルモンドらしいなというものだった。『勝手にしやがれ』で強烈な印象をあたえたベルモンドの(少なくともわたしにとっての――あるいは「ヌーヴェルバーグ」ブームを通じて定着された日本でのベルモンドの)イメージは、ある意味では「傲慢・不遜」だが、根底から「だらしがない」のですべてが許されてしまうという感じのものだったからである。しかし、その後、どこかで、ベルモンドが声の吹込みをしなかったのは、兵役についたためということを知った。当時のフランスは、アルジェリア戦争の苦悩のなかにあり、ゴダール自身、同年にこの戦争を批判する『小さな兵隊』を作っている(これは、アルジェリア戦争が終わるまで公開できなかった)。フランスの諜報局のエイジェントがバスルームで見せる拷問のシーンが強烈だった。
しかし、この映画を再々見してわかったのは、たしかに事実上の理由としては、ベルモンドが不在のため、誰かが声を吹替えなければならなかったということだとしても、ゴダールは、そういう偶然の条件を逆手に取り、そうでないときよりもより創造的な効果をあげてしまったということだった。それは、ゴダールがいつもやってきたことであり、ヌーヴェルバーグだけでなく、当時のアートすべてに言えることだった。いや、新しいものは、すべて一見「不利」な条件を逆手に取ることによって生まれてきたのだ。
その後のゴダールにとって、せりふ(パロール)と身ぶりとの分離は一つのスタイルにまで「洗練」されるが、その初期的な裸形がこの映画に見出される。ただ、ここでは、身ぶりに同化したり、身ぶりから遊離し、それを異化するパロールは、皮肉さと滑稽さをあらわす程度で終わっている。パロールが饒舌になればなるほど、ベルモンドの身ぶりと表情は、道化的なものになるにとどまっており、だから、最後のオチ([「古典」だからもう言ってもいいだろう]コレットはベルモンドにもはや気はなく、彼のアパルトマンに来たのは、置き忘れた歯ブラシを取りに来ただけだった)が、「せつない感じ」に、つまりは心理主義的に受け取られるにとどまるのである。
しかし、いまこの作品を見直すと、ここでは、ベルモンドの身ぶりと表情を同化/遊離しながら語られる言葉(パロール)は、ほとんど書き言葉(エクリチュール)であり、「書くように」あるいは「本」を読むようにしゃべられていることがはっきりとわかる。その意味では、この映画のベルモンドの身ぶりと表情(つまりは「身体性」)は、『声と現象』(1967)や『グラマトロジー』(1967)でデリダが言っていた「エクリチュールの差延 (différance) 」の「たわむれ」をはっきりと先取りしているのであり、デリダなどよりずいぶん先を行っていたのである。
(フランス映画社配給)
リスボン発の列車のなかで貫禄のある車掌が一人ひとりの切符を切るシーンから始るが、何かが起こりそうで起こらない。車掌は20人ぐらいの切符をチェックしおわる。が、オリヴェイラの映画を見ている者は、車中に彼の映画ではなじみのレオノール・シルヴェイラとリカルド・トレバ(オリヴェイラ監督の実孫)が並んで座っているので、最終的にこの車中シーンが二人に収斂していくであろう予測はつく。
もの言いたげにしていたリカルド・トレバが隣のレオノール・シルヴェイラに話しかけたのは、彼(マカリオ)が経験したある若い娘ルイザ・ヴィラサ(カタリナ・ヴァレンシュタイン)との出来事だった。ここで、映画は、「妻にも友にも言えないような話は、見知らぬ他人に話すべし」というこの映画の「原作」の作者エサ・デ・ケイロスの言葉を引用するが、時代を19世紀から現代に移したこの映画のこのシーンは、わたしには、ルイス・ブニュエルの『欲望のあいまいな対象』を想い出させた。フェルナンド・レイが列車の同じコンパートメントの客に向かって話し、それがフラッシュバックするスタイルが似ているからである。が、オリヴェイラはブニュエルとは全然スタイルの違う監督だ。ブニュアルのような毒やアイロニー、アクチュアルな政治的参照性(そのときどきの政治文化状況を敏感に参照すること)などはない。「ない」というより、そういうものには距離を取り、もっと「長持続」の歴史に興味を示す。この『ブロンド少女は過激に美しく』の場合は、男と女のよくある話ではあるが、一方に19世紀的な「ロマン主義」的な恋愛(裕福な環境と啓蒙主義的な知識と文化とペダントリーにつつまれた)があり、他方に、そういうものが過去のものであることを示唆する「新しい」病理や狂気が見える。
マカリオが隣席の初老の女性(レオノール・シルヴェイラ)に打ち明ける話によると、彼は、叔父フランシスコ(ディオゴ・ドリア)の高価な織物をあつかう店で会計士として働いている。ある日、向い側の建物の窓ごしに、丸い中国風の扇子を持った若い女性(カタリナ・ヴァレンシュタイン)を発見し、目が合い、一目ぼれをする。その窓には、「ゲーテ時代のレースのカーテン」がかかっており、その女性は、いまの時代の女性としてはシャイであり、いわば19世紀的な「距離の文化」を生きているかに見える。直接知り合うようになり、彼女の母親の豪邸に招かれると、そこには、ひと時代まえの豪華な「伝統」が残っている。が、すべては、マカリオの視点で描かれ(語られ)るのだから、彼の生い立ちと「主観」のフィルターがかかっている。すべては、彼の目に見えた世界だととるべきだ。いずれにしても、彼はルイザに惚れ、結婚を申し込み、映画の物語はその線で進んでいくが、それは、意外な結末(というより、マカリオの失望)で終わる。彼女には、万引きの癖があったのだ。いまの時代、それぞれが「病気」であり、それが判明したからといって、失望するほうがおかしいのだが、この映画は、それがそうではないかのように描く。一面でマカリオは時代の「道化」になっており、他方、「ロマンティック」な時代はもはやないという惜別がえがかれてもいるわけだが、オリヴェイラは、そんな「メッセージ」を伝えるために映画を作ることはない。むしろ、いまは過去のものとなってしまったある種の「空気」を映像としてそこにつかのまあらしめること――これがオリヴェイラ映画のスタイルである。だから、映画のなかで窓が開かれるときの音のあつかいが実にうまい。その瞬間、窓から別の「空気」がスクリーン全体にただようのだ。
「空気」という点で、この映画にはいくつかの示唆がある。マカリオがルイザを見初める窓には、「ゲーテ時代のレースのカーテン」がかかっているという。ゲーテは、「ロマン主義」の影響を受けると同時に、それに対してある種の「距離」を取ったが、オリヴェイラがこの映画で描いたのも、そういう「距離」だった。それは、エサ・デ・ケイロスとゲーテとを結ぶ「物語形式」をささえる「距離」であり、「物語る」過程のなかで「語り手」と「作中人物」との「距離」が縮んだり、延びたりして、「同化」と「異化」がくりかえされ、両者の境界線が不分明になるのである。オリヴェイラの映画的技法は、明らかにこのような「物語形式」を継承している。ちなにみ、あのカフカも、ベンヤミンやバイスナーの指摘によれが、「物語作家」の系列に入る。
「ゲーテ時代のレースのカーテン」ということで思い出すのは、『ゴダールの新ドイツ零年―レミー・コーション最後の冒険―』(Allemagne 90 neuf zéro/1991) のあるシーンである。それは、ヴァイマルのフラウエンプラン(Frauenplan)にあるゲーテの家のなかを撮ったシーンだが、カメラが最初に映す部屋「ユーノーチマー」にまさに「ゲーテ時代のレースのカーテン」が見えるのだ。「ユーノーチマー」(Junozimmer)[ユノーの部屋]と言われるが、それは、窓のすぐそばに白いユーノー・ルドヴィーシ(Juno Ludovisi)の大きな像が飾られているからだ。ゲーテのこの家は、典型的なビーダーマイヤー様式でデザインされており、部屋と部屋がドアまたドアでずっとつながっていて、廊下はない。ゴダールのカメラは、このドアーを「ユーノーチマー」からつきあたりの部屋まで駆け抜ける。写真ではまえから知っていたゲーテの家を初めて自分の目で見たとき、その狭さに驚いたが、普通はカメラが入らないこの空間に、ゴダールがカメラと俳優を入れたのにも新鮮な驚きがあった。
(フランス映画社配給)
最近のアニメは、2Dでもいずれ3Dにすることを前提にして作ることが多い。しかし、まだ3Dの創造的な演技スタイルも映像スタイルも定まっていないので、既存の知覚様式に依存して、手前への動きばかりを誇張するスタイルになる。その点、この『ヒックとドラゴン』はそんな野心を暴露しないところがいい。わたしはこれを2Dで見たのだが、2Dバージョンには、そうした安い予備的3D工作はほとんど発見できなかった。2Dアニメとしての仕上がりは文句ない。その美しさとなめらかさはひとつの美学を形づくっている。映像的には、この作品に文句をつけることはむずかしい。
ハリウッド映画は、巨大なディストリビューションチャンネルのなかを動くから、映像よければそれでよしというわけにはいかない。レヴューとしては、その社会効果やその「啓蒙」機能も問題にせざるをえないわけである。このアニメの原点には、マチズモや腕力に依存する政治への決別がある。価値判断として、もはやそういう時代ではないという認識があり、それはよくあらわれている。そういう古い体質を代表する者として「バイキング」を使うのは、それが実際に存在したという点で、問題なしとはいえないが、ハリウッド映画が好むステレオタイプ的な表現としては黙認できるだろう。そして、その敵が「ドラゴン」であるというのも、一応は受け入れる。だから、「バイキング」の首領にしてヒック(声:ジェイ・バルチェル)の父親のストイック(声:ジェラルド・バトラー)が、結果よりも勇ましく突撃することをよしとする「バンザイ主義」なのに対して、ヒックが、「女々しく」、父親から「不肖の息子」と思われているのは、かえっていいことではないかと思う。しかも、そういう彼が、ドラゴンを一方的に敵視するのではなく、羽がもげていて、攻撃力を失っている落ちこぼれて的なドラゴンのトゥースと親しくなるのは自然である。
しかし、話が進むにつれて、ヒックの一見消極的で「非暴力」な態度は、みせかけで、戦闘能力はちゃんとあることがわかって、失望する。彼は、腕力で戦うことには自信がないし、好まないのだが、知力で戦うことはいとわないのである。なんだ、これでは、近代戦から現代の戦争の方式に移行するプロセスを体現しているだけではないか。今日の戦争は、電子戦であり、腕力で勝敗を決める戦争ではない。そこでは、シュミレーションと知的判断が優先される。
アメリカの「通念」では、「中央集権」は悪とみなされるから、すべてのドラゴンを支配するモンスター的ドラゴンは悪の根源である。それは、ある意味では、悪の責任を「民」から引き離し、一人の「悪人」(ヒトラー、スターリン、ノリエガ、サダム・フセイン等のように)に還元する安易なやり方だ。ドラゴンたちは悪くない、悪いのは、ヒックがトゥースの案内で知ることになるモンスター・ドラゴンである。ドラゴンたちはそいつために人間や動物を餌食にし、貢ぎ、しかもときにはそいつに食われてしまうのだから、それを倒すために、本来は「平和主義」のヒックが立ち上がるのは当然であり、抑圧されているドラゴンたちのためにもなるというわけである。これは、イラク戦争にいたるまでアメリカが堅持している一貫した戦争観である。
その意味で、この映画は、ぜんぜん新しいことを示してはいない。そういえば、ヒックは「オタク」ではあるが、「ヒキコモリ」ではない。オタクとは、情報化時代の模範的人間であり、情報化社会には必要なキャラクターである。それは、いまや、エスタブリシュメントになりつつあり、先端は「ヒキコモリ」のほうである。「オタク」には、いまでは何の問題もない。それは、人格的に統一されており、彼や彼女が1980年代に問題視されたような不安はぬぐい去られている。ヒックのようなオタクこそ、いまや「理想的」人物像なのだ。しかし、時代を先取りするハリウッドがいま描くべきは、今後30年以内に確実に「普通」となる「ヒキコモリ」の姿である。
【追記/2010-08-14】なお、以上が、アニメを入れ込んで見ていない者の表層的な感想にすぎないことは、次のような、十分な蓄積のうえで見られた感想との違いにはっきりとあらわれている。(その一部を勝手に引用させてもらい、反省のよすがとしたい)。
珍しく、バイキングを通り一辺倒のイメージたらしめる略奪者や侵略者ではなく、農耕・牧畜・狩猟・漁業を中心とした生活を送っているものとして、また手工業なんかにおいての手先の器用さも描かれるなど、生活様式の考証も(コスプレ性も孕んでいるので意外と、ではあるのですが)しっかりしてます。ノルド語やルーン文字なんかも出てきたりするのですが、そのあたりの小ネタ描写もおもしろいです。酒はあるけど、銀とガラスがみられないのが気になる。交易とかはまだそこまで未発達なのかな。航海技術の発達や酒の存在を見るにあったかもしれないとは思うのですが。と思うとドラゴンがキリスト教に嫌われてた関係や、現実のバイキングとキリスト教のかかわりを知ってたら、いろいろ想像できて面白いです。
Only here is Neverland -ここだけネバーランド-
しかし、ここが「入れ込んで」見ていない者の限界なのだろうし、アニメの文法を知らないということなのかもしれないが、このテンポと台詞で来られると、「バイキング」という固有名詞が、全体を軽く見てしまうフィルターとして(わたしには)機能してしまうということなのだ。絵本やアニメでは暗黙の符丁になっているのかもしれないが、わたしには「バイキング」はスカンジナヴィア半島の古代住民をまず思い起こさせてしまうのである。
(パラマウント ピクチャーズ ジャパン配給)
久しぶりに、韓国映画で、怒鳴りあいや、いきなり頭をたたく「ワイルド」でオーバーなしぐさを見た。韓国映画は、近年、どんどん「繊細」かつ「都会的」なテーマをあつかうようになり、『アタック・ザ・ガス・ステーション』のような作品は少なくなった。殴るということがテーマだった『息もできない』では、殴るシーンがひんぱんに出てきたが、むしろそれを「暴力」とみなす作品だった。今回、それでは、地球環境の変化といった問題を話題にしている『TSUNAMI』でなぜそういう「ワイルド」な身ぶりと言語が登場するのか? それは、この映画の舞台が、ソウルではなく、プサンであるということと関係している。プサンは、ソウルにくらべると、まだ「マッチョ」が多く、女は「気が強く」、人々は「声を荒げる文化」のなかで生きているとソウルの人に聞いた。そういえば、映画のなかで、ソル・ギョング(だったか)がしゃべると、「標準語でしゃべれよ」と言われていた。「標準語」とはおそらくソウルで話されている言葉のことだろう。
プレスには、「韓国とハリウッドのCGドリームチ-ムによる最高の映像」とあるが、津波のサスペンスはそれほどでもない。むしろこの映画は、津波という危機的状況を作り、そのなかで登場人物たちの人間関係や心情をあらわにさせるということが主眼である。しかも、表される心情や身ぶりの多くは、いまの韓国では「過去」のものとなりつつある。津波が襲うへウンデは、いまや「韓国のマイアミ」と呼ばれる。古いものが残っていると思われるプサンも、もはや過去のプサンではない。が、だからこそ、この映画は、韓国で多くの観客を動員することに成功したのだろう。
その意味で、いまや韓国で消えつつあるサブカルチャーを見るのには、面白いかもしれない。冒頭、子供の歯に糸を着け、何かをやっているシーンがある。要するに乳歯がぐらぐらになったのを抜くのだが、日本でも、昔はいろいろなやり方で乳歯を抜いた。いまならこんなことをしたら「バイキンがつく」とかいわれ、歯科にまかせるのだろう。
巨大な津波が来ることを警告する海洋研究所の地質学者キム・フィ(パク・ジュンフン)は、いまの韓国映画では主人公にするであろう都会人風の韓国人である。妻子とは別れているというのも「今様」である。韓国の「ヤッピー」のパターンだが、この映画では、そのままカッコいい役を演じるわけではないところがこの映画の基本である。妻子との再会もちゃんとプログラムされている。
いかにも土地っ子らしい臭いをぷんぷんさせているのがソル・ギョング演じるチェ・マンシクで、漁業船が嵐に襲われたとき、兄を助けられなかったことがトラウマになっている。目上の者をうやまい、弟を愛する。こういう傾向は壊れているが、場所をソウルから移し、映画で描けば、その「人情」が絵になるわけである。そして、そこに当然、「寅さん」的なほのかな「片思い」的なラブストーリが展開する。相手は、やはり浜っこで、プサンのヘウンデの港で魚と酒の屋台をやっているカン・ヨニ(ハ・ジュォン)。
津波を軽視する研究所の官僚主義的な役人、地域の利権を独占している政治家も登場するが、彼らは「敵」とはならずに、むしろ、普通なら敵と味方との関係に分断してしまう関係が、津波の襲来で水に流される。最初、ツナミは、北の攻撃のメタファーかとも思ったが、そうではないようだ。むしろ、そういう要素も多少は加味しながら、すべてを許容し、許すという全体のながれは、キリスト教的であり、一方でローカルなものを強調して描きながらも、それがキリスト教(さまざまな宗派はあれ)の手の平のうえにあるかのようなのである。
(パラマウント ピクチャーズ ジャパン配給)
白血病であと12日しか生きられないということを知ってしまった10歳の少年オスカルのために、たまたまピッツァのデリバリーで病院にやってきた女性が院長から頼まれて、彼につきあうはめになり、1日を1年と考えて毎日を生きるというアイデアを思いつく。オスカル役のアミールもうまいし、彼女を想定した脚本を書いたというローズ役のミシェル・ラロックも魅力的、院長を演じるのがマックス・フォン・シドー、ローズの母親役でかつての「グラマー女優」ミレーヌ・ドモンジョまで出ているとなると、文句なしのはずだが、どこかひっかかるのはなぜだろう?
最初の流れを「素直」に受け取ると、オスカルは、ローズによって癒され、彼の末期の人生を幾分かは平穏に生きることができたかのように見える。しかし、彼がベッドから起き上がれなくなったころから、二人の関係のなかで癒されたのは、実はローズのほうであったのではないかという思いが生じてくる。オスカルが、近づく自分の死を知ってしまい、不安にうちひしがれ、誰とも口をきかなくなったことは事実である。そこで、病院長(マックス・フォン・シドー)と婦長(アミラ・カサール)が、オスカルが心を開くかもしれない唯一の人間つまりローズに連絡を取る。ローズはしぶしぶだったが、オスカルのもとに通うはめになる。彼はローズが語る話で元気づけられ、10日弱の余命を「明るく」過ごすことになる。ローズという人と出会わなければ、オスカルの最後の毎日は別のものになっていただろう・・・。
表面的に見れば、余命が限られていることを周囲が知っていて、院内の「学校」でも特別あつかいされ、本人もそれを知っているので、すねてしまう。病院側も親も手に負えない。そこに、「並」のやり方ではなく子供を教えることが出来る女性が登場する。1日を1年とみなすというアイデアもいい。話もうまい。殻に閉じこもっていた子供が心を開いていく。しかし、教えるとは同時に教えられることでもある。この「教師」は、「生徒」からかけがいのないものを教えられる・・・。波風立てない解釈はこんなところだろう。
表面的に話だけを信じれば別だが、画面に映ることは、この映画の登場人物の「空想」ではないかとも思える。つまり、ローズはピッツァ屋などはやっておらず、オスカルに物語る「プロレスラー」などではない? ならば、彼女の「素顔」は何なのか? 離婚して、母(ミレーヌ・ドモンジョ)の家に住み込んでいることは確からしい。実際、そのシーンは「空想的」には描かれない。ならば、この映画は、生活と心の問題をかかえた中年女と、残り少ない命を生きている少年との出会いのなかで、二人が「空想」の世界をつむぎ出し、それによって双方が癒され、救われるという話と考えたほうがすっきるする。
ローズという人間は、映画で見るかぎり、ピッツァの製造・販売などやってる雰囲気ではない。だいたい、病院に毎日6箱ぐらいのピッツァを売るでけで生活が成り立つわけではない。病院のまえにワゴンをとめて、店を開いているフシもあるが、一体どうやってピッツァ販売をしているのか不明である。ローズを演じるミシェル・ラロックからは、そういう生活のにおいが全くしない。
なかに赤いボクシングリングが入っているスノードーム(スノーグローブ)を見せながら、ローズは、「プロレスラー」としての自分の体験談を面白おかしくオスカルに語るのだが、これは、「嘘」のほうがかえって面白い。彼女の物語は、そのままCGI技術で、スノーグローブから「現実化」され、その試合のありさまが誇張的に描かれる。その飛躍仕方は、映画的にはなかなかいい。が、そういう「物語性」をなぜもっと前面に出さなかったのだろう? これだと、映画のなかの「事実性」があいまいになり、観客は「酔わされ」たと思うと「醒めさせられ」、落ち着かないのである。一篇の映画を見るには、一定時間の「信憑」の持続が必要だ。
オスカルとローズとの偶然の出会いも信憑性に欠ける(映画的な意味でわざとらしい)。オスカルは、病院にピッツァを届けに来た(?)ローズと廊下でぶつかり、言葉をかわす。あけすけにものを言うローズが彼には新鮮な印象をあたえる。それは、まあいいとする。が、彼女がオスカルの相手をする代わりに、毎回6箱ぐらいのホール(丸ごと)のピッツァを持って来るらしい映像が見える。たしかに婦長が食べているのがわかるが、彼女だけで毎日6枚もピッツァを食べるわけにはいかないから、他の職員も食べたのだろう。こういうことを含めて、ローズがピッツァ屋だということに説得力が乏しい。
子供は、周囲の「空気」を読むのに敏感だ。想像力も豊かである。子供は「明るく」ふるまったからといって、そのとおりに明るい意識でいるとはかぎらない。まわりが勝手に決めた「筋書き」に付き合っていることもある。オスカルは、ふだんからさまざな「空想」にふける。それが、CGIの映像で示される。ローズの(ホラ)話を映像化するのは、オスカルの意識である。
癒されたのがオスカルではなくて、ローズの方であり、そういう「企画」を立てた病院側の特別のはからいでオスカルが「楽しい」最後の日々を送ったのではなく、オスカルがそういう「企画」に乗ったかのようなフリをして見せたのだとすると、このオスカルという人物は何者だったのかという問いが浮かんでくる。これは、まるで「神」のようではないか。この映画には、どこか宗教臭い要素がつきまとう。観客は、オスカルの悩みや不安に同情させられたかのうような状態に置かれながら、そうではないことに気づくのである。同情したあと、「あなたの同情はちゃんとわかってましたよ」と言われたら、うんざりするだろう。われわれは、オスカルの「偉大さ」をただ受け入れるしかない状態に置かれるのだ。
邦題では、オスカルが中心の作品であるかのような印象を受けるが、原題は、「オスカルとバラ色の夫人」で、二人の関係を指す。したがって、われわれは、両方の姿を見ることになるわけだが、カメラは、あるときはオスカルに同化し、また別のときはローズに同化する。オスカルが息を引き取ってからは、ローズにもっぱら視点が集中する。その結果、ある意味では、面白い両義性が生まれはするが、他面、どっちつかずの印象を覚えもする。
(クロックワークス+アルバトロス・フィルム配給)
『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』(The Girl with the Dragon Tattoo/2009/Niels Arden Oplev) でわれわれを瞠目させたノオミ・ラパスは逸材である。そう若くはないが、ある種のパンク気質を体現している。彼女自身は、その名(Noomi Rapace)が示すとおり、スパニッシュ系で、父親は、フラメンコダンサーだったという。彼は、女友達に生ませた彼女を認知せず、母親はやがて別の男と結婚し、子供が出来たので、ノオミは家族と打ち解けない幼少・少女期をすごしたという(『Filter』のインタヴュー)。「15歳のときはパンクロッカーで、世の中(特に警察に)反抗していた」というノオミは、父親から陵辱を受けるリスベット・サランデルほどではないにしても、リスベットを演じるにふさわしいバックグラウンドを持っていることになる。ちなみに、彼女は、映画とはちがい、レズではなく、夫と子供がいる(むろん、それがストレイトである証拠にはならいが)。
前作とは監督が替わったが、トーンは持続している。前作ではあいまいにされていた父親に対してリスベット(ノオミ・ラパス)がなした復讐が何であったかが明かされる。本篇でリスベットが観客のサディスティックな欲望を満喫させるのは、彼女を陵辱した後見人ニルス・ビュルマン(ペーテル・アンデション)への復讐だ。一方、前作でリスベットと行動をともにしたジャーナリストのミカエル(ミカエル・ニクヴィスト)は、雑誌『ミレニアム』に復帰し、恋人のエリカ(レーナ・エンドレ)とともに少女売春を摘発する特集に取り組んでいる。
ミカエルが特集の取材のために雇ったダグ(ハンス・クリスチャン・テューリン)と彼の恋人で少女売春の研究を本にしたミア(ジェニー・シルヴァーハイルム)が何者かに殺されるも、急テンポな展開だ。リスベットのかつての後見人ニルスの不可解な死も、無駄のない映像で表示される。リスベットはニルスに復讐はしたが、殺しはしなかった。その腹に呪いの刺青をしただけだ。が、このために彼女は警察の指名手配者となり、ここから一連の殺人を実行している「組織」につけねらわれることになる。その最初のサインは、彼女の友人でレズ的な恋人でもあるミミ(ヤスミン・ガルビ)の拉致という形で起こる。彼女を拉致する大男を演じるミッケ・スプレイツは、『ブレードランナー』のアンドロイド役のルトガー・ハウアーや『ターミネーター2』の異星人を演じたロバート・パトリックに感じられたような戦慄を感じさせる。そのため、本作の山場は、ミッケ・スプレイツとのサスペンスであり、その分、第1作にはもっと濃厚だった、闇組織や秘密社会の摘発的な要素は薄れたと言えなくもない。「謎の人物」は、すれちがいのスリルを効果的にするために存在しているにすぎない傾向が強まったとも言えるのだ。
ノオミ・ラパスの脱ぎっぷりのよさは、『Daisy Diamond』(2007/Simon Staho)以来、このシリーズを通じて定着してしまったが、本作でもミミとのからみのシーンで見ることができる。これみよがしだとパターンになって、飽きられるが、この程度ならばラバス印を印象づけるうえでも効果的である。
リスベットとミカエルとの再会は、彼女が、『ミレニアム』誌の同僚のコンピュータに侵入し、データーをコピーしたことによって、彼女が生きていることをミカエルが認識したことから実現する。そのシーンでも見えるが、彼女のハッキングのやり方は、自分のノートパソコン(Mac)を相手のパソコンに接続し、データファイルをまるごとコピーしてしまう方法だ。実際には、接続することがそう簡単ではなく、そこが彼女のハッカーたるゆえんということになる。もう一つ、彼女は、もっと過激なハッカーとコネクションを持っており、いざというときには彼らにハッキングを依頼する。これも、ハッカーにとっては重要な方法だ。このシリーズでは、あまり空想的なハッキング行為は使わず、理論的に実行可能なレベルにとどめており、そこがこの映画のリアリティを高めている。
(ギャガ配給)
『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』でリスベットは、後見人に2度にわたりレイプされるが、2度目のとき彼女は、DVカムコーダーをひそかに隠し、その様子を撮影した。それをDVDに焼いたデータが今回、重要な鍵をにぎる。『ミレニアム2 火と戯れる女』は、「無痛症」の大男と闘ってリスベットがからくも死をまぬがれたらしいシーンで終わったが、本篇はそれを引き継ぐ。ノオミ・ラパスは攻撃的な演技もうまいが、痛めつけれる演技も、格闘技のファイター以上だ。が、本篇『ミレニウム3 眠れる女と狂卓の騎士』は、法廷ドラマ的な展開になるせいか、シリーズの1や2にくらべると力が弱い。
リスベットは、幼いとき、母に暴力をふるう父親を憎み、ガソリンをかけ、火傷を負わせ、精神病院へ送られたが、その診断にかかわった医師ペーテル・テレボリアン(アンデルス・アルボム・ローセンタール)への復讐が、ドラマの前面に出てくる。少女売春や薬の売買を仕切る闇組織と深く結びついた公安警察、リスベットは危機にさらされながら、法廷での対決へ向かう。ペーテル・テレボリアンへの復讐は、いつものような直接的暴力によるよりも、法廷での論理的な追求によって行なわれる。裁判にリスベットは、首輪や鎖を着けた正統パンクのいでたちでおもむくところはこの映画らしく、すがすがしい。ちなみに、日本の裁判では、被告は裁判所側の暗黙の要請によって黒や紺のスーツを着用する。その際、靴は履けないから、前側だけ靴に見えるスリッパを履かせる。スウェーデンでこういうことが可能かどうかは知らないが、日本でリスベットのようなことをやったらどうなるのだろう?
不気味な大男(ミッケ・スプレイツ)は本篇でも重要なコマだが、その「無痛症」に頼りすぎ、説得力を欠く。どんなに神経がマヒしていても、電気釘打ち機で釘を打ち込まれれば、衝撃ぐらいは感じるはずだ。
ある種の「出し惜しみ」がこのシリーズのスタイルであるが、本篇ではこれまでの「悪党」はすべて征伐され、今後の布石にとっておかれるプロットや登場人物はいない。リスベットの父親の邪悪さには凄みがあったが、それも滅びる。老いた「悪党」たちの滅び方には一抹の哀愁がただよわないでもない。
(ギャガ配給)
トレイラーの印象を見事裏切るいくつかのサブストーリがあるが、基本はアクションだ。『ダイ・ハード4.0』的な不死身のアクションを見せるアンジェリーナ・ジョリーは、まるで「パクール」の名人のように走りまくり、100分あまり息つく暇もない。まあ一種のトリップでもあり、その乗せ方は見事である。最初予定していたトム・クルーズが受けなかったので、アンジェリーナ・ジョリーに替え、脚本も書き替えたというのだから、ジョリーのリキも入らざるをえない。
フィリップ・ノリスは、オーストラリアの「赤狩り」を批判した『ニュースフロント』や「白豪主義」を批判した『裸足の1500マイル』のように、政治をストレートに描く側面と、『ボーン・コレクター』のように、エンターテインメントとして見ごたえのある作品をつくる幅の広い監督である。『愛の落日』は、両者の中間を行った。基本的にこの本作は、「ポリティカル・スリラー」のジャンルに入るが、政治は、けっこうこういう形で描いた方が、そのリアリティに迫れるのかもしれない。たとえば、クリスチャン・カリオンの『フェタウェル さらば、哀しみのスパイ』のように、クソ真面目に歴史的事実を追いながら、結果的に、歴史の実相に迫るどころか、単なるサスペンスに終わってしまうという例もあるからである。
試写は、この日2回だけという公称なので、早めに行ったら、劇場の外の炎天下でながながと待たされた。毎日「吸血鬼」的生活をしている者には、たまらない。ガラスの奥では人影があるが、30人近く並んだ列には無関心。これは、この作品が絶対当るという自信のあらわれだろうか? 不運といえば、上映まぎわになって、まえの席に「金髪」の女性が着席。目がハレーションを起す。予告編のあと、やれやれこれで本作上映かと思いきや、例の「NO MORE 映画泥棒」上映され、げんなり。大手は、みなこの恐ろしく非映画的で、本作を見る気にさせなくなるクソクリップを上映するが、そのロスを計算しているのだろうか? 配給さん、ここれは、本当に深刻な事態なのですよ。
(ソニー・ピクチャーズエンタテインメント配給)
つらい映画である。親に事実上捨てられたり、親元を離れざるを得なかった子供たちを集めたカトリック系児童擁護施設の話。時代は1975年に設定されている。韓国が、経済的にも政治的にもいまでは想像できない厳しい状況にあった時代だ。9歳のジニ(キム・セロン)は、母親がおらず父親に育てられたらしい。映画は、父親(ソル・ギョング)の自転車に乗ったこと、居酒屋で父親のマッコリを少し飲んだことなどのシーンから始る。父親の顔をほとんど映さない技法は、彼女の思い出のなかでの父の姿がいかなるものであるかを示唆する。ある日、ジニは父親に連れられてソウル郊外の養護施設に連れてこられる。彼女は、そこが擁護施設だとは知らず、短期間預けられただけだと思っている。父親は、手土産代わりにケーキを持ってきたので、ケーキを切り分けて施設の子たちがいっしょに食べることになるが、他の子供たちが箱から手づかみで食べるのに当惑する。すると、それを察した園児の一人が皿を持ってきたりする。しかし、ジニはケーキを食べる気になれない。全編にわたって、一度もブレることなく、あどけなくも、当惑と不安の入り混じった状態をキム・セロンは天才的なまでの演技で表現する。
最初、ジニは、年上で活発な園児のスッキ(パク・ドヨン)あたりにイジメられ、そういう悲惨さが続くのかと思わせるが、そういうありきたりの展開はしない。むしろ、彼女らはたがいに助け合い、毎日を過ごす。その比較的「あたりまえ」のようなドラマ進行がかえって新鮮だ。彼女らは、ほとんどが、養子にもらわれていく。スッキは、アメリカ人の家族にもらわれ、アメリカに行くのが夢だ。親しくなってきたとき、ジニに「いっしょにアメリカに行こう」と言うが、ジニには実感がない。彼女は、いつか父親が迎えに来てくれるという想いを捨てることができない。
興味深いのは、1975年の韓国に、この映画が描くような養子縁組のシステムがある程度出来上がっていたということだ。ウディ・アレンとミア・ファーローは、中国から養子を迎えた。アジア諸国からアメリカやカナダ(さらにはヨーロッパ)の家庭の養子になるのはますますさかんである。そのなかで韓国は、中国より先にそういうシステムを作っていたのだろう。むろん、アジア諸国の不法な「孤児輸出」は、たびたび問題にされてきた。韓国における養子縁組の制度かには、アメリカとの軍事同盟、カトリック教会との関係、闇社会の介在など複雑な問題がからむことは当然である。しかし、それにもかかわらず養子縁組を合法的に出来るのは、形だけであれ、法律的な整備が整えられたからである。その点、日本には、まだ円滑な形で養子縁組をする法制度がない。戸籍制度が厳然とあるので、事実上の養子縁組をしても、戸籍からは消えないから、血のつながった元の親子関係は永遠に残る。それでは、本当の養子縁組とは言えない。なぜなら、今日の養子縁組は、システムが血のつながりで動くのではなく、情報で動くのだという根本的な環境変化に対応しているからである。資本の流れも、親から子、親戚という「運命的」な血族のネットワークではなく、契約や個々の意志決定にもとづく情報のネットワークのなかで動く。
ジニは、最終的にアメリカに渡るが、それから少なくとも30年以上たったいま、ジニは40歳近くになる。おそらく、彼女のような世代が、いまの韓国とアメリカとの関係に厚みをもたらし、日本とは異なる国際性を生み出すきっかけになったはずだ。その点では、日本は、あいかわらず「鎖国」をつづけている。
本編が長編第1作の監督のウニー・ルコントは、韓国のソウルに生まれたが、父親に捨てられ、擁護施設に入り、9歳のときにフランス人の家庭の養子になったという。韓国語は話せず、フランス語が第1言語になった。この映画には、自伝的な要素が入っているとのことだが、非常に知的で繊細なセンスが全編にみなぎっている。
(クレストインターナショナル配給)
もっとワインそのものの話かと思ったら、そうではなかった。ワインの製造のディテールが描かれるわけでは全然ない。ブルーゴーニュワインの始まりに興味がある者は、満たされないだろう。ここでは、ワインは、単にある種の象徴記号として使われ、その内部はブラックボックスである。ソブラン・ジョド(ジェレミー・レニエ)が生み出す1815年の芳醇なワインは、天使がその苗木を渡してくれたところで決まってしまう。まさしく、原題のとおり「ワイン製造業者の幸運」でしかない。むしろ、描かれるのは、ソブランと、妻となる女性セレスト(ケイシャ・キャッスル=ヒューズ)、もともとパリジャンだが、叔父の死で家督を引き継ぐためにやってきてソブランと出会う姪のオーロラ(ヴェラ・ファーミガ)、そしてと天使(ギャスパー・ウリエル)との屈折した関係である。
天使が出て来て、しかもそれが巨大な羽を広げるのは、美しいというよりも気味悪い。が、その天使は、実は地獄に住む「堕天使」であることがわかるから論理は一応一貫している。一面で、ソブランとこの天使とのあいだにはある種同性愛的な愛が感じられなくもないが、そのへんは極めてあいまいで、すっきりしない。
ワイン製造の描写はいいかげんなのだが、ヴェラ・ファーミガが乳がんにかかり、手術を受けるシーンなどはけっこうリアルなのである。さらに、天使が「人間」になりたいというので、羽を切り取るといったプロットもけっこうどぎつい。このへんに、表現上の分裂がある。
フランスに行くことなくニュージーランドの作家エリザベス・ノックスが書いた19世紀のフランスを舞台にした原作をニュージーランドの監督ニキ・カーロが映画化した。カーロの前作『スタンドアップ』(North Country/2005)と『クジラ島の少女』(Whale Rider/2002)は力作だった。ニュージーランドもワインが美味い場所である。街にはワインバーがたくさんあり、好きなワインを何種類でも一杯飲み出来る。ジェーン・カンピオンのように、19世紀のそれっぽい雰囲気を映像化する環境と技術的蓄積があるところでもある。しかし、フランスの19世紀は難物ではないか? それを英語で上演するのもえらい制約だ。
結局、この映画では、フランスの土地名やその地の人間たちが出ては来るが、問題なのは、農民と貴族との関係、時代とともに変わる階級関係といった抽象化が可能なテーマだと言わざるをえない。しかし、それならば、「天使」などは出さないほうがよかった。
(東北新社配給)
アヘン戦争時の中国へのナレーション的解説、「桜田門外の変」があった濠端のあたりの現在の映像、タイトルをはさんで時代は1860年に飛び、「変」の襲撃を主導した水戸藩士・関鉄之助(大沢たかお)の目を通して、時代をフラッシュバックさせながら、彼の足跡を追い、最後は、鼓笛隊を従え馬に乗った西郷隆盛らが皇居前に集結するところでカメラが横に振れ、現在の国会議事堂が映る。このスタイルは、その昔(1965年)、吉田直哉がNHKの「大河ドラマ」の『太閤記』で導入し、その後流行ったスタイルを思いださせる。
オープニングからあまり時間がたたないところで、井伊直弼(井武雅刀)を駕籠(かご)に乗せた大名行列が襲われ、井伊大老の首が切り落とされるシーンを見せる。その切り合いは、決して「美しく」はなく、むしろ凄惨である。刀の動作も緊張と寒さと不安で切り合いもぎごちない。そういう風に演出しているのである。吉村昭の原作にも、「雪中で、刀をふるう者の動きは鈍く、膝をつき、腰を落している者もいる」(新潮文庫、下、p.116)とある。その意味では、襲撃に加わった面々が、つぎつぎに自刀したり、逮捕され、斬首されたりするのを見るなかで、襲撃そのものが、ますます虚しいものに見えてくる。それは、「桜田門外の変」をチャンバラ映画にしないという点では一貫した描き方だが、逆にそうなら、その虚しさをもっと強調してもよかったのではないかという思いがしないでもない。
桜田門外の襲撃計画には、日本の支配体制を変革しようとする夢があったが、その夢が、文字通り儚い夢であったことはよく描かれている。井伊直弼を倒せば、西郷隆盛率いる3千人の兵を薩摩藩から京都に集結させるという約束があった。鳥取藩も、支援するはずだった。しかし、たったの2藩ぐらいの支持で日本を変えることが出来ると考えること自体が妄想である。そもそも、大老を暗殺された幕府は、その死を伏せ、その「政治」効果を操作することに成功する。追っ手は、すべての襲撃者に迫り、最後まで逃げおおせた者はわずか2名だけだった。映画のなかで、江戸で関を匿(かくま)った愛人いの(中村ゆり)は、当時の悪名高い残酷な拷問にあって死に、妻子(長谷川京子、加藤清史郎)は、人権尊重などひとかけらもない「ガサ入れ」で家を追い出される。幼い息子が、「父上はお考えのあってのこと」と歯を食いしばって泣くシーンが痛々しい。
ただし、この映画は、関鉄之助らが「暗殺パラノイア」を亢進させ、所詮は「虚しい」行為に走った背景に、水戸藩主・徳川斉昭(北大路欣也)の孤立と後退があったことはほとんど描かない。北大路欣也が演じる斉昭は、映画では、一見、「右派」の正論(尊王攘夷論)を言っているように見える。しかし、1855年以後の水戸藩は、斉昭が頼ってきたブレーンの藤田東湖を失い、五里霧中のなかにあった。藤田東湖は、「藤田なくして斉昭なし」と言われたほどの斉昭体制のブレーンであり、「革新派」天狗党の中心人物だった。それが、安政の大地震(1855年)で藤田が事故死し、支えを失って、斉昭の政策はブレはじめる。また、この機に、反藤田派の「書生党」と天狗党とのあいだで血みどろのウチゲバが始まり、数千人の犠牲者を出したという(このあたりは、粉川幸男『水戸藩の崩壊』、至誠堂に詳しい)。つまり、桜田門外の変は、「水戸藩の崩壊」が顕在化した一つの事件であり、水戸藩に時代の矛盾、ひいては「日本」の矛盾が凝縮されていた。そしてそれは、桜田門外の変の「終結」によって解決されたわけではなく、明治をこえてタイムマシーンのようにふたたび「五・一五事件」を生み、いわば「水戸藩」のパラノイアを日本全土に拡大した形での「一億玉砕」へと向かうのである。
映画のなかで、徳川斉昭と井伊直弼との論争場面がうつる。井伊は、黒船で来襲し「通商条約」の締結を要求するアメリカを受け入れなければ、清国の二の舞を食うと言う。幕府の海防参与としての徳川斉昭は、兵力を増強し、「自主防衛」で海外勢力対抗すべしという。自力で武器を調達するわけにはいかないから、斉昭の主張は空論である。「国際化」の波がひたひたと押し寄せる時代のながれのなかでもはや「鎖国」という、それまでは非常に巧妙にあやつられてきた文化・経済政策が、もはや続けられなくなったとする井伊直弼の主張は「現実論」(開港論)である。しかし、手続きを誤った。朝廷の許可を待たずに「日米和親条約」を結んだことである。日本では、重大事に朝廷を無視する者は、必ず手痛い仕打ちを受ける。というよりも、朝廷=天皇制は、日本のレジティマシー(正統性)の原理であり、これをテコにして事を起せるのだ。だから、そこをはずせば「敵」を作ることになり、このレジティマシーをどこまで押さえているかどうかで「敵」と「味方」のバランスが動く。斉昭は、朝廷工作ではぬかりなかったとしても、現実工作は全くダメだった。バランスを取れる政治家がいなかったことが、幕末の混乱を招いた。
桜田門外の変にとって、外部に対して盲目になり、その分「理想」にも走るが、思い込んだら命がけのヤバさもある「水戸藩」のパラノイアは非常に重要なのだが、この映画では、「水戸」というローカリティは、全く重視されていない。それは、薩摩弁まがいや関西弁まがいは聞かれるが、茨城弁に関しては、その気配さえも聞こえないという点にあらわれている。茨城弁というのは、同じ関東でもこうも違うのかと思われるくらい、特徴がある。たとえば、「い」と「え」の発音の混在、しり上がりの発音等である。だから、いまでも、茨城出身の人は、すぐわかる。まして、オーラルカルチャーが支配的だった時代には、お国言葉は、他人を判断する重要なメルクマールだった。吉村昭の原作でも、こういうローカリティは重視されていないが、わずかに、広木松之介を助けた水戸藩の郷士・後藤哲之介に関し、「能登におもむいた後藤は、宿屋改めの役人に水戸訛りを怪しまれ」逮捕されたという記述がある。
志士たちのモチベーションは、大沢たかおが言うように、「世の中を変えなければ、日本は滅びる」というやつだが、これって、いまの時代にもかわりがない。スポーツ紙の一面には、同じ主旨の見出しが踊っている。たしか小澤一郎も、小澤支配が続けば「日本は滅びる」と言われた。鳩山が消えて、表向きは変わったが、小澤体制が消えたわけではない。このテーゼは、論路というよりもパラノイアである。本当に滅びるかどうかよりも、滅びるのではないかという不安を強調するデマゴギーが、一つの政治技法になっている。そういうことを振りまくやからは、一度滅びを経験してみたらどうかと思うのだが、残念ながら、この「脅し」が有効に機能してしまうから、困ったものである。子供のころから、親が、「そんなことしたら・・・だよ」と教育しているから、そのパターンはいつまでも続く。だから、それを、社会的気分や表層の流れを変える一つの政治テクニックだと認識していれば、いいのだが、ときおり、それを本当に信じてしまう者が出ることだ。水戸の志士たちが典型である。
日本では、現実をリアルに認識し、したたかに生きるドラマよりも、現実を誤認して滅びるドラマのほうが受ける。実際、この映画にも、そういうしたたかさをにおわせる人物は一人もいなかった。原作には、この映画に描かれない3人の後日譚が書かれている。事件現場から姿を消した広木松之介、海後磋磯之介、増子金八のうち、海後磋磯之介は、会津、越後に潜み、幕末の動乱に乗じて水戸にもどり、名前を菊池剛蔵とあらため、明治維新後東京に出て、警視庁に入り、明治8年に水戸にもどり結城警察に18年間勤務したという。
(東映配給)
シルビアのいる街で (必見・必聴!『ぴあ』と『キネマ旬報』にコメントを書いた)。
ヒックとドラゴン【後出】
セラフィーヌの庭【後出】
瞳の奥の秘密 (ドラマ自体には政治を出さずに、知っている者には1974年前後の状況――チリの軍事クーデターがアルゼンチンに飛び火し、多くの拉致者や死者が出る――のミクロな面を描いていることを直感させる力作)。
ヤギと男と男と壁と【後出】
ベスト・キッド【後出】
小さな村の小さなダンサー【後出】
ペルシャ猫を誰も知らない【後出】
日本の現在と家族に関心のある森田芳光の作品としてはバランスのとれた佳作だ。「秀作」と言わないのは、そのまとまりがよすぎて、わかりやすすぎるテレビ的要素だ。律儀さ、つつましさ、礼儀正しさの薦めが押し付けがましくなく描かれている。仲間由紀恵がひと皮向けている。いつも顔から笑いが消えない堺雅人も、最晩年の猪山直之を演じるときにはちょっと無理という感じだったが、それも許容できる。
瞬間しか映らないが、日々の食事、猪山直之が持参する弁当の内容が手抜きでなくちゃんと按配されている。経費節減のために仲間由紀恵が、鱈のような(当時は)安い魚を買い、昆布じめにして供するシーンなど、納得がいく。食い物をちゃんと描く映画に駄作はない。もう1秒ながく映せば、そこからさまざまなメッセージが読み取れるが、それをしないで瞬間描写なのが奥ゆかしい。
磯田道史の研究的エッセイ『武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 』(新潮新書)を映画にしたのは、非常にアップ・ツー・デイトであり、慧眼である。コミックや小説からではなく、研究論文のようなものから映画に翻案できるものはいくらでもあるだろう。本作は、そういう先駆けを作った。
代々下積みの「御算用者」としての身分に甘んじていた者が、藩の政治改革に貢献し、明治になっては、エリートサラリーマンになるというストーリーは、一つの成功物語である。刀によってではなく、ソロバンによって世の中を変えたという意味では「平和主義」でもある。しかし、いつの時代にも、職業の階級的シフトが起こり、いま下積みでも明日には期待される働き手になるという変換が起こる。腕っ節の強さがメリットだった時代から、いまや、情報の操作やアレンジの能力が買われる時代になった。「工業化」から「脱工業化」や「サービス化」や「情報化」へのシフトという構図は人口に膾炙している。しかし、この映画の面白さは、それを「ソロバン侍」に焦点を当てて描いている点である。
こういう映画を見ると、いま世の中には、親子間でのけじめ、礼儀、継承への関心が暗黙に高まっているのかという想いにかられる。映画で、猪山直之(堺雅人)の母(松坂慶子)は、彼と父親(中村雅俊)が城へ出勤するとき、門口で、必ず「行っておいで遊ばせ」と言って送る。そして、猪山直之が娶る妻(仲間由紀恵)は、それを継承する。襖(ふすま)の開け立て、息子が親に手をついて挨拶する仕方、映画のなかで描かれるそうした身ぶりや挙措が、伝統的に正しいのかどうかはわからないが、この映画のなかで、ある種の美学を形づくっていることはたしかである。
いまの10代から20台のいわゆる「若者」の書く文章を見ていると、若いのに敬語がしっかりしている少数者と、ほとんど敬語と丁寧語の表現力が破綻してしまっている者、ほとんど完全に脱敬語になっている者とがいる。敬語とは、相手と自分との差異を読み取る感性にもとづく表現だが、そういう感性が喪失することはないから、敬語は生き残ると思う。が、同時に、既存の階級差や慣習的な差異はドラスチックに変容しているから、言語表現の表層から「敬語」が消えていくことはありえるだろう。が、そのときには、逆に、会釈とか目の動かし方とかの身ぶりのレベルでの微妙な身体表現が要求されるようになるだろう。わたしの経験では、そういう身ぶりのレベルで繊細さを獲得している者は、若くても、敬語や丁寧語の表現が出来るようなのである。結局、同じことなのだ。
(アスミック・エース+松竹配給)
まえにも書いたが、いまの時代、離れて暮らしながら恋愛・夫婦関係をつづけるという「リモート・カップル」は増えているはずだ。だから、ずばりその問題をテーマにしているようにみえたこの作品に期待した。が、この映画は、「リモート・カップル」を描いているのではなく、ごく普通の事情で「離れて」暮らすことになってしまった「制約」をどう解消するかに終始するカップルの月並みなロマンティック・コメディだった。いまの時代に「リモート・カップル」であることの新しさや工夫はどこにも描かれていない。カップルは「離れては」暮らせないという古いテーゼをくりかえしたにすぎない。だから、偶然と一緒に暮らそうという「決断」が最後にあって、ハッピーなエンディングになる。つまらない。
映画としての構成も安い。ゲイではないのにいつもいっしょにいる(あくまでドラマの演出上の都合で)ジェイソン・サダイキスとチャーリー・デイの「お笑いコンビ」が道化まわしで登場するのもわずらわしい。なぜ、ドリュー・バリモアとジャスティン・ロングだけでやれないのか? この映画、ジャスティン・ロングとの「内部事情」で作られたような作品なのだから、二人でどーんと行った方がよかったのでは?
映画のなかではバリモアは「31歳」という設定であるが、ドキュメンタリー出身のナネット・バーンスタインの「うっかり」か、設定よりもはるかに老けた感じに映っている。ジャスティン・ロングも、すでに32歳(1978年6月2日生まれ)だから、ボーイッシュな感じを売り物にするわけにはいかないが、この映画では、その「ボーイ」と「中年」とのあいだの決断を決めかねているイモ臭い感じが出ていて、うんざりだ。わたしはジャスティン・ロングが好きではないから、これは偏見にすぎないが。
「遠距離恋愛」の話としてではなく見れば、見るべきところはある。姉(クリスティナ・アップルゲイト)との関係やバリモアをはじめとする登場人物たちの俗語表現だ。しかし、字幕でその感じを出すのはむずかしいので、字幕だけでは楽しめない。
バリモア演じるエリンは、新聞記者をめざしているが、アップライト式のゲームで最高点を挙げるゲーマでもある。が、31歳という設定でゲーセンに通ったとすると、20年前ということになるのだろうか? たしかに、この時代は、スーパーファミコン全盛であり、やがてフルポリゴンのゲームソフトが普及し、ソニーのプレイステーションが登場する。そういう時代を謳歌した世代にとって、「距離」はむしろあたりまえだ。いまのケータイも、そういう世代が支えている。が、エリンは、にもかかわらず新聞にこだわっている。紙メディアという電子メディア以前の旧メディアだ。ならば、彼女が「リモート・カップル」にはなれないのはいたしかたない。
ロング演じるギャレットは、メイジャーレーベルのディレクターである。バンドを見つけてCDを作り、売る。が、彼自身はいまの会社での仕事に満足していない。もっと「心に通う」バンドをもりたてたい。これは、どちらかというとひと時代まえのパターンである。音楽産業では、もはや、興味を持てないディレクターがいやいやプロデュースするイヴェントなどが生き残る余地はないからである。映画では、ギャレットは、会社を辞め、ローカルなバンドのマネージャーになる。結末は、えらく「古典的」である。
(ワーナー・ブラザース映画配給)
三池崇史の演出だから、役所広司、伊原剛志、松本幸四郎、平幹二朗、松方弘樹という時代劇のディスクールも発声法も違う役者をいっしょにし、そこに山田孝之のような「時代劇」とは異質の役者を加え、さらにそこに伊勢谷友介が必ずしも適役というわけでもない猿飛佐助か孫悟空のような宇宙人的役柄が加わるのを見ても、少しも驚かない。だが、「狂った」殿様を演じる稲垣吾郎がけっこうまじめに役を演じ、最後のほうになるにつれて、彼の「狂った」考えや行動も「わからなくなくもない」という風になってくると、三池崇史的演出が成功しているのかどうか、わからなくなる。
役所広司、伊原剛志、松本幸四郎、平幹二朗、松方弘樹の5人のうちで、松方弘樹の台詞が、決して拙いわけではないにもかかわらず、違う映画から借りてきたような感じに響くのは面白い。ある種のべらんめえ口調なのだが、えらく「古い」感じがしてしまうのだ。殺陣もうまいし、役自体が浮くわけではないが、彼がしゃべりだすと、いきなり江戸の浅草の長屋にでも行ったような気になるのだ。それは、時代劇を演じながら、基本的に「現代劇」を演じている役所広司と伊原剛志のせいかもしれない。その点、松本幸四郎と平幹二朗は、手抜かりがない。
基本は、復讐劇のはずである。明石藩の馬鹿殿・松平斉韶(なりつぐ)(稲垣吾郎)が、参勤交代の際立ち寄った尾張藩内の木曾上松の陣屋で、いわば藩を代表して斉韶を歓待する役目の牧野靭負(ゆきえ)(松本幸四郎)の嫁(谷村美月)をもてあそんで惨殺し、発見した息子(斎藤工)も殺してしまう。江戸屋敷では幼女を弓で射って遊ぶなど、サディスティックなビザール・アクションの毎日。藩内でも、何とかせねばという意見が出るが、御用人の鬼頭半兵衛(市村正親)は、主君への「忠義」に篤く、斉韶の乱行と暴挙を黙認する。このへんは、映画的にも周知の侍的ロジックだから、それを演じる市村正親は得をした。この映画のなかで一番すっきりした演技を見せる。
事態の深刻さを認識した江戸幕府の老中(平幹二朗)は、かねがねつきあいのあった島田新左衛門(役所広司)に斉韶の暗殺指令を出す。島田は、志士を組織し、12人が集まり、実行にかかる。島田ら12人は、参勤交代の帰国に向かう斉韶の一行を密かに追い、途中で山をすみかにして漂流生活を送っている山窩(さんか)の青年・木賀小弥太(伊勢谷友介)に会い、その「超能力」を買って仲間に加える。こうして13人の刺客が斉韶の暗殺のために結束するのだが、先方もその情報を早く察知し、したたかな戦略で対抗する。まあ、このへんは面白い。
問題は、斉韶の意識変化である。彼は、終盤で激戦が始り、家来がばたばたと切られて行くのを見ながら、平然と、「戦国の世とはかくなるものであったのか」と感動し、自分は、戦争にあけくれる政治を行い、いまの「太平」の世を終わらせるとのたまう。女子供に残忍な暴力を振るうだけならば、まだ、斉韶は、否定されるべき対象にとどまる。こいつは死ななきゃわからない奴なのだと言えるからである。十三人の志士たちの暗殺も正当化される。また、その暴政にもかかわらず主君に忠義を尽くす家来たちのロジックも納得がいく。しかし、家来が死に、自分も死ぬかもしれない状況を論理的にも肯定するということになると、こいつは、感覚が狂っているだけではなくて、全然ちがう「世界観」を持った人間なのだと思わざるをえなくなる。そして、自分が斬られて、やっと「痛み」というものを理解するように演出されているシーンで、斬った相手に感謝の念を表わしたりすると、「お前がそういうことなら、それでもいいじゃないか」という気持ちにもなってきて、13人の努力が空転させられてしまうのだ。この映画が、こういう相手には「復讐」が通用しないということを描こうとしているのならば、それでもよい。が、そうではなかったはずだ。
アレックス・コックスの『ウォーカー』(Walker/1987/Alex Cox)でエド・ハリスが演じたウィリアム・ウォーカーやルキノ・ヴィスコンティの『ルートヴィヒ』の狂えるババリア王は、ともに実在の人物をモデルとしていても、映画のなかでは徹底したニヒリズムの持ち主にまで過激化され、それを負の原理で否定しうようとしても空無化されてしまうような存在になっている。徳川斉韶という人物は、原作(池宮彰一郎)とシナリオ(天願大介)のレベルでは、そうした人物と重なり合う要素を持っている。しかし、それが徹底されていないのと、稲垣吾郎の力量との関係で、映画のなかで形になった斉韶は、中途半端なものになってしまった。斉韶の暴力や虐待が、「普通人」の狂気や異常を越えた何かであるのなら、彼は、それを「普通人」が自分の不明さに気づくような身ぶりや表情で「反省」してはならない。その残酷さや恐ろしさが、最後までわからないのでなければならない。ある種の「モンスター」として描かれるべきなのだ。それに対して、稲垣は、最後には「あたりまえ」の人間の相貌を見せる。これでは、志士たちも家来も死ぬに死に切れない。
斉韶を、ニヒリスティックなデカダンスの残忍な美学に生きる人間としてとらえなおしたとき、それは、本作よりもより三池崇史的な作品になっただろう。だが、そのとき、必然的に、13人の志士たちの「努力」は虚しいものになるから、殺し合いや戦い自体が「無化」され、殺しあうことや戦うこと自体に根底から疑問をつきつけることにもなる。三池には、その覚悟があっただろうか? 少なくとも、この映画では、それはあいまいなままになっている。
伊勢谷が演じる山窩の民・木賀小弥太は、殴られても全然痛がらないし、クライマックスの13人対300人という決戦のなかで奮闘しながらも、首に刀を突き刺されて一旦は倒れながら、生き返る。この登場人物をめぐっては、賛否両論あるようだが、わたしは、彼を12人の志士たちの願望的な存在(ある種の「堕天使」)と見る。というのも、島田新左衛門(役所広司)の息子・新六郎(山田孝之)が最後の契りを結ぶ芸妓・お艶を演じる吹石一恵は、ダブルキャストで、この木賀小弥太を愛する山の女・ウパシを演じているからである。
このごろの時代劇ではいいかげんに描く傾向がある既婚女性の鉄漿(おはぐろ)と引眉(ひきまゆ)は、この映画ではしっかりと描かれている。谷村美月がそのいでたちで登場すると、その「異様」さのエロティシズムが、いかにも三池崇史世界にふさわしく感じられた。拷問され、手足を切断された女性のグロテスクな姿へのリアルな、そしてそれだけエロティックにも見える表現への執着も、三池崇史ならではのものだった。
【追記/2010-09-28】本欄のレヴューに対して、以下のような意見をいただいたので、そのまま掲載する。なお、わたしは、<「十三人の刺客」の基本が復讐劇だ>とは言っていない。<基本は、復讐劇のはずである>とあえて傍線付きで書いた。が、原作と映画を等距離で読み込んでいる意見はとても参考になる。
<「十三人の刺客」の基本が復讐劇だという点に疑問を感じます。松平斉韶(なりつぐ)(稲垣吾郎)は、老中になってしまっては困る奸物であるので、それを殺害して取り除く作戦であることは一貫していて、復讐を考えているのは牧野靭負(ゆきえ)(松本幸四郎)ぐらいだと思います。島田新左衛門(役所広司)も確か斉韶を刺すとき、復讐めいたことを言いますが、もっともらしい口上で、作劇上、復讐を匂わせているのだと思います。斉韶は無表情で女子供さえ惨殺し、人が見ていないときは犬食いをし、追い詰められた時の「戦はいいものだ。」という一連の台詞や殺されるのに感謝するような動作は、確かに私たちとは考え方が違う「異常」な人で、今回三池監督が最も「愛情」を込めて演出した人物だと思います。ただ「異常」であるから殺されなければならない悲しい人でもあるのでしょう。ただ、それだけでは面白くないので、復讐の論理をお話上、組み入れたのだと思います。斉韶の非道で両手両足を失った少女が書いた「みなごろし」の文字を新左衛門が追い詰めた時に出して見せるところに、特に強く現れていると思います。実際は「異常」な人物の権力による抹殺であっても、「復讐」が成し遂げられて私たちはさわやかな気分で映画館を出ることが出来ます。ただ、先生がおっしゃるように、オリジナル(原作映画)を見ても今回のものを見てもこの二つの論理が上手くかみあっているかは疑問ですが。(よしぼう)>
(東宝配給)
ジェイムズ・マンゴールドの作品は、大体見ているが、今回ほど登場人物がコミックブックや劇画のなかのそれのように、ある意味「抽象的」な例はなかった。それは、この作品に対する批判ではない。先に言っておけば、わたしはこの作品をエンタテインメント作として高く評価する。トム・クルーズとキャメロン・ディアスの選択は、的確だったと思う。クルーズの「人間味を欠いた」キャラクターと、ディアスのミーハー的風貌と挙動がうまく生かされていると思う。
これまでの作品では、主人公や登場人物は、悩みや個人的葛藤を見せた。最初の長編『君に逢いたくて』(Heavy/1995)は、文字通り、プルイット・テイラー・ヴィンス演じる孤独な肥満男の話であったし、基本的にはサスペンスである『コップランド』でもシルベスタ・スタローン演じる保安官は片耳が難聴であるというハンデを負っている。『17歳のカルテ』は、ウィノナ・ライダーやアンジェリーナ・ジョリーが個性的に演じる「精神病」患者たちの物語であった。この路線をもう少しエスカレートさせ、その分現実から離れたかなと思わせるたのが、『アイデンティティ』だったが、『ウォーク・ザ・ライン』では、実在の人物を取り上げ、また現実への距離を縮めた。前作の『3時10分、決断のとき』(3:10 to Yuma/2007)は西部劇だが、クリスチャン・ベール、ラッセル・クロウ、とりわけローガン・ラーマンが演じるキャラクターが「人間味」を帯びていた。その点で、これまでのマンゴールドの作品で登場人物が一番フィクショナルな要素を帯びていたのは、『ニューヨークの恋人』であり、今回の『ナイト&デイ』に通じるものを持っている。
エンタテインメントだとすれば、クリシェを多用するのが一つの型(パターン)であり、批判の対象にはならないし、今回わたしはそれを楽しんだが、かくして、クリシェ的なシーンはひんぱんに出て来る。クルーズとディアスの出会いもそうだが、そういうクリシェ的なパターンを意識的に使い、これから展開するドラマがエンターテインメントなんだよと印象づけているのだとすれば、意味は違う。クルーズはCIAのエイジェントだが、内部に混乱があり、敵と味方の区別が難しいままドラマが進んでいくというパターンは、『ソルト』もそうだった。今回は、それが、ピーター・サースガードとのあいだで展開する。こういう場合、サースガードは、『17歳の肖像』で「裏切り男」を演じたから、この映画では、当然そうした映画記憶を利用して、そういう方向の人間なのかなと想像することはまちがっていない。
この映画に関しては、アメリカでは、なぜか批判が多く、そのなかには、トム・クルーズがカルト宗教のサイエントロジー(Scientology)の信者だからという点だけでこの映画をクソミソに言うものまである。そう言われてみれば、この映画は、もう一人のサイエントロジストの映画人ジョン・トラボルタの『パリより愛をこめて』と似ているところがある。ばったばった敵を倒すところもそうだ。しかし、この映画でジェイムズ・マンゴールドがなかなか微妙な表現法を使っていることは指摘されない。たとえば、同じ飛行機に乗り込んだディアスの視覚に入らないところで、(観客には見える)敵をクルーズが倒していくというシーンがある。これは、すべてが、ディアスの夢や妄想であるという設定にしても受け入れられる仕掛けで、「はたで殺人が起こっているのにそんなことはありえない」というような現実主義的批判をあらかじめ封殺している。しかし、実際にはそういう批判が多いのだが。
妹の結婚祝いで飛行機に乗ったディアスが、スパイのクルーズと同じ飛行機に乗るという設定は、出来過ぎだと思うかもしれないが、それが、実は、CIAがそうなるように画策したのだとすれば、無理ではない。そういうことをそもそもCIAが出来るのかどうかはどうでもよい。「CIA」といういうものは何でも可能だというのがハリウッド映画のクリシェであり、それを利用して悪いわけがないからだ。それを示唆するかのように、CIAのロゴは、「ホンモノ」とはちがっている。
ロケ地は多いが、これもパターンとして使っている。それは決して悪くない。オーストリアのザルツブルグが美しく撮られ、そこに「スペイン」の武器商人のエイジェントの女性ナオミが登場するが、その濃艶な風貌の女性を演じるのは、2004年ミスイスラエルのガル・ガドット(Gal Gadot)である。マルチ化しているスペインでは実際にはありえることだが、映画では「スペイン系」と思わせるそれっぽいパターン(スペイン女)を見せる操作である。こういうことがどこまで意図的になされているかどうかは不明だが、わたしは、それを安っぽいとかあざといとかは思わず、逆に買うのである。クルーズの「オヤジギャグ」に関しても同様。そもそもこのタイトルが安いギャグである。だから、この映画を見て、ディアスが終始クルーズに引きづりまわされていることを持って、「遅れてきた男性至上主義」などという批判はしないほうがいい。別の意味では、この映画は、CGIのテクニカルなアクションに生身の俳優のアクションをどこまでシンクロできるかを試した作品でもある。
(20世紀フォックス映画配給)
映画の終わりのシーンがすばらしかった。「本物」のアメリア・イヤハートのモノクロ写真と短い動画が映し出されるのだが、それまでのシーンで見せられたヒラリー・スワンクの「アメリア」とシームレスにつながる。「本物」のアメリアが持っていたリズムや「磁力」を映画のなかに呼び込むような操作にある程度成功しているのである。ただし、この最後の部分のまえのほうがすべてそうだというわけではない。
墜落事故を起こす確立が高かった時代の飛行機操縦を描きながら、この映画はこれみよがしな「サスペンス」アクションのシーンが少ない。飛行機が飛び、スワンクが機外に振り落とされそうになるとか、胴体着陸などのシーンはあるが、気流の変動との闘いを手に汗握るシーンで見せるといったことはしない。しかし、映像は決して安っぽくはない。アンティックものの高価な飛行機を手間をかけて修理し、実際に飛ばして撮影している。そのつつましくも優雅な映像は楽しめる。
しかし、全体としては、教科書的な「伝記」映画の傾向が強い。出版社主のジョージ・パットナム(リチャード・ギア)との出会いと結婚、アメリカの民間航空業界の草分けとなるジーン・ヴィダル(ユアン・マクレガー)とのはっきりしない関係、もうちょっと内側から描くべきだったフライト・ナヴィゲイターのフレッド・ヌーナン(クリストファー・エクルストン)との関係、のちにフェミニズムにも影響をあたえたアメリアのジェンダーへのこだわりが、平板にしかえがかれていない。
メールショウヴィニズム(男性至上主義)があたりまえだった時代に男性に伍して一人の女性がパイロットとして名をあげていくというのは、大変なことだったはずだが、この映画では、いまのアメリカの女性の社会的位置を「基礎常識」としてすべてを描いている趣がある。アメリアには泣くようなことが日々あったと思うが、映画ではそういう「苦労」はあまり描かれない。
アメリアが、女性パイロットの進出に尽力したことは描かれるが、彼女のサポートで女性としてパイオニア的なテストパイロットになるエリノア・スミスを出しながら、中途半端な描き方しかしていない。ミア・ワシコウスカは、短い出演ながら、非常に印象深い演技を見せるので、それはもったいない感じがする。
教科書的に歴史的な有名人が奔出するなかで、ジーン・ヴィダルの息子ゴア・ヴィダール(ウィリアム・カディ)が登場し、アメリアとのやりとりを見せる。彼は、父と彼女との関係を知っていて「よかったらぼくのお父さんと結婚してくれませんか」と丁寧語で頼む。当時、ジーン・ヴィダルは、離婚し、ゴアは淋しかったという設定である。ちなみに、このゴア・ヴィダルは、言うまでもなく、小説家のゴア・ヴィダルであり、日本でも(いまでは大分忘れられているが)60~70年代にはよく知られていた知識人の一人である。
ただし、事実は、こんな単純ではなかったらしい。インタヴュー記事によると、ゴア・ヴィダールは、結婚云々を尋ねたのは、アメリアに対してではなく、父親に対してだったという。そして、彼の「どうして彼女と結婚しなかったの?」という質問に対して、彼の父親ジーン・ヴィダールは、「ほかの少年とは結婚したくなかったんだ」(I have never really wanted to marry another boy)と答えたという。「彼女は少年のようだった」とゴア・ヴィダールは結んでいる。ちなみに、ゴアは、父のもとを去った母親に確執をいだいており、そうした彼の家庭環境と彼のバイセクシャル/ゲイ的ジェンダーは無縁ではない。そして、父親も、アメリアのなかに「少年」的なものを感じていたとすると、この映画は、全然アメリアの本当の姿をとらえてはいないたということになる。
ジーン・ヴィダールとアメリアがクラブで会うシーンで、アフリカン・アメリカンの女性シンガーがコール・ポーターの"You do something to me"を歌う。ボイスはなかなかいいのに、なんか口付きと身ぶりが気楽すぎる気がしたので、調べたら、声は、Angela McCluskeynにクレジットされていた。吹き替えだとしたら、こういうことはしないほうがいい。このジャズバラードは、むかしからいろいろな歌手が歌っているが、近年では、シニード・オコナーのがなかなかよかった。
アメリア・エアハートとフレッド・ヌーナンを乗せた飛行機は、1937年7月2日に、カリフォルニアとハワイの中間の北太平洋上のハウランド島付近に墜落したといわれているが、その後さまざまな伝説が生まれ、彼女は日本軍に捕らえられ、第2次大戦後、名前を変えて生き延びたという話もあるらしい。
(ショウゲート配給)
「裁判・傍聴ブームに火をつけた北尾トロの同名のベストセラー・エッセイ、待望の映画化」というので、早速かけつけた。エピソード的に挿入される法廷シーンも、手抜きがない。映画の法廷シーンや留置場・刑務所・面会室などのシーンには、いいかげんなものが多いが、この映画はまあまあ事実通りに撮っている。設楽統(したらおさむ)を主役にしたのは、グッド・チョイスだった。彼は、笑えるけれどどこか淋しくなさけない男を天才的に演じる才能を持っているからだ。
『裁判長! ここは懲役4年でどうすか』は、月刊誌『裏モノJAPAN』の連載をまとめたものだとのことだが、連載のきっかけは、同誌の編集長に「裁判の傍聴はどうだ」と北尾が薦められたからだという。映画は、この背景を、映画プロデューサー・須藤光子(鈴木砂羽)の依頼で脚本を書くためにライターの南波タモツ(設楽統)が裁判の傍聴取材をはじめるという設定に移し換えている。雑誌原稿から映画台本への転換であるが、映画なんか本当に作っているのだろうかと思わせる須藤光子のインチキくさい雰囲気は、設楽統のけっこう「真面目」(それが彼の自然体でもある)な雰囲気を損ねてしまっている面もあるが、この女は(電話のシーン以外は)最初と最後しか出てこないので、気にしないでいい。
しかし、北尾トロの原作にくらべると、映画は、かなり丸く収まっている。原作の新しさは、とんでもない被告、いいかげんな裁判官や弁護士を記述し、言葉では「許せねぇ」的なことを書いても、その根底は、覗き見趣味と野次馬根性で、北尾自身が言うように、「そんなことをする理由はひとつしかない。おもしろいからだ」であるからだ。むろん、そこには、もはや今日の裁判が「見世物」になってしまっている現状が活写されている。が、それを偉そうに批判できる起点などあるのだろうか? 「見世物」になっている!と批判することは、その見世物に加担することである。ならば、その見世物を見世物として見せてやることのほうが、見世物の次のステップに役立つだろう。北尾トロはそれをした。
設楽統が適役だと思うのは、彼は、ものごとを「正直」に思い込み、やがてそれが彼の思い込みであったり、だまされていたりするという人間を演じるのがうまいからである。この映画で南波は、最初、法廷には「愛と感動」のドラマがあると思い込んでいる。それは、傍聴マニアの西村(蛍雪次朗)のグループ「ウオッチメン」の面々と知り合うことによって加速する。野次馬的な意識で傍聴していた彼だったが、街頭でビラを配り、必死で息子の無実を訴える母親の姿を見るにつけ、彼は、ひょっとして、傍聴席からも被告を支援したりして、裁判に影響をあたえられるのではないかという考えに傾いていく。そしてついに、「ウオッチメン」とともに、「冤罪」説が浮上している殺人事件の犯人を無罪に持ち込むべく、知恵をしぼっることになる。
このへんのくだりは、むろん、原作にはない。このような設定は、むしろ原作の野次馬主義に反する。しかし、映画は、ちゃんとそのことをはずしてはいない。南波はウブだったのだ。「ウオッチメン」への南波の思い込みは裏切られる。彼らは、人を救おうなどという気はなく、まずは見物であり、その見物が面白くなるならば、結果的に人を救うのもいいかとぐらいにしか考えていない。このあたりの「非情さ」と「実利主義」と「ニヒルさ」とが入り混じった感じを蛍雪次朗がなかなかうまく出している。しかし、北尾の原作が持っている毒を蛍雪次朗演じる西村とその仲間にだけまかせてしまうのは、安直すぎるだろう。
北尾の原作『裁判長! ここは懲役4年でどうすか』は、法廷が「神聖な場」などではないということを暴いて見せた。傍聴は「国民」一般(いや、特にチェックがないことよくあるから、別に「国民」ではなく、ただの行きすがりの「外人」にも)に開かれており、いきなり法廷のドアを開けて覗き、「つまらなければ」すぐ出ることも自由である。実際、傍聴人や「プレス」の腕章をはめた連中がは出たり入ったりし、最悪の大学教室よりもはるかにひどい。もし、劇場や映画館でこんな状態だったら、上演や上映が成り立たないだろう。しかし、この「自由奔放」さは、法廷の「公正さ」の尺度になっているらしい。「プライバシー」や「パブリック」といった西欧近代の輸入観念の矛盾がここでは見事に露呈している。
問題は、裁判が「見世物」になっているにもかかわらず、それが中途半端な形だけの「神聖さ」を装っている点である。見世物なら、テレビ放映すればよい。いまのテレビ環境ならば、すべての裁判をライブで公開し、多チャンネル放送(Ustreamでもよい)でライブ放映することは可能である。しかし、そういう完全な公開がなされず、ニセの「神聖さ」が維持されているのは、それによって利潤や権力を得る仕組みがあるからだ。ある意味では、北尾の本も、裁判が、北尾のように足を棒にして日参するのでないかぎり、開かれているわけではないという不完全性のおかげでベストセラーになりえたのである。
(ゼアリズエンタープライズ配給)
ジュリア・ロバーツが出るのだから、「ロマンティック・コメディ」であることは覚悟していた。が、およそ説得力のないストーリー展開であきれてしまった。彼女が演じるリズは、典型的な(ステレオタイプとしての)ニューヨーカーで、欲望をむき出しにしながら、決して満足していない。むしろ、あらゆることに「罪責感」をいだいている。ひとを愛する場合も、どこかでさめている。美味しい食事も、それを食べると太るから辞める。ほとんど情緒不安定なまでにゆれている。そのへんの描き方は悪くない。しかし、8年もいっしょにいる夫スティーヴン(ビリー・クラダップ)が、学校に入って勉強しなおしたいというようなことをぽろっと言っただけなのに、すぐに離婚の決意をする。いろいろなストレスの加重のすえなのだろうが、もうちょっとちゃんと表現してくれなくては、リズが自分勝手すぎるように思えてしまう。実際、そういう女として理解してくれていいという表現なのかもしれないが、それでは、全体が、身勝手なニューヨーク女の勝手な遍歴物語になってしまう。しかし、全体として見れば、そう考えるしかないかもしれない。離婚しないでくれと言う夫を振り切り、離婚するのに、彼女は、自分の財産を投げ出してしまう。その間につきあう若い俳優のデイヴィッド(ジェームズ・フランコ)との別れ方も勝手すぎる。彼女は、ローマに行ってしまうからである。次のインドをへて、バリに行くのだが、そこで出会うブラジル人フェリペ(ハビエル・バルデム)との関係も、ロマンティク・コメディの終わり方としてはすわりが悪い。
はっきりしてほしいのは、リズの心の遍歴の物語にしたいのか、それとも、ひたすら揺れるニューヨークの中年ジャーナリスト女性の自嘲的な物語なのかである。エリザベス・ギルバートの体験を綴ったことになっている原作は、前者であり、「わたし」はひとつの発見と信念に到達する。その意味では、この映画は、原作の映画化としては、失敗作である。他方、後者の意味でこの映画を見た場合、ジュリア・ロバーツが主役をやっているので、その神経の揺れ具合が十分に出ない。もっと不安と自責の念が強く出せる俳優(たとえばアン・ハサウェイ)でなければならない。アハハと大口を開けて笑うジュリア・ロバーツではダメだ。わたしは、彼女の笑い方は好きではあるが。
この映画のイタリアのシーンで登場する料理はなかなかよく撮れている。食材やメニュー、食べるシーンも悪くない。リズが、ダイエットといういかにもアメリカ的(それがいまやグローバルに広がり、拒食症のようなパラノイアを生み出している)な罪責感を捨て、屈託なくうまいものを食べるくだりは、なかなかいい。(でも、ナポリで釜焼きのピッツアを食べるシーンで、ジュリアはなぜピッツァの食い方があんなに下手なのか?)いずれにしても、この映画で一番いいのは、イタリアのパートだろう。ここでは、リズは、男に手を出さず、もっぱら食べるだけなので、この映画を「観光案内」として見る場合にも、すんなり見ることができる。ステレオタイプながら、イタリア人から「何もしないことの悦び」を学ぶというのも悪くない(しかし、それなら、なぜイタリアにとどまらないのか?)インド篇もバリ篇も、「観光案内」的なシーンがたくさん登場するが、リズの人間関係が邪魔をする。
映画の冒頭で描かれるように、リズは、取材で行ったバリでクトゥーという薬療師の老人(ハディ・スビヤナト)に会い、彼女の未来を予言される。半分はいい加減な占い師流の予言なのだが、リズはそれを信じ、それが彼女の離婚や旅の要因になっているらしい。この老人の予言がなければ、離婚はしなかったかもしれないし、バリにもどることはなかっただろう。が、クトゥーとの出会いがそれほど強烈な影響をあたえたのなら、それが映像として表現されなければならない。イントロの映像だと、単なるエピソードという印象を受ける。もっとも、アメリカ人のパターンとして、ささいなことを真面目に取りすぎて、自分の運命を変えてしまうような例がないわけでもないから、この映画は、アメリカ人にはピンと来るのかもしれない。わたしも、アメリカ人の友人を浅草寺に案内し、おみくじを引かせたら、「凶」と出てしまい、その意味を説明したら、えらく深刻な顔をするので、困惑した。アメリカ人にはそういうところがある。
リズがインドに渡るのは、「異文化」にはまりやすい「アメリカ人」のパターンである。リズは、若い俳優のデイヴィッド(ジェイムズ・モナコ)が入信しているヒンズー教の礼拝所に連れて行かれ、そのあげく本山のインドに渡り、教団に入団し、修行とボランティア活動をする。どちらの礼拝所にも、教祖はおらず、その写真だけが祭壇に飾ってある。教祖は世界遊説に出ているという。ちなみに、ジュリア・ロバーツその人は、この映画の撮影でインドに来てからヒンズー教に入信したという。なお、ナタリー・ポートマンは、以前、ヒンズー教を馬鹿にするビデオに出たというのでヒンズー教徒から批判された。ポートマン自身はユダヤ教徒らしい。マイク・マイヤーズの『愛の伝道師 ラブ・グル』(The Love Guru/2008/Marco Schnabel) もヒンズー教徒の怒りを買った。
この映画はジュリア・ロバーツの休暇と趣味に便乗した映画ではないかというジョークがあるが、映画そのものはほジョークに乏しい。1点面白いのは、リチャード・ジェンキンスが演じる「テキサスのリチャード」のくだりである。教団の先輩格の彼は、最初、教訓めいたことをリズにしつこく言う。もてあましながらリズが言う台詞が面白い。「あんた、ジェイムズ・テイラーそっくりだって言われない?」→「毎日だよ」。そういえば、よく似ている。この男が涙ながらに語る身の上話――酒とドラッグにおぼれ、仕事も誇りも家族も失った云々――どこかジェイムズ・テイラー本人とダブルところがある。しかし、なんでここだけこういうジョークを入れたのかがよくわからない。
この映画の演出のまずさは、ジェームズ・フランコ、リチャード・ジェンキンス、ハビエル・バルデムといった大物を使いながら、出方や消え方があまりに杜撰なことである。リズは、旅先から別れた男たちを思い出し、メールを出したりもするのだが、それは出したというだけにすぎない。そのリスポンスは全然いかされていない。なかでも、ハビエル・バルデムは気の毒だ。息子を熱愛する型にはまった「ブラジル人」をスペイン人のバルデムにやらせるのもいいかげんである。ブラジル人ならポルトガル語をしゃべるはずで、それならばポルトガルの俳優にやらせるべきだ。彼らはみな、しっかりとした演技を提供しているが、全然いかされていない。リズのニューヨーク時代の親友デリアを演じるヴィオラ・デイヴィスは、『ナイト&デイ』でCIAのディレクターを好演していたが、この映画でも、ジュリアを食いそうないい演技をしていた。「子供を生むには、顔にタトゥーを入れるのと同じくらいの覚悟がいるのよ」とリズに言うシーンなど印象に残る。
(ソニー・ピクチャーズエンタテインメント配給)
韓国映画で「南北問題」がとりあげられるときには、それがどんなに「エンタテインメント」路線のものでも、そこから若干なりとも南北の政治が見えるような作りになるのが、これまでの「常識」だった。しかし、この映画は、そうではない。ここでは、「南北問題」が完全にサスペンスの素材だけになっている。それは、いまの韓国では「普通」のことなのか、それともチャン・フン監督の「新しさ」なのか? あるいは、時代を(映画のなかでテレビ映像が出るように)キム・テジュンが北を訪問し、キム・ジョンイルと握手をした時代に設定することによって、その時代の政治性がいわば「脱臼」してしまっていたということをからめ手から示唆しようとしているのだろうか?
この映画では、拉致や暗殺を仕掛ける「北のスパイ」は、北の指令によって動いているエイジェントであるよりも、「将軍様のため」ということをパラノイアックに信じこんでいる孤立した人間で、むしろ、組織よりもそういうパラノイアに毒された個人のほうが怖いと言いたげである。それは、権力の構図のある面を突いてはいる。そういうあたかも自発的にテロを行なう個人を生み出すのも、組織の仕事であるからだ。チョン・グクァンが演じる「影」は、北の暗殺のプロであり、グクァンが見せる映画的演技とアクションは見事である。しかし、映画は、彼がどのようにしてそういう人間になったのかは全く描かず、それは彼の個人的傾向の結果だあるかのように描くので、せっかくの彼の存在感のある演技がつまらないものになってしまう。
国家情報局のイ・ハンギも北から南に潜り込んで諜報と暗殺に関わるソン・ジウォンも、いずれも、最終的に組織を出る。しかし、それは月並みにしか描かれない。イ・ハンギは、探偵のような仕事に転業する。その仕事のあいだでどたばた的に事件が起こるのだが、国家情報局と完全に切れたわけではない。ソン・ジウォンと出会うなかで考え方が変わっていくイ・ハンギは、北に家族を残しているために身動きがとれないが、最終的に家族を脱国させて、ベトナムに住むための飛行機に乗っているところで映画は終わる。このエンディングは、ちょっとがっくりする。
見るべきところがあるとすれば、韓国がかかえるベトナムという係数に触れているところか。『息もできない』には、ベトナム戦争に参戦して帰国した父親がアル中になり、家庭内暴力をふるう話が出てきた。韓国におけるベトナムの後遺症は奥が深い。ベトナム戦争に参戦した兵士と現地女性とのあいだに生まれた子供を「ライタイハン」というそうだが、この映画にもその成長した「ライタイハン」とおぼしき男女の姿が見える。また、日本にフィリピンから妻を迎えるビジネスがあるように、韓国ではベトナム妻との国際結婚がさかんらしい。イ・ハンギョ(ソン・ガンホ)がまぎれ込む怪しげな場所にベトナム人がたくさんいるのは、こうした事情と関係がある。
しかし、それならば、なぜこの映画はもっとアクチュアルな方向をつきつめなかったのか? ソン・ガンホは、ここではまるでお笑い芸人であり、ニヒルで硬質な演技を見せるカン・ドウォンも、せっかくの演技がもったいない。
(エスピーオー配給)
ビッグ・ネームの顔や形態をへたに真似した「伝記」だとつまらないと思ったが、「ジョン・レノン」の話だと考えなくても面白く見れる。おそらく、本当のジョンにはもっと「天才」の屈折や嫌味も強烈にあったのだろうが、この映画が描く「ジョン」は、どこにでもいそうな青年である。猛烈面白いが保育能力にムラがある実母、その姉で「賢母」の役割を果たす育ての親、ぼんやりとした記憶を残して消えた実父への思慕、バンドの結成、ポール・マッカートニーとの出会い・・・みな事実にもとづいているが、それとは無関係に惹き込んでいくドラマの魅力。
一応は形態模写をやり、1950年代の時代考証をしているにもかかわらず、「そうだったのか!」的なアプローチをしないのが、この映画の魅力だ。本当は、そういう路線を狙い、結果的にそうならなかったというにすぎないのかもしれないが、独立した「いま」の映画としてリアリティがある。それも、それだけジョン・レノンが時代の先を行っていたのだといった素振りをこれっぽっちも見せない。
家庭環境がどんどん複雑になる現代からすれば、複雑な家庭環境に育った人物はそれだけ今日的なリアリティがある。30年まえにくらべれば、血のつながりのある父母そろった家庭、離婚暦のない親、ドメスティック・バイオレンスの経験やトラウマのない子供といったものはマイノリティである。原題は、<「どこにもいない」少年>であるが、いまの時代、「ホーム」がない(ホームレス)があたりまえであり、「どこにも」所属できないのがあたりまえなのだ。その意味で、ジョンを演じるアーロン・ジョンソンは、そういうキャラクターを、「宇宙人」的とも、「オタク」的とも、また「ヒキコモリ」的ともちがう――が、他人や世間にたいしてある種の「距離」をつねにとらざるをえない――キャラクターとして演じている。ジョンは、別にアーロン・ジョンソンでなくてもよいように見えるが、まさにその「匿名」性を出すことが狙いだったはずで、その意味ではアーロン・ジョンソンはいい仕事をしているのである。
この映画でジョンはどちらかといえば幸せな環境で育つ。「母」と呼ぶべきひとが別にいることは意識していただろうが、青年ジョン(アーロン・ジョンソン)は、叔母のミミ・スミス(クリスティン・スコット・トーマス)とその夫の「ジョージ叔父さん」(デイヴィッド・スレルフォール)の夫婦に愛されている。ジョージ叔父さんは、ジョンにハーモニカをくれ、1階のラジオ(当時最高のメディア)の音を2階のスピーカーに延長し、ジョンの部屋でも聴けるようにしてくれる。ウィスキーを飲ませてくれたのもジョージ叔父さんだった。が、彼はいきなり亡くなる。映画が始まったまだ5、6分しかたっていないのだが、そのシーンの密度が高い。彼が亡くなったとき見せるクリスティン・スコット・トーマスの演技がすばらしい。夫の突然の死を気丈に耐えるその姿が涙を誘う。そしてそのシーンは、埋葬のシーンに移り、式を遠くから眺めているメガネの女性(アンヌ=マリー・ダフ)を映す。ジョンは、メガネがカッコ悪いと言ってふだんはかけないのを、叔母から危ぶないとしかられるシーンがあり、彼がド近眼であることがすでに暗示されているから、このメガネの女性がジョンの実母であることはぴんとくる。彼女は、親戚にも遠慮しなければならない事情があるわけだ。
ミミは、息子のジョンを捨てた「身持ちの悪い」妹のジュリア・レノン(アンヌ=マリー・ダフ)を許さない。ジョンは実母に会いたいのだが、ミミはそれを禁じる。そこには、育ての親の愛と独占欲、他方では、自分が実母の権利を無視していることとの葛藤がある。だから、結局は会うことを許す。その屈折をクリスティン・スコット・トーマスが見事に演じる。
ジョンは、この映画では、複数の愛のなかで育ったということになる。最後のシーンも泣かせる。バンドで成功し、ハンブルグに行くことになったジョンが、パスポートを取るために出生証明書が必要になる。ミミを訪ね、書類にサインをしてもらうとき、彼女は「どっちにサインするの?」と問う。書類には、「親」の欄と「保護者」の欄とがある。ジョンは答える、「両方にね」。実母のほうに傾斜して、ミミに距離を置きがちな描写が続いたあとなので、このシーンが効果を発揮する。場内にはすすり泣きが。ただし、この映画はお涙頂戴のメロドラマではない。父親に会いたいとミミに迫る切実さはあるが、そういう面に依存して映画を作っているわけではない。
ジョンの実母を演じるアンヌ=マリー・ダフもうまい。ジョンを愛していないわけではないが、母親にはなれない女。天才的なノリの感覚があり、惚れっぽく、飽きやすい。ジョンが彼女の家を訪ねたときのノリがその感じを生き生きと描く。ジョンを外に誘い出し、踊るように楽しげに歩く彼女の態度は、息子と一緒というより、恋人と一緒の感じ。このシーンでバックにディッキー・ヴァレンチーノ(Dickie Valentine)の 「Mister Sandman」やジャッキー・ブレンストン、エルヴィス・プレスリーのヴォーカルなどさりげなく流れるが、絶妙のアレンジである。ロックンロールをジョンに教えるのも彼女である。母と息子の関係のなかにある近親相姦的な関係を最もセックスレスの美しい関係で描けば、こういう感じになるのかもしれない。
ジョンがバンドを結成するシーンが、やけに力んでいないのもいい。この種の映画では、しばしば、バンド結成のもっともらしい理由が描かれたりするが、この映画はごく自然にバンドが結成される。厳格なミミは最初許さないが、それが長く続くわけではない。このへんは、もうちょっとトラぶってもよかった。この映画は、よくも悪くも描き方が素直なのだ。
遅れてバンドに参加するポール・マッカートニーを演じるトーマス・ブローディ・サングスターが抜群にいい。別に「本物」を真似ているわけではない。若いくせにいつも冷静なそのクールさが、実体感を出しているのだ。彼は、『ブライト・スター』でも、ファニー・ブローンの弟役を演じ、きらりと輝く演技を見せていた。
ジョンが、バスの屋根に乗るシーンがある。いまの時代にはこれを「レノンらしい突拍子もないこと」と見る人が多いかもしれないが、こういうことは普通だった。いまこんなことをしたら、バスは停まるし、会社の人が出てきたりして大騒ぎになるだろう。しかし、日本でもこういうことはありえたのだ。わたしは渋谷の育ちだが、小学生のとき、渋谷駅から南平台のほうへ登っていくバス(そういう路線があった)の後ろにつかまって坂の上まで行った。運転手は何も言わなかったし、通行人もあわてなかった。バスのタイヤの下にカンシャク玉を入れて、パンクを「偽装」して驚かせたときは、さすが運転手に殴られそうになった。昔は、(おそらくは911以前までは)子供は腕白だったし、かなりのテンションの冗談がゆるされた。
そういう腕白を描く点では、この映画は少し「上品」すぎるかもしれない。不良っぽさが足りないのだ。ジョンはあまりに「善良」で「素直」すぎる。それは、あえてそうしているわけではないらしいことは、彼が「不良」っぽい同級生(?)からナイフで脅されるシーンでわかる。「現実」との対比はなしでこの映画を見ることを提唱しながら、こう言うのはナンだが、50年代の若者はもっと「ワル」だった。
ジョンが聴いて育ったであろう音楽がふんだんに聴けるが、ジュリアの家で彼女がジョンにScreamin' Jay Hawkinsの "I Put a Spell on You のレコードを聴かせるシーンがある。まあありきたりといえないこともないが、こういうシーンでホウキンスのこのヴォーカル・パフォーマンスは実によく生きる。
最初から、ジョンのフラッシュバックとして暗示される父親の謎――なぜ彼を「捨てた」のか――が明らかになるが、それが映画のクライマックスではない。が、この部分でジョンの父親が「無類の自由主義者」であったことがわかる。5歳の子に「パパとママとどちらと暮らすか?」と尋ねたというのだから。
リバプールという場所を意識した表現がいろいろあるのだろうが、「外人」のわたしにはわからない。たとえば、街の庶民的な喫茶店でジュリアが待っていて、そこにミミが入ってくる。二人の関係は少し険悪になっていた。ミミは、店の人に、「アールグレイ(紅茶)はある?」と聞くと、店のおばさん(?)は、すかさず「ここをバッキンガム宮殿とまちがえてるんじゃないの」と突っ込む。一瞬、喧嘩を売るのかと思ったが、リバプールという場所を意識した冗談のようだった。でも、ジュリアもミミもことき笑わなかったから、本当にただの冗談だったのかどうかはよくわかない。
冒頭のシーンがわたしには不可解だった。「A Hard Day's Night」のコードが鳴り、(あとでジョンとわかる)アーロン・ジョンソンがリバプールのセント・ジョージズ・ホールの階段を走りまわり、(その一部が陥没したかのように)どすんと落ち、次の瞬間、家のベッドで目が覚めるシーンだ。なぜこういうオープニングなのか、誰かわかったら教えてください。
【追記/2010-11-10】上記の問いに対し、「mizutami」という方から、面白いアドヴァイスをいただいた―<『ア・ハード・デイズ・ナイト』のファーストカットでジョージ・ハリスンが転ぶ場面の再現ではないでしょうか。まあ今更自分が言うほどのことではないと思うのですけれど、単純に、ビートルズがファンから逃げ回っていたように(あの映画でビートルズを追いかけてたファンの中には少年時代のフィル・コリンズもいたみたいですね)、若き日のジョン・レノンが不安や孤独から逃げ回っているようなイメージじゃないかと思ったのですが。あと、セント・ジョージズ・ホールはジョン・レノンの追悼式が行われているので、ちょっとうがった見方をすればその死を悼んだ場所からジョン・レノンの回想が蘇ってくるようなイメージかなあと思ってみたりしました。>
もう一点、「mizutami」さんは、<余談ですが、ジョンとピート・ショットンが万引きしたジャズのレコードを海に捨てていると地元の音楽通に叱られる場面がとても面白かったです。短い台詞のやり取りの中で、当時のリヴァプールにおける音楽の受け止め方とか、ずいぶん色々な情報が飛び交っていたように感じました。>と書いている。このシーンは、わたしも面白く見た。ジョンが、ジュリアの家で Screamin' Jay Hawkinsの "I Put a Spell on You" を聴いたあとのシーンだ。彼は、「盗むのをマズった」と言いながら、EPレコードをどんどん捨てる。それをとがめる男とのやりとりが面白い。この時点でジョンはジャズを評価していないが、ビリー・ホリデーの名も知らない。その名を言われて、「どこの彼?」と口走る。が、「俺がもらっておく」と言われると、捨てた残りのEPのなかに、母親の家で聴いたScreamin' Jay Hawkinsのがあるのに気づき、奪い返す。ここで、ふと思ったが、ビートルズが世界に波及しはじめた1960年代の前半期に、わたしがビートルズにノレなかった背景には、ジョン・レノン/ビートルズの根底になる「ジャズ無視」があったのではないかということだ。わたしは、台頭するニュージャズにどんどんのめり込んだが、ビートルズには魅了されなかった。ビートルズに関心をもったのは、ジョンが小野洋子(ヨーオ・オノ)と親しくなってからである。小野のやっていることには、フルクサスの関係で、50年代から関心を持っていた。フルクサスの「魔女」ヨーコ・オノとの出会いは、ジョン・レノンの政治/アート感覚をより鋭いものにしたとわたしは思う。
(ギャガ配給)
かなりいい線で進むが、最後がつまらなかった。両親の反対を押し切ってカナダのトロントに移民した娘オドレイ(マリナ・ハンズ)が故郷アルカションに帰って来る。父(ミッシェル・デュショーソワ)は優しいが、医者の母(カトリーヌ・ドヌーヴ)はどこか素っ気ない。オドレイが一時帰国した理由の一つは妊娠があるらしいが、結婚や女性の自立といったテーマをにおわせながら、彼女の祖母への関心が中心になっていく。母を避け、一家がかつて住んでいた海辺の家に寝泊りするようになったオドレイは、ある日台所のタイルの隙間に隠されていた祖母の日記を発見する。映画は、それをオドレイが読むなかで、まだ若き祖母(マリ=ジョゼ・クローズ)の姿が画面にあらわれ、ときには架空の対話をかわすというスタイルで進行する。このへんは、非常に面白い。「つまらない」というのは、それが終盤で急に推理ドラマに変容してしまうところである。
50年代のフランスの女性の位置を批判的に描いているのはいいが、最後に明かされる事件は必要なかったのではないか? 別にそういう締めかたをしなくても、家族の日常の瑣末な部分の描写、親子の微妙なすれちがいが十分に描かれているのだから、明確な結論なしに終わってもよかった。これでは、妊娠しているオドレイがお腹の子をどうするのかという問題も中途半端ですっ飛んでしまう。それを放置するのなら、出血したり、相手の男がわざわざトロントから来て、子供のことを話すような、気を持たせるシーンはいらなかった。
祖母が夫を捨てて出て行ったというだけでよかったのだ。謎の失踪をしたというのでもいい。彼女は、家庭という閉鎖的な場所、夫に従う毎日の生活が耐えられなかった。だから、家を出ようとする。【以下は、画面をドラッグすれば読めるが、「ネタバレ」に文句を言う人は下線の部分を読まないこと】それを夫は止めようとして、殺してしまうというのはつまらない。これでは、まるでスリラーだ。
祖母がひそかにつけていた日記やレセピーが見つかるというのは、映画や小説ではけっこうありがちな設定であるが、それはそれで悪くない。それを孫のオドレイが読み、祖母のことを想像し、彼女が書き残したレセピーで料理を作ってみるというのもいい。彼女の想像が、シームレスに画面のなかで重なり、マリ=ジョゼ・クローズが優雅に演じるルウィーズとオドレイが話を交わしたりするのもいい。
女性監督のジュリー・ロペス=クルヴァルは、かつて女性の「拠点」だった台所という空間を軸に物語を展開させる。かつて3世代がいっしょに暮らしていた家の台所。ずっと空家になっていたところにオドレイが住む。そこに定住するわけでもないのに彼女は台所の改造に熱意を燃やし、自前で皿洗い機を取り付けようとする。発見した祖母の日記に書かれたレセピーで料理を再現して両親や兄(ジャン=フィリップ・エコフェ)に食べさせる。母だけが喜ばない。彼女の実母(オドレイの祖母)のことに触れてほしくはないかのように。映画のなかで、古い男性至上主義の時代にルイーズが娘マルティーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)に過剰なほどの夢を託していたことが描かれる。実際、マルティーヌは、母の夢を実現し、医師になった。
この映画は、50年代に自立を果たせなかった女性の娘が自立し、さらにその娘が両親への依存をはねのけて移住してしまうが、それが子供の母になりそうな事態に陥ったとき、単なる「自立」というコンセプトではうまくいかないことを描く。これは、大きなテーマであり、描きがいのあるテーマだ。しかし、それが最後までは追及されない。
浜辺でオドレイが、近所でブティックを開いている女性サミラ (Meryem Serbah)と英語で話すシーンがある。子供を持つということについてだが、そこで、オドレイは、トロントをたつときに読んだという俳句を口ずさむ。台詞では、"Night is too short And what if I abandoned it..."となっていたが、その元は、明らかに竹下しづの女(たけしたしずのじょ)の俳句である。
短夜や乳ぜり泣く児を可捨焉乎(みじかよや ちちぜりなくこをすてちまおか)
ものの本によると、竹下しづの女はこの句を「ホトトギス」の大正九年八月号に発表したという。なお、この俳句は、他の作者の句とともに英訳されているらしく、ネットにも載っている。
(アルシネテラン配給)
トラブル・イン・ハリウッド (誰でもが思いえがいている「ハリウッド」の映画製作現場やカンヌ映画祭を笑って楽しむにはいいが、それ以上は望めない)。【前出】。
ミックマック【前出】。
彼女が消えた浜辺 (「ミステリー」のような宣伝がされているが、とんでもない。凄い「イラン」現代文化論的アプローチであり、「タテマエ/ホンネ」や「遠慮/シャイ」の文化が根底にある日本にも通じる困難を鋭く突いている)。
ミレニアム2 火と戯れる女【前出】。
終着駅 トルストイ最後の旅【前出】。
ベンダ・ビリリ! もう一つのキンシャサの奇跡 (路上生活者のバンドが海外ツアーをするまでがドキュメントされているが、全篇にだたようアブナサがコンゴのストリート・シーンに意識を向けさせる)。
食べて、祈って、恋をして【前出】。
ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士【前出】。
十三人の刺客【前出】。
リドリー・スコットの映画には、一貫して、エンターテインメントな外観の奥に文明論的・社会批判的な観点が随伴している。『エイリアン』(1979)や『ブレードランナー』(1982)はむろんのこと、『グラディエーター』においても、また、『キングダム・オブ・ヘブン』においても、「歴史」上の戦争を描きながら、暗黙に、湾岸戦争以来あらわになり、2001年の911以後ジョージ・W・ブッシュ政権によって暴露したアメリカが主導する国家とその戦争を異化してきた。この映画は、通称「ロビン・フッド」こと「ロビン・ロングストライド」を主人公にしてはいるが、有名な「ロビンフッド物語」とはほとんど関係なく、十字軍への参戦で国の経済を破綻させた12世紀のリチャード一世は、ブッシュやブレアとアナロジカルな関係にあり、王室よりも民衆の位置に身を置くロビン・フッドは、英米の「体制内反逆者」である。
複数の実在する人物や出来事が伝説化して出来上がった「ロビン・フッド」という、それ自体としてはフィクショナルな人物の強みを生かし、一方では歴史的事実を追いながら、他方ではエンターテインメント的なスリルを味わわせる手並みは見事である。ノッティンガムの領主の父ロックスリー卿(マックス・フォン・シドー)の剣を無断で持ち出し、妻マリアン(ケイト・ブランシェット)を捨て、十字軍に従軍するロバート・ロクスリー(ダグラス・ホッジ)の剣に刻まれた文字の謎。それが、「マグナ・カルタ」につながっていく物語的スリル。リチャード王の後継をめぐるフランスの思惑もからんだミステリー的ドラマ。リチャード一世の弟が派遣した刺客(もっと話は込み入っているが)にロバート・ロクスリーが殺され、いまわの頼みを受けたロビン・フッドが彼の剣を父親に返しに行き、彼の妻マリアンと父親に会い、そこに滞在するなかで起こる出来事の面白さ。決して飽きることはない。
たびたびドラマや映画に登場するリチャード一世だが、ここでは、「獅子心王」の面影はない。彼に従ったロビン・フッドが、十字軍遠征の偽らざる感想を王から問われたとき、彼は、数千人のイスラム人捕虜を殺した(これは史実である)ことへの自責の念を語る。王は不機嫌な顔でそれを聞くが、否定はしない。このくだり、明らかに英米軍がイラクで行なった拷問や不当逮捕、無差別空爆での民間の死傷者のことが暗黙に意識されている。
ロビン・フッドの物語というより、ロビン・フッドの原型をリドリー・スコット流に解釈した物語である。通常、ロビン・フッドは「義賊」であり、「貧乏人に与えるために金持ちから奪い、自衛か正当な復讐のほかには決して人を殺さなかった」というのが定説になっている。しかし、E・J・ホブズボーム『素朴な反逆者たち』(水田洋・他訳、社会思想社)によると、奪うためには常に「金持ち」が存在し続けなければならないわけで、ロビン・フッドが階級破壊者つまりは「革命家」であることはありえない。そうなるためには、彼は、「盗賊であることをやめなければならなかった」。ロビン・フッドは、義賊であることをやめはしなかったのだが、この映画では面白い重心移動がある。ここでは、奪うのは十字軍に従軍して崩壊した家庭からはじき出されたホームレス・チャイルドであり、彼らは、森にこもり、ときおり金持ちの家を襲う。マックス・フォン・シドとケイト・ブランシェットの館も、そのような襲撃を受け、ブランシェットが「男まさり」な姿を披露する。戦争とホームレスチャイルドへのリドリーの目がここにも生きているが、それだけでなく、奪うという行為をロビン・フッドからホームレス・チャイルドに移したことが、一つの新解釈である。
その意味でこの映画のロビン・フッドは決して「義賊」ではない。ホブズボームによると、ロビン・フッドが提供した「義賊」モデルは、その後何世紀にもわたってさまざまなヴァリエイションを生むが、そもそも「義賊」は、階級差や因習が残る農村部でしか有効ではなかったという。「義賊の原型であるロビン・フッドを世界に提供したイングランドが、16世紀以来この種の注目すべき実例を生まなかった」のは、イングランドが産業革命による脱農村化・都市化へ突き進んだからである。
この映画のエピローグで描かれるのは、ホームレスチャイルドとロビン・フッドの一党がともに森で暮らす「階級なき」共同体であるが、ここには、リドリー・スコットの60年代のヒッピーカルチャーへの思い入れが感じられなくもない。しかし、そうした思い入れにもかかわらず、イラク戦争で暴露した状況は、そのような「農村的」共同体によっては決して乗り越えられないだろう。
エピローグの森の共同体――そのなかで「ロビン・フッド」伝説が作られたという――は、映画では「マグナ・カルタ」を先取りした具体例であるかのように描かれる。しかし、「マグナ・カルタ」は、極めて「都市的」な概念であって、森の共同体とは異質なものである。このへんが、この映画のバイアスであり、限界であると言える。
この映画では、ロビン・フッドの父親が「マグナ・カルタ」の初期の起草――それは、ジョン王(オスカー・アイザック)の二枚舌的裏切りによって破棄される――に関わり、処刑されたということになっている。孤児となり、そのことを知らなかったロビン・フッドは、その秘密をロックスリー卿から教えられる。しかし、「マグナ・カルタ」とは、王室と、(民間人を含む)諸権力との「平和的共存」の取り決めであるから、これを破棄したジョン王は単に「遅れて」いたにすぎない。それが、長い目で見た場合に決して王室にとっての損失にはならないからであり、歴史的にはそうなったのである。
(東宝東和配給)
桜庭ななみが泣かせる演技を見せる。桜庭が演じる、大石内蔵助の隠し子「可音」(かね)は、大石の命を受けた瀬尾孫左衛門(役所広司)によって赤子のときから育てられ、武家の作法も受けた「おひいさま」(御姫様)。沢尻エリカのように、「~さま」と呼ばれるタレントはいるが、「さま」と呼んでいるのは馬鹿なマスコミだけで、その立ち振る舞いは全然「さま」らしくもないし、まして「おひいさま」からはほど遠い。「おひいさま」には、わがままさだけでなく、ある種の「のんびりさ」や「のほほんさ」がなければならない。桜庭ななみは、その点で非常にコンヴィンシングな演技を見せる。
主君の命をひたすら守る50代の男と主君の隠し子とのあいだには、いやおうなく父子愛のようなものが生まれるが、とりわけ可音にとっては、次第に特別な愛に変わって行く。このへん、映画はなかなかうまい表現をする。父と成長する娘との関係の微妙さは、映画にとって格好のテーマだが、孫左衛門と可音との場合、血のつながりがない分、その愛情関係がより微妙になる。「父親」の代理から愛する男への転換は紙一重である。
ラブシーンとしてなかなかうまいと思ったのは、嫁ぐ日の可音が、孫左衛門にいきなり「抱いてほしい」と言う。孫左衛門も「?!」という顔をするが、観客であるわれわれも、え?!これは意外な展開へ向かうのかと一瞬思う。が、すぐに可音は、「孫左、幼いときのように抱いてほしい」と敷衍する。彼が幼い彼女を背中に抱いて育てたことを思い出して言っているのだが、むろん、それだけではない。しかし、孫左衛門は、家来らしい律儀さで、深く遠慮しながら、「こうでございますか?」と彼女をそっと抱く。すると可音は、「もっときつう(抱いてほしい)」と言うのである。ここには、「純愛」主義者も「ロリコン」主義者もともに感動させるであろう非常に微妙なエロティシズムが表現されている。
製作総指揮をワーナー・ブラザーズ・ジャパン社長のウィリアム・アイアトン(William Bill Ireton)みずから取るだけに、インターナショナルな関心を呼びそうな仕上がりになっている。基調低音に人形浄瑠璃「曽根崎心中」のシーンを使ったり(少し出しすぎではあるが)、滝、竹林、雪、雨といった「日本的」なオブジェを奥行きのある映像で見せ、また、谷崎潤一郎の「陰影礼賛」を遵守したかのような陰影あるライティングで蝋燭や行灯の火を想像させるなど、海外の「日本通」をうならせるように作っている。切腹シーンのおまけは、われわれには余分だが、海外では受けるだろう。衣装はデザインは黒澤和子。殺陣は、(いまはテレビの仕事が多いが)黒澤明映画の人だった宇仁貫三。
池宮彰一郎の原作(『四十七人目の浪士』→のち『最後の忠臣蔵』に改題)があるとはいえ、最近公開された映画『十三人の刺客』と比べると、はるかに台詞の出来がいいから、田中陽造の脚本がいいのだろう。が、対話シーンに比して、場所の移動の時間性の表現が弱い。基本的にメロドラマであり、サスペンスであるからそれでもいいのだが、孫左衛門が、京都で病に伏す、内蔵助の女、可留のもとから赤子の可音を引き取って冬の雪山を越え、元島原の芸者だったゆう(安田成美)のもとにたどり着く時間性、定住した京都の隠れ家から孫左衛門が可音をともなって大阪の竹本座(撮影では、香川県に残る最古の芝居小屋を使っている)に行き、帰ってくる時間性、商人に身をやつしている孫左衛門が、大阪道頓堀あたりの呉服商の茶屋四郎次郎(笈田ヨシ)に会いに行く場所の移動の時間性などなどが、ほとんど瞬間の移動のように描かれている。
最近出づっぱりの役所広司だが、今回の演技は、最近の出演作のなかでは一番よいのではないか。ただし、あいかわらず、時代劇のトーンに「現代語表現」がまじってしまうしまりのなさがときどき露見する。それは、単に言語感覚の問題ではなく、俳優としてのしまりのなさではないかと思う。それは、適所適材で、使い方によってはものすごく面白いのだが、時代劇には向かない。たとえば、「可音さまはあなたに恋をしておられます」というようなことを言われたときに役所は、「まさかぁ」といった顔をしてテレ笑いをするのだが、その笑顔はまるで現代劇のそれなのだ。「武士」であるのなら、そんなに素直で晴れやかなテレ笑いをしてはならない。
「海外での仕事が多い」というが、あまり映画では姿を見ない笈田ヨシが、大阪の豪商役で出ている。彼は、かつて「笈田勝弘」の名で有名な俳優だった。テレビにもよく出ていて、カッコいい演技を見せていたが、もともと文学座出身の彼は、演劇への執着が強く、わたしなどの印象では、忽然と海外に姿を消し、それからしばらくしてピーター・ブルックのロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの劇団員として海外からその名が伝わってきた。偉大な俳優だと思うが、今回の役では、台詞と身ぶりの大半ではしたたかな大阪商人のそれを表現しながらも、目のしぐさが「西洋風」なのが面白かった。
冒頭、これも大石内蔵助の気配り的命令で、討ち入りには参加したが、泉岳寺へは向かわず、身を隠した寺坂吉衛門(佐藤浩市)が、今後考えられる浪士の家族や浅野家の家臣たちの苦難のアフタケアのために全国を旅し、16年目の最後のケアのために海辺に住む茅野きわ――四十七士・茅野和助常成の妻(風吹ジュン)を訪ねるシーンがある。風吹が、「よう生き延びられましたなあ」と言うと、佐藤は、「生きろと命じられましたゆえ」と応える。そう、この映画は、武士とは命令と服従のマシーンであることが描かれる。瀬尾孫左衛門は、大石の命令でその一生を隠し子・可音の保護と育成に尽くす。そのことを頼むとき内蔵助は、「そちの命をわしにくれ」と言う。すると、孫左衛門は、すんなりとそれを受け入れるのである。これって、凄いことではないか。「命をくれ」と言われて「ハイ、渡します」というのだから。が、こういう風習は、1940年代ぐらいまでは見える形で存在した。「武士は食わねど高楊枝」とか、無理を自分に強いる文化は実在した。それは、のちに「封建的」と非難され、社会の表面から姿を消すが、いまでも日本社会の暗部では生き残っている。文化というものは、閉回路のなかでのみ作動するから、それは、この映画のように、表現として提示されると、美しさに転化する。この映画は、その矛盾を、ゆう(安田成美)の言葉で、「武士の心のなかにおなごは住めぬ」と言わせている。この言葉の含蓄は深い。
(ワーナー・ブラザース映画配給)
原題は、文字通りには「ブルックリンの最高のもの」だが、俗語で「ブルックリンの警官」という意味。つまり全然「最高」などではないということである。映画に登場する警官たちは、どいつも、教科書にある(かもしれない)警官の風上にも置けぬとんでもない奴ら。子沢山と病気の女房をかかえて強盗・殺人までやる警官サル(イーサン・ホーク)。定年まであと7日の日々をあたりさわりなく過ごそうとする自殺願望の老警官エディー(リチャード・ギア)。囮捜査で暴力団にもぐっているがだんだん板ばさみになる警官タンゴ(ドン・チードル)。プレスには「交錯するそれぞれの正義」などという文字が踊るが、はっきり言って、この映画は「正義」とはこれっぽちも関係ない。あえて「正義」を問題にするのなら、この映画は、正義は偶然と気まぐれのなかでしか生まれないということを教えてくれる。
そんなことより、この映画の面白さは、そのあいまいかつしたたかなオートポイエシス的構造と仕掛けである。簡単に言えば、入り口の選び方次第で全体の意味が変わってしまう自己参照的な映画といったところか。え?かえってわからないって。まあ、そりゃ、「正義」とか「良心」とかいう言葉で説明したほうがわかりやすいかもしれない。しかし、それではこの映画の面白さを説明したことにならない。別にこんな説明などなくても、見てみればその面白さがわかるのだが、それを文章という方法で説明しようとうするからこういう物言いになる。レヴューというものは、本来、余計物である。
冒頭、イーサン・ホークが、こいつが警官かよというような行動に出たあと、夜道を逃走する。街灯に照らされた彼の影が道端のフェンスに映るが、その影があたかも彼を追跡するように見えるのもうまい。つまり彼は「自分」に追われているのだ。彼の姿が小さくなった瞬間、画面が替わってリチャード・ギアが悪夢から突然目覚めたかのようなショックの身ぶりでベッドから起き上がる。この飛躍は何だろうという疑問が最初に浮かぶ。最初のシーンは、ギアの夢のなかの出来事なのか? しかし、以後、「夢」→「現実」→その反復といった月並みな映像パターンは決してあらわれない。とはいえ、最後の最後のシーンは、リチャード・ギアの顔のクローズアップで終わる。つまり、この映画は、マーティン・スコセッシの『タクシードライバー』のシーンの多くが、見方によっては、主人公トラヴィス・ビックルの「夢想」と「幻想」を描写したものである――という解釈が成り立つのと似たような意味で、リチャード・ギアが演じる老警官エディの「夢想」の映像化であるといえなくもないのである。
【追記/2010-11-15】この部分に関し(おそらく下の部分を読まずに)あるブログが、<「「夢想」の映像化」と言ってみても、そう言ったことでこの映画に対する理解度が深まったりするのであれば別ですが、取り立てて何ももたらさないのであれば、そう言ってみるまでもないのではと思われるところです。>と書いている批判を目にした(→ブログ "映画的・絵画的・音楽的")。しかし、映画と小説との区別を無視し、「内容」だけ問題にするのであれば、そういう言い方も出来るだろうが、それでは映画の意味がない。「夢想」や「妄想」や「パラノイア」を描く方法はいろいろあるが、都市の人間(ここではニューヨークのある地域の警官)が日常意識のなかで増幅させたプレッシャーを描くのに、スコセッシやデ・パルマの方法を継承していることを発見するのは、少なくとも映画的には意味があると思う。
その際、この映画は、安っぽい心理主義的映画のような、主人公の「内面」とやらにもぐりこんで「盗撮」したかのような見せ方をしないのである。だから、事実上、3人の警官を描いた3本の映画を1本にまとめたようなところがあり、また、3人を並行的に描きながら、ときどき気になるすれちがい(「クロッシング」)を見せ、最後に同じ場所に誘導する(しかし「グランドホテル」方式に出会わせるような野暮なことはしない)といった見る者の気をそそる作り方をしている。大詰めちかくで、車から降りたイーサン・ホークが道路を渡ると、(そのまえから見ている観客にはすぐわかる)2台の車(後方の車にリチャード・ギアが乗って追跡している)が通りすぎ、それをやり過ごして進むと、反対車線に止ったばかりの車からドン・チードルが降りてくるというワンカットのシーンがある。わたしは、決して「ワンカットシーン礼賛者」(ある種の「目黒の秋刀魚」)ではないが、このシーンはいいと思った。
決して見え見えのやり方をしていないところがいいのだが、あえて強調するならば、リチャード・ギアが出てくるシーンのトーンと、イーサン・ホークとドン・チードルとが出てくるシーンとのあいだに映像の質的な違いがある。ギアは、定番のモテモテ男とは異なる、彼としてはめずらしいほど地味な役づくりで登場する。最近でもギアは、『アメリア 永遠の翼』のようなカッコイイ役を演じているわけだが、この映画では、どちらかというと、『HACHIs約束の犬』に近い地味な役を演じている。エディが見せるふるまいは、警官としてはいたって「ありきたり」である。腕力もなく、銃さばきもお粗末だ。実際の警官の大半はこんなところだろうと思うのだが、他方、イーサン・ホークとドン・チードルの方は、既存の「コップ・ムービー」から定型的なシーンを集めてきて、最新のアクセントをほどこしたと言えなくもないほどカッコいい。銃撃シーンもド派手である。この映画に批判的な英語の評は、この映画がコップ・ムービーのパロディだと言うのもある。しかし、ジャストミニッツ。きみは、イーサン・ホークとドン・チードルが出てくるシーンをリチャード・ギアが出てくるシーンとの対比で見てみただろうか?
ある意味で、映画を見るということ自体が、夢を見るのと同じ仕組みに身を置くことだから、そこに登場する出来事は、継起的である必要はない。が、映画の多くは、まだ「同化」という機能を捨てていないので、観客に対して登場人物の誰かを「同化」のルアー(囮)のようなものとしてあらかじめ設定する。この映画では、それがリチャード・ギア/エディである。凡庸な映画は、そういうルアーに映画のなかで夢を見させ、観客をそれに「同化」することを求める。しかし、それは余分である。われわれは夢を見すぎているから、これが夢でございますというキャプションはいらないのである。
エディは、最後に、誘拐されて捜索願が出ている女性を暴力団のアジトから救い出すという「冒険」をする。それは、「正義」などというものではなく、行きがかりの結果だった。むしろ、当然予測される危険を犯してまでエディがその女を救った背景には、たとえば、彼には、別れた妻とのあいだに娘がいて、彼女を裏切ってしまった悲痛な思いがあるとか・・・そんなことを想像させるところがいい。そうした賞賛されるべき手柄にもかかわらず、最終場面で見せる彼の表情は決して晴れ晴れしていない。最初の方で見せる彼の自殺願望は、ここにきてさらに強まったかにも見える。映画は、ここで終わるが、人生への彼の失望は見る者の胸に伝染する。ちなみに、統計によると、アメリカの警官の自殺率はかなり高いという。
エディは、ときどき娼婦のチャンテル(シャノン・ケーン)のところへ通う。彼が払っている金は100ドル紙幣で5枚ぐらいあるから、彼女は、街角に立つような娼婦ではない。自分のアパートを仕事場にしている娼婦だ。この映画には、彼女のところでエディが過ごすシーンが二度出てくるが、最初の方で、二人が話しているあいだにジェファーソン・エアプレインのグレイス・スリックが歌う「ホワイト・ラビット」が低く流れているのが印象的だった。有名なその歌詞の「One pill makes you larger/And one pill makes you small」は、視覚は薬次第でどうにでもなるといった意味にも取れる(実際、このシーンでチャンタルはコカインを吸う)が、締めの歌詞「Keep YOUR HEAD」は、「頭を冷やせ/冷静であれ」となっている。この歌詞は、エディにも、われわれ観客にもあてはまるのだ。
後半にエディがチャンテルに逢うシーンでは、先客(同業の警官)があり、そいつがことを済ませるのを踊り場で待つ。やがてなかに入ると、女は、トイレで局部を洗っている。こういう描写がこの映画のうまいところで、さりげなくリアルな表現をする。だから、ドンパチの派手派手なシーンには、十分気をつける必要がある。リアリティの繊細さがちがうのだ。それはそれ、これはこれの多重なリアリティが使われている。エディは、彼女から金の時計をプレゼントされる。「高いんだろう?」と言うと、彼女は、「それなりのお金を払ってきたでしょう」と言う。彼は相当つぎ込んだことがわかる。その時計の腹には、「We've got nothing but time, but time won't give us time」という文章が刻んである。エディは誰の言葉かわからないが、彼女はそれが、「老ボーイ・ジョージのソング」からのものだと説明する。「老」というのはいまのことを言っているのだろうが、言わずと知れたカルチャークラブの「Time (Clock of the heart)」の一節である。ここでエディは、チャンティに一緒に住んでくれと頼むが断られる。彼女はそれきり出てこないが、やけにインテリだなあという印象を残す。
エディに警官の「ステレオタイプ」が出ていないとは言えないが、イーサン・ホークが演じるサルは、カソリック系の麻薬捜査官であり、それは、いかにもの部類に属する。子沢山であること、罪の意識が強いこと、ファミリーのためには犯罪もいとわない、仲間との下品なつるみ方等々・・みな意図的に「ステレオタイプ」になっている。たとえば、『バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト』/『バッド・ルーテナント』の刑事との共通点を考えてもいい。そういう「ステレオタイプ」を演じながらもイーサン・ホークは、ハーヴェイ・カイテルとは別の味を出しており、ニコラス・ケイジよりは数十倍いい。
意図的に「ステレオタイプ」を描いていることは、ヤクザの親分にウェイズレイー・スナイプスを配したことでわかる。シャバに出てきた彼(キャズ)をドン・チードルが訪ねるバーのシーンは、まさに儀式のなかの儀式である。
うまいといえば、エレン・バーキンが演じるババア(失礼)である。よくぞ、まあここまで東部気質でお手柄志向しかない嫌味な上級捜査官を演じたものである。その仲間の副署長を演じるのが卑怯で権威主義の男を演じるのがうまいウィル・パットンというのも意図的「ステレオタイプ」の操作である。
ブルックリンのロケがなかなかいい。ブルックリンにしばらく住んだことがあるわたしとしては、ブライトン・ビーチの「ATLANTIC OCEANA」の看板が実になつかしかった。イーサン・ホークが、強引な捜査を遂行したとき、金を持って逃走したかと思った男を彼が猛烈な勢いで追いかける。捕まえるのがEast New York(昔は物騒なところだった)に近い駅「Junius Street」である。このシーンは、場所も方法(車は使わない)も違うのだが、その勢いがどこか、『フレンチ・コネクション』でジーン・ハックマンがマルセル・ボズッフィを追い詰めるシーンを彷彿させる。
(プレシディオ配給)
この映画に登場する複数の女たちは、「母親になること」「母親であること」をめぐって苦しみ、努力し、命をかける。映画の原題は「母と子供」であるが、その「子供」は娘である。ここでは、女は、母親であるか、あるいは母親の予備軍である。しかも、子供は母親への思慕から逃れることはできない。監督ロドリゴ・ガルシアのこの前提には、異論があるかもしれない。
カレン(アネット・ベニング)は、50をすぎたいまでも、14歳のときにはからずも経験した妊娠や出産の夢を見る。子供に会いたいという思いはあるが、その名前も居場所も知らない。その子に宛ててノートに手紙を書いている。高齢の母親(アイリーン・ライアン)の面倒を見ながらいっしょに暮らしているが、自分の子供を養子に出さされたことで母を恨んでいるようである。老人介護の施設で働く彼女は、自分でも認めるとおり「気難しい」女で、彼女に好意をいだく同僚パコ(ジミー・スミッツ)にも邪険な態度を取る。
カレンの生活と並行に、彼女の娘エリザベス(ナオミ・ワッツ)の日常が描かれる。37歳の彼女は、すでに有能な弁護士になっているが、職場を転々と変え、最近生まれ故郷(と知らされている)ロサンジェルスに戻って来た。サミュエル・L・ジャクソンが演じるポールの弁護士会社に面接に訪れ、気に入られて職を得る。ポールはすぐにエリザベスに惹かれ、愛し合うようになるが、エリザベスにとって愛することはゲームのようなものだった。ポールとつきあいながら、隣室のカップルの夫を誘惑し、大胆なセックスをする。部屋を去るとき、こっそり自分のパンティを引き出しに隠すような小悪魔的ないたずらも辞さない。面白い女だが、どこか壊れている。17歳のときメキシコで卵管結紮(けっさつ)を受けていて、妊娠はしないと自分では思っている。そのことが彼女の奔放な性生活を許しているらしい。
カレンとエリザベスの描写と並行してさらに何人かのドラマが並行的に描かれる。このあたりが、この映画の面白さであり、錯綜するストーリーラインのからませ方がなかなかたくみである。カレンとシングルマザーの家政婦(エルピディア・カリーロ)。最初、カレンは彼女が幼い娘を連れてくるのにいらだつ。母親が彼女らに(カレンに対するよりも)心を許しているように見えるのが気に食わないということもある。自分が気難しく、人に愛されないということをカレンは知っており、そのいらだちは自分への怒りでもある。口をゆがめた表情の気難しい女を、アネット・ベニングはたくみに演じる。
妊娠できない女性ルーシー(ケリー・ワシントン)は、夫ジョゼフ(デイヴィッド・ラムゼイ)を説得して養子をもらう手続きをする。養子をもらうことに積極的なのは、夫より妻のほうなのだが、それはなぜだろう?
未成年で妊娠した少女レイ(シャレイーカ・エップス)は、生むことを決意するが、生んだ子を養子に出すことを決めている。そして、養子にする相手をうるさく吟味する。かわいくない奴だが、そういう女をエップスはなかなかリアルに演じる。未成年の女性が妊娠した場合、アメリカでは、子供を生み、養子に出すというのも、実際的な選択肢であり、そういう養子を斡旋するシステムもすでに確立している。このへんは、日本と全然事情が違う。しかし、だからといって、そういう状況に直面した「母親」が悩まないわけではなく、養子に出した子供のことを忘れてしまう母親は少ない。レイは、その点で冷酷なくらいクールだが、そういう彼女が土壇場で「母心」を見せる。この映画では、女はすべて「母親」の本能があるかのようである。
ここでも、『冬の小鳥』と同様、養子の斡旋の窓口は教会である。その担当のシスター・ジョアン(チェリー・ジョーンズ)はなかなかしたたかだ。母親が自分の見知らぬ子に会いたければ、手紙を書くしかない。シスター・ジョアンは、来た手紙をコンピュータにインプットし、情報を検証して、面会の可否を決める。ちなみに日本には、国際養子に関する直接的な法律はなく、養子になっても戸籍が残るから、親子関係の秘匿はむずかしい。
この映画が描くのは、所詮、「男」の側から見た「女」の話だろうか? 女性のなかには、子供なんかとんでもないという人もいるが、多くの女性は、結婚しなくても子供は生んでみたいという。子供なんか、腹を痛めて生まなくても、養子を取れがいいじゃないという女性もいる。が、母親になりたいという気持ちはかわらない。妊娠し、子供を生むことができる存在であること(ないしはその欠如)が女性をそうさせるのか? あるいはそういう問いの前提がまちがっているのか?
この映画は、子供を持つことのしあわせを前提にしているが、子供を持ったからといって親子がしあわせになれるとはかぎらない。業のようなものをたがいに背負う場合もある。しかし、養子であれ実子であれ、子供を育てることのなかでの発見は、他のことでは代行できないかもしれない。が、そういう経験が貴重だというのであれば、別に親にならなくても、可能だろう。だから、なぜ人が子を持とうとするのかは依然不明である。
(ファントム・フィルム配給)
最初は、「実直」な仮釈放管理官ジャック(ロバート・デ・ニーロ)が、受刑者のストーンことジェラルド・クリーソン(エドワード・ノートン)に手こずる話で展開する。ストーンは、仮釈放を早めるため、妻のルセッタ(ミラ・ジョヴォヴィッチ)に電話し、ジャックの家に電話をかけ、性的に翻弄することを命じる。日本では、非常にかぎられた条件のもとで、しかも「優等生」だけしか電話を使うことが出来ないが、アメリカでは、通常、刑務内から受刑者が外部に電話をすることが出来る。タテマエ上、盗聴はしないことになっているので、ストーンの計略をジャックが知らないというこの映画のようなことが起こりえる。未決の被疑者が警察に留置されているときですら、電話が一切禁じられている日本とは大違いであることをまず認識しないとこのシーンは理解できない。
エドワード・ノートンは、あいかわらすいいねぇ。世の中への否定と拒絶を諦めのまじった距離を取る独特の目と挙動。これは、ノートンしか出来ない役である。
ストーンの妻ルセッタの本業が娼婦で、それを演じるのがあのミラ・ジョヴォヴィッチだから、この分だとジャックがルセッタに誘惑され、妻マデリン(フランシス・コンロイ)との仲もずたずたになる方向で進むと想うかもしれないが、部分的にはそういう方向を取りながら、かならずしもそういう話にはならないところが面白い。すでにこの映画の冒頭で、この映画が単に仮釈放管理官と受刑者との駆け引きがテーマではないという暗示があるが、その暗示はあとにならないとわからない。
このシーンで若い時代の夫婦を演じているのが、デ・ニーロとコンロイにはあまり似ていないEnver GjokajとPepper Binkleyであるのも、やや違和感があるが、若いジャックは勝手な夫で、妻(Pepper Binkley)を自分の言いなりにするために、幼い乳児を窓から落とすと脅す。二人が居間で殺伐とした感じでモノクロのテレビを見ているシーンから急に(今度はデ・ニーロとコンロンが)同じ間取りの部屋でカラーテレビを見ているシーンに移るとき、見ているほうには素直にはつながらない。冒頭のシーンが何か余分に見える。が、このシーンに登場するハエは、見る者の記憶のどこかに残るだろう。それが、最後のシーンで「なるほど!」とよみがえる。なかなか凝った作品なのだ。
鍵になるのは、別にジャックの尋問を受けたからではなく、たまたまのようにストーンが刑務所内で読んだニューエイジのカルトっぽい教祖の本を読み、急速に考えを変えていくところだ。その教祖の名は、(記憶があやふやだが)「ZUKAGON」というような名で、世界は音で成り立っているというような世界観を提唱しているらしい。ストーンは、一方で妻をそそのかせてジャックを翻弄しながら、他方ではそのカルト「宗教」への彼の関心を熱烈に語る。ちょっと分裂した形でドラマが展開するのだが、後半は、その音「宗教」を信じるストーンと信じないジャックとの落差が描かれるような趣になる。
ストーンによれば、最初は何でも単純な音を聴き、それに自分の体を「音叉」のようにして「共鳴・共振」させていくことが(そのカルト「宗教」の)修行だという。彼は、刑務所の庭で「ウーン」というような発声をして共鳴音をつくる。このことでふと思い出したが、スパイク・ジョーンズの『アダプテーション』にも、電話を通じてメリル・ストリープとクリス・クーパーが音を共鳴・共振させるシーンがあった。
たしか、ストーンが、「ストーン(石)は最初の音だ」というようなことを言うシーンがあったように思う。石を意味するstoneはギリシャ語の
音の存在は、「共鳴・共振」(レゾナンス)によって確認される。音楽やサウンドアートは、複数の音の連続からなるが、その複数の音同士のあいだでも「共鳴・共振」が起こっている。人間が音を知覚できるのは、器官や身体が「共鳴・共振装置」であるからで、「聴く」ということは、「共鳴・共振」をつくることなのだ。
音への現象学的・宗教学的見地から見ても面白いこの映画だが、後半に進むにつれてサスペンス=ミステリー的方向がぼやけてくる。後半では、音に「聴従」する者(→ストーン)とそうでない者(→ジャック)との違いが明らかになる。ジャックはあきらかに不幸だ。それは、音への姿勢の違いから生まれたともいえる。ジャックが聴く主要な音は、テレビとラジオである。刑務所へ通勤する途中の車のなかで、彼は、「WDDL」というラジオ局の宗教番組を聴いている。このラジオの音が何度か登場する。それは、たしかに「聴く」ことではあるが、まさにオーディオの「ジャック」(jack)のようにつねに通過点である。むろん、なんらかの「共鳴・共振」がなければ、知覚ができなから、それなりの「共鳴・共振」はあるのだろうが、ジャックがみずから「共鳴・共振」の努力をすることはない。
してみると、この映画は、音のカルトにいかれた男とそうでない「普通」の男との話だろうか?「普通」の男は、音との「共鳴・共振」などを意識しない。ジャックは、マッチョな男であり、妻を抑圧してきた。教会に熱心に通うが、その信仰の背景には強い抑圧がある。そういうつけ(そして最初のシーンの、知らずにハエを殺したこと)がだんだん出てくるが、その出方は単純な因果律の形式を取らない。妻が去った部屋で不機嫌にソファーに座る彼の耳に「ブーン」という音が響く。
ヨアヒム・E・ベーレントに、『世界は音 ナーダー・プラフマー』(大島かおり訳、人文書院)という本がある。哲学的にはいささか単純すぎる趣旨の本だが、この映画でストーンが言っているようなことと符号する。<ナーダ・プラフマーだが、nada はサンスクリット語で、「音」のことである。辞書には、「大きな音、反響、鳴動、風・水などのたてる音、咆哮、叫び」なども挙げられている。・・・同系の語 nadi。これは、「流れ、川」のことだが、「せせらぐ、ざわつく、鳴る、ひびく」ありさまもあらわす。流れは音をたてる。音は鳴る。こうして「川」が「音」になったのだ。・・・nadiはまた「意識の流れ」の意味でも使われる――インドの聖典、4ヴェーダ中の最古のリグ・ヴェーダですでに使われている――4千年もの昔である。・・「音=流れ」は、言語が存在するようになって以来の、人間の原観念の一つなのだ。それをたった一つの文でマルティン・ブーバーは言っている。「われわれは自分の内部に聴き入る――そして聴こえてくるざわめきがいかなる海のものであるかを、われわれは知らない。」>。
ドローン+アンビエント系のMachinefabriekの音楽がつかわれている。たしかに、ストーンが言っているような世界を音にしている。
(日活配給)
アイルトン・セナが1994年に事故死したとき、わたしはテレビ中継でその光景を見ていた。が、まるで壁に向かってあえて直進したかのような衝突の仕方が、不可解でならなかった。はずみとはいえ、こんなことが起こるのかと思った。わたしは、この映像を当時使っていたワークステーションのSGI-Indyに取り込み、駒を一つひとつ調べたりもした。とはいえ、わたしはFIに興味があったわけではない。その映像に興味を持ったのは、映像のリアリティというものは、生身をかけたからといって「リアル」になるわけではないということがわかったからだ。実際、その映像からは、セナの痛みも瀕死の肉体的損傷も、すべてが空虚な感じがし、肉感的な「リアリティ」を持たなかったのである。思えば、セナの死は、身体を拠点・参照点とするリアリティの終わりを示唆していた。
セナは、「ぼくは神に近づいた」と言うが、彼には、自分の肉体が消えてしまう瞬間にかぎりなく近づきたいという願望があったように思う。ある種のアンドロイド願望であり、実際、彼はレースの瞬間でしばしば自分の体が「空」の達するのを経験したはずだ。
このドキュメンタリーを見て、あらためて感じるのは、セナが、ブラジル出身というヨーロッパでは依然ハンデのある状況のなかで、ほとんど独力で闘っていたこと、抑圧的な政権のもとで貧困にあえいでいたブラジル国民にとってセナがいかに救いとなっており、セナ自身そのことを強く意識していたことだ。その意味で、セナの死は、「戦死」であり、「殉死」だった。
映画としては、安いつくりだが、レースまえの打ち合わせの記録は、ほかでは見たことがない。そこでセナは、「俺がルールだ」といった風情の傲慢で強引なFIA会長ジャン=マリー・バレストル相手に、きわめて正しい意見を述べている。このドキュメンタリーでは、セナの宿敵アラン・プロストとの激しい競争の様を見ることができるが、ジャン=マリー・バレストルは自分の欲とフランスの利益のためにアラン・プロストを強引に推し、醜い政治欲を見せつける。しかし、こういう絵になるような悪役がいるときほど、歴史は面白くなる。バレストルは、第2次世界大戦中は、フランスのナチSS隊員であり、悪役としては資格に事欠かなかった。
(東宝東和配給)
アベル(ジャン=ポール・ルション)とジュノン(カトリーヌ・ドウーヴ)のヴュイヤール・ファミリーの物語だが、3人の子供たち――エリザベート(アンヌ・コンシニ)、アンリ(マチュー・アメリック)、イヴァン(メルヴィル・プポー)――の家族関係もからみ、話は単純ではない。基本は、ジュノンの白血病が発見され、ファミリーのなかから骨髄移植のドナーが見つかるが、必ずしも全治が保証されているわけではない。家族の一人が病気にかかると、その影響は家族の一人ひとりに影響する。その屈折を描きながら、一つのテーマに集約できない日常性の襞(ひだ)が繊細に描かれている。
イントロで影絵を使い、ファミリーの歴史が語られる。アベルとジュノンは、第一子ジョゼフと第2子のエリザベートをもうける。が、ジョゼフが4歳のとき、白血病が発見された。夫婦は、骨髄移植のドナーの可能性を期待して第三子を作ることにした。このくだりは、ニック・カサベテスの『わたしの中のあなた』を思い出させる。しかし、羊水穿刺(せんし)の判定で、この子の骨髄は使えないことが判明する。その子は生まれ、アンリと名づけられた。夫婦は、さらなる可能性を期待して第四子をもうける。が、この三男イヴァンもドナーにはなれなかった。うっかり見過ごしがちなこのイントロには、なかなか残酷なファミリー・ヒストリーが隠されている。極言すれば、この家族にとって、エリザベート以外は、アンリもイヴァンも「余計者」として生まれたのだから。
このイントロを反映するかのように、二人の子供たちは、屈折したキャラクターを身につけている。親のほうもまた、長男ジョゼフの白血病を救えなかったという罪責感とジョゼフのために作った二人の「余計者」(アンリとイヴァン)に対する罪責感と哀れみを感じている。子供たちは、おそらくそのことを知っているのだろう。長女エリザベートは、自分だけは弟たちとは違うという暗黙の意識がある。劇作家として成功し、フィールズ賞を受賞した数学者クロード(イポリット・ジラルド)と結婚しているが、息子のポール(エミール・ベルリング)は自閉症で、家族の悩みをかかえている。エリザベートとクロードは、アンリを嫌っている。
イントロの影絵をしっかりと把握すると、この映画が実に意識的な構成がなされているかがわかる。エリザベートとクロードがポールを嫌うこと(しかし、その嫌悪は決して単純ではない)、二人の子供のポールが先天的であるかのようにアンリと相性がいいことがわかること、父親のアベルが、裁判であやうく刑務所行きになりかけたアンリを無条件で擁護すること、母親のジュノンが一貫して冷め切った態度であること・・・がわかるのだ。
「手紙」というチャプターがある。そのなかでアンリがエリザベートに出した手紙をアンリが語り、エリザベートが車のなかで読んでいるというシーンがある。アンリは、「この手紙はまるでカフカのパロディみたいに思え、笑ってしまう」と語る。アンリは、カフカ的な屈折した人生を歩んできたのか?
アンリは、妻を交通事故で失い、それもまた彼を屈折させている。やがて彼が癒されるフォニア(エマニュエル・ドゥヴォス)という女性は、胸にダビデの星(ユダヤ人の象徴)を象ったネックレスをしており、ユダヤ系であることが示される。このネックレスは、彼女がジュノンと美術館で会うシーンで意図的にクローズアップで映されるのだが、このシーンは、あきらかにヒッチコックの『めまい』でジェイムズ・スチュアートとキム・ノヴァクが美術館で会うシーンへのオマージュである。なお、このシーンは、ブライアン・デ・パルマも、『殺しのドレス』で引用していることで有名だ。
アベルの母アンドレ(写真のみ)は、レズになり、その恋人ロゼ(フランソワーズ・ベルタン)は生きている。このファミリーは、もともとユダヤ系でのちにカソリックに改宗したのかもしれない。なかなか癖のある女性。メジュノンとアンリが歩いて家に帰ってくるシーンで、ジュノンはアンリに、「あなたはユダヤ人ぽい」と言う。いずれにせよ、彼がユダヤ系のフォニアに惹かれるの理由が示唆されている。
音楽の使い方が繊細だが、父アベルがジャズ好きであることが2度にわたって示されている。1つは、彼が、楽譜を開きながらチャーリー・ミンガスの「Reincarnation of a Lovebird」を聴いているシーン、もう1つは、ジュノンが外から帰ってきてアベルの部屋に入ると、彼が大きな音量でジャズを聴いていて、彼女に気づかないシーンである。このとき彼が聴いているレコードは、LP版の「The World of Cecil Tayler」だ。この映画でセシル・テイラーに出会うとは思わなかった。ミンガスのベースとテイラーのアヴァンギャルドなピアノ。なかなか意味深のチョイスである。
(ムヴィオラ配給)
邦題にある「ソフィア」とは女性の名前ではなくて、ブルガリアの首都ソフィアのことである。1989年に共産主義政権が崩壊し、旧社会主義圏のご他聞にもれず、社会状況が激動した。社会主義国のなかでは、比較的西側寄りの政治・経済の路線を歩んでいたので、転換は比較的すばやく、2007年にEUに加盟したが、当然のことながら、西側の矛盾も引き継ぐことになった。この映画はそういう矛盾を世代の異なる兄弟の日常を通じて鋭く表現しており、たとえば1970年代のニューヨークのような社会的に「危ない」要素と新しい方向へ突き進んでいくラディカルさとが混在したものをずばり表現している。
国家の変容と家族形態の変容とは密接な関連がある。17歳のゲオルギ(オヴァネス・ドゥロシャン)と38歳のイツォ(フリスト・フリストフ)兄弟は、老いた父親(イヴァン・ナルヴァントフ)とその比較的若い後妻つまり二人のステップ・マザー(クラシミラ・デミロヴァ)と暮らしている。例によって食卓の雰囲気はトゲトゲしており、父親と義母に小言を言われ、ゲオルギは、義母が作った食事に文句をつけ、席を立つ。家には一応帰っては来るが、親との関係はぎくしゃくしている。弟がもめないときは、兄ともめる。(本当は人を助けて)顔に傷をしたイツォは、父にとがめられる。「お前はまだドラッグをやっているのか?」父親にとって、38歳にもなる息子がヘロイン中毒になり、毎日アルコールが切れたことがなく、しかも怪我をしているというのは、悩みの種でないはずはないが、困難に陥った家庭という場の悪循環がよくあらわれている。
ゲオルギは、仲間にさそわれてレイシストの男(演じている役者の名前はわかないが、偏屈で危険な感じをリアルにただよわす演技だ)に近づき、街頭でトルコ人の一家に暴行を加えるのにくわわったりもする。そのとき、たまたま兄のイツォがその現場を目撃し(ここがやや出来すぎだが)、彼らを助けようとして、逆に暴行を受ける。イツォは弟の存在に気づいたが、その後も彼を非難することはない。イツォは、ヘロイン中毒の治療でメタドン・クリニックに通っており、薬物をやめる代わりにしょっちゅうビールを飲み続けている。薬物のマッタリ感が忘れられないかのように。だから、彼には現実がすべてぼんやりしている。家具工場で働いてはいるが、何もかもどうでもいいという感覚に陥っているらしい。ちなみに、イツォを演じるフリスト・フリストフは、薬物のオーバードースで、この映画の完成を見ずに急死した。だから、この映画のエンド・クレジットには、「フリスト・フリストフを偲んで」という文字がある。
イツォは絵描きであり、コンピュータの3次元立体処理でポリゴン数を減らしてモデリングしたような絵を描く。映画のなかでイツォの友人がアートイヴェントをやろうと彼をさそうシーンがある。彼は、絵で食っていけた時期があるのだろうか? 38歳ということは、1989年には18歳だった。青春を彼は社会主義政権の時代に送ったことになる。ということは、社旗主義政権の崩壊とともに夢を失い、ドラッグに溺れたということか?
レイシストのグループに襲われたトルコ人の一家は、イスタンブールからベルリン(トルコ人のコミュニティがある)へ車で向かう途中、ソフィアに寄ったのだった。父親(Kerem Atabeyoglu)が負傷し、妻(Hatice Aslan)と娘は暴行をまぬがれた。彼らの世話をしたことがきっかけで、イツォはその娘ウシュル(サーデット・ウシュル・アクソイ)に惹かれていく。このサーデット・ウシュル・アクソイは、黒木メイサによく似ているのが面白かった。
兄弟の陥っている状態は、ソフィアの街の変化と関係がある。古い住宅が廃墟のように立ち並ぶ草原で、イツォとゲオルギの二人がタバコを吸いながら話すシーンがある。「どこかがちがってしまった」、「古い建物が壊されて、高層ビルが建っちゃんうんだよね」と話すシーンに実感がこもっている。ソフィアでは、すでに「ジェントリフィケイション」(街の美麗化→ポスト資本主義化)が進んでいる。レストランでイツォが「国産」のビールを注文しようとすると、それはなく、「外国」のビールだけだとウエイターに言われる。彼はしぶしぶ「スウェーデン・ビール」を注文する。「高級」レストランのメニューは英語だけだ。それだけグローバリゼイションが進んでいるということである。
終わりの方、イツォの「酔い」のユートピアを描いているかのようなシーンがある。酔っ払った彼が、夜明けの街を歩き、たまたま、ダンボールを集めている老人と出会う。人生を達観したような不思議な風貌の老人。手伝ってくれとカバンを持たされ、その老人のアパートに行く。彼はその家のソファに腰を下ろしたまま眠ってしまい、目が覚めると、向かい側に幼児が座って泣いている。何か、仕事や労働の世界を越えたユートピア的時間をすごしているかのようなシーンだ。
音楽の使い方もすばらしい。ゲオルギが加わったレイシストグループは、保守派の政治家の指示でサッカー競技の会場でフーリガン的暴力を働き、暴動状態を引き起こす。その暴力シーンにかぶって非常にマチズモ的なハードロック(「She Was Asking For It」など)が鳴る。他方、映画の最後の最後でこの街のもっと創造的で宥和的な雰囲気が描かれるときは、「Nasekomix」(この映画のテーマも担当)の全然異なる傾向の音楽が流れる。
(紀伊国屋書店/マーメイドフィルム配給)
フィクションである『パリ20区、僕たちのクラス』が「ドキュメンタリー」に見えたのに対して、ドキュメンタリーであるこの映画は、まるで「フィクション」か「やらせ」のように見える。エイドリアン・グラニアーのインタヴューに答えるパリス・ヒルトンなどは、ホンモノではなくて「ソックリさん」なのではないかと思わせる。まあ、パリス・ヒルトンは、マスメディアでは「オバカ」な女を演じるようにしているらしいから、ここに映っているのがまさに彼女らしくていいと言えるのかもしれない。ちなみに、グラニアーがギリシャ神話のナルキソスの話をしたら、彼女は「それってホントの話?」とマジ顔で訊くのだった。
わたしは反発を感じたが、それは見方によっては逆転する。わたしが反発したのは、グレニアーと問題の少年パパラッチ・オースティン・ヴィスケダイク(プレスには「ヴィスケディク」とあるが、Visschedyk―オランダ系の名前の"dyk"は「ダイ」と発音する)とのなれあいである。グレニアーは、適当にやっているが、この少年は他人に合わせるコツを知りすぎている。彼が、そういう才能と感覚を身につけているからこそ、こういう役回りをしているのだから、それを非難したら、彼の存在意義はなくなるのだが、即興的な撮影には必ず出るはずの「破綻」があまりになさすぎるのだ。そういう部分を削除してりまったのかもしれないが、それならば、ドキュメンタリーとしての面白さがないのである。
もし、このドキュメンタリーの主人公が、13歳ではなく、5歳だったら、新鮮な驚きがあっただろう。この「ドキュメンタリー」に終始つきまとうのは、(実際にオースティンがこのような活動を続けてきた人間だとしても)少年俳優を連れてきて、カメラのまえでパパラッチ的演技をさせたという印象なのである。
わたしが文句なしに面白いと思ったのは、オースティンのメカマニア的な本性が露出するカメラ屋でのシーンである。カメラを手にしてシャッターをバシバシバシと切る手さばきは見事だった。また、グレニアーが、理屈っぽい話をするとき、彼が全然聞いていなくて、グレニーアが手をやくのもいい。が、一体にこの少年はラブドールのように表情が乏しい。
テレビで「セレブ」を演じはじめたグレニアーが、やがて世間でセレブとみなされ、パパラッチに追いかけられるようになったことが、このドキュメンタリーの発端であるという説明はもっともらしくて信じられない。作品の動機などはどうでもよいが、彼がパパラッチの意味などを問い、学者などまで引っ張り出すとき、実にうさんくさい感じがする。この映画は、本当にパパラッチの意味などを問おうとしているのだろうか、という思いがしてくるのだ。
パパラッチは、マスメディアにとって不可欠の存在である。個々人はコミュニケーション的欲求や何かを知りたいという欲求のなかで生きているが、その欲求は、欠乏部分が何かで満たされるような形で満たされるわけではない。「必要情報」が得られ、コミュニケーションと理解の輪が完結するという形で満たされるのではない。この欲求は、自分のなかから出てきたものであり、ある意味では「妄想」(パラノイア)であり、ある種の「信仰」である。そのため、この欲求は、論理的には不条理でも、信じられれば満たされるのであるが、自力で自分を信じさせることができる人は多くはない。だから、マスメディアが手を貸してこの信仰をみたしてくれることになる。マスメディアは、だから、たえず「好奇」の状況を作る(捏造する)。哲学的な謎に挑戦する者は少なくても、タレントや事件の当事者への猟奇的な興味なら誰でもが加速させら。ゴシップとは、さもなければ「高邁」な思考にも雄飛しうる好奇心かきたててから、それの充足をコンビニの弁当のような形で提供する方法であり、ビジネスである。人は、そういう形で好奇心を浪費するわけだが、パパラッチは、そうした浪費にうわべだけのハクをつけるのに役立つ。
この映画は、ある意味で、「みんなパパラッチになろう」というパパラッチ入門でもある。そのやり方や機材の解説に事欠かない。そう、みんながパパラッチになれば、パパラッチが加担して増幅させているセレブ信仰や有名人パラノイアが脱神話化される。しかし、どうすれば、パパラッチ行為に熱をあげることができるのかは、この映画では語られない。たまたまオースティン・ヴィスケダイクという少年がパパラッチに入れ込み、少年パパラッチが生まれた。それは、孤独な少年の好奇心と偶然の結果であるが、好奇心というものほど人に教えたり、それが希薄な者にそれを注入したり出来ないものはない。好奇心がない人に好奇心を植えつけるのは、ほとんど不可能なのだ。そして、それだからこそ、ゴシップという好奇心とその充足の単純化が巨大ビジネスとなりえるのである。
(クロックワークス配給)
エクスペンダブルズ
ソダーバーグの「オーシャンズ」シリーズを知力から腕力に移した感の「同窓生」交流会的仕上がり。スタローンやロークは、ちょっと年寄りの冷水のおもむき。それぞれの思いはわかるが、あんまり無理すんなよといいたい。
白いリボン
じわじわと効いてくる批判と異化のドラマで、レヴューが書きにくい。副題が「ドイツの子供の歴史」となっているように、ナチズム的社会意識がナチの時代以前にすでに子供の意識のなかに巣食っていたことをあらわにする。が、これだとジークフリード・クラカウアーの理論と変わらないのではないかという気もする。
プチ・ニコラ
子供がよく撮れていると感心する一方で、このアッケラカンとした「明るさ」は何だろうと思う。『キネマ旬報』(10月上旬号)にも短評を書いた。
ラスト・ソルジャー
ジャッキー・チェンが自腹を切っても撮りたかったという感じは伝わるが、何か無理がある。国家を統一した秦への反発があるのか、肯定しているのか? 小国の乱立・乱世という状況は、大国家の否定であるが、民衆の多くは犠牲になる。現在の中国のもとでチェンの苦悩が見えるようなところもある。
シチリア! シチリア!
イタリアの左翼の歴史を日常のなかからとらえていて面白いが、左翼内部でイタリア共産党を批判した70年代のアウトノミア運動には全く触れないのは奇妙。トルナトーレ監督は党の人?
エリックを探して
崩壊しかかっている家庭・親子/夫婦関係、さまざまな疲労とストレスがたまりきっている初老の男の雰囲気は、なかなかよく出ている。が、「社会派の名匠ケン・ローチ」がこんな子供だましの戦略で「悪」を懲らしめようというのは安易すぎる。ハーバート・ロス監督・ウディ・アレン主演の『ボギー!俺も男だ』で「ハンフリー・ボガード」を出したやりかたでサッカーのエリック・カントナ(こっちはホンモノ)出す二番煎じ。ホンモノの分だけ教訓のたれ方も押しつけがましい。
カウントダウンZERO
旧ソ連から流出した核の危険は十分わかるが、いまいち説得力がない。『不都合な真実』のスタッフによるとのことだが、ゴアのようなスターがいないのと、ではどうしたらいいのかという指針が見えないからだ。
アイルトン・セナ 音速の彼方へ 【後出】。
ナイト&デイ【前出】。
ブロンド少女は過激に美しく【前出】。
プチ・ニコラ (『キネマ旬報』にもレヴューを書いたが、いまのフランスとの差異を意識して見るか、ただのコメディと見るかで評価が分かれる)。
冬の小鳥【前出】。
桜田門外ノ変【前出】。
ルイーサ (職を失った老女が物乞いになる厳しくもユーモラスな話。ブエノスアイレスの「物乞い」カルチャーの奥行きの深さも面白い)。
わたしの可愛い人―シェリ【後出】。
隠された日記 母たち、娘たち【前出】。
遠距離恋愛 彼女の決断【前出】。
約束の葡萄畑 あるワイン醸造家の物語【前出】。
ソフィアの夜明け【後出】。
クロッシング【後出】。
ストーン【後出】。
義兄弟【前出】。
大分まえにDVDで見ていたが書かなかった。DVDとフィルムとはちがうと思っているので、DVDしか見ていない作品についてはここでは書かないことにしている。しかし、『キネマ旬報』の「星取り」コラムでこの作品について書く必要があり、試写の最終に飛び込んだ。DVDで見たわたしの印象は、あまりかんばしくなかったが、フィルムで見ればちがうかもしれないという期待があったからである。ただし、わたしは、フィルム至上主義者ではない。フィルムとDVDとの違いは、前者は(原則として)中途で止めたり、早送りしたりして見ないのに対して、後者はそういう「流し見」ができるという点である、とわたしは思う。だから、DVDでも、ちゃんとしたスクリーンで最初から最後までおとなしく見れば、フィルムで見たのと変わりがないとも言える。どのみち、試写を現在のような試写室でやることは少なくなるだろう。
ビデオ(テープ、DVD、オンデマンドを含む)は、映画の見方を変えた。止めたり、戻したりして見れば、見方が「分析的」になるのは当然だ。それはそれでいい。批評に分析は欠かせない。が、止めて確かめたいと思いながら、「何だろう?」という思いを残したまま、最後まで通しで見る(これまで「あたりまえ」だった)見方の功徳(くどく)というものもある。「誤解」や「妄想」による「創造的」な映画解釈である。ビデオでは、こういう見方は単なる「見間違え」や「深読み」だと一蹴されてしまうが、誤解や妄想は映画批評の面白さの源泉でもあった。
さて、フィルムで見た『わたしの可愛い人―シェリ』は、サビの利いた声によるナレーションが一番印象的だった。スティーヴン・フリアーズ自身が担当しているらしいが、冒頭で19世紀のベル・エッポック時代のパリの娼婦の「社会史」と王室との関係を皮肉たっぷりに紹介し、最後には、この映画の主人公シェリ(ルパート・フレンド)の行く末を10語に足りない言葉で片付ける。ベル・エポックが第1次世界大戦とともに終わり、レアとシェリは別離のまま、シェリが拳銃で頭を撃つというのだ。そのナレーションに対応するかのように、やや老いた風情のレアが放心したような表情をし、ほとんどそのストップモーションのようなシーンで終わる。
この映画は、非常に「確信犯」的に作られている。かつてスティーヴン・フリアーズは、この映画の脚本を書いているクリストファー・ハンプトンと『危険な関係』(Dangerous Liaisons/1988)を撮っている。それは、クリストファー・ハンプトンがコデルロス・ド・ラクロの小説を脚色し、ロンドンやニューヨークで大ヒットした舞台にもとづいている。が、ジョン・マルコヴィッチ、グレン・クローズ、ミシェル・ファイファーといったハリウッド俳優が英語で演じる18世紀フランスの貴族を見るのは奇妙な経験であった。わたしはそれを忌避したが、映画の一般的評価は高かった。わたしにはわからなかったが、それは、スティーヴン・フリアーズとクリストファー・ハンプトンによる「新しい」試みだったようだ。そのことに気づいたのは、今回この『わたしの可愛い人―シェリ』を見てからである。つまり、彼らは、フランスを題材にしながら、英語による舞台劇の映画化を画策したのだ。いわば、日本の「新劇」のシェイクスピアのように、「元」は関係ない新ジャンルの創造である。
そう考えると、この映画で、マダム・プルーという元娼婦でいまでは財産家の女をキャシー・ベイツが演じ、およそ「娼婦」らしいしたたかさなどなく、むしろ脂ぎった「事業家」的風情を呈するとしても、それもありなのだ。普通、「フランス」が舞台だということになると、英語を「フランス語訛り」で発音させるような演出をするが、この映画ではそんな小細工はしない。ファイファーらは、舞台英語をしゃべり、それにナレーションのブリティッシュが全体を相対化する。しかし、その「相対化」は、原作のシドニー=ガブリエル・コレットとは全然方向がちがう。フリアーズ/ハンプトンには、どこか「社会派」的な「煩悩」がある。コレットは、むしろ、老娼婦と青年との「痴話」に徹する。「痴話」を「文学」にしてしまったとkろがコレットのユニークな才能なのだが、痴話は痴話である。しかし、映画は、「痴話」に距離を置こうとする。しかし、「痴話」に距離を置いて娼婦を語れるだろうか?
終盤の別れのシーンでミシェル・ファイファーの抜群の演技を見ることができるが、老・元・高級娼婦という設定にしてはファイファーは「美し」すぎ、また、まるで「母親」のように優しすぎる。25歳の年齢差があるという設定にもかかわらず、この感じならば、レアの側もシェリの側も、別にあせる必要はないんじゃないのと思われなくもない。年齢差の恋が問題ならば、ファイファーにもう少し「疲れ」がほしい。原作では、シェリに同性愛的な要素のにおいもあるが、この映画では、その面は(シェリがボクシングをしているシーン以外)全くない。
原作とは関係ないと思って見ないとこの映画は見続けることが難しい。しかし、原作は存在するのだから、それに触れないわけにはいかない。この映画がつまらないのは、原作が、コレットの全盛期の1920年代(「レ・ザネ・フォル」=Les Années Folles=「狂乱の時代」)を舞台にしているのに、映画は、それよりまえの「ベル・エポック」に時代をずらせている点である。なぜその必要があるのか? 「バブル」のあとに戦争をもってきたかったからかもしれないが、といってこの映画の世界はそれほど「バブル」っぽくもない。
最期まで「何なんだ?」という疑問が消えないのは、原作では、レアの老いへのあせりや不安がひしひしと伝わってくるのに、この映画ではそれが全く感じられないからである。ちなみに、原作にはこんなくだりがある。
あの婆さんと同じに、あたしはもうおしまいなの・・・・さ、ほら、急いであんたの若さをさがしにゆきなさい。あんたの若さは、年増女たちにほんのちょっとすり減らされただけなんだわ。まだいっぱいのこっている。・・・それにしてもあたしはなんでこんなことをしているの、こんなお説教をしたり、心が寛いところを見せようとしたり? わたしがあんたたちふたりについてなにを知っているっていうの? >
コレットの原作では、輝いているのはシェリであり、年上の女のレアは、それをまぶしく見るのだ。原作には、上のくだりの少しあとに、「彼は彼女の目のまえに仁王立ちになり、胸をむきだしにして、髪をざんばらに乱したままじっと聞き入っていた」とあり、続けて、「あまりに欲情をそそるその姿をまえにして、彼女は両手をよじり合わせ、今にも彼にしがみつきそうになる自分の手をがんじがらめにしているのだった」とある。つまり、レアは、老いた自分を哀れみながら、若き恋人に抑えることのできない「欲情」を感じるのである。このシーンに該当すると思われる映画のシーンでファイファーはたしかに熱演を見せるが、そういう「欲情」は表現しなかった。自分の年齢的限界を感じながら、にもかかわらず/それだからこそ高揚する「欲情」――映画は、そういう次元をすっとばしている。
(セテラ・インターナショナル配給)
なかなか効果的なイントロから始まる。少女がマニュキアした長めの爪の指でぎごちなくボールペンを握って紙に字を書いている。それから彼女は、家の外に出る。地面に座り、日が昇るのを待つ。大写しになる彼女の眼が光っている。ヴァンパイアの眼である。やがて日が彼女の上に射し込んできて、彼女の体は消滅する。本当はもっとリアルだが、この表現にとどめておく。そのオシャレな映像をスクリーンで確かめてほしい。ヴァンパイアは日光に弱いという論理を効果的に描いている。彼女は、遺書を残し、この世におさらばしたのだ。
この映画の世界では、ヴァンパイアの比率が人間の人口を上回っている。ヴァンパイアの世界にも、人間の血にめぐまれたヴァンパイアと、血に飢えているヴァンパイアとの階級差が生まれている。その底辺には、血が欠乏してゾンビ状態になった「サブサイダー」の群れもいる。人間は捕らえられ、家畜のように工場で飼育されて、生血を供給している。
チャールズ・ブロムリー(サム・ニール)が率いるブロムリー製薬会社は、エドワード・ダルトン博士の指揮のもと、合成した生血の開発にやっきになっている。社長室で、チャールズがワイングラスで飲んでいるのは、人間の生血である。権力者はそういう贅沢ができるが、だんだん人間の血液が不足して、世界が危機状態になっている。それを報道するテレビのニュースキャスターの目もあやしい金色に光る。
ヴァンパイアにも、人間を家畜化することにためらいを感じている者がいる。エドワードはその一人で、生血を合成する技術を開発することで人間との共存をはかろうと考えているが、エドワードには、それで大儲けをすることしか頭にない。冒頭に出てくる少女は、彼の娘であったことがやがてわかる。娘を死なせてしまったことに対する自責の念はあるのだが、それを打ち消すためであるかのように人間の隷属に専心している気配もある。エドワードのほうにも「家族の悩み」がある。彼の弟フランキー(マイケル・ドーマン)は、人間狩の前衛である軍に入り、人間を追い回している。それが、兄エドワードには苦痛の種になっている。
こういう設定のもとで、ヴァンパイアに襲われる人間を保護する活動グループが登場するのはいかにもありがちなパターンに思われるが、この映画の基本は支配と被支配の「定石」を押さえながら物語を展開するところにある。それは、かなり成功していると思う。オーストラリアの作品だが、企業や軍のイメージはきわめてアメリカ的である。いまの時代、あまり楽天的な現実観はリアリティがない。この映画は、その点で、かなり甘みを抑えている。
この映画は、メタファー的な変換の楽しみが随所にあるところを評価すべきだろう。たとえば、人間の血をめぐって支配と被支配の闘争がくりひろげられる。「血を吸う」というのは、収奪の最も可視的なイメージだ。が、力のある者がその生血を奪い取っている段階では、古典的な収奪である。それが、産業的に合成されるという段階になって初めて、人間の生命や労働が情報/金銭として収奪されるという近代経済の収奪になる。だから、この映画で、ブロムリー製薬会社が人間を生血提供の「家畜」として拘束するのではなく、工業的な方法で生血を製造する方向に向かうのは、近代から脱近代(ポストモダン)への必然的な展開なのだ。それが成功すれば、ヴァンパイヤの生存の危機は逃れられる。生血信仰は、合成血液の技術が進むにつれて、薄らいでいくだろう。人間はヴァンパイアに収奪されなくなるだろうが、逆に今度は人間がヴァンパイアになりたいという欲望をいだくようになるだろう。
ライオネル・コーマック(ウィレム・デフォー)は、一度ヴァンパイアになってしまったが、奇跡的に人間にもどることができた例外的な人間である。彼と出会ったエドワード・ダルトンは、そのことを知り、その方法をシステマティックに再現しようとする。それは一部成功するが、それが今後発展し、ヴァンパイアが人間にもどるようになる気配は薄い。すでに膨大な数のヴァンパイアがおり、救いようのない「サブサイダー」の数も増えている。クローディア・カーヴァンが演じる活動家オードリーは、ライオネルと協力して、人間たちを避難所に隠す活動をしているが、それはあまり成功しない。せっかく避難させても、軍に襲われ、全滅してしまう。ヴァンパイア化の力は圧倒的である。人間にもどろうとしてももどれないジレンマは、この映画では前提である。だから、この映画の終わりは、決して単純なハッピーエンドではない。
終盤は、エドワードとオードリーのラブストーリー的要素もくわえながら、ブロムリー製薬会社の合成血液の生産を阻止するサスペンスに向かう。ヴァンパイアにとって、血液は、食料と麻薬と金をいっしょにしたような存在であるが、それはもともと人間から生まれたものだ。それがいま自家中毒を起こす。この矛盾に直面して、人間はヴァンパイアになりつづけるか、それともヴァンパイアであることをやめるかの選択を迫られる。冒頭の少女は、ヴァンパイアになった(させられた)のち、後者を選んだ。しかし、ヴァンパイア化は、不可避的な事態である。誰も、ヴァンパイアになるのを避けることができないというのがいま進んでいる動向だ。この映画は、にもかかわらず人間ならそういう動向と戦わなければならないといった古典的モラルでドラマを進めているように見えながら、その一方で、ヴァンパイア化がもはや押しとどめることができないということを否定してはいない。
(ブロードメディア・スタジオ配給)
この映画には、韓国の現在を形作っているいくつかの代表的な要素が描かれている。まずは、今日主流のキリスト教とは別の宗教的流れ(祈祷院)、次は賄賂やコネが幅をきかせる旧時代的人間関係、そして最後はビジネスや「合理性」で動く現在進行形の人間関係である。ユ・モッキョン(ホ・ジュノ)がはじめ加わるサムドク祈祷院はキリスト教の浸透以前からある信仰の場である。ユ・モッキョンには、キリスト教的犠牲と奉仕の精神がみなぎるが、同時に韓国の古いシャーマン的な、人を呪縛する力がある。ユを逮捕するチョン・ヨンドク(チョン・ジュエン)は、韓国のパク・チョンヒ(朴正熙)/チョン・ドゥファン(全斗煥)政権時代の権力の特性を代表するパーソナリティである。他方、ユの息子だが、父親と疎遠のユ・ヘグク(パク・ヘイル)と彼の友人で検事のパク・ミヌク(ユ・ジュンサン)は、「民主化」とビジネス合理主義の申し子的存在だ。これらの登場人物のあいだに、力の強い者の手先のように動く、チョンの手下キム・ドクチョン(ユ・ヘジン)とチョン・ソンマン(キム・サンホ)がいる。唯一のヒロイン、イ・ヨンジ(ユ・ソン)は、シャーマン(巫女)的女であり、オモニ(パワフルな韓国的母親)的要素を潜めている―彼女には、今日の韓国の女性が持つ要素は希薄である。
チョン・ヨンドクを演じるチョン・ジェヨンは、1970年生まれだが、特殊メイクで中年から老人までを演じる。が、それと対照的に「現代人」を演じるパク・ヘイルとユ・ジュンサンは、はっきりとその差を浮き彫りにしなければならないが、ユ・ジュンサンはとりわけ、「現代人」を生き生きと演じている。また、幼いときから祈祷院に入り、青春を奪われた形で成人した女を演じるユ・ソンは、その時代から引き離され屈折したキャラクターを演じ、最後のシーンではそういう屈折の果てにある凄みのようなものを表現する。
ユ・ヘグクはたしかに「現代人」ではあるが、村へ来て、チョン・ヨンドクに酒をすすめられたとき、一旦は断るが、「俺の酒がのめねぇのか?!」と脅され、杯を受ける。そのとき、彼が横を向いて杯を空ける。これは、目上の者に対してとる「伝統的」なスタイルで、タバコを吸うときにもこういう身ぶりをする。つまり、ユ・ヘグクは、「伝統」を全然知らないわけではないのである。
チョンの命令のままに人も殺すキム・ドクチョンを演じるユ・ヘジンは、限界状況に直面して、チョンの機能として生きてきた自分の苦悩と苦しみをあらわにする。その演技は、往年の川谷拓三にも似て、迫力がある。
こうした人物配置のもとで起こる出来事は、いずれも韓国の近・現代史を象徴している。物語が1978年から始まるのは非常に示唆的である。韓国にとって1978年は、文字通り時代を画する転換の年であった。この年、大韓航空機銃撃事件が起きるが、1979年には、パク・チョンヒ大統領がKCIAの部長にピストルで暗殺されるという事件が起きる。彼の権力を後継するチョン・ドゥハンは、12月にクーデターを起こし、全土を掌握する。体制に反対・抵抗する学生・市民の運動が高まり、1980年5月には光州事件が起きる。このあたりは、『殺人の追憶』や『光州5・18』にも描かれている。ただし、この映画ではそういうことは一切語られない。そこが実に意味深なのだ。
チョン・ヨンドク刑事が、ユ・モッキョンを逮捕したのち、彼を奉(たてま)って”救済”村を作るのは、必ずしも彼がユの教祖的人格と能力に屈したからではない。彼には、魂胆があった。むしろ、この出来事は、ある種の「クーデター」と考えたほうがよい。チョンが警察権力の人間であることを思うと、チョン・ドゥハンのクーデターがダブる。大げさなことを言うなと言われるかもしれないが、この映画は、マクロなことをミクロに描くのが特徴なのだ。
それから30年つまり現在に時代設定が移る。父親の死を伝えられたユ・ヘグクは、敬遠されながらも、村の秘密を次第に知っていく。父ユ・モキュンを崇(あが)め、彼の唱える「センシク(生食)」―ベトナムでの罪を清めるために熱を加えない徹底した菜食主義―の生活を続けていると思われたチョン・ドクはを長とする村人は、きわめて現実的に生きていた。そのどろどろとした「濁った」姿が次第にあばかれて行く。このへんは、ミステリーとサスペンスの展開である。
信仰や観念を信奉する原理主義と現実生活との乖離は、韓国にかぎらず歴史のなかでくりかえされてきた。祈祷院で起った(ということがあとでわかる)信者たちの集団死は、1978年にガイアナで集団自殺を行った(とされる)人民寺院(Peoples Temple)の事件を思い出させる。わたしは、この事件をニューヨークで知った。すぐにこれが「CIAの陰謀」という噂が流れたが、事実はわからなかった。いずれにしても、極端な原理主義は、多くの場合、破壊的な事態で終末をむかえる。さもなければ、原理主義はよそおいのなかでのみ維持される。ユ・モキュンを奉り、事実上チョン・ドクが仕切る村は、超監視社会であり、チョンの家から村の全体が眺望できるようになっていた。チョン・ドクの家からは、秘密の地下道を通じてユ・モキュンの家に行けるようにもなっていた。いわば、KCIAが仕切る一時期の韓国のミクロ・モデルである。
ユ・ヘイグは、「いまどき(部屋)でネットが使えないのか」と不満をいだく。やっと町まで行ってコンピュータを借りる。用心深い彼は、アクセスの経歴を消すが、チョン・ヨンドクは、ハードディスクを解析してアクセス先をさぐる。このへんも、コンピュータの知識のレベルの高い韓国の現実を描いていて面白い。
ユ・ヘグクは、屈折した関係の友人で検事のパク・ミヌクの助けを借りながら、チョン・ドクとその一味を追い詰める。そのやり方は、いかにも「民主化」の時代の合法的なやり方である。チョンが土壇場で言う台詞が意味深長である。要するに、ユ・ヘグクらが自分の追求を続けるなら、「元大統領」にまで罪が及ぶだろうというのだ。これは、まさに、1997年に有罪が確定した「元大統領」ノ・テウ(盧泰愚)を思い出させる。
しかし、この映画は、「民主化」の将来を楽天的に支持しているわけではない。わずかに最終場面でアップになったユ・ヘグクの表情のなかで示唆されるだけであるが、このシーンは実に面白い。彼は、チョン・ドクの家を仰ぎ見ながら、そのテラスに立つイ・ヨンジを見ている。彼女は、さんざん村人にもてあそばれた女だ。チョンが征伐されたことは、彼女にとっては解放である。ここには、韓国の女性の解放(男性至上主義からの)とリンクすると同時に、それは、必ずしも「民主化」の推進ではないことも示唆する。彼女はどういう女だったのか? 彼女にはオモニ的/シャーマン的な要素があったのではないか? 彼女は、父の忠実な信者だったのか? 父がもたらしたことを憎み、父への復讐の念に燃えていたのではないか? 日本の権力が、危機に瀕するとき、天皇を呼びもどしたように(あるいは危機のワイルドカードとしてつねに天皇を保持してきたように)、韓国には、オモニの文化というものがあり、いわばそれを表面から隠す(そういう形で温存する)ために男が虚勢を張るという伝統があるのではないか? その意味では、オモニが表面に出てくるとき、歴史的には最もソフトな支配が始まるわけである。
(C J Entertainment Japan 配給)
映画には、1950年代から90年代までのちゃんとした時代設定がある。が、これは、カズオ・イシグロ(原作)/アレックス・ガーランド(脚本)の「計略的」なスタイルである。このスタイリッシュでフィクショナルな設定によって、ここで語られる「SF」的なドラマは、ひょっとしたら事実ではないかという批判的な問いを惹起する。たとえば、ヒトラーに時代には一見「SF」的」な人体実験が行われていたことがのちにわかる。ならば、50~90年代にもっと徹底した人体操作がおこなわれても別に不思議ではない。
まだ規律がやかましい時代の学校風景を映しているかのようでいて、この学校に集められている生徒は、クローン技術で生まれた子供で、しかも、ある年齢に達すると臓器移植のドナーになることを運命づけている。そのことに誰も疑問をもたず、ボールがフェンスを飛び越えてもそれを越えてボールを取りに行こうとはしない。彼や彼女らは、逃げるということを知らない。そういう風に設計されているのである。映画は、このへんを最初から明確に描くわけではない。うっかり見ていれが、そういうこともありえるのかと思ってしまうかもしれない。マーク・ロマネクは、このミニマルな設定を見事に映像化している。
キャシー(イズィ・マイクル=スモール/キャリー・マリガン)、ルース(エラ・パーネル/キーラ・ナイトレイ)、トミー(チャーリー・ロウ/アンドユー・ガーフィールド)の3人の幼少時から壮年期までにが描かれる。クローンであることはさりげなく示唆されるだけなので、途中までこういう組合せがたまにいるなと思いながら見てしまうこともありえる。あるいは、ルースが3度目のドナーになり、トミーが最初のドナーになるときになっても、そういうこともありえるかと思いながら見る可能性もある。が、どこか変だという気持ちはつねにあり、それがだんだん大きくなり、最後にはそういうことかと思うことになる。ディテールに恐るべき事実を隠すやり方はカズオ・イシグロのスタイルである。
彼らは、決して逃げようとせず、定められた通りに内臓を提供し、何度目かの摘出手術で死んで行く。その場合、誰もはっきりとは命令せず、強制もせず、彼らも闘わない。しかし、だからといって、葛藤をもたないわけではない。ある意味では彼らは闘うが、それははっきりと「敵」が見える闘いではない。決められた運命の枠のなかで、生き延びる方法を探す。その方法は、結局は「噂」や「伝説」にすぎず、彼らが臓器提供の運命から逃れる方法はない。
人間は誰しも運命に動かされているようなところがある。このドラマでは、3人の運命は、少なくとも最初は誰かによって人工的に定められたはずだが、誰がそうしたのかは最後まであいまいである。その誰かにしても、単に動機付けをしただけで、その運命は、人間の存在そのものから生じるのであって、だからこそ運命なのであり、誰にもコントロールできないのである。
本当に愛しあっていることが証明できればドナーになることから解放されるという「伝説」を聞いて、3人は、マダム(ナタリー・リチャード)の家を訪ねる。そのとき、同じ家にかつての寄宿学校で校長をしていたミス・エミリー(シャーロット・ランブリング)が姿をあらわすシーンは、カフカの『審判』で弁護士の家を訪ねると、途中で奥から裁判官が出てくるシュールで不条理なシーンを思い出させた。
キャシーが手に入れるカセットテープの歌手は、「ジュディ・ブリッジウォーター」(Judy Bridgewater)となっているが、この歌手は実在しない。「ディーディー・ブリッジウォーター」にかけているのだろうか?
ポスターにもなっている美しい桟橋は、サマーセットのClevedon Pierだ。
(20世紀フォックス映画配給)
もし、この映画がFacebook の誕生とその創始者マーク・ザッカーバーグについてのものであるとするならが、これは失敗作である。映画としても、ここにはデイヴィッド・フィンチャーのサエはほとんど出ていない。どうやら彼には(あるいは脚本家のアーロン・ソーキンには)ネットカルチャーや「ビット経済」のことがわかっていないようだ。いや、わかっていながらわからないふりをしてこの映画を作ったのかもしれない。いまの時代、Facebookとマーク・ザッカーバーグは実にアップデイトな話題である。
Facebookが剽窃だとする裁判のための協議のシーンを「現在」として、Facebook創設時代の「過去」にさかのぼるという形式だが、その協議自体が茶番なので、あまり成功してはいない。この協議では、実は、コネや権威や金額といった古典的な価値観がすでに過去のものとなりつつあることがあらわになっているのだが、ザッカーバーグの側を支持するのではないらしいこの映画は、そういう時代の変化のリアリティをとらえていないからである。
映画製作のための予算の獲得、興行収入が至上課題であるハリウッドのなかで戦ってきたフィンチャーには、当面利益や利潤に関心がないというザッカーバーグの(彼にとってはごくあたりまえの)価値観は、本当には理解できないのではないか? 映画製作には金が要る。実績なしでは誰も投資してはくれない。が、ネットは独力でサイトを立ち上げることができる。その結果、想像を越えた反響に出会うことがあるようなメディアであり、そういうロジックのこの世界は動く。これまでのビジネスとは根底から違う世界を既存の世界のなかで描くのは難しい。
映画としては、しかしながら、いいシーンがかなりある。たとえばザッカーバーグ(ジェッシー・アイゼンバーグ)とショーン・パーカー(ジャスティン・ティンバレイク)との出会いだ。1999年に立ち上げたNapstarである期間いい思いをしたショーン・パーカーは、ザッカーバーグの先輩だから、はじめての面会が彼の「独演会」になっても不思議ではない。その後、二人がクラブで会い、ズンズンと体に響くDJミュージックの大音響のなかで叫ぶように話をするシーンもいい。とにかく音楽はかなりいい。
ジャスティン・ティンバレイクの演技は、『ブラック・スネーク・モーン』よりもさらに確信を持った演技で、すばらしい。他方、ジェッシー・アイゼンバーグの演技は、ティンバレイクよりも「地」で行っている感じで、控え目だが、それがこの俳優の持ち味である。明らかにユダヤ系の役を演じることが多いアイゼンバーグだが、その持ち味は、前回の『ゾンビアイランド』のほうがよく出ていた。このあと、主演作としては、日本では未公開だが、『Holy Rollers 』(2010/Kevin Asch)があり、ブルックリンのユダヤ人を演じている。
もし、フィンチャーがザッカーバーグをとらえそこねているとすれば、ジャスティン・ティンバレイクが自信たっぷりに演じるショーン・パーカー(Napstarの共同創立者)も、この映画の描くような人物ではないだろう。映画は、ショーンをいささか1970年代的な人物として描いている。実際の彼がカリフォルニアにこだわるのは、カリフォルニアにシリコンバレーがあるからにすぎないが、映画のなかのショーンは、女と美食とドラッグが好きな「70年代人」である。ちなみにショーンは、1979年生まれであり、ザッカーバーグ(1984年生まれ)と同じく90年代のネットバブルの環境のなかで育った。が、映画のなかのショーンは、フィンチャーやあるいはもっとまえの世代の人間を想起させる。たとえば、エレクトロニック・フロンティア・ファンデイションの創立に関わった(ザ・グレイトフル・デッドの作詞者でもある)ジョン・ペリー・バーローからその「60年代」的な要素を取り去ったような人物だ。いや、まだ70年代のうさんくさくてラディカルなカルチャーのなごりを残していた初期のヤッピーといった感じと言ったほうがいいかもしれない。
この映画は、ザッカーバーグを浮き彫りにするための単純化を犯している。そもそも、Facebookやマーク・ザッカーバーグは、個人を浮き彫りにしようとするような表現形式ではとらえられない要素を内包している。また、この映画でザッカーバーグは、女友達エリカ(ルーニー・マーラ)にふられた腹いせに彼女の中傷をネットにばらまき、その反響からFacebookの原案が生まれたかのように描いているが、そういう心理主義的なとらえかたでは、ハッカーの心情にせまることはできない。ザッカーバーグを演じるジェシー・アイゼンバーグは、なかなかいい演技をしているが、映画がねらっているのは、「自閉症」や「アスペルガー障害」のステレオタイプ的なキャラクターである。しかし、もし、Facebookで起こっていることを理解しようとするならば、こうした精神病理的現象を単なる「病気」やネガティブな傾向としてではなく、むしろ大なり小なり現代人が内に秘めている心的・社会的要素とみなさなければ、現在起こっていることは理解できないだろう。
とはいえ、どんなに単純化しても、そのなかに「真実」があらわれてしまうことは避けられない。Facebookを会社化したときの仲間エドゥアルド・サベリン(アンドリュー・ガーフィールド)が、広告収入を得ようとするとき、ザッカーバーグは反対する。「広告なんか興味がない」と。それは、本当だろう。実在のザッカーバーグは、閉ざすものをこじ開けること、オープンであることに至上の価値を見出し、そのために情熱をかけた。ハッキングとオープン・ソース・コードが彼の基本的な価値観である。映画では、それは、単に「鱒(ます)14匹より1匹のメカジキ」(とショーンが言う)の論理でそうしたかのように描かれるが、このへんはそう単純ではない。無償のプロジェクトであったFacebookは、現在250億ドルの評価額を持つといわれるが、最初から儲けることをねらってもそうはならないのが「ビット経済」なのである。映画のなかで、ショーンが、「起業家? じゃあ、失業者ね」と言うのは正しい。90年代から2000年にかけて、どいつもこいつもが一儲けしようと「フリー」を装った「商売」を試みたが、その大半は失敗した。失敗したという意味は、営利的に失敗したという意味ではなくて、持続しなかったということだ。問題は、持続し、社会や人々のライフスタイルや価値観を変えたかどうかだ。その意味では、映画のなかでショーンが、Napstarは結局は大企業に奪われ、儲けにはならなかったと言われたとき、「いや、CDは売れなくなったじゃないか」―つまり音楽文化を変えた―と言うのは、この間の真実を言い表している。
この映画では、ザッカーバーグがたちあげたサイトへのアクセスが激増したこと、嘲笑的に描かれる双子の兄弟(アーミー・ホーマーの二役+コンピュータ処理)のサイトへのアクセスを上回り、最後には2大大陸にまでユーザーが増えることが強調されるが、ザッカーバーグにとって、またFacebookというネットワークにとって重要なのは数ではない。むしろ、問題はグローバルな規模で<いまここ>をリアルタイムで実現すること―これをわたしはtranslocal と呼んだ―である。
映画のなかでは主題ではないが、ザッカーバーグがパーティに関心がなく、いつも働いているのも、新しいカルチャーだ。そこでは、「働くこと」(労働=苦労)と「仕事」と「遊び」の差異はない。彼は、映画の冒頭でエリカとコミュニケーションがうまくいかないが、それでエリカと切れたとすれば、それは運がなかったのである。彼のような「自閉症」的人間は、一方的にしゃべるのがあたりまえである。そして、今日のコミュニケーション理論も、コミュニケーションは、「キャッチボール」や「伝達」ではなく、もともと個々人が持っているものを開き出すことにすぎず、言語や身ぶりやもろもろのコミュニケーション行為は、そういう開示を刺激し、その「共鳴」(レゾナンス)ないしは「共振」的な震えを起こさせる手続きにすぎないことがわかっている。
ザッカーバーグのような人間が今後あたりまえになれば、「グループ」や社会の意味は変わってくる。人々は、肉体を触れ合うかたちでの「連帯」や協力よりも、リモートな関係を好むようになるだろう。インターネットのソーシャル・ネットワークは、そのまだ素朴で荒い形態にすぎない。すでに教育も、オンライン・エデュケーションに見られるように、学生を教室に集めるのではなく、それぞればらばらに、世界中どこにいても、「学校」教育を受け、卒業まで出来るようになりつつある。ショッピングは、すでにネットショッピングが店舗販売を侵略しつつある。むろん、だからといって、身体的な場やものがなくなるわけではない。その棲み分けが厳しくなるのである。すくなくとも、この映画は、こういう今日的な事態はとらえそこなっている。
(ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント配給)
顔の見える出演者は、イラクの「テロリスト」に拉致され棺桶に容れられて地中に埋められる運送会社のアメリカ人ポール・コンロイ(ライアン・レーノルズ)だけで、あとはすべて電話を通じた声だけの出演という実にクールな演出。最初から最後まで映るのはその棺桶の内部だけだが、それで95分間、観客の目を引きつけて離さない。見事である。
イラク戦争以来、運送会社の社員といっても、「戦争の民営化」で多くの戦時作業が民間会社にアウトソーシングされ、食料や軍需物資も「民間の」運送会社が運搬するのがあたりまえになった。ブッシュ政権で副大統領を務めたディック・チェイニーは、自分の息のかかった戦争株式会社からうまい汁を吸っていたという。ポール・コンロイもそういう会社の作業員の一人であり、ある意味では「犠牲者」だが、攻撃されたイラク側から見れば「加害者」である。このへんの屈折が、この映画では実に鋭く、かつ皮肉に描かれる。
棺桶のなかには、拉致した者が意図的にケータイ、懐中電灯、発光剤などを彼といっしょに置いてある。意識を失っていたポールは、意識をとりもどすと、自分の(これはまえから持っていたらしい)ライターで周りを照らしてみて、愕然とする。箱に閉じ込められていて出られない。思い出すのは、兵士も乗せていたトラックが武装グループに襲われ、トラックを爆破されたこと。どうしようと思ったとき、かたわらにケータイがあった。文字はペルシャ文字の表記(あとで基本設定で英語にも替えられることに気づく)。それを使って電話をすることを思いつく。最初は自分の妻へ。が、外出していて電話は留守番モードになっている。
電話をかけようと思えば世界中にかけられるというボーダーレスな状況がここにあるが、その一方で、今日ほど電話が不便なコミュニケーション装置になってしまった時代はない。「テロの脅威」もあるが、それ以前から、デジタル技術を使ってさまざまなプロテクトをかけたり、いままで生身の人間がやっていたことを自動化したりする傾向がエスカレートした。その結果、必要な情報が電話では得られない。大きな組織に電話すると、ダイアルの1を押せとかいうように、かけた方がいろいろと選択をしなければならない。困ったことに、こういうプロテクトと自動化が、生身の人間にまで逆影響してきて、電話の交換係など、「おまえロボットかい?」といちいち確認したくなるような紋切り型の受け答えしかしない。この映画で電話の応対をする人間の「ロボット」的な対応は、実際の現実である。あるとき、わたしは、アメリカの会社にかけて出た電話の相手に対し、本気で、「Are you an android?」と尋ねてしまったことがある。「android」というのは、いまはやりのOSのことではなくて、映画『ブレードランナー』に登場した、人間と区別のつかないロボットのことを言う。「はあ?!」と、急に人間らしい声になったので、「Are you a real person?」と訊きなおすと、「Yes, real」と答えたが、その声は歯車機械のようだった。
アンドロイド化社会では、契約や法律が実際よりも優先され、弁護士の法的操作が大手を振ってまかり通る。会社は、訴訟のリスクを抑えるために、契約事項を詳細に決める。この映画で、主人公は、雇い主の会社から、手際よく解雇されてしまう。「事故」の補償をしなければならなくなるのを会社は巧妙に回避したのだ。そのくだりが、滑稽かつ恐怖のブラックユーモアで描かれる。
(ギャガ配給)
どちらかというと、脚光を浴びることが少ない人生を歩んできたらしいシングル・マザー、カティ(アレクサンドラ・ラミー)の話。冒頭、彼女が福祉委員に泣きついているシーンが出る。これは、話の筋からいうと、もっとあとの出来事で、時間系列からすると、仕事場でたまたまスペインから来た労働者のパコ(セルジ・ロペス)に会い、一目ぼれして、トイレでセックスをする。期間の経過の詳細は描かず、彼女と彼はいっしょに住み、赤ん坊がいる。リッキーだ。すでに長女リザ(メリュジーヌ・マヤンス)がいるから、4人家族というわけだ。が、パコは、カティが育児に追われ、相手にしてくれないのがこうじて、出て行ってしまう。よくありがちな話。しかし、その後、そのリッキーに異変が起きる。なんと背中に羽がはえてきたのである。
最初は赤ん坊の背に赤い斑点が出るだけだったが、やがてなかから骨のようなものが出てくる。しかし、カティは全然騒がないのが面白い。このへんが、フランソワ・オゾンのうまいところだと思う。ある種の「無知」というか、結局はしたたかさでもあるのだが、本当は大変なことなのに、自分の知っている知識で処理しようとする。へたをすると不幸のもとになったりもするのだが、その生真面目で「ロワー」な感じをアレクサンドラ・ラミーは実にうまく演じる。
オゾンは、アレクサンドラ・ラミーに「ごく普通の女」のイメージを求めたらしい。オゾンの場合に「普通」とはワーキングクラスのという意味だ。だから、あえて撮影では「ノーメイク」を彼女に求めたという。それは、十分に成功したと思う。経済的に恵まれた生活をしてきたわけではない女性、教養が特にあるわけではない。職場でも恵まれないから、さびしくなると、簡単に男と寝てしまったりする。そのあげく、妊娠し、子供を生んで、さらに生活に縛られることになる。しかし、人間が嫌いなわけではなく、子供を愛し、男が逃げて、またもどっても受け入れてしまう。利口な友達なら言うだろう―「ばかねぇ」「別れてしまいなさいよ」。でも、彼女にはそれができない。困った男や夫を持つ女の典型。オゾンは、そんな女性にプレゼントをする。生まれた子が天使になる。すばらしいアイデアではないか!
生まれた子供が「天使」だったといっても、そこを決して「形而上学的」に描かないところがいい。羽が生えて来る過程と空中を飛ぶ姿を(むろん特殊撮影を使ったとはいえ)リアルに描く。最初わたしは、登場する赤ん坊のリッキーを複数の幼児を使って撮ったのかと思ったが、これが、アルチュール・ペイレという1人の子供だけで撮ったのだという。笑顔が実にいい。むろん、そう撮ったからなのだが、この表情を撮り切るには相当な苦労があったらしい。
(アルシネテラン配給)
この映画は、ロンドンに住む作家志望の若者ルードヴィック(ルパート・フレンド)が、タイプライターで原稿を書くシーンから始まる。つまり、すべてはこのルードヴィックの視点で描かれる。しかし、スクリーンに映し出される「主人公」パルフリー夫人(ジョーン・ブロウライト)は、この若者のこのロマンティックなイメージとは若干齟齬(そご)がある。少なくともわたしは、この作者(ルードヴィック)に同化してパルフリー夫人をルードヴィックのように愛する気にはなれないのだ。一体パルフリー夫人のどこに魅力があるというのだろうか? ジョーン・ブロウライトは、長い芸暦の達者な役者であり、パルフリー夫人を破綻なく演じている。おそらく、彼女が演じるパルフリー夫人はまさにわたしが受け取るような人物として演じられているのだろう。つまり、ルードヴィックも、本来なら決して愛を感じなかったはずの相手なのである。それが、不思議な展開を見せる――まさに、そこがこの映画の見せ場なのだろう。
二人のあいだに生まれるのは、単に年令をこえた男女愛ではない。が、それは、単に親子や祖母・孫のあいだに生まれる情愛ともちがう。ルードヴィックには恋人らしい相手がいるが、最初の一人は、彼とパルフリー夫人との関係を「まるで『ハロルドとモード』じゃない」(すなわち親子歳の恋)とけなし、ルードヴィクのもとを去ってしまう。やがて、パルフリー夫人と3人で旅行をする女性が登場するが、ここで三角関係が生まれるわけではなく、といって、パルフリー夫人が一段高い位置で二人の関係を黙認するというのでもなく、ルードヴィックとパルフリー夫人との関係は、彼と若い彼女との関係とは全く別の関係であるかのように進行する。が、この関係は何なのか? 老人に対する若者の哀れみの関係か? むろん、そうではない。
「普通」、スコットランドくんだりから出てきた老人が、ロンドンで親切にされたら、警戒するのがあたりまえである。しかも、その相手は、定職がなく、バスカー(大道芸人/実際には地下鉄の通路でギターを弾いて歌っている程度で、特殊な芸を見せるわけではない)である。が、パルフリー夫人は、最初から彼を信じ込む。一期一会の関係なのである。
映画は、ルードヴィックが、タバコを吸いながらレミントン・ランドのタイプライターをたたいているシーンから始まる。映画の物語を彼がタイプして展開していくというよくある形式である。2000年代にタイプライターを使っているということは、相当の「変人」である。こだわりの人である。その後、ルードヴィックは、「自分は間違った時代に生まれたと思う」と彼女に言う。肉体的には若いが、心はパルフリー夫人の時代にあるというわけだ。とすれば、彼女がルードヴィックのなかに、いまは亡き夫の面影を見出しても不思議ではない。
全編にわたって、ルードヴィックは、パルフリー夫人にサービスのし通しである。老いてくるとよく転ぶが、彼女は、ある日路上のごみにひっかかって転倒する。その姿をルードヴィックが、半地下にあるフラットの窓から目撃し、助けに飛び出す。これがきっかけで、二人が知り合うのだが、彼は、彼女の頼みでホテルの長期滞在者たちに孫のふりをするのを頼まれたりする。それを彼は素直にきくのだが、パルフリー夫人が彼のなかに見ていたのが、結局は、彼女の亡き夫のイメージだということになると、彼としては割が合わなくはないか?
実際、ルードヴィックはパルフリー夫人によく尽くす。ルードヴィックはあるとき彼女に、ズッキーニのトマト味のタリアテッレを手際よく作って食べさせる。そのとき、ルードヴィックは、恋人とゲームでもするように、「好きな曲は?」という質問をする。パルフリー夫人は、「For All We Know」と答え、「若いから知らないだろう」と言いながら、歌詞を口ずさむ。すると、ルードヴィックは、ギターを爪弾きながら、For all we know we may never meet again.・・・と歌い始める。それを聴きながら、彼女は涙ぐむ。ここで、ルードヴィックがある種のドンファン的誘惑者の意識を持たなかったとは言えない。が、この映画では、そういう「不謹慎さ」は決してあからさまには描かれない。ルードヴィックは、終始「誠意の人」でありつづける。
パルフリー夫人が好きな「For All We Know」は、1930年代にヒットし、その後非常に多くの歌手が歌っている。ジャズでも、ビリー・ホリデイ、ナッツ・キング・コール、ダイナ・ワシントン、サラ・ヴォーン、ニーナ・シモン、カーメン・マックレイといった代表的なシンガーが歌っているほどポピュラーな曲である。この歌はクロージング・クレジットでも出てくるが、歌っているのは、ローズマリー・クルーニーである(→歌手と歌詞)。だから、バスカーのルードヴィックが知らないわけはないのである。しかし、パルフリー夫人は、そのことを知らないで、彼がその歌を知っているというだけで感動してしまうのは、単純すぎるのである。が、それは、それとして受け取る必要がある。つまり、パルフリー夫人は、「普通」のうぶな女性なのである、と。
ルードヴィックのフラットのまえで転ぶとき、パルフリー夫人がかかえている大きな本は、その表紙から、『チャタレー婦人の恋人』だとわかる。こういうタイトルの本をこれ見よがしに持ち歩くというのは、どういう感覚だろうか? いまの時代にこの本が、「破廉恥」でもなんでもないとしても、そのタイトルをこれ見よがしに見せながら街を歩く高齢の女性というのは、やや不可思議である。そういえば、ホテルの食堂に初めて姿をあらわすときも、「正装」(といってもダサい)をしてきて、ホテルの長期滞在者たちを驚かせる。このシーンで、彼や彼女らの癖が短いショットで次々に紹介され、みんな一筋縄の人間ではないことが示唆される。
この映画を一度見たときにはわからなかったのだが、この映画は、老女と若者の出会いという設定にありがちな老人の「色気」を極力消している。最初に見たときは、ジョーン・ブロウライトが演じるパルフリー夫人の「老いの気難しさ」のようなものがストレートにただよってきて、なじめなかった。別にそんなに魅力があるように見えないパルフリー夫人にルードヴィックが惹かれるのも、蓼食う虫も好きづきと思いながらも、なんか納得がいかなかった。ジョン・ブロウタイトの顔が「くしゃっと」しているせいもある。が、これは、こういう設定の老人は、絵に描いたような「色気」や「高貴さ」をただよわせていなければならないという映画の俗見を否定しているのである。最初の方で語られるように、パルフリー夫人は、スコットランドからやって来た「田舎者」で、「ずっと誰かの娘で、誰かの妻で、誰かの母親だった」のであり、「普通」の老人なのだ。スポットライトが当るような人生は送ってこなかった。だから、彼女は、特別であってはならない。そして、相手の男のほうは、そういう老女に夢をはぐくませるような風貌をしている必要がある。ルパート・フレンドは、まさにそれにうってつけの俳優であり、その感じを十分出すことに成功した。
エリザベス・テイラーの原作の舞台は1960年代だが、映画は時代設定を現代にしている。映画のなかで、ホテルに長期滞在するする老人たちが、テレビルームで『セックス・アンド・シティ』を見る話がある。これは、UKでは1999年から2004年まで放映された連続テレビドラマのことだと思う。マイケル・パトリック・キング監督の映画ヴァージョンの公開は2008年である。ここから考えると、映画の時代設定は、2000年代の初めか前半であって、2000年の後半ではないことになる。
パルフリー夫人がタクシーでホテルにやってくるとき、タクシーの運転手が、「英国でおいしい料理[excellent cuisine](なんて期待できませんや)」と言い、彼女が宿泊したホテルの料理もえらくマズそうに描かれているが、2000年後半のロンドンの料理は、かつての「汚名」を挽回し、excellent cuisineが食べられるようになる。
パルフリー夫人が、タクシーでホテルに向かうとき、ここが自分のホテルかなと一瞬思うが、通りすぎてしまうホテルは、「The Gresham Hyde Park」という看板からすると、4星ホテルである。そしてタクシーが彼女を連れて行くの邦題になっているクレアモント・ホテルであり、表に見えるボードには、「Lancaster Gate」とあるから、ハイドパークに近いエリアのホテルだ。それからしばらくして、彼女が路上で身なりのいいイスラム系の女性とすれちがい、彼女が一瞬驚くシーンがある。イスラム系の移民は、イースト・ロンドンを中心に増え続け、2000年の後半には、イスラム系の人間を見ても(少なくともロンドン子は)驚かなくなっているから、このシーンからすると、映画の時代設定は2000年の比較的早い時期だといえる。
どこをとってみても、パルフリー夫人は、ごく「普通」の老女である。好きな映画は?と聞かれて監督デイヴィッド・リーンの『逢引き』と答えるのもそうだ。
ルードヴィックは、病気で倒れ、入院したパルフリー夫人を最初に見舞ったとき、ウィリアム・ワーズワースの詩「I wandered lonely as a cloud(わたしは雲のようにさ迷い歩いた)」で始まる詩を読んで聞かせる。彼女が好きな詩だからだ。このへんになると、年令やジェンダーの決まりきった型を越えた愛のようなものが浮かびあがってきて、映画としてユニークな表現になっているのではないかと思う。何度目かの見舞いのとき、パルフリー夫人は、彼を死んだ夫のアーサーとの結婚式のころを思い出す。「もう一度あのころに戻りたいわ」と言うとき、明らかに、彼女はルードヴィックをアーサとみなしている。彼は、優しく「戻ろう」と言う。彼女は、安心したように目をつむり、それが最期の別れとなる。
身近な者がだんだん死んで行き、肉親だからといって頼りにならなくなる老いの孤独。そんなとき、「男」と「女」との愛とも異なる別種の愛――しかし、それは「純愛」と呼ぶのは単純すぎる――が生まれたら、どうなのか。この映画はそんな仮定を映像化している。
(クレストインターナショナル配給)
フランソワ・オゾンの作品は、比較的よく見ている。シネマノートでも、『焼け石に水』(1999)、『8人の女たち』(2002)、『スミング・プール』(2003)、『ふたりの5つの分かれ路』(2004)、『ぼくを葬る』(2005)、『RICHYsリッキ』を取り上げた。
だんだんエンターテインメント的な要素を増してきたが、基本のところでは、ジェンダーへの今流の意識や、底辺やアウトサイダーとまではいかないが、「庶民」の側に味方する姿勢は一貫している。
この映画の舞台は1977年の北フランスのとある町の「ブルジョワ」家庭。パリの社会的雰囲気から若干ズレている。1977年といえば、イタリアでは体制レベルでユーロコミュニズムが生まれ、もっとミクロなレベルでは過激なアウトノミア運動が起こっており、その影響はフランスにもあらわれた。ミシェル・フーコーは精力的に活動し、ガタリとドゥルーズも時代を射抜く新しい概念を提起しはじめていた。
といって、時代は思想で動くわけではない。思想は、時代の動きを捉えたり、先取りしてスケッチするだけだ。もっと物理的な動きが時代を決定する。一つは、工業化から脱工業化/サービス・情報化への動き。腕力や声の大きさよりも、知力が優先される時代への移行。当然、既存の工業は、転換を強いられる。スザンヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)は、雨傘製造会社の創業者の娘だが、仕事は彼女の夫ロベール(フィリップス・ルキーニ)が継ぎ、彼女は主婦の位置にとどまっている。すでに結婚30年がすぎた。夫は、浮気を繰り返し、会社の秘書ナディージュ(カラン[カリン]・ヴィアード)と出来ている。スザンヌは、それを許容している。「貞淑」な夫人然としている彼女にも過去がある。結婚してまもなく、トラック運転手で(いまでは市長の)ババン(ジェラール・ドパルデュー)と行きずりの浮気をしたことがある。父の会社の会計士とも寝たことがある。このへんは、70年代のフランス喜劇風なタッチで描かれる。ルキーニの「おとぼけ」演技ががとりわけいい。
1977年というと、フランスの女性の位置は相当変わってきたはずだが、この映画の夫の姿勢は、ジュリー・ロペス=クルヴァルの『隠された日記』で副次的に描かれた1950年代のそれに近い。彼は、妻を育児と家事に囲い込み、外に出そうとしない。会社の労組に対しても50年代以前の古い発想で臨み、反発を食らっている。が、それが、組合のストと、それに続く夫の急病で突如変わる。スザンヌが社長代理を務めることになったのだ。その結果は、会社を継ぐことには関心がなかった「芸術家肌」の息子ローラン(ジェレミー・レニエ)もデザイナーとして加わえ、スザンヌの改革は傾いていた会社の再建を果たす。要するに、産業構造の変化を受け入れ、旧態然とした商品を生産するのではなく、デザイン効果を取り入れた商品の生産、労働者の待遇改善をはじめる。
ストのとき、労働者が会社のトイレは「トルコ式」の古いままだという苦情を言う。トルコ式トイレというのは、フランスやイタリアには80年代にも残っていた。便器はなく、穴だけが空いている。水を流すと「床」に水があふれてきて、どうしようと思ったことがある。棒が立てかけてあったので、それで穴を押したら、水が引いた。マリアローザ・ダッラコスタに連れて行かれたパドバのレストランでの話である。
事実を描くというより、事実を誇張して、滑稽に描くスタイルだから、ある意味ではノスタルジックな映画である。スザンヌがババンと会ったときのシーンなどでときどき流れる音楽は、セルジオ・レオーネが『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』で使ったエンニオ・モリコーネのテーマ音楽にちょっと似ている。
ブルジョワジーの娘スザンヌには、「労働者/プロレタリアート」コンプレックスがあるらしい。最期のほうで、怒ったババンに置いてきぼりにされたスザンヌは、街道で車をヒッチハイクする。止まった車を運転するのは、「労働者」のにおいがムンムンしそうな男。それを演じるのが、『Ricky リッキー』で「夫」役を演じていたセルジ・ロペス。そのときのセザンヌの目つきが面白い。昔、ババンにやはり街道で初めて会ったときの記憶と重なって、欲情が高まっていくような感じ。
冒頭、カトリーヌ・ドヌーヴがジョギング(ちなみに、「ジョギング」がはやりはじめるのは、1970年代のニューヨークからだった)をしていて、鹿やウサギやリスを見かける。が、そのウサギは交尾している。フォランソワ・オズの作品には、あっけらかんとセックスするシーンを挿入するパターンがある。それが彼流の一つのユーモアになっている。『RICKY リッキー』でも、知り合った二人が早速トイレでセックスする。ただし、このスタイルは、いかにも70年代流で、いまでは古い印象をあたえるかもしれない。
この映画で、カトリーヌ・ドヌーヴは、最後に歌まで歌ってしまい、終始ノリノリである。見るまえ、この映画はジャック・ドゥミの『シェルブールの雨傘』を意識しているのかと思ったが、実際にはそれほどではない。『シェルブールの雨傘』では「泣き節」に終始したドヌーヴも、ここでは晴れやかに「人生肯定」の歌(C'est Bon La Vie)を歌う。
『シェルブールの雨傘』は、アルジェリア戦争に出征した男と彼を待てなかった女との悲恋の物語であり、これでもかこれでもかと強まるメロドラマの背後には強烈な反戦意識がみなぎっていた。その最終場面は、1963年となっていた。『しあわせの雨傘』の最終シーンでドヌーブが歌う「C'est Bon La Vie」は、ナナ・ムスクーリの1967年のヒットだと思う。当時、「人生はすばらしい」とは、皮肉でもあったが、それから10年以上もたつと、とりわけ女性にとっては、皮肉の要素は薄れただろう。が、70~80年代には元気一杯だったフェミニズムも一回転したいま、女性たちも、単純に「セ・ボン・ラ・ヴィ」とは言ってはいられない。
(ギャガ配給)
ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ【前出】。
100歳の少年と12通の手紙【前出】。
裁判長!ここは懲役4年でどうすか【前出】。
スプリング・フィーバー (中国の現状からすれば、「大胆」な表現といえるが、「挑発」が見え透いている)。
ラスト・ソルジャー (「里」→「国」→「帝国」の動きには反対なのだろうが、ジャッキーの熱意の焦点があいまい)。
ハリー・ポッターと死の秘宝 Part1 (ハリー、ロン、ハーマイオニーの「三角関係」の屈折した描き方がスキゾ分析的でなかなか面白い)。
黒く濁る村 "苔"【前出】。
クリスマス・ストーリー【前出】。
レオニー (見過ごしたが、イサム・ノグチの母親の話だから是非劇場で見るつもり)。
アメリア 永遠の翼【前出】。
リッキー【前出】。
デイブレイカー【前出】。
最下段の「追記」で、それ以前に書かれた以下の行の意味も、ニュアンスが変わらざるをえない。この映画に対するいまのわたしの評価は、非常に高い。
この映画は「死後の世界」や「死」についての深い考えを提示しているわけではない。といって、こけおどしやはったりでそれらを取り扱っているわけでもない。「死後の世界」や「死」について何か深い考えを期待したら、裏切られるだろう。霊能者のジョージ(マット・デイモン)が相手の両手を握ると、電気に触れたようなショックとともに、スクリーンに彼が見る死者(手を握った相手の近親者など)の姿が映るというシーンは、すでにデイヴィッド・クロネンバーグが『デッドゾーン』(The Dead Zone /1983) でクリストファー・ウォーケンにやらせた身ぶりであり手口である。この映画は、むしろ、「死後の世界」や「死」について生者(しょうじゃ)が持っている観念を媒介にして構築したラブストーリーとして見たほうが面白いし、イーストウッドのチャレンジのディテールに接近できる。
ある意味でイーストウッドは、ラブストーリーしか描いてこなかったともいえる。その媒介を彼は暴力や戦争や犯罪に求める。今回彼は、その媒介を「観念的なもの」にした。ただし、大衆路線というかエンタテインメントというか、そういう路線を決して踏み外さないイーストウッドは、その「観念」を哲学や宗教の概念的な観念にではなく、幽霊や亡霊としてわれわれが知っている観念を選択する。うまいやり方である。
イーストウッドの映画では、つねに強者があらわれる。拳銃のあつかいが抜群である場合もあるし、指導能力が秀でているリーダーの場合もあるが、彼らは、「媒介者」として姿をあらわし、人と人とを結びつける。媒介者を登場させるイーストウッドのやり方の根には、彼のキリスト教的信仰があるかもしれない。近年、その媒介者は、腕っぷしの強いヒーロー的人物よりも、もっと非暴力的で観念の洞察に強い人物に傾斜してきている。この映画の霊能者のジョージは、まさにその典型だ。
ラブストーリーは、多くの場合、愛することの難しさを前提にする。この映画にイーストウッドが登場させる人物たちは、すべて、人を愛することへの困難に直面している。まあ、現実にそうでない人なんていないのだが、映画ではその部分を切り取って強調する。
パリからディレクターといっしょにインドネシアに仕事に来て、逢引をしているマリー(セシル・ドゥ・フランス)は、津波(ハワイのマウイ島で撮り、高度のCGI処理がなされているが、津波の規模は、2010年10月の「インドネシア・スマトラ沖津波」を思い出させる)に襲われ、臨死体験をする。その経験は、帰国してからの仕事にまで及び、まさに彼女の人生を変えてしまう。テレビの人気キャスターとしてその関心は「メジャー」路線だったのに、次第に「ニューエイジ」的な問題に関心を持ち、キャスターの座も降ろされてしまう。予定されていた本の企画もボツになる。
並行的に描かれるのは、ロンドンに住むマーカスは、双子の兄を交通事故で失い、そのショックから抜けられない。母親(リンゼイ・マーシャル)は薬物依存のため、二人で助けあって生きてきた。兄の死後、母は保護施設に入り、彼は里子に出される。嫌いではない母との別れの寂しい思いのなかでますます兄への思慕がつのる。兄の死は自分のせいだったという思いも捨てられない。兄と会いたいという思いは、やがてインターネット(やはりGoogleとYouTube)の霊能者のサイトに導く。が、実際に会ってみた相手はみな彼を失望させた。しかし、最終的にジョージと会うことになるのは、予想のつくことだが、なかなかいい話に仕上がっている。
人を助ける側のジョージの方も、愛に満たされているわけではない。死者の霊に会うことはできるが、自分の心を伝える相手はいない。兄は、彼の超能力で商売をしようとしている。兄が連れてくる客の依頼で霊を読むのにうんざりしている。隠者のような生活をしている彼は、生活を変えようとして料理学校に入る。そこでペアを組むことになるのが、ブライス・ダラス・ハワードが演じるメラニー。このシーンが実にラブリーであり、ハワードの演技がすばらしい。ここでは、シェフの指導のもとに、トマトをきざんだり、料理の味見をしたりするのだが、メラニーが目隠しをし、ジョージがスプーンに少量の料理かソースを彼女の口にもっていくシーンが実に(英語的なな意味で)エロティック(インタヴューではそんな感じではないから、彼女は、中谷美紀のようなタイプの女優なのかもしれない)。目隠しをしてこれだけの演技が出来るハワードは凄い。しかし、この愛は実らない。メラニーがかかえる霊を読んでしまったために、彼女は彼のもとを去る(このへんはフランス映画的――イーストウッドはこの映画を「フランス映画」風に撮りたかったらしい)。
最後は、グランド・ホテル方式の3人の出会いだが、もともとラブストーリーなのだから、終わりがパターンだからといってこの映画の質を貶(おとし)めるわけではない。パターンで始まったのだから、パターンで終わればいい。その舞台となるジョージが観光で訪れるロンドンのチャールズ・ディケンズ博物館と、たまたまアレキサンドラ・パレスで開かれる設定のロンドン・ブックフェアー(そこにマリーの新著が並べられる)とは、よく考え抜かれたスタイリッシュな選択だ。
【追記/2011-02-11】先日、復刊された『ele-king』のために2010年公開映画の回顧を書いてくれと三田格からたのまれた。う~ん、星の数ほど公開された作品を短文で紹介も含めて書くのは難しいなと思いながら、ふと思いついたのが、「ひきこもり」という観点から見直してみることだった。で、それをいざやってみると、けっこうこのテーマを発見できる作品が多いのだった。ビフォとも大分まえからメールなどで意見交換してきた(最近、彼の『ノー・フューチャー』が翻訳された)が、「ひきこもり」現象というのは、日本独特の傾向ではない。それは、ポスト情報資本主義社会の気分であり、ライフスタイルの一つである。それが「病理」とみなされるのは、メインストリームの社会の諸条件がまだその動きに対応できていないからである。「ひきこもり」については、他所でも書いているので、くり返さないが、この『ヒアアフター』について最近『スポーツ報知』の「シネマ斬り」の短文を書かなければならなかったとき、この映画は、「死後」の世界などの映画であるよりも、むしろ、「ひきこもり」に対するクリント・イーストウッドのアプローチなのだなということに気づいた。
「ひきこもり」もいろいろだが、この映画の登場人物たちは、みなある意味での「ひきこもり」である。その直接の動機は、違うのだが、マリー(セシル・ドゥ・フランス)は津波の経験で、マーカスは兄の交通事故死で、そしてジョージ(マット・デイモン)は霊能という能力に気づいたことで、「普通」の世界から「ひきこもる」ことになる。わたしは、「ひきこもり」自体が不幸だとか危険だとか思うのはおかしいと思う。他人とつきあいたくなければ、それでもいいだろう。「ひきこもり」は、他人とのつきあいにおいてある種の「距離」が必要なのだが、それが出来ないために過度の孤立をしたり、「現実」を拒否したりする。彼や彼女らの不幸は、「ひきこもり」自体から来るのではなくて、「ひきこもり」に対する社会の一面的な対応の結果から生まれる。
『ヒアアフター』を「ひきこもり」という観点から見直すと、この映画は、「ひきこもり」を無理やり「ひきもどし」たりはしていないことに気づく。マリー、マーカス、ジョージの3人は、自分の意志で出会うのであり、その出会いがもたらす感動は、彼や彼女らの自発的な行動が、地理的には長大な距離(東南アジア[ロケはハワイ]、サンフランシスコ、ロンドン等)を飛び越え、かつ、計画や計算とは無縁のハプニング的偶然の帰結としてたがいに出会わせるにすぎない点である。なお、その媒介者として、スイスで独自のクリニックを開いているルソー博士(マルト・ケラー)の存在は重要で、この医者がどう描かれているかを検討する必要がある。
(ワーナー・ブラザース映画配給)
前作『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』と同様に、ある種70年代”ドラッグノリ”が基本にある。ドラッグでは苦い経験を積んでいるロバート・ダウニー・Jr.がこの映画では”シラフ”で、お相手のザック・ガリフィアナキスのほうがドラッグ漬けの雰囲気なのも笑わせる。自分のではない手荷物にマリワナパイプが入っていて、係官からとがめられる(ただし、危険物のチェックをする役目のこの係官には、薬物を拘束する役目はない)と、ロバート・ダウニー・Jrが、「わたしは生まれてこのかた薬物はやったことがありません」と真顔で言うのも、笑わせる。
しかし、全体として、イーサンという自己中の男を演じるザック・ガリフィアナキスのパターンが、『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』と変わらないので、ロバート・ダウニー・Jr. の役柄も生きない。ロバート・ダウニー・Jr. が演じるピーター・ハイマンは、プライドの高い建築家で、妻が出産まじかで、出張中のアトランタからロスに帰ろうとしているという設定。ロバート・ダウニー・Jr. は、そういう状態で神経がイライラしている感じをうまく出しているが、基本的に意志の強よそうなキャラなので、ザック・ガリフィアナキスが演じるイーサンのような困った人物によってきりきり舞いさせられるとしても、その困り度が深刻に映らない。どうせ、ボカっと殴るかして終わりにしてしまうのではないか、あるいは知的に解決してしまうのではないかという予想をいだかせるのだ。が、実際にはそうはならないのだから、ザック・ガリフィアナキスの相手としては、ロバート・ダウニー・Jr. よりも、「弱さ」を演じられる俳優のほうがよかった。
ピーターにはいやいやの道中、イーサンは、彼をドラッグディーラの家に連れて行く。ハイディというディーラーを演じているのがジュリエット・ルイス。おそらくこの映画で一番うまい演技を見せるのは彼女かもしれない。その身体的存在感そのままに、リリティのある演技をしている。ちなみに、彼女は、10代から20代にかけてドラッグにはまったことがある。現在、サイエントロジーの教団員だが、「22歳のとき、サイエントロジーのリハリビ・プログラムのおかげでドラッグをやめることができた」と語っている。
(ワーナー・ブラザース映画配給)
GAMER (ゲームの内と外にとどまらず、位相の異なる現実をシームレスに移動する映像は見事。メディア依存症的世界のすぐれたアプローチでもある)。
武士の家計簿【前出】。
白いリボン (コメント)。
クレアモントホテル【前出】。
ロビンフッド【前出】。
レバノン (タンクの照準から見た戦闘シーンがユニークで新しい)。
人生万歳! (ウディ・アレンのそっくりさんに会ったようで気持ちが悪かった)。
バーレスク【前出】。
最後の忠臣蔵【前出】。
ゴダール・ソシアリスム【前出】。
シチリア!シチリア! 【前出】。
死なない子供、荒川修作 (以前、ニューヨークのアップステイトで開かれたフルクサス回顧展で荒川のオナラパフォーマンスを見た。「日本」の枠には収まらないアーティストだった)。
エリックを探して 【前出】。
デザートフラワー【前出】。
映画は、フィレンツェから100キロぐらい離れたアレッツォという小都市でイギリスの作家のジェイムズ・ミラー(ウィリアム・シメル)が新しく出た自著の宣伝講演をする会場シーンから始まる。本人はなかなか登場せず、ゲスト講師のいないテーブルがながながと映され、場内の声と音が聞える。やっとあらわれたジェイムズは、ある意味ではふてぶてしく、ある意味ではドジな男に見え、その描き方は最初から両義的である。講演中彼のケータイが鳴ってしまうと、講演を中断して電話に応えるのである。そのときの感じは、「嫌な奴」でも、まるっきり「ドジ」な奴というわけではなく、観客も「あっけにとれれている」ようでもあり、面白がっているようでもある。この両義性こそが、この映画の基本にあるものだと思う。
やがて、この会場にジュリエット・ビノシュがあらわれ、前の席に座る。映画ではただ「彼女」という役柄になっている。「彼女」は迷わず、この講演を企画したらしい男の隣に座る。ということは、「彼女」とジェイムズとの関係が赤の他人同士だとは思えない。しかし、この映画の「解説」のなかには、「彼女」がジェイムズのファンで、「彼女」がこの機会に彼に接近し、この映画が描く奇妙な「ラブ・ストーリー」が展開するかのような解釈をしているものがる。また、ふたりは、夫婦でありながら、他人同士を装い、ある種のゲームを披露するというふうに解釈したものもある。
しかし、最初の解釈では、後半の展開が矛盾をきたす。双方が知り合いでなければ知らないことをたくさん口にするからだ。また、もうひとつの解釈は、「彼女」の「息子」(アンジェロ・バルバガッロ)が、「彼女」に向かって「あの男に夢中になってる」という台詞を吐くのが矛盾する。むろん、その「ゲーム」を「息子」も一緒に楽しんでいると取れば、矛盾がなくなるが、それは少し無理である。
わたしの解釈では、ジェイムズと「彼女」とは、15年来の愛人関係にあり、たまたまこの映画は、二人があたかも見知らぬ者同士であるかのように「ゲーム」をするのだと思う。その出逢いは、ジェイムズがイギリスに、「彼女」がイタリアにいるという形で長いあいだ引き離されたのちの再会でもいいし、もっとひんぱんに会っているという設定でもいい。その鍵は、「彼女」が、ジェイムズに彼の新刊本のサインをもらうシーンの彼女の台詞にある。その一冊を「息子」のためにサインしてもらうのだが、「彼女」は、ジェイムズが息子の名をフルネームでサインしなかったことを軽くとがめるのだ。つまり、ジェイムズにとって「息子」は、他人ではないということであり、ひょっとすると彼の子供であるかもしれない。その際、「彼女」はその「息子」を連れて他の男と結婚したのかもしれないし、結婚した相手の子供であるかもしれない。そういう両義性をつねにはらんでいるのがこの映画の面白さである。
両義性という点で、ジュリエット・ビノシュは、ふと涙を潤ませるとか、複数の意味に取れる微妙な演技を見事に見せる。ジュリエット・ビノシュというと、わたしは、レオス・カラックスの『ポンヌフの恋』(Les amants du Pont-Neuf/1991)のミッシェルのイメージが強いのだが、それから20年ちかくたち、彼女は大女優になった。が、この映画のあるシーンで彼女が高らかに笑うとき、『ポンヌフの恋』のときと全く同じ笑いをしているのが面白かった。
ジェイムズが、美術作品の贋作(がんさく)のリアリティを主張する(贋物が「真実」に見えるのならば、それは「贋物」ではないのではないか?)のは、一つのアレゴリーである。この映画の二人の関係に関しても、「夫婦」関係がニセモノかホンモノかが問われている。ただし、いまの時代―つまり電子的な複製技術の時代には、ニセモノかホンモノかという議論、ひいては夫婦であるかどうかという問題は、どうでもいいのではないか?
すでにこういう「認識論」的問題は、1950年代後半から60年代に、エドワード・オールビーの演劇(『動物園物語』や『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』)などでさんざんあつかわれたことだ。彼の世界では、最初は「演技」だと言い、周囲もそう思っているが、その果てにそういう距離を無効にする深刻な事件(たいてい死がからむ)が起こり、その「虚構性」が「現実」に直面するのだった。サルトルも、『嘔吐』のような小説では、そうした虚構主義を共有していた。だから、60年代の作家たちは、いかにそうしたレベルを越えるかがチャレンジとなり、たとえばウジェーヌ・イオネスコのように、そういう問題はとっくに乗り越えていた作家に関心が高まるのだった。シュールレアリズムの再考がなされたりしたのも、こういうコンテキストにおいてである。映画の世界では、ゴダールもアントニオーニなども、この「認識論」から「存在論」への移行過程をテーマにしていた。その意味では、キアロスタミの姿勢は、古いともいえなくもないわけだが、イランというコンテキストを背負っている彼としては、どうしてもここを押さえてみたかったのではないか?
ただし、50年代後半から60年代の演劇や映画や小説が虚構性を問題にしたとき、この映画のような多言語空間は出てはこなかったように思う。ウジェーヌ・イオネスコの有名な芝居『授業』(1954年)のなかで「教授」は、<「イタリア」という言葉は、フランス語では「フランス」です。・・・そして東洋語で「フランス」は「東洋」だ>と言う。これは、いみじくも多言語を否定する当時のフランスの状況を示唆している。ちなみに、イオネスコは、ルーマニアからの移民である。
キアロスタミのこの映画の世界を単なる「認識論」的虚構主義の作品とみなすことはできない。ここで問われている「ニセモノ/ホンモノ」は、多言語をしゃべる人間にとって、どの言葉が「ホンモノ」なのかというような問いと関連している。通常、「母語」(マザータン)が「ホンモノ」で第2、第3言語が「ニセモノ」ということになるが、そんなことは言えないだろうというのが、この映画の根底にある。
ジョージ・スタイナーは、その自伝のなかで、「典型的なウィーン生まれの女性だった母は、ある言語で何かを言い始めると終わりはいつも別の言語になった。・・・ダイニングルームや居間では英語とフランス語とドイツ語が三つ巴だった」、「私には最初に覚えた母語についての思い出がない」と書いている(工藤政司訳、みすず書房)。この映画の登場人物は、まさにスタイナーのような言語状況にある。スタイナーは、多言語間の環境での母語の優位性よりも、その「翻訳的」なズレの創造性を評価する。ある言語が他の言語に「正しく」翻訳されないというのはまちがいであり、むしろ、翻訳によってズレが生ずることが言語の創造性なのだと。
(ユーロスペース配給)
この映画は、一見バーレスクを上っ面だけ利用しているように見えながら、意外にその歴史を押さえている。「バーレスク」(burlesque)というと、いまでは性的露出のきわどさを売る「ストリップ」のことであるが、歴史的には、19世紀のヨーロッパで上流階級の「上品」でウィットに富む娯楽(ヴァラエティ・ショウ―日本のテレビのそれとは異なる)として花開いた。それがただちに北米に移植されたが、1920年代以後「ストリップ・ショウ」的な「俗悪さ」を帯びるようになる。だから、いまでも、「バーレスク」といえば、おおむねその種の安い見世物を意味する。ところが、この映画は、ロサンゼルスのハリウッドの一角に、「バーレスク・ラウンジ」という看板をかかげ、「古典的」なバーレスクを見せている店があるという設定なのである。
1976年だったか、ニューヨークで演劇の研究をしていたわたしは、知り合いと雑談していたとき、「バーレスクのことを調べたいな」と言った。するのその人は、「バーレスクって、ストリップだよ」とやや呆れ顔で言うのだった。わたしは、「バーレスク」をヨーロッパのヴァラエティ・ショウのイメージでとらえていたので、意外な感じがした。19世紀ヨーロッパの「バーレスク」は、北米に流れる半世紀あまりのあいだに、一方は、ミュージカル、他方はストリップ・ショウに分岐したらしい。その意味で、この映画は、「バーレスク」を「源流」の方に遡及させる効果がある。この映画を見て、まさにアリのように、「バーレスク」の「原型」に興味を持つ人が出てくるかもしれない。
クリスティーナ・アギレラが演じるアリ・ローズは、アイオワのど田舎でウエイトレスをやりながら、シンガー/ダンサーになりたいとう夢を抱いているが、店主のもの言いに頭に来たのをきっかけに、片道切符を買ってハリウッドに出てくる。が、新聞片手にダンスの仕事を探し回っても、うまい仕事はない。このへんは、よくある話だ。そのときたまたま目に入ったのが、「バーレスク・ラウンジ」の看板とその店で働く女の姿で、アリは、予感に惹かれて店内に入る。ゲイっぽいバーテン(カム・ジガンデー)は、けっこう親切にしてくれて、ステージの出しものを見物することになる。が、それが予感以上にすごく、彼女はここで絶対働きたいと思う。これが、この映画の導入部である。
「バーレスク・ラウンジ」でアリが観たのは、ニッキ(クリスティン・ベル)をはじめとするダンサーが踊り、経営者のニッキ(シェール)が歌うステージだったが、もし、ここが「普通」のバーレスクつまうりはストリップ劇場であったら、アリがこういう舞台に接することはできなかっただろう。この映画と一部設定が似ている『ショーガール』 (Showgirls/1995/Paul Verhoeven) で、やはりアリと同様に田舎から野心を抱いて出てきたエリザベス・バークレーが、最初に仕事をするのは、「バーレスク」小屋であるが、そこは、ステージの女たちが性器丸見え(ただし日本版はボカシあり)のショウを見せ、客は紙幣を女たちの下着のあいだに挟む。しかし、「バーレスク・ラウンジ」は、そういうことはしていない。
この映画は、非常に「教育的」である。「バーレスク」というものについて教えてくれることもそうだが、「田舎娘」が街に出てきて、荒波にもまれながら成長していく「ビルドゥングス・ロマン」的な面があること、また、アリに親切にするバーテンダーでミュージシャンのジャック(カム・ジガンデー)も、最初はそっけなかったテス(シェール)も舞台主任のショーン(スタンリー・トゥッチ)も、みな、アリに思いやりのある言葉をかけたりする。逆にいえば、未熟な者や新参者に対して、経験者・上司・目上の者・年上の者などがどう対応すればよいかを教えてくれる。こういう「教育」効果は、もともとハリウッド映画の特質とスタイルであって、ハリウッド映画が「国民映画」であり、「国民教育」や「人生訓」の装置であることを典型的に見せている。
アリを演じるのクリスティーナ・アギレラのキャリアを知らない者はいないから、彼女が、田舎のアルバイト先のバーで、一人、ダンスの練習をし、歌い出すとき、こいつはちょっと「ルール違反」じゃないかと思う。アギレラの歌唱能力がずばり出ていて、こんな才能を持った「田舎娘」なら、わざわざ都会に単身出ていかなくても、どこかからスカウトの声がかかるだろうからである。同様に、ふだんはカラオケ方式をとっていた「バーレスク・クラブ」(歌うのは、ときたまのテス=シェールのみ)で、あるとき、エンジニアがいじわるをして、音楽を止めてしまったとき、アリがとっさに地声で歌い、みんなを驚かせるシーンもそうだ。その歌は、とても素人の歌ではないからである。が、これが映画であり、ハリウッド映画の「文法」である。
やがてアリの彼氏になる、「ゲイ」っぽい(それは仕事上の戦略だという)ジャックとの関係も、非常に「教育的」である。たぶん、いまのアメリカが、モラル的にかつてとくらべてかなり保守的になっているのだろう。ここでは、アリが、成金的な事業家のマーカス(エリック・デイン)の執拗な誘いに揺れて、彼と夜を共にしたらしい暗示はあるが、二人のベッドシーンを映したりはしない。それは、恋人になるジャックとの場合もそうで、最後の最後にジャックがストリップのまねをして裸になるぐらいしか、セックスを示唆するシーンは少ない。これならば、「バーレスク」という名にもかかわらず、R指定になることは絶対にないし、子供の観客も動員できる。
テスは、節操のない元夫ヴィンス(ピーター・ギャラガー)――ゲイに転向したらしい――とその恋人のマーカスの計略で、クラブを乗っ取られそうになる。そもそもこのクラブは、もうかっておらず、青息吐息なのだが、テスは、金儲けのためにやっているのではないという。「金よりも大切なものがある」というメッセージは、別に新しいものではないが、この映画の場合、その「教育」効果を考えると、「フリー」(クリス・アンダーソン『フリー 〈無料〉からお金を生み出す新戦略』、NHK出版)の「ビット経済」を射程に入れていると解釈してもよい。アメリカは、よきにつけあしきにつけ、「新しい」ことがすぐに国家的規模で展開するところだが、「フリー」の場合、かつての非常にモラリッシュな「施し(ほどこし)」や「奉仕」の伝統がよみがえり、「ビット経済」と結びついて、強力な流れになる気配がある。日本にも、かつては、タダ働きをよしとする文化があったが、それはいま確実に失われた。そのことをアメリカに教えられる日はそう遠くはないのではないか?
シェールを映画で見るのは久しぶりだ。彼女の「能面」のような表情が、いささか神秘的な貫禄を感じさせたかつてのシェールだが、この映画では、すっかり、「人情味」のある「ママ」役を演じていて、昔のファンには淋しい感じがする。映画のなかで「Welcome to Burlesque」と「You Haven't Seen The Last of Me」の2曲を歌うが、クリスティーナ・アギレラを立てつためにあつかいは抑え気味になっているのはいたしかたあるまい。どちらもライブで一発で決めたとか。
「古典的」な投資家(つまり金儲けのことしか考えない)のマーカスを演じるエリック・デインは、どこかデカプリオに似ている。
クスティン・ベルは、アリの進出を恐れ、ひがむ女を典型的に演じる。「典型的」という意味は、「こういうのよくいるよな」と思わせるということだ。ところで、彼女は、もともとアルコール依存があるのだが、その描写も適度にマイルドにされており、R指定になるのを避けている。このごろのアメリカは、リアルな表現は、みんなR指定にされてしまうようなご時勢である。
ただし、抑圧の強い時代には、その力が微妙なエロティシズム(日本語の「エロ」とは違う)を生み出す。この映画のも、ダンサーたちの肢体や動きを撮る撮り方は、ある種の抑制のなかで、そういうエロティシズム(日本語では「セクシャル」なという言い方になるか?)をうまく出している。照明も、全体としてはいいと言える。(ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント配給)
冒頭すぐ、ベッドに寝ているヴェローナ(マーヤ・ルドルフ)の姿が映り、チュッチュッ~という何かを吸う音が聞える(日本の試写ではなぜかブーンというハム音が入って聞えなかった?!)。すぐにそれは、彼女のシーツの下でバート(ジョン・クラシンスキー)がフェラチオをしている音であることがわかるのだが、この感じだとこの二人にはカップルとしての生活上、何の問題もないようにみえる。が、バートのとっての悩みは、彼女が、いっしょに住むことには同意しながら、結婚してくれないことだった。
ある意味でこの映画は、家族形態は保っているが結婚しない、家(ホーム)がないカップルの話である。
二人は、子供とホームをはぐくも場所を探している。わたしがかつて言った「ネットのなかにしかホームがなくなった〈ホームレス〉の時代」に、はたして彼らが求める場所はあるのか?
二人が、アリゾナ州から始まって、フロリダ州まで事実上のアメリカ大陸横断をする車と列車(飛行機には妊娠6ヶ月だというので断られる)の旅をすることになったのは、バートの両親(ジェフ・ダニエルズ+キャサリン・オハラ)の家を訪ねたことだった。もともと、車でさほど遠くはないコロラドに住み着いたのも、両親を気遣ってのことだった。しかし、いずれ生まれる(ヴェローナは妊娠6ヶ月孫を親の家で生み、孫の顔を見せてやろうと思った二人の思惑は、完全にはずれる。父親と母親は、勝手な奴で、「孫の顔が見たい」とか言ったせりふはどこへやら、ベルギーに移住し、しかも家を売ってしまうという。親の家を当てにしていた二人は、かくして、定住の場所を探して旅することになるのである。
この映画は、「夫婦の危機」とか、「定住の場所を求めて」とかいった深刻なムードよりも、のほほんとしたバート、どこか抜けている感じのヴェローナの組合せが示唆するように、喜劇的なトーンでまとめられている。旅の途中では、深刻な相手にも出会うが、それもコミカルなタッチで描写される。そこには、二人の性格に見合い、シニカルに突っ放すよりも、新鮮な驚きとしての印象がある。
アリゾナのフェニックスで会うヴェローナのかつての上司リリー(アリソン・ジャネイがアクの強い演技を見せる)は、何でもずばずば言う猛烈な(ある意味ではやり手の)女。子供のまえでもどぎついことをズバズバ言う。夫(ジム・ガフィガン)は、いつも文句を溜め込んだような態度をしている。こういう夫婦もいるという感じで描かれる。
マディソンのウィスコンシン大学で教えているL.N.(マギー・ギレンホール)[「L.N.]とは、速く発音すれば「エレン」となる。つまりEllenの略]は、バートの幼馴染だが、子供と夫(ジョシュ・ハミルトン)とともに、東洋趣味とエコロジーがないまぜになったニューエイジ・カルチャーにかぶれており、バートもヴェローナも辟易(へきえき)する。こういう連中が、家で靴を脱ぐ生活をしているのはパターンで、その感じがよく描かれている。
このL.N.は、「名前は忘れたが」と言って引用する「女は女に生まれるのではなくて、女になるのだ」は、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』の文章。大学で教えているのに、原典のタイトルも思い出せない。この言葉は、本文とは別に一人歩きをしてしまったから、彼女は、その本を読んだことはないのだろう。そんな感じの女ををマギー・ギレンホールが熱演して、笑える。
カナダのモントリオールまで足を延ばしたのは、ここに二人の大学時代のクラスメート、トム(クリス・メッシーナ)とマンチ(メラニー・リンスキー)が住んでいるからだった。訪ねた彼らの家は、絵に描いたような暖かさに満たされているように見えた。みんなで食事に行ったとき、レストランでトムが、こんな「パフォーマンス」を披露する――ホットケーキのうえに角砂糖を乗せ、家族のイメージ、そのまわりに楊枝を刺して柱を作り、そのうえにコースターをのせる。が、トムは、言う、「これは、ホームじゃない、ファミリーじゃなんいだ」と。そして、「すべてをいっしょにするものがなけりゃ」と言い、そのうえから、シロップをかける。「これこそが愛なんだ」と。バートとヴェローナは感動する。見ているほうも、「そうなんだ」と一瞬思う。とってつけた感じだと、「こいつ、本気かねぇ?」という感じがするが、アットホームな家庭を見せられ、夫婦のあいだにも信頼と愛がみなぎっているように見えるので、それが、「パフォーマンス」にすぎないとは思わない。が、ここにも実は「ホーム」はないことがわかる。(わたしの経験でも、訪ねた先で「ほのぼの」として「いい感じ」の家庭というのは、実は訳ありだったりすることが多かった)。
恋人でも夫婦でも、関係がうまくなくなったとき、あっさり別れてしまうのも一法ではあるが、そうでなく改善をはかりたいのなら、たがいの「心構え」を変えようとするよりも、部屋の模様替えをしたり引越したりするほうが、効果が期待できる。しかし、いまの時代、「ホーム」(固定した「拠点」)に安楽の地を求めようとしても、無理である。最後のシーンで、バートとヴェローナは、ようやくフロリダのリースバーグの海岸沿いの家に「ホーム」を見つけたように見えるが、それが所詮はテンポラリーな場所であることは明らかだ。海に向かったドアの敷居に二人で腰を下ろし、バートが「この場所はぼくらにはパーフェクトだ」と言うが、そこには、いっときの安心感と次に来るだろうことへの不安が感じられ、とても「パーフェクト」には見えない。だからヴェローナは答えず、涙を流す。さらにバートが「そう思わない?」と尋ねると、「そうだといいわ」(I hope so)と答え、半泣きと半笑いの顔で、「I really fucking hope so」(じゃなきゃしょうがないよね)と言うのである。このシーンは、複雑な感情が込められていてなかなかいい。バックでは、アレクシ・マードックの「Wait」が流れる。「ぼくがつまずいたら・・・待って欲しい・・・待って欲しい・・」。
(フェイス・トゥ・フェイス配給)
妻と娘を殺された夫クライド(ジェラルド・バトラー)が加害者に「復讐」する手口の念入りな描写が見どころ。加害者の一人は死刑になるが、ただの死刑では済ませない。そんなことが出来るのかどうかはわからないが、映画は映画の「内的論理」で理解しなければならない。その内的論理という点では、申し分ない。
クライドは、当局が儀式的に行う死刑にも満足できないのだから、主犯が、検事ニック(ジェイミー・フォックス)の点数かせぎ的な妥協(証拠が弱いので、有罪にできなくなるのを恐れた司法取引)によって軽い刑を受けると、その「復讐」はエスカレートする。それは、「現実」にやられたら「許しがたく残酷」だが、映画的には「劇的」で「美しく」すらある。拘置所か刑務所に入れられたクライドが同房の男を殺す手口も同様である。
結末は、「悪」を肯定したままにはしないハリウッド的定石を踏むが、かなりの場面は、「善悪の彼岸」にあるべき映画的「内的論理」にしたがって撮られ、最後の場面を除くと、此岸の「善悪」の偏見(?)にとらわれない論理展開が進む。簡単に言えば、ゲーム感覚で殺しが進むのである。「これは報復」でも「復讐」でもないというクライドの言は、文字通りに受け取らなければならない。映画内の論理展開として見るべきだ。が、言語もわたしたちの意識も、「現実」と映画世界とのあいだを揺れ動くから、言語表現としては、まだるっこしくなる。
こういう展開には、最後で必ず「ハリウッド的良心」が登場して、無理やりのバランスが取られるが、それは大抵、映画を台無しにしてしまう。この作品も、その例外ではない。もし、商売のことを考えるのなら、この作品は、最後をあいまいにして、続編の可能性をもたせるべきだった。
ニックの「司法取引」がクライドによる殺人を加速させるのだが、映画はその責任をニックには着せない。このへんが、意図的にそうしているのか、ジェイミー・フォックスのあいまいな演技によってそうなったのかはわからない。しかし、脚本がそうなっているのだろう。映画で見るかぎり、ニックは、訴訟成績を上げることばかり考えているエリート検事には見えない。が、クライドにくらべれば、「普通」の市民感覚の持主なのだろう。それが、彼の家庭での態度と、最初の方と最後に出てくる娘のチェロ演奏のシーンで表現されている。しかし、クライドの「普通」ではないシーンをさんざん見てしまった観客としては、クライドの「平和」な家庭のシーンを見て安心するよりも、むしろ、違和感をいだくかもしれない。それは、監督がひそかにすべりこませた法批判である。ちなにみ、原題は、「市民であることにとどまる(耐えしのぶ)法律」。
クライドがテロ対策技術をマスターし、それで警察を翻弄するというのは、いまのアメリカにとっては象徴的な出来事である。国家が戦争をし、テロを実行しており、市民が法によって守られないとき、「市民」が武器を取って自ら解決をはかるというのは、アメリカ憲法で保証されていることだからである。
冒頭に、バトラーが、基盤の半田付けをやっているシーンがある。つまり彼が演じるクライドは、電子工作に強く、電子装置を組み立てる能力があるという暗示。この蓄積のうえに、(家族が殺される場面から「16年後」の設定になるので)16年間、政府機関でテロ対策技術をマスターしたという設定だから、やがて彼が電子技術を縦横に使って相手を翻弄するのは、納得がいくというわけ。
(ブロードメディア・スタジオ配給)